2024年10月13日「皆に仕える者に 너희를 섬기는 자」

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皆に仕える者に 너희를 섬기는 자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章17節~28節

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聖句のアイコン聖書の言葉

20:17イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
20:18「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
20:19異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
20:20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 20章17節~28節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様が間もなく十字架に掛けられることになるエルサレムに向かって、決然と進んで行かれる中で、イエス様は十二弟子たちだけを集め三度目の受難予告をされました。既に16章21節と、17章22~23節において、一回目、二回目の受難予告がなされましたが、この三度目の受難予告はこれまでになく、詳細な部分まで語られました。祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、死刑宣告され、そして異邦人の裁判に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられ、復活すると言うのです。十字架刑とは、もともとユダヤにはない死刑方法であり、ローマの極刑として位置付けられていました。あまりにも残酷な刑であるため、ローマ市民に対して執行することを禁じられていました。ですからイエス様の予告は、大変生々しく聞こえたことでしょう。エルサレムが間近に迫る中、弟子たちは落胆と悲壮感の中で、イエス様に最悪の事態が起こらないように、決死の覚悟で護衛しなければという思いを新たにされたに違いありません。そんな中、イエス様は弟子たちとの会話の中で、不思議なことを言われました。「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、リーダーになりたい者は、皆の僕になりなさい。」と言われたのです。これは決して謙遜の美徳を積んで、人々からの信頼を勝ち取りなさいという教えではありません。当時、ヘレニズムの文化に「謙遜」という美徳なんてありませんでした。むしろ、人を支配しコントロールすることこそ美徳とされていました。「仕える者になれ」という言葉は直訳すると、給仕する者になれという意味です。「僕になれ」とは直訳すると、奴隷になれという意味です。これは一体どういうことでしょうか。本日は、特に「皆に仕える者」という観点から、御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 杯と御座、苦難と栄光

ゼベダイの息子たちの母親が、二人の息子ヤコブとヨハネを連れてイエス様のところに願いに上がりました。神の国が樹立された暁には、二人の息子ヤコブとヨハネを、イエス様の右と左の席に座らせてください。すなわち右大臣と左大臣のポストに就かせてくださいと願っているのです。イエス様はこのゼベダイの母とその子供たちの要求を退けられました。22節をご覧ください。

“あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。”

ここで注目したいことは、イエス様が、栄光の御座に座るためには、杯を飲まなければならないと言っていることです。イエス様は杯と御座を関連付けていることが分かります。それでは、その「杯」とは、一体何でしょうか。この後、ゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました。「この杯」とは、イエス様がこれから受けられる苦難を意味していると思われます。つまり、祭司長たちから死刑宣告され、異邦人に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架に掛けられる、その苦難です。そして20:28節を見ますと「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるためにこの世に来られた」と書かれていますから、イエス様がお受けになる十字架の苦難は、その杯は、永遠において定められた御父のご計画であるということが分かります。今や、十字架の苦難を経て、御国で神の右の座に着座するだろうとイエス様は言っておられるのです。従いまして、イエス様の飲み尽くされる杯と、その後、イエス様が着座される天の御座は、切っても切れない関係にあるということが分かります。このような神の救いの計画に対し、全く無理解であった、ヤコブとヨハネは「できます」と答えました。すると、イエス様は23節で

“確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ”

と言われました。これは一体どういうことでしょうか。恐らく、弟子たちが将来、イエス様の十字架と復活の後、聖霊を受けて、苦難の中を歩むことを暗示しているのだと思います。実際、ヤコブは使徒言行録12章に書かれているように、ヘロデ・アグリッパによって殺され、最初の殉教者となりました。ヨハネは、パトモス島に島流しにされ、主イエスの証しのため、苦しみを担う者とされました。ですから、弟子たちにおいても、イエス様ご自身が歩まれたように、それぞれの十字架を負いながら、苦難を通して栄光に入れられるだろうと、イエス様はおっしゃっているのです。以前イエス様が弟子たちに約束された御言葉を思い起こしてみたいと思います。マタイ19:28をご覧ください。

“イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。”

