2024年10月12日「異邦人にあふれる恩寵 이방인에게 넘치는 은총」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

異邦人にあふれる恩寵 이방인에게 넘치는 은총

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章29節~39節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

15:29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
15:32イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
15:33弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
15:34イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
15:35そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
15:36七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
15:37人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
15:38食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
15:39イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 15章29節~39節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の箇所の前の段落では、ティルスとシドンの地方において、カナン人の女との出会いが書かれています。イエス様はエルサレム当局から来た宗教指導者たちの妬みと憎悪を避けるため、或いは熱狂的な群衆の間違った期待を避けるため、異邦人の地であるティルスとシドンの地方に追いやられるようにして出て行きました。本日の箇所の、15:29に「そこを去って、ガリラヤ湖のほとりへ」戻られたとあります。この「ガリラヤ湖のほとり」というのは、ガリラヤ湖の西岸なのか、或いは東岸なのかはっきりと書かれていません。新共同訳聖書の巻末の【地図6】をご覧ください。フェニキア地方にティルスとシドンという町を確認できますでしょうか。ここから南下して再びガリラヤ湖のほとりに戻って来ました。もしガリラヤ湖の西岸または北岸であるなら、その場所はペトロの家があり、イエス様の宣教の拠点でもあるカファルナウムや、ベトサイダ近辺だったと考えられるでしょう。もしガリラヤ湖の東岸であるなら、デカポリス地方、即ち異邦人の地域となります。果たしてどちらなのでしょうか。手がかりは平行記事であるマルコによる福音書7:31にあります。そこには、デカポリス地方を通り抜けガリラヤ湖にやってきたとはっきり書かれていますので、私たちはこの地を、ガリラヤ湖の東岸の異邦人の地として読み進めていきたいと思います。

【1】. 異邦人の地で

29節に、「そして山に登って座っておられた」とあります。この「座る」という言葉は、「席に着く」という意味合いであり、これから何らかの教えがなされるということを暗示しています。また、「山」という言葉に注目してください。この山というのはイスラエルの領土にあるタボル山のことを言っているのではありません。現在、イエス様の一行はガリラヤ湖の東岸にいるからです。それでは一体、どこの山なのか?著者であるマタイは恐らく地理的な意味で「山」という言葉を使っているのではなく、神学的な意味で「山」という言葉を使っていると思われます。その神学的な意味とは何かと言いますと、イエス様が異邦人に対しても「山上の垂訓」のような教えを語られたという意味です。著者マタイは、ユダヤ人と全く同じような恵みが、異邦人に対しても、今まさに注がれているということを言わんとしているのです。30~31節をご覧ください。この山において目を見張るような奇跡が起こりました。

“大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。”

31節の最後に「イスラエルの神を賛美した」という言葉が付け加えられています。この言葉も、ここにいた群衆が、主に異邦人であったことを裏付けています。人々は、イエス様だったら必ず病を治してくださる、元通りの姿に戻してくださるという思いを持ち、ありとあらゆる病人をイエス様の下に連れてきました。数年前にコロナが猛威を振るっていた頃、東京都の、とあるワクチン予防接種会場に、注射を受けようと長蛇の列が出来ていたのを思い出します。しかし、イエス様の所にやってきた群衆は、あの長蛇の列より、さらに多くの人々であったに違いありません。なぜなら、この癒しが三日も続いたからです。そして、後で分かりますが、そこには男だけで四千人、女、子供を合わせれば、おそらく一万人を超える人々が集まって来たからです。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえました。新約聖書の中で、ここに書かれているように、たくさんの病人が一気に書き並べられている箇所は、他に探すことが出来ません。著者マタイはこの光景を、あたかもイザヤ書のメシア預言の成就として見ているようですが、そのメシアによる祝福が、異邦人の地にまで及んだということを強調しているのであります。イザヤ29:18~19節の預言をお読みします。

“その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。”

このようにイスラエルの地域で起こり始めたメシアによる祝福が、今や、異邦人の地においても起こり始めました。イエス様は、カナン人の女に対し「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言われ、救いがあたかもイスラエルに限定されているかのように語られましたが、それはあくまで女の信仰を試す方便であって、結論的に言えば、ユダヤ人であれ異邦人であれ、信仰によって救いが与えられるということを示してくださったのです。たとえ異邦人であっても、ユダヤ人と同じように信仰によって、神の顧みが、神の養いが与えられるということを示してくださったのです。15:32節をご覧ください。

