2024年10月12日「異邦人にあふれる恩寵」

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異邦人にあふれる恩寵

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章29節~39節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
15:32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
15:33弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
15:34イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
15:35そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
15:36七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
15:37人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
15:38食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
15:39イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 15章29節~39節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の箇所の前の段落では、ティルスとシドンの地方において、カナン人の女との出会いが書かれています。イエス様はエルサレム当局から来た宗教指導者たちの妬みと憎悪を避けるため、或いは熱狂的な群衆の間違った期待を避けるため、異邦人の地であるティルスとシドンの地方に追いやられるようにして出て行きました。本日の箇所の、15:29に「そこを去って、ガリラヤ湖のほとりへ」戻られたとあります。この「ガリラヤ湖のほとり」というのは、ガリラヤ湖の西岸なのか、或いは東岸なのかはっきりと書かれていません。新共同訳聖書の巻末の【地図6】をご覧ください。フェニキア地方にティルスとシドンという町を確認できますでしょうか。ここから南下して再びガリラヤ湖のほとりに戻って来ました。もしガリラヤ湖の西岸または北岸であるなら、その場所はペトロの家があり、イエス様の宣教の拠点でもあるカファルナウムや、ベトサイダ近辺だったと考えられるでしょう。もしガリラヤ湖の東岸であるなら、デカポリス地方、即ち異邦人の地域となります。果たしてどちらなのでしょうか。手がかりは平行記事であるマルコによる福音書7:31にあります。そこには、デカポリス地方を通り抜けガリラヤ湖にやってきたとはっきり書かれていますので、私たちはこの地を、ガリラヤ湖の東岸の異邦人の地として読み進めていきたいと思います。

【1】. 異邦人の地で

29節に、「そして山に登って座っておられた」とあります。この「座る」という言葉は、「席に着く」という意味合いであり、これから何らかの教えがなされるということを暗示しています。また、「山」という言葉に注目してください。この山というのはイスラエルの領土にあるタボル山のことを言っているのではありません。現在、イエス様の一行はガリラヤ湖の東岸にいるからです。それでは一体、どこの山なのか?著者であるマタイは恐らく地理的な意味で「山」という言葉を使っているのではなく、神学的な意味で「山」という言葉を使っていると思われます。その神学的な意味とは何かと言いますと、イエス様が異邦人に対しても「山上の垂訓」のような教えを語られたという意味です。著者マタイは、ユダヤ人と全く同じような恵みが、異邦人に対しても、今まさに注がれているということを言わんとしているのです。30~31節をご覧ください。この山において目を見張るような奇跡が起こりました。

“大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。”

31節の最後に「イスラエルの神を賛美した」という言葉が付け加えられています。この言葉も、ここにいた群衆が、主に異邦人であったことを裏付けています。人々は、イエス様だったら必ず病を治してくださる、元通りの姿に戻してくださるという思いを持ち、ありとあらゆる病人をイエス様の下に連れてきました。数年前にコロナが猛威を振るっていた頃、東京都の、とあるワクチン予防接種会場に、注射を受けようと長蛇の列が出来ていたのを思い出します。しかし、イエス様の所にやってきた群衆は、あの長蛇の列より、さらに多くの人々であったに違いありません。なぜなら、この癒しが三日も続いたからです。そして、後で分かりますが、そこには男だけで四千人、女、子供を合わせれば、おそらく一万人を超える人々が集まって来たからです。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえました。新約聖書の中で、ここに書かれているように、たくさんの病人が一気に書き並べられている箇所は、他に探すことが出来ません。著者マタイはこの光景を、あたかもイザヤ書のメシア預言の成就として見ているようですが、そのメシアによる祝福が、異邦人の地にまで及んだということを強調しているのであります。イザヤ29:18~19節の預言をお読みします。

“その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。”

このようにイスラエルの地域で起こり始めたメシアによる祝福が、今や、異邦人の地においても起こり始めました。イエス様は、カナン人の女に対し「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言われ、救いがあたかもイスラエルに限定されているかのように語られましたが、それはあくまで女の信仰を試す方便であって、結論的に言えば、ユダヤ人であれ異邦人であれ、信仰によって救いが与えられるということを示してくださったのです。たとえ異邦人であっても、ユダヤ人と同じように信仰によって、神の顧みが、神の養いが与えられるということを示してくださったのです。15:32節をご覧ください。