ここでイエス様は、弟子たちが天の御座に座らせていただくことを確かに約束しておられます。誰が右と左に座るのかは、父なる神のみぞ知る事柄でありますが、弟子たちが苦難を通して栄光に入れられること、そして、天の御座に共に座らせていただくことは、間違いないこととして既に約束されているのです。

【2】. 神の国の権勢(権威秩序)とこの世の権勢(権威秩序)

さて、残りの弟子たちは、ヤコブとヨハネにまんまと出し抜かれたことに気づき腹を立てました。そこで、イエス様は、偉くなるためには、つまりリーダーになるためには、どうしたらいいのか、弟子たちを呼び寄せ、教えられます。20:25~28節をご覧ください。

“そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」”

偉くなるためには、リーダーになるためには、どうしたらいいのか?その質問に対するイエス様のお答えは、皆に仕えなさいということです。直訳すると「給仕する者になれ」という意味です。「給仕する者」というこの言葉は、後に「執事」と翻訳されるようになりました。また、27節の「僕になれ」という言葉は、ギリシア語で「ドゥロス」という言葉であり、直訳すると「奴隷になれ」ということです。イエス様が、この世に来られ、人々に仕え、自らの命を身代金として捧げられたように、あなた方の間で、リーダーになろうとする者は、「給仕になれ」、「執事になれ」、「奴隷になれ」とおっしゃっているのです。イエス様がこのように不思議なことを言われるのは、神の国の権威秩序が、世の権威秩序とは全く異なることに起因しています。

神の国の権威秩序と、この世の権威秩序とは、どのように異なるのでしょうか。「権威・秩序」という言葉を「権勢」という言葉に言い換えさせていただきます。この世の権勢の例として、ローマの権勢を考えてみましょう。ローマの権勢はローマ皇帝を頂点としています。権力の座についた者は、力によって人々を支配していきます。一方、神の国の権勢はイエス・キリストを頂点としています。そして、力によって人々を支配するのではなく、福音によって人々に仕えていきます。「福音によって人々に仕える」とはどういうことかと申しますと、福音とは、「真の王が来られた」「救い主が来られた」という良き知らせのことですが、この「良き知らせ」を世の人々に知らせるために、仕えることです。ですから、簡単に言えば、力によって人々を支配するのか、福音伝道のために人々に仕えるのか、この違いであります。それではなぜ、この世の権勢と神の国の権勢において、このような違いが生じるのでしょうか。それは、神の国は、この世のものではなく、来るべき世のものであるからです。神の国は既に到来しましたが、まだ完成されてはいないからです。

そのことはイエス様の生涯においてもはっきりと表れていました。イエス様は、この世に王として来られました。しかしイエス様は、この世において王の権力を一切主張されなかったため、私たちの目にはとても王様のようには見えませんでした。イエス様は、神の御子でありながら、神殿税をきちんと支払うために、ペトロに釣りをさせ、魚の口に挟まれている銀貨を取って、それを治めるようにしました(マタ17:24)。神の子であるイエス様が、なぜ神殿税を納める必要があるのでしょうか。つまり、これはイエス様が御子でありながら、祭司長や神殿当局者たちの権勢を認めているということになります。またある時には、皇帝のものは皇帝に返すように教え、ローマの権勢でさえ認めました(マタ22:21)。神を信じない異邦人の権勢を、なぜ王であるイエス様は尊重されたのでしょうか。王らしくありません。またある時には、相続に関して二人の兄弟の間の裁判長になってほしいとお願いされましたが、イエス様は拒否されました(ルカ12:14)。ソロモン王のように、二人の間の難問を裁いてもよさそうなものですが、そうはされませんでした。そして、ゲツセマネにおいて、ペトロが襲い掛かって来たユダヤの当局者たちに正当防衛をし、群れの一人であるマルコスの耳を切りつけた時、イエス様はペトロを叱りつけ、負傷したマルコスの耳を癒されました。なぜイエス様は敵を癒され、ペトロに剣を取ることを禁じ、自ら進んで当局者たちの手に捕らえられて行ったのでしょうか。明らかに王として、ふさわしくない行動です。このような行動をとられたその理由は、霊的で普遍的な神の国の権勢が、この世的で地上的なユダヤの当局者たちの権勢や、ローマの権勢と、本質的に異なるからであります。