【2】. 肉体的な、実生活に至る神の養い

“イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」”

イエス様は人々の病の癒しを全て終えられると、群衆の健康状態を気にかけられました。「もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」という言葉は、イエス様と群衆が三日間、断食をしていたのか、或いは三日間イエス様と共にいるうちに、手持ちの食糧がすっかり底を尽きてしまったことなのか、はっきりとは分かりませんが、いずれにせよ、この三日間、飲食を忘れる程、群衆の病の癒しに没頭していたということが分かります。「かわいそうだ」という言葉は、腹わたが揺さぶられるように、激しく動揺し、居ても立っても居られないという意味です。イエス様の感情を表す時にのみ使用される重要な言葉であり、五千人の給食の時にも、同じ言葉が使われました(14:14)。イエス様の顧みは、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと関係ありません。イエス様の言葉を受けて弟子たちは、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と答えました。

「人里離れた」というギリシア語の「エレーモス、荒れ野」という言葉が使用されています。四千人の給食の奇跡は、山にある「荒れ野」においてなされました。実は、五千人の給食もやはり「人里離れた所で」、即ち「荒れ野」においてなされました。ある神学者は、この弟子たちの反応を問題視しています。つまり、少し前に、五千人の給食において、あのようなセンセーショナルな奇跡を体験したにも関わらず、弟子たちの反応は、あまりにも鈍感で、愚か過ぎると言うのです。そんな馬鹿な話はないだろうと言うのです。従って、共通点の多い五千人の給食と四千人の給食の二つの物語は、本来一つの物語であり、語り継がれるうちに少しずつ変形していき、ついにまるで別の出来事のように書かれてしまったのではないかと見立てています。ところが、著者マタイは、この二つの物語が明らかに別々の出来事であることを示しています。16:9~10をご覧ください。

“まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。”

この箇所は、イエス様と弟子たちの対話が記述されています。イエス様も弟子たちも、二つの奇跡が別々のものであることを認めていることが分かります。従って、マタイによる福音書は、私たちの目には、全く馬鹿げているように見えますが、弟子たちはあれほどセンセーショナルな奇跡を体験したにも関わらず、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」と語っているのです。弟子たちのこの鈍感さ、頑なさは、一体何なのでしょうか。恐らく、弟子たちは異邦人の置かれている苦境を、冷ややかに眺めていただけだったのでしょう。同胞のユダヤ人が夕暮れの時間まで食事をとれないと、もう遅い時間ですから解散させてはいかがでしょうかと提案しましたが、異邦人が三日間一緒にいて、食べ物がないにも拘わらず、弟子たちは群衆のお腹の状況には無関心であり、何の提案もしないのです。ユダヤ人の感覚では、同胞のイスラエルと異邦人を同じ土俵に並べる時、どうしてもこのような偏見というか、態度の違いが出て来てしまうのです。自分たちこそ、神に選ばれた民であると自尊心を持ち、異邦人と交わることが禁じられていたからでありましょう。このことを私たちに適用するなら、キリスト者は決して、まだ福音を知らない未信者に対し、無関心になってしまったり、偏見を持ってはならないという事だと思います。今、世界ではあらゆる場所で紛争が起きています。キリスト者であれ、ノンクリスチャンであれ、戦争という悲惨な状況に置かれている人々の痛みと、悲しみを共に覚え、一日も早く戦いが終結するよう、私たちは祈っていかなければならないのだと思います。

イエス様は弟子たちに「パンは幾つあるか」と尋ねられました。弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えました。するとイエス様は群衆に地面に座るよう命じて、五千人の給食の時と同じような奇跡を行われました。この時、群衆に座るように命じられた「座る」という言葉ですが、この言葉は、先ほど29節に出て来た「座る」とは、また別の単語が使われていて、直訳すると「横に伏させる」という意味です。当時の人々は食事をする際、横になって、片肘をつき、上半身だけ起こしながら、食事を取りましたが、そのように横に伏させて、四千人の給食の奇跡をなさったのです。