【2】. 肉体的な、実生活に至る神の養い

“イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」”

イエス様は人々の病の癒しを全て終えられると、群衆の健康状態を気にかけられました。「もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」という言葉は、イエス様と群衆が三日間、断食をしていたのか、或いは三日間イエス様と共にいるうちに、手持ちの食糧がすっかり底を尽きてしまったことなのか、はっきりとは分かりませんが、いずれにせよ、この三日間、飲食を忘れる程、群衆の病の癒しに没頭していたということが分かります。「かわいそうだ」という言葉は、腹わたが揺さぶられるように、激しく動揺し、居ても立っても居られないという意味です。イエス様の感情を表す時にのみ使用される重要な言葉であり、五千人の給食の時にも、同じ言葉が使われました(14:14)。イエス様の顧みは、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと関係ありません。イエス様の言葉を受けて弟子たちは、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と答えました。

「人里離れた」というギリシア語の「エレーモス、荒れ野」という言葉が使用されています。四千人の給食の奇跡は、山にある「荒れ野」においてなされました。実は、五千人の給食もやはり「人里離れた所で」、即ち「荒れ野」においてなされました。ある神学者は、この弟子たちの反応を問題視しています。つまり、少し前に、五千人の給食において、あのようなセンセーショナルな奇跡を体験したにも関わらず、弟子たちの反応は、あまりにも鈍感で、愚か過ぎると言うのです。そんな馬鹿な話はないだろうと言うのです。従って、共通点の多い五千人の給食と四千人の給食の二つの物語は、本来一つの物語であり、語り継がれるうちに少しずつ変形していき、ついにまるで別の出来事のように書かれてしまったのではないかと見立てています。ところが、著者マタイは、この二つの物語が明らかに別々の出来事であることを示しています。16:9~10をご覧ください。

“まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。”

この箇所は、イエス様と弟子たちの対話が記述されています。イエス様も弟子たちも、二つの奇跡が別々のものであることを認めていることが分かります。従って、マタイによる福音書は、私たちの目には、全く馬鹿げているように見えますが、弟子たちはあれほどセンセーショナルな奇跡を体験したにも関わらず、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」と語っているのです。弟子たちのこの鈍感さ、頑なさは、一体何なのでしょうか。恐らく、弟子たちは異邦人の置かれている苦境を、冷ややかに眺めていただけだったのでしょう。同胞のユダヤ人が夕暮れの時間まで食事をとれないと、もう遅い時間ですから解散させてはいかがでしょうかと提案しましたが、異邦人が三日間一緒にいて、食べ物がないにも拘わらず、弟子たちは群衆のお腹の状況には無関心であり、何の提案もしないのです。ユダヤ人の感覚では、同胞のイスラエルと異邦人を同じ土俵に並べる時、どうしてもこのような偏見というか、態度の違いが出て来てしまうのです。自分たちこそ、神に選ばれた民であると自尊心を持ち、異邦人と交わることが禁じられていたからでありましょう。このことを私たちに適用するなら、キリスト者は決して、まだ福音を知らない未信者に対し、無関心になってしまったり、偏見を持ってはならないという事だと思います。今、世界ではあらゆる場所で紛争が起きています。キリスト者であれ、ノンクリスチャンであれ、戦争という悲惨な状況に置かれている人々の痛みと、悲しみを共に覚え、一日も早く戦いが終結するよう、私たちは祈っていかなければならないのだと思います。

イエス様は弟子たちに「パンは幾つあるか」と尋ねられました。弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えました。するとイエス様は群衆に地面に座るよう命じて、五千人の給食の時と同じような奇跡を行われました。この時、群衆に座るように命じられた「座る」という言葉ですが、この言葉は、先ほど29節に出て来た「座る」とは、また別の単語が使われていて、直訳すると「横に伏させる」という意味です。当時の人々は食事をする際、横になって、片肘をつき、上半身だけ起こしながら、食事を取りましたが、そのように横に伏させて、四千人の給食の奇跡をなさったのです。