霊的で普遍的な神の国の権勢は、教会に与えられていて、決してローマの権勢に対し、対立するものではありません。むしろ神の国の権勢は、この世の為政者たちや、王たちを敬い、彼らのためにとりなすように教えます。それにも拘わらず、この権勢は、人間に従うよりも、神に従わなくてはならないことを教え、いつでも、どこでも、どんな領域であろうと、隠密なところに至るまで、罪と偽りに対立し、罪と偽りを諸刃の剣によって露わにします。この神の国の権勢を、私たちはまだはっきりと目に見える形で理解することは出来ません。その権勢を、前味だけは味わっていますが、完全に味わっている訳ではありません。しかし、やがて神の国が完成される時に、福音伝道のために人々に仕えることが、いかに尊いことであり、すべての価値あるものを、はるかに超越していたのかを目に見える形で、はっきり理解できるようになるでしょう。それは、あたかも、この世に僕として低く仕えられたイエス様が、天において、あらゆる名にまさる名を与えられ、最上の栄光と、最上の威厳と、最上の権能へと高められたのと同じように、福音伝道のために皆に仕えた一つひとつの奉仕が、天において非常に高く評価され、その報いが与えられるのです。旧約聖書のネヘミヤ記を見ますと、城壁の再建の記事が出てまいりますが、誰がどのように城壁再建のために奉仕したのか、名前とその奉仕の内容が、大変きめ細かく書かれています。私たち教会も、昨日は、埼玉地区合同婦人会の当番教会として、力いっぱい奉仕をさせていただきました。この日を迎えるために、かなり以前から讃美の練習や、祈りを積み上げてきましたが、先週は特にスリッパの準備をしたり、いつもより入念にトイレ掃除をしたり、教会敷地の除草作業をしたり、大変忙しい時を過ごしました。このような奉仕の一つ一つが、天の父に覚えられていて、神の国が完成される時に、その働きがいかに価値あるものなのか、いかに尊いものであるのかを知らされ、報いが与えられるのです。ですから、神の国は万事を脇においてでも、第一に優先されて追求されなければならないのであります。マタイ19:29をお読みします。そのままお聞きください。

“わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。”

そして、福音伝道のために人々に仕えることにおいて、たとえどんなに多くの犠牲を払ったとしても、その犠牲にはるかに余りある莫大な報いを賜物として与えられ、私たちは主人であるイエス様に、有益をもたらすどころか、むしろ損害をもたらす僕に過ぎなかったということを悟ることになるでしょう。ルカ17:10をお読みします。そのままお聞きください。

“あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」”

天の莫大な報いのゆえに、「取るに足らない僕です。」「しなければならないことをしただけです」という告白が自然と出て来るのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。神の国の権勢とは、この世の権勢とは異なります。神の国の権勢とは、力によって人々を支配するのではなく、イエス・キリストを頂点として、福音伝道のために人々に仕えていくことです。それは、茨の道であり、苦難の道でありますが、同時にそれは、それぞれに与えられた杯であり、イエス様の苦難に参与することでもあるのです。その尊い奉仕は一つ一つ神様に覚えられていて、必ず天において、豊かな報いが与えられることでしょう。神の国の権勢は、今は目に見えませんが、やがて神の国が完成される時、福音によって人々に仕えることの価値が、いかに莫大な価値を持っているのかを私たちは目にすることになります。その栄光と威厳と権能がいかに高められるのかを私たちは目にすることになるのです。イエス・キリストが苦難を通して栄光に入れられたように、そして杯を通して御座に着座されたように、私たちもイエス様の御足に従って、自分の杯を飲み、福音伝道のために、皆に仕える者とならせていただきましょう。