さて、この異邦人に対する四千人の給食の奇跡は、私たちに一体何を語り掛けているのでしょうか。五千人の給食にも当てはまりますが、これらの奇跡は旧約聖書の中で、モーセによって導かれたイスラエルの民が、荒れ野において、マナとウズラを供給していただいた奇跡に重ね合わせることができると思います。かつて、主ヤハウェは、食料を整えることのできないと思われた厳しい荒れ野において、イスラエルの民を顧みてくださり、食べる物を備えてくださいました。民がカナンの地に入植する、その瞬間まで、40年間欠かさずに備えてくださいました。イスラエルの民は、エジプトの支配から自由にされただけでなく、シナイ半島の荒れ野において、天からのマナとウズラを与えられ、奇跡的な神様の養いが与えられたのです。四千人の給食とは、1,500年前、モーセの時代に起こったような奇跡が、今、まさに異邦人の群衆の目の前で、イエス様を通してなされたことを意味しているのです。イエス様の救いとは、霊的な救いに限定されません。イエス様の救いは、肉体的な部分においても、つまり私たちの実生活の部分においても、顧みが与えられるのです。

最後の39節は、「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。」とあります。マガダン地方とは、もしかしたらマグダラのマリアの故郷ではないかと推測されていますが、いずれにせよ、イスラエルの地であることは間違いないようです。なぜなら16章1節でファリサイ派とサドカイ派の人々がイエス様に近づいて来るからです。ここにおいてイエス様は、異邦人の地からイスラエルの地へ戻って来たと理解することが出来るのです。

【適用】

本日の箇所から私たちが適用として与えられていることは、神様の顧みとは、霊的な部分だけではなく、肉体的な部分にも、実生活の部分においても及ぶということです。霊的な問題である「罪の問題」は、確かに私たちにとって最大の問題でありますが、イエス様の救いは、罪の赦しに加えて、実生活の中でも、神様の顧みと、養いを、恵みとして与えてくださるということです。

大変恐縮ですが、少し私自身の証しをさせていただきます。ご存じのように私は9年前にせんげん台教会から招聘を受けて、赴任いたしました。しかし、牧会を続ける中で、現住陪餐会員、礼拝出席者数、共に減少し、それに伴って教会財政も大変厳しくなりました。また、長老を二名立てることができなくなり、昨年の4月に教会から伝道所に種別変更し、牧師給与は当初約束されていた金額の半分になりました。減額された給与の埋め合わせをするために、2022年の冬から夫婦で共にアルバイトをするようになりましたが、子どもを大学に通わせている状況で、アルバイトをしても、とてもやり繰りしていくことは不可能な状況でした。もう少し、アルバイトの日数を増やさなければと思いつつも、自分自身の体力の限界もあり、もうどうにもならなくなっていました。ところが神様は不思議な奇跡を起こしてくださいました。最初に、埼玉東部地区の教会が、せんげん台伝道所と牧師家庭に、定期的に献金してくださるようにしてくださいました。大宮教会に続いて、南越谷コイノニア教会も定期的に献金してくださるようになりました。また、上福岡教会、南浦和教会は、以前から変わらずに、せんげん台を支援し続けてくださっています。そして、給与が減額された関係で、大学の奨学金の枠がさらに多くなりましたので、学費については奨学金で十分にやり繰りできるようになりました。さらに、韓国の教会からも、せんげん台教会と牧師家庭に対し、献金を送ってきてくださいました。依然として生活の不安はありますが、まるで、預言者エリヤがケリトの川のほとりでカラスが口にくわえて持ってくるパンと肉によって養われたように、厳しい荒れ野のような困難な状況においても、本当に不思議な形で生活が守られ続けています。神様は私たちの実生活を顧みてくださるお方であることを、夫婦で日々祈りながら強く思い知らされています。

イエス様が異邦人の群衆に、ユダヤ人と全く同じように山の上で御言葉を語ってくださり、ユダヤ人と全く同じように、四千人の給食の奇跡を起こしてくださいました。イエス様は異邦人に対しても、はらわたが揺さぶられるような思いを持ってくださり、その神様の顧みと養いは、霊的な部分だけでなく、私たちの肉体的な部分、実生活の部分にも及ぶのであります。神様は、私たちの生活全般を顧み、支え、養ってくださるお方です。そのことに私たちはどれだけ大きな慰めを得られることでしょうか。この神さまの憐れみに、私たちは、信仰によって積極的に応答していく者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