さて、この異邦人に対する四千人の給食の奇跡は、私たちに一体何を語り掛けているのでしょうか。五千人の給食にも当てはまりますが、これらの奇跡は旧約聖書の中で、モーセによって導かれたイスラエルの民が、荒れ野において、マナとウズラを供給していただいた奇跡に重ね合わせることができると思います。かつて、主ヤハウェは、食料を整えることのできないと思われた厳しい荒れ野において、イスラエルの民を顧みてくださり、食べる物を備えてくださいました。民がカナンの地に入植する、その瞬間まで、40年間欠かさずに備えてくださいました。イスラエルの民は、エジプトの支配から自由にされただけでなく、シナイ半島の荒れ野において、天からのマナとウズラを与えられ、奇跡的な神様の養いが与えられたのです。四千人の給食とは、1,500年前、モーセの時代に起こったような奇跡が、今、まさに異邦人の群衆の目の前で、イエス様を通してなされたことを意味しているのです。イエス様の救いとは、霊的な救いに限定されません。イエス様の救いは、肉体的な部分においても、つまり私たちの実生活の部分においても、顧みが与えられるのです。

最後の39節は、「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。」とあります。マガダン地方とは、もしかしたらマグダラのマリアの故郷ではないかと推測されていますが、いずれにせよ、イスラエルの地であることは間違いないようです。なぜなら16章1節でファリサイ派とサドカイ派の人々がイエス様に近づいて来るからです。ここにおいてイエス様は、異邦人の地からイスラエルの地へ戻って来たと理解することが出来るのです。

【適用】

本日の箇所から私たちが適用として与えられていることは、神様の顧みとは、霊的な部分だけではなく、肉体的な部分にも、実生活の部分においても及ぶということです。霊的な問題である「罪の問題」は、確かに私たちにとって最大の問題でありますが、イエス様の救いは、罪の赦しに加えて、実生活の中でも、神様の顧みと、養いを、恵みとして与えてくださるということです。

大変恐縮ですが、少し私自身の証しをさせていただきます。ご存じのように私は9年前にせんげん台教会から招聘を受けて、赴任いたしました。しかし、牧会を続ける中で、現住陪餐会員、礼拝出席者数、共に減少し、それに伴って教会財政も大変厳しくなりました。また、長老を二名立てることができなくなり、昨年の4月に教会から伝道所に種別変更し、牧師給与は当初約束されていた金額の半分になりました。減額された給与の埋め合わせをするために、2022年の冬から夫婦で共にアルバイトをするようになりましたが、子どもを大学に通わせている状況で、アルバイトをしても、とてもやり繰りしていくことは不可能な状況でした。もう少し、アルバイトの日数を増やさなければと思いつつも、自分自身の体力の限界もあり、もうどうにもならなくなっていました。ところが神様は不思議な奇跡を起こしてくださいました。最初に、埼玉東部地区の教会が、せんげん台伝道所と牧師家庭に、定期的に献金してくださるようにしてくださいました。大宮教会に続いて、南越谷コイノニア教会も定期的に献金してくださるようになりました。また、上福岡教会、南浦和教会は、以前から変わらずに、せんげん台を支援し続けてくださっています。そして、給与が減額された関係で、大学の奨学金の枠がさらに多くなりましたので、学費については奨学金で十分にやり繰りできるようになりました。さらに、韓国の教会からも、せんげん台教会と牧師家庭に対し、献金を送ってきてくださいました。依然として生活の不安はありますが、まるで、預言者エリヤがケリトの川のほとりでカラスが口にくわえて持ってくるパンと肉によって養われたように、厳しい荒れ野のような困難な状況においても、本当に不思議な形で生活が守られ続けています。神様は私たちの実生活を顧みてくださるお方であることを、夫婦で日々祈りながら強く思い知らされています。

イエス様が異邦人の群衆に、ユダヤ人と全く同じように山の上で御言葉を語ってくださり、ユダヤ人と全く同じように、四千人の給食の奇跡を起こしてくださいました。イエス様は異邦人に対しても、はらわたが揺さぶられるような思いを持ってくださり、その神様の顧みと養いは、霊的な部分だけでなく、私たちの肉体的な部分、実生活の部分にも及ぶのであります。神様は、私たちの生活全般を顧み、支え、養ってくださるお方です。そのことに私たちはどれだけ大きな慰めを得られることでしょうか。この神さまの憐れみに、私たちは、信仰によって積極的に応答していく者たちとならせていただきましょう。

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