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너희를 섬기는 자

2024년10월 13일 주일설교 카와에 토모아키목사

마태복음 20장 17~28절

서론

예수님께서, 곧 십자가에 못 박히게 될 예루살렘을 향해 결연히 나아가시는 가운데, 예수님께서는 열두 제자들만 모아 세 번째 수난 예고를 하셨습니다. 이미 16장 21절과 17장 22,23절에서 첫 번째, 두 번째 수난 예고가 이루어졌지만, 이 세 번째 수난 예고는 지금까지 없었던 상세한 부분까지 이야기되었습니다. 제사장들과 서기관들에게 넘겨져 사형선고를 받고, 그리고 이방인의 재판에 넘겨져 모욕을 당하고, 채찍질을 당하고, 십자가에 못박혀 부활한다고 하는 것입니다. 십자가형이란 원래 유대에는 없는 사형 방법으로 로마의 극형으로 자리 잡았습니다. 너무 잔인한 형이기 때문에 로마 시민에 대해 집행하는 것이 금지되어 있었습니다. 그러므로 예수님의 예고는 매우 생생하게 들렸을 것입니다. 예루살렘이 가까워져 오는 가운데 제자들은 낙담과 비장함 속에서 예수님께 최악의 사태가 일어나지 않도록 결사의 각오로 호위해야겠다는 생각을 새롭게 했을 것입니다. 그러던 중 예수님은 제자들과의 대화 가운데「..누구든지 크고자 하는 자는 섬기는 자가 되고 너희 중에 누구든지 으뜸이 되고자 하는 자는 너희의 종이 되어야 하리라」라는 희안한 말씀을 하셨습니다. 이는 결코 겸손의 미덕을 쌓아 사람들의 신뢰를 얻으라는 가르침이 아닙니다. 당시 헬레니즘 문화에 겸손이라는 미덕은 없었습니다. 오히려 사람을 지배하고 통제하는 것이야말로 미덕으로 여겨졌습니다. 「섬기는 자가 되라」라는 단어는 직역을 하면, 「시중을 드는 급사가 되라」는 것입니다. 「종이 되어야 하리라」는 직역을 하면, 「노예가 되라」는 의미입니다. 이것은 도대체 무슨 말인가요? 오늘은 특별히 「너희를 섬기는 자」라고 하는 관점에서, 말씀의 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 주님의 잔과 영광의 보좌, 고난과 영광

세배대의 아들의 어머니가 두 아들 야고보와 요한을 데리고 예수님께 간청을 드리러 나아왔습니다. 하나님 나라가 수립된 새벽에는, 두 아들 야고보와 요한을 예수님의 우편과 좌편에 앉게 해 달라는 것이었습니다. 즉, 오른쪽 대신과 왼쪽 대신의 자리에 앉혀 달라고 청하고 있는 것입니다. 예수님은 이 세배대의 어머니와 그 자녀들의 요구를 물리치셨습니다. 22절을 보시겠습니다.

예수께서 대답하여 이르시되 너희는 너희가 구하는 것을 알지 못하는도다 내가 마시려는 잔을 너희가 마실 수 있느냐 그들이 말하되 할 수 있나이다

여기서 주목하고 싶은 것은, 예수님이 영광의 보좌에 앉으시기 위해서는, 잔을 마셔야 한다고 말씀하시는 것입니다. 예수님은 자신이 마시려는「잔」과 「보좌」를 연관지었음을 알 수 있습니다. 그렇다면 그 「잔」은 도대체 무엇일까요? 이 후 겟세마네 동산에서 「내 아버지여 만일 할 만하시거든 이 잔을 내게서 지나가게 하옵소서」라고 기도하셨습니다. 「이 잔」은, 예수님이 앞으로 받게 되는 고난을 의미하는 것으로 보입니다. 즉, 제사장들로부터 사형선고를 받고 이방인에게 넘겨지고 모욕당하고 채찍질당하고 십자가에 못박히는 그 고난입니다. 그리고 20장 28절을 보면 「인자가 온 것은...자기 목숩을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라」고 적혀 있으니 예수님이 받으시는 십자가 고난의, 그 잔은 영원부터 정해진 하나님의 계획임을 알 수 있습니다. 이제 십자가의 고난을 거쳐, 하늘나라에서 하나님의 우편에 앉으실 것이라고 예수님은 말씀하시는 것입니다. 따라서 예수님이 다 마시는 잔과 그 후 예수님이 앉으시는 하늘의 보좌는 뗄레야 뗄 수 없는 관계임을 알 수 있습니다. 이러한 하나님의 구원 계획에 대해, 전혀 몰이해했던 야고보과 요한은 「할 수 있나이다」라고 대답했습니다. 예수님은 23절에서 이렇게 말씀하셨습니다.