이방인에게 넘치는 은총

2024년 10월 12일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 15장 29~39절

서론

오늘 본문 앞 단락에서는 두로와 시돈 지방에서 가나안 여인과의 만남이 기록되어 있습니다. 예수님은, 예루살렘 당국에서 온 종교 지도자들의 시기심과 증오를 피하기 위해, 혹은 열광적인 무리의 잘못된 기대를 피하기 위해 이방인의 땅인 두로와 시돈 지방으로 쫓기듯 떠나셨습니다. 오늘 본문 15:29에는「예수께서 거기서 떠나사 갈릴리 호숫가에 이르러 산에 올라가 거기 앉으시니」 라고 기록되어 있습니다. 이 「갈릴리 호숫가」가 갈릴리 호수의 서쪽 기슭인지, 아니면 동쪽 기슭인지는 명확히 기록되어 있지 않습니다. 신공동역 성경 말미의 【지도 6】을 참고하시기 바랍니다. 페니키아 지방에 두로와 시돈이라는 도시를 확인할 수 있겠습니까? 여기서 남하하여 다시 갈릴리 호숫가로 돌아왔습니다. 만약 갈릴리 호수 서쪽 기슭 또는 북쪽 기슭이라면, 그곳은 베드로의 집이 있고 예수님의 선교 거점이기도 한 가버나움이나 벳세다 근처였을 것으로 생각됩니다. 만약 갈릴리 호수 동쪽 기슭이라면, 데가볼리 지방, 즉 이방인의 지역이 됩니다. 과연 어느 쪽일까요? 단서는 병행 기사인 마가복음 7:31에 있습니다. 거기에는 데가볼리 지방을 지나 갈릴리 호수에 이르렀다고 분명히 기록되어 있으므로, 우리는 이 지역을 갈릴리 호수 동쪽 기슭의 이방인의 땅으로 이해하며 읽어 나가고자 합니다.

(1) 이방인의 땅에서

29절에「산에 올라가 거기 앉으시니」라고 기록되어 있습니다. 이 「앉으시니」라는 말은 「자리에 앉다」라는 의미로, 곧 어떤 가르침이 있을 것임을 암시하고 있습니다. 또한「산」이라는 말에 주목하십시오. 이 산은 이스라엘 영토에 있는 다볼 산을 가리키는 것이 아닙니다. 현재 예수님과 일행은 갈릴리 호수 동쪽 기슭에 있기 때문입니다. 그렇다면 대체 어느 산일까요? 저자인 마태는 아마도 지리적인 의미로 「산」이라는 말을 사용한 것이 아니라, 신학적인 의미로 「산」이라는 말을 사용한 것으로 보입니다. 그 신학적인 의미란 무엇이냐 하면, 예수님께서 이방인들에게도「산상수훈」과 같은 가르침을 말씀하셨다는 의미입니다. 저자 마태는 유대인과 전혀 다름없는 은혜가 이방인들에게도 지금 바로 부어지고 있다는 것을 말하고자 하는 것입니다. 30~31절을 보십시오. 이 산에서 눈부신 기적이 일어났습니다.

30 큰 무리가 다리 저는 사람과 장애인과 맹인과 말 못하는 사람과 기타 여럿을 데리고 와서 예수의 발 앞에 앉히매 고쳐 주시니

31 말 못하는 사람이 말하고 장애인이 온전하게 되고 다리 저는 사람이 걸으며 맹인이 보는 것을 무리가 보고 놀랍게 여겨 이스라엘의 하나님께 영광을 돌리니라

31절 마지막에「이스라엘의 하나님께 영광을 돌리니라」는 말이 덧붙여져 있습니다. 이 말 또한 여기에 있던 무리가 주로 이방인이었음을 뒷받침합니다. 사람들은 예수님이라면, 반드시 병을 고쳐 주시고, 원래 모습으로 회복시켜 주실 것이라는 믿음을 가지고 온갖 병자들을 예수님 앞으로 데려왔습니다. 몇 년 전 코로나가 맹위를 떨치던 시절, 토쿄의 어느 백신 예방접종 장소에 주사를 맞으려는 긴 줄이 이어졌던 것이 떠오릅니다. 그러나 예수님께 찾아온 군중은 그 긴 줄보다 훨씬 더 많은 사람들이었을 것입니다. 왜냐하면 이 치유가 사흘 동안 계속되었기 때문입니다. 그리고 나중에 알게 되지만, 거기에는 남자만 사천 명, 여자와 아이까지 합치면 아마 만 명을 넘는 사람들이 모여들었기 때문입니다. 많은 무리가, 다리 저는 사람과 장애인과 맹인과 말 못하는 사람과 기타 여럿을 데리고 와서 예수님의 발 앞에 앉혔습니다. 신약성경에서 여기에 기록된 것처럼, 이렇게 많은 병자들이 한꺼번에 나열된 구절은 다른 곳에서 찾아볼 수 없습니다. 저자 마태는 이 광경을 마치 이사야서의 메시아 예언이 성취된 것으로 보는 듯하지만, 그 메시아의 축복이 이방인의 땅까지 미쳤다는 점을 강조하고 있습니다. 이사야 29장 18-19절의 예언을 읽어보겠습니다.

이사야 29장

18 그 날에 못 듣는 사람이 책의 말을 들을 것이며 어둡고 캄캄한 데에서 맹인의 눈이 볼 것이며

19 겸손한 자에게 여호와로 말미암아 기쁨이 더하겠고 사람 중 가난한 자가 이스라엘의 거룩하신 이로 말미암아 즐거워하리니

이처럼 이스라엘 지역에서 시작된 메시아의 축복이 이제 이방인의 땅에서도 일어나기 시작했습니다. 예수님께서는 가나안 여인에게「자녀의 떡을 취하여 개들에게 던짐이 마땅하지 아니하니라」라고 말씀하시며 구원이 마치 이스라엘에만 한정된 것처럼 말씀하셨지만, 그것은 어디까지나 여인의 믿음을 시험하기 위한 편법이었고, 결론적으로 말하면 유대인이든 이방인이든 믿음으로 구원을 받는다는 것을 보여 주신 것입니다. 이방인이라 할지라도 유대인과 마찬가지로 믿음으로 하나님의 돌보심과 양육을 받는다는 것을 보여주신 것입니다. 15:32절을 보십시오.

(2) 육체적, 실생활에 까지 이르는 하나님의 양육과 돌보심

32 예수께서 제자들을 불러 이르시되 내가 무리를 불쌍히 여기노라 그들이 나와 함께 있은지 이미 사흘이매 먹을 것이 없도다 길에서 기진할까 하여 굶겨 보내지 못하겠노라

예수님께서 사람들의 병을 모두 고치신 후, 무리의 건강 상태를 걱정하셨습니다. 「그들이 나와 함께 있은지 이미 사흘이매 먹을 것이 없도다」는 말씀은 예수님과 무리가 사흘 동안 금식했는지, 아니면 사흘 동안 예수님과 함께 있는 동안 가지고 있던 식량이 완전히 바닥났는지 분명하지 않습니다. 그러나 어쨌든 이 사흘 동안 무리의 병 고치기에 몰두하느라 먹고 마시는 것을 잊을 정도였다는 것을 알 수 있습니다. 「불쌍히 여기노라」는 말은 장이 뒤틀리는 듯한 고통을 나타내며, 심하게 동요하여 가만히 있을 수 없다는 뜻입니다. 예수님의 감정을 표현할 때만 사용되는 중요한 말로, 오천 명을 먹이신 때에도 같은 말이 사용되었습니다(14:14). 예수님의 돌보심은 유대인이든 이방인이든 관계없습니다. 예수님의 말씀을 들은 제자들은 「광야에 있어 우리가 어디서 이런 무리가 배부를 만큼 떡을 얻으리이까」라고 대답했습니다.

「사람이 살지 않는 곳」이라는 헬라어 「에레모스, 광야」라는 단어가 사용되었습니다. 사천 명을 먹이신 기적은 산에 있는 「광야」에서 이루어졌습니다. 사실 오천 명을 먹이신 기적도 역시 「사람이 살지 않는 곳」, 즉 「광야」에서 이루어졌습니다. 어떤 신학자는 이 제자들의 반응을 문제 삼고 있습니다. 즉, 조금 전에 오천 명을 먹이신 기적에서 그토록 놀라운 기적을 경험했음에도 불구하고, 제자들의 반응은 너무나 둔감하고 어리석었다고 말합니다. 그런 어처구니없는 이야기가 있을 수 있겠냐고 말합니다. 따라서 공통점이 많은 오천 명을 먹이신 기적과 사천 명을 먹이신 기적이라는 두 이야기는 본래 하나의 이야기였으나, 전해지는 과정에서 조금씩 변형되어 결국 마치 별개의 사건인 양 기록된 것이 아니냐고 추측합니다. 그러나 저자 마태는 이 두 이야기가 분명히 별개의 사건임을 보여줍니다. 16:9-10을 보십시오.