이르시되 너희가 관연 내 잔을 마시려니와 내 좌우편에 앉는 것은 내가 주는 것이 아니라 내 어버지께서 누구를 위하여 예비하셨든지 그들이 얻을 것이니라

이게 도대체 무슨 말씀일까요? 아마도 제자들이 장차 예수님의 십자가와 부활 후, 성령을 받아 고난 속을 걸을 것임을 암시하는 것 같습니다. 실제로 야고보는 사도행전 12장에 적혀 있듯이 헤롯 아그립파에 의해 죽임을 당해 최초의 순교자가 되었습니다. 요한은 밧모 섬에 유배되어 주 예수를 증거하기 위하여, 고난을 짊어지게 됩니다. 그래서 제자들에게 있어서도 예수님 자신이 걸어가신 것처럼 각자의 십자가를 지면서 고난을 통해 영광으로 들어갈 것이라고 예수님은 말씀하시는 것입니다. 예전에 예수님께서 제자들에게 약속하셨던 말씀을 상기해보고 싶습니다. 마태복음 19장 28절을 보시기 바랍니다.

예수게서 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 세상이 새롭게 되어 인자가 자기 영광의 보좌에 앉을 때에 나를 따르는 너희도 열두 보좌에 앉아 이스라엘 열두 지파를 심판하리라

여기서 예수님은 제자들이 하늘의 보좌에 앉을 것을 분명히 약속하셨습니다. 누가 좌우편에 앉을지는, 아버지 하나님만이 알 수 있는 일이지만, 제자들이 고난을 통해 영광으로 들어갈 것, 그리고 하늘의 보좌에 함께 앉게 되는 것은, 틀림없는 일로 이미 약속된 것입니다.

(2) 하나님 나라의 권세(권위질서)와 이 세상의 권세(권위질서)

자, 나머지 제자들은, 야고보와 요한에게 앞지름을 당했다는 것을 깨닫고 화를 냈습니다. 그래서 예수님은 으뜸이 되기 위해서는, 즉 리더가 되기 위해서는 어떻게 해야 하는지 제자들을 불러모아 가르치십니다. 20장 25~28절을 보시겠습니다.

25 예수께서 제자들을 불러다가 이르시되 이방인의 집권자들이 그들을 임의로 주관하고 그 고관들이 그들에게 권세를 부리는 줄을 너희가 알거니와

26 너희 중에는 그렇지 않아야 하나니 너희 중에 누구든지 크고자 하는 자는 너희를 섬기는 자가 되고

27 너희 중에 누구든지 으뜸이 되고자 하는 자는 너희의 종이 되어야 하리라

28 인자가 온 것은 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고 자기 목숨을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라

으뜸이 되기 위해서는, 리더가 되기 위해서는 어떻게 해야 합니까? 그 질문에 대한 예수님의 대답은 「모두를 섬기라」는 것입니다. 직역하면 「시종드는 급사가 되어라」라는 뜻입니다. 「급사」라는 이 말은 나중에 「집사」로 번역되게 되었습니다. 또 27절의 「종이 되어야 하리라」라는 말은 헬라어로 「둘로스」라는 말이고, 직역하면 「노예가 되라」라고 말씀하시는 것입니다. 예수님께서 이 세상에 오셔서, 사람들을 섬기고, 자기 목숨을 대속물로 주신 것처럼, 너희들 가운데서 리더가 되려고 하는 자는, 「급사」가 되고 「집사」가 되라고 말씀하시고 계시는 것입니다. 예수님께서 이처럼 희안한 말씀을 하시는 것은 하나님 나라의 권위 질서가, 세상의 권위 질서와는 전혀 다른 데서 기인하고 있습니다.