마태복음 16장

9너희가 아직도 깨닫지 못하느냐 떡 다섯 개로 오천 명을 먹이고 주운 것이 몇 바구니며

10 떡 일곱 개로 사천 명을 먹이고 주운 것이 몇 광주리였는지를 기억하지 못하느냐

이 구절은 예수님과 제자들의 대화가 기록되어 있습니다. 예수님과 제자들 모두 두 기적이 별개의 것임을 인정하고 있음을 알 수 있습니다. 따라서 마태복음은 우리 눈에는 완전히 터무니없어 보이지만, 제자들은 그토록 센세이셔널한 기적을 경험했음에도 불구하고「광야에 있어 우리가 어디서 이런 무리가 배부를 만큼 떡을 얻으리이까」라고 말하고 있습니다. 제자들의 이 둔감함, 완고함은 대체 무엇일까요? 아마도 제자들은 이방인들이 처한 곤경을 냉담하게 바라보기만 했던 것 같습니다. 동족인 유대인들에 대해서는, 해질녘까지 식사를 하지 못하자, 이미 늦은 시간이니 해산시키는 게 어떻겠냐고 제안했지만, 이방인들이 사흘 동안 함께 있으면서 먹을 것이 없음에도 불구하고, 제자들은 무리의 배고픔에는 무관심했고, 아무런 제안도 하지 않았습니다. 유대인의 감각으로는, 동족 이스라엘과 이방인을 같은 자리에 놓을 때, 어쩔 수 없이 이런 편견이라 할까, 태도의 차이가 드러나고 말았습니다. 자신들만이 하나님께서 택하신 백성이라는 자부심을 가지고, 이방인과 교제하는 것이 금지되어 있었기 때문일 것입니다. 이 점을 우리에게 적용한다면, 그리스도인은 결코 아직 복음을 모르는 미신자에 대해 무관심해지거나 편견을 가져서는 안 된다는 뜻이라고 생각합니다. 지금 세계 곳곳에서 분쟁이 일어나고 있습니다. 그리스도인이든 비그리스도인이든, 전쟁이라는 비참한 상황에 놓인 사람들의 고통과 슬픔을 함께 기억하며 하루빨리 전쟁이 종식되도록 우리는 기도해 나가야 한다고 생각합니다.

예수님께서 제자들에게「떡이 몇 개나 있느냐」고 물으셨습니다. 제자들은 「일곱 개와 작은 생선 두어 마리가 있나이다」라고 대답했습니다. 그러자 예수님께서 무리에게 명하셔서 땅에 앉게 하시고, 오천 명을 먹이신 때와 같은 기적을 행하셨습니다. 이때 무리에게 앉으라고 명령하신 「앉다」라는 말은, 방금 29절에 나온 「앉으시니」와는 또 다른 단어가 사용되었으며, 직역하면 「옆으로 눕히다」라는 의미입니다. 당시 사람들은 식사할 때 눕고 한쪽 팔꿈치를 짚은 채 상체만 일으켜 세운 상태로 음식을 먹었는데, 그렇게 옆으로 눕혀서 사천 명을 먹이신 기적을 이루신 것입니다.

자, 이 이방인들에 대한 사천 명을 먹이신 기적은 우리에게 도대체 무엇을 말하고 있을까요? 오천 명을 먹이신 기적에도 해당되지만, 이 기적들은 구약성경 속에서 모세에 의해 인도된 이스라엘 백성이 광야에서 만나와 메추라기를 공급받았던 기적과 겹쳐 볼 수 있다고 생각합니다. 과거에 주 야훼께서는 식량을 마련할 수 없을 것 같았던 혹독한 땅, 광야에서 이스라엘 백성을 돌보시고 먹을 것을 준비해 주셨습니다. 백성이 가나안 땅에 정착하는 그 순간까지, 40년 동안 하루도 빠짐없이 준비해 주셨습니다. 이스라엘 백성은 이집트의 지배에서 자유롭게 해방되었을 뿐만 아니라, 시내 반도의 광야에서 하늘에서 내려온 만나와 메추라기를 통해서 기적적인 하나님의 양육을 받았습니다. 사천 명을 먹이신 기적은 1,500년 전 모세의 시대에 일어난 것과 같은 기적이 지금 바로 이방인 무리 앞에서 예수님을 통해 이루어졌음을 의미합니다. 예수님의 구원은 영적인 구원에만 국한되지 않습니다. 예수님의 구원은 육체적인 부분, 즉 우리의 실생활 속에서도 돌보아 주십니다.