하나님 나라의 권위 질서와 이 세상의 권위 질서는 어떻게 다를까요? 「권위・질서」라는 말을 「권세」라는 말로 바꾸어 표현하겠습니다. 이 세상 권세의 예로 로마의 권세를 생각해 보겠습니다. 로마의 권세는 로마 황제를 정점으로 하고 있습니다. 권좌에 오른 자는 힘으로 사람들을 지배해 갑니다. 한편 하나님의 나라의 권세는 예수・그리스도를 정점으로 하고 있습니다. 그리고 힘에 의해 사람들을 지배하는 것이 아니라 복음에 의해 사람들을 섬겨갑니다. 「복음으로 사람들을 섬긴다」는 것이 무슨 말이냐면, 복음이란 「진정한 왕이 오셨다」「구원자가 오셨다」는 복된 소식인데, 이 「복된 소식」을 세상 사람들에게 알리기 위해, 섬기는 것입니다. 그러니까 쉽게 말하면, 힘으로 사람들을 지배하느냐, 복음 전도를 위해 사람들을 섬기느냐의 이 차이입니다. 그렇다면, 왜 이 세상의 권세와 하나님 나라의 권세에 있어서 이런 차이가 생길까요? 그것은 하나님 나라는, 이 세상의 것이 아니라 다가올 세상의 것이기 때문입니다. 하나님의 나라는 이미 도래했지만 아직 완성되지는 않았기 때문입니다.

그 일은 예수님의 생애에서도 분명하게 드러납니다. 예수님은, 이 세상에 왕으로 오셨습니다. 그러나 예수님은 이 세상에서 왕의 권력을 일절 주장하지 않으셨기 때문에, 우리 눈에는 도저히 왕처럼 보이지 않았습니다. 예수님은, 하나님의 아들이면서도 성전세금을 제대로 내기 위해, 베드로에세 낚시를 시켜, 물고기 입에 낀 은화를 떼어, 그것을 내도록 하셨습니다(마태복음 17장 24절). 하나님의 아들이신 예수님이, 왜 성전세를 납부하실 필요가 있겠습니까? 즉, 이는 예수님이 하나님의 아들이시면서 제사장이나 성전 당국자들의 권세를 인정하고 계신 것입니다. 또 어떤 때는 황제의 것은 황제에게 돌려주도록 가르쳤고, 로마의 권세조차 인정하셨습니다(마태복음 22장 21절). 하나님을 믿지 않는 이방인의 권세를, 왜 왕이신 예수님은 존중하셨을까요? 왕답지 않습니다. 또 어떤 때는, 상속에 관해 두 형제 사이의 재판장이 되어 달라는 청을 받으셨지만 예수님은 거부하셨습니다(누가복음 12장 14절). 솔로몬 왕처럼, 두 사람 사이의 어려운 문제를 재판해도 좋을 것 같지만 그렇게 하지는 않으셨습니다. 그리고 겟세마네에서 베드로가, 덤벼드는 유대 당국자들의 무리 중 한 명인 말고의 귀를, 정당방위로 대응하며 베었을 때, 예수님은 베드로를 꾸짖으시고 부상당한 말고의 귀를 치유하셨습니다. 왜 예수님은 적을 치유하시고, 베드로에게 칼을 드는 것을 금하시고, 자진해서 당국자들의 손에 잡혀 가셨을까요? 분명히 왕으로는 어울리지 않는 행동입니다. 이러한 행동을 취하게 된 이유는, 영적이고 보편적인 하나님 나라의 권세가, 이 세상적이고 지상적인 유대 당국자들의 권세나 로마의 권세와 본질적으로 다르기 때문입니다.