마지막 39절은 「예수께서 무리를 흩어 보내시고 배에 오르사 마가단 지경으로 가시니라」 라고 기록되어 있습니다. 마가다 지방은 아마도 막달라 마리아의 고향이 아닐까 추측되지만, 어쨌든 이스라엘 땅임은 분명해 보입니다. 왜냐하면 16장 1절에서 바리새파와 사두개파 사람들이 예수님께 다가오기 때문입니다. 여기서 예수님께서 이방인의 땅에서 이스라엘 땅으로 돌아오셨다고 이해할 수 있습니다.

적용

오늘 본문에서 우리에게 적용으로 주어진 것은, 하나님의 돌보심이 영적인 부분뿐만 아니라 육체적인 부분, 실생활의 부분에도 미친다는 것입니다. 영적인 문제인「죄의 문제」는 확실히 우리에게 가장 큰 문제이지만, 예수님의 구원은 죄 사함에 더해 실생활 속에서도 하나님의 돌보심과 양육을 은혜로 주시는 것입니다.

대단히 송구스럽지만, 잠시 제 자신의 간증을 드리겠습니다. 아시다시피 저는 9년 전 센겐다이 교회로부터 청빙을 받아 부임했습니다. 그러나 목회를 계속하는 가운데, 현재 등록 회원과 예배 출석자 수가 모두 감소했고, 이에 따라 교회 재정 또한 매우 어려워졌습니다. 또한 장로 두 분을 세울 수 없게 되어, 지난해 4월에 교회에서 전도소로 종별 변경되었고, 목사 급여는 원래 약속되었던 금액의 절반이 되었습니다. 삭감된 급여를 보충하기 위해 2022년 겨울부터 부부가 함께 아르바이트를 하게 되었지만, 자녀를 대학에 보내고 있는 상황에서 아르바이트를 해도 어떻게든 꾸려나가기에는 불가능한 상황이었습니다. 아르바이트 일수를 조금 더 늘려야겠다고 생각하면서도, 제 자신의 체력 한계도 있어 더 이상 어쩔 수 없는 지경이었습니다. 그런데 하나님께서 놀라운 기적을 일으켜 주셨습니다. 먼저 사이타마 동부 지역 몇 교회들이 센겐다이 전도소와 목사 가정에 정기적으로 헌금해 주셨습니다. 오오미야 교회에 이어 미나미코시가야 교회도 정기적으로 헌금해 주시게 되었습니다. 또한, 가미후쿠오카 교회, 미나미우라와 교회는 예전과 변함없이 센겐다이 교회를 계속 지원해 주고 계십니다. 그리고 급여가 삭감된 관계로 대학 장학금의 범위가 더욱 넓어져서, 학비에 대해서는 장학금으로 감당할 수 있게 되었습니다. 더욱이, 한국의 교회에서도 센겐다이 교회와 목사 가정에 헌금을 보내 주셨습니다. 여전히 생활의 불안은 있지만, 마치 선지자 엘리야가 그릿 시냇가에서, 까마귀가 입에 물고 가져온 떡과 고기로 양육받았던 것처럼, 혹독한 환경의, 광야 같은 어려운 상황 속에서도 정말 기적적인 방식으로 생활이 지켜지고 있습니다. 하나님께서 우리의 실생활까지도 돌보시는 분이심을 부부가 매일 기도하며 깊이 깨닫고 있습니다.

예수님께서 이방인 무리에게 유대인과 전혀 다름없이 산 위에서 말씀을 전하시고, 유대인과 전혀 다름없이 사천 명을 먹이신 기적을 일으키셨습니다. 예수님께서는 이방인에 대해서도 장이 뒤틀리는 듯한 고통스러운 마음을 품어 주셨으며, 그 하나님의 돌보심과 양육은 영적인 부분뿐만 아니라 우리의 육체적인 부분, 실제 생활의 부분에도 미칩니다. 하나님은 우리의 생활 전반을 돌보시고, 지탱하시며, 양육해 주시는 분이십니다. 그 사실로 우리는 얼마나 큰 위로를 얻게 되는지요. 이 하나님의 자비에, 우리는 믿음으로 적극적으로 응답해 나가는 자들이 되도록 합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す