영적이고 보편적인 하나님 나라의 권세는, 교회에 주어져 있고, 결코 로마의 권세에 대해 대립하는 것이 아닙니다. 오히려 하나님 나라의 권세는, 이 세상의 위정자들과 왕들을 공경하고 그들을 위하여 기도하도록 가르칩니다. 그럼에도 불구하고, 이 권세는, 인간을 따르기 보다는, 하나님을 따르지 않으면 안된다는 것을 가르치고 언제까지나, 어디에서나, 어떤 영역이든지, 은밀한 부분에 이르기까지 죄와 거짓에 맞서, 죄와 거짓을 말씀의 검으로 드러냅니다. 이 하나님 나라의 권세를 우리는 아직 명확하게 눈에 보이는 형태로 이해할 수 없습니다. 그 권세를 미리 맛보기만은 하고 있지만, 완전히 맛보고 있는 것은 아닙니다. 그러나 머지않아 하나님의 나라가 완성될 때, 복음 전도를 위해 사람들을 섬기는 것이 얼마나 고귀하고, 모든 가치 있는 것을 얼마나 초월했는지를 눈에 보이는 형태로 분명하게 이해할 수 있게 될 것입니다. 그것은 마치, 이 세상에서, 종처럼 자신을 낮추고 섬기신, 예수님이 하늘에서 모든 이름에 뛰어난 이름을 부여받아 최상의 영광과 최상의 위엄과 최상의 권능으로 높혀지신 것처럼, 복음 전도를 위해 모두를 섬긴 하나하나의 봉사가 하늘에서 매우 높이 평가되고 그 보답이 주어지는 것입니다. 구약성경의 느헤미야서를 보면 성벽 재건 기사가 나오는데 누가 어떻게 성벽 재건을 위해 봉사했는지 이름과 그 봉사 내용이 아주 꼼꼼하게 적혀 있습니다. 우리 교회도 어제는 사이타마지구 합동 부인회 당번 교회로서 힘껏 봉사를 했습니다. 이 날을 맞이하기 위해 오래전부터 찬양연습과 기도를 쌓아 왔습니다만, 지난주에는 특히 슬리퍼 준비를 하거나 평소보다 꼼꼼하게 화장실 청소를 하거나 교회 부지의 제초 작업을 하거나 매우 바쁜 시간을 보냈습니다. 이러한 봉사 하나하나가 하늘 아버지에게 기억되고 있어 하나님 나라가 완성될 때 그 일이 얼마나 가치 있는 것인지, 얼마나 고귀한 것인지를 알게 되고 상을 받게 되는 것입니다. 그래서 하나님의 나라는 만사를 제쳐놓고서라도 제일 먼저 추구되어야 하는 것입니다. 마태복음 19장 29절을 읽어보겠습니다. 그대로 들으셔도 됩니다.

또 내 이름을 위하여 집이나 형제나 자매나 부모나 자식이나 전토를 버린 자마다 여러 배를 받고 또 영생을 상속하리라

그리고 복음 전도를 위해 사람들을 섬기는 데 있어, 설사 아무리 많은 희생을 치렀더라도 그 희생보다 훨씬 더 많은 막대한 보답을 하사받아 우리는 주인이신 예수님께 유익을 가져다 드리기는 커녕 오히려 손해를 끼치는 종에 불과했다는 것을 깨닫게 될 것입니다. 누가복음 17장 10절을 읽겠습니다. 그대로 들어 주세요.

이와 같이 너희도 명령 받은 것을 다 행한 후에 이르기를 우리는 무익한 종이라 우리가 하여야 할 일을 한 것뿐이라 할지니라

하늘의 엄청난 보답 때문에 「우리는 무익한 종입니다」 「우리가 하여야 할 일을 했을 뿐입니다」라는 고백이 절로 나오는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 하나님 나라의 권세와 세상의 권세는 다릅니다. 하나님 나라의 권세란, 힘으로 사람들을 지배하는 것이 아니라 예수・그리스도를 정점으로 복음 전도를 위해, 사람들을 섬기는 것입니다. 그것은 가시밭길이고 고난의 길이지만 동시에 그것은 각자에게 주어진 고난의 잔이고 예수님의 고난에 동참하는 것이기도 합니다. 그 고귀한 봉사는 하나하나 하나님께 기억되고 있으며, 반드시 하늘에서 풍성한 보답이 주어질 것입니다. 하나님 나라의 권세는, 지금은 눈에 보이지 않지만, 이윽고 하나님 나라가 완성될 때 복음으로 인해 사람들을 섬기는 것의 가치가 얼마나 엄청난 가치를 지니고 있는지를 우리는 보게 됩니다. 그 영광과 위엄과 권능이 얼마나 높아지는지를 우리는 보게 됩니다. 예수・그리스도께서 고난을 통해 영광으로 들어가셨듯이, 그리고 고난의 잔을 통해 보좌에 앉으셨듯이, 우리도 예수님의 발자취를 따라, 각자의 고난의 잔을 마시고 복음 전도를 위해 모두를 섬기는 자가 되도록 합시다.

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