2024年06月22日「講壇交換 からし種一粒ほどの信仰 겨자씨 한 알 만큼의 믿음」

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講壇交換 からし種一粒ほどの信仰 겨자씨 한 알 만큼의 믿음

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 17章14節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

17:14一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
17:15言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
17:16お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
17:17イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
17:18そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
17:19弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
17:20イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 17章14節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

マタイによる福音書17章の冒頭において、イエス様はペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちを連れて、山へ登られたということが書かれています。山の上でイエス様の顔は太陽のように輝き、衣は真っ白に光り輝きました。そして、そこにモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っていたのです。山の上で見た、栄光と祝福に満ちたその素晴らしい光景は、まさに神の国の前味を、先取りするようなものでありました。やがて、キリスト者である私たち聖徒も、天に挙げられ、イエス様の身元に引き上げられるならば、モーセやエリヤのように、白い衣を着て、栄光に輝くことになるでしょう。イエス様と三人の弟子たちは、山を下りてきて、その余韻が冷めないうちに、この地上における混乱を目にすることになります。12弟子のうちの、残された弟子たちが多くの群衆に囲まれており、そしてその混乱の中から、ある男がイエス様を見つけるや否や、近寄り、懇願するのです。この状況は、信仰のないことによって起因する混乱でありました。それはあたかも、モーセがシナイ山に昇って、主なる神から二枚の十戒の石板を頂いた後、山のふもとに降りてみると、群衆が金の子牛を造って偶像崇拝をしていた、そのような混乱でありました。本日は伝道礼拝ということで、マタイ福音書17章の御言葉から恵みに与りたいと願います。14~16節をご覧ください。

【1】. 山のふもとの混乱

“一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」”

15節に「てんかん」という言葉が出てきます。この言葉は、新約聖書の中で、この15節と、マタイ4:24にしか出てこない珍しい言葉であります。直訳すると「月に撃たれた病」という意味です。「夢遊病」と翻訳する学者もいるようです。ですから、この箇所での「てんかん」とは、現代の医学における「てんかん」を必ずしも意味しないということです。その病によって、子どもは自らをコントロールする能力を失い、火の中や水の中に倒れようになりました。それが一度や二度ではありません。「度々」、つまり、何度もそのような症状が繰り返されているのです。恐らく親にとって、子どもが命の危険にさらされている時、その命を守ることができないことほど、みじめで虚しいことはないでしょう。子どもの父親はイエス様を見るや否や、藁をもつかむ思いで、近寄り、ひざまずいて、「主よ、息子を憐れんでください」と懇願しました。子ども病の原因は、明らかに悪霊によるものでありました。16節の父親の言葉の中に「お弟子たち」とありますが、ここは直訳しますと、「あなたの弟子たち」となっています。つまり「イエス様、あなたの弟子たちには、治すことが出来ませんでした」と訴えているのです。実は以前、イエス様は弟子たちに汚れた霊を追い出す権能を授けていました。マタイ10:1をお読みします。そのままお聞きください。

“イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。”

このように弟子たちは既に、イエス様から直接、汚れた霊に対する権能を授けられており、実際、悪霊追い出しを経験したこともありました。それにも拘わらず、今回、この混乱の中で子どもを治すことが出来なったのです。恐らく弟子たち自身も、「こんなはずじゃなかったのに、なぜだろう!」と当惑していたことでしょう。群衆も、弟子たちの無能さをなじり、「なんだ、神の国が到来しただなんて、あれは嘘だったのか、まったく人騒がせなこった」などと考えていたのかもしれません。この状況をご覧になり、イエス様は17節で次のようにお答えになりました。

“なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。”

イエス様はここで、大変深く嘆いておられますが、一体誰について嘆いているのでしょうか。「なんと信仰のない、よこしまな時代」とおっしゃっているので、当時の「世の中」全体を指していると言えます。しかし、そこには弟子たちも含まれていると思われます。彼らは悪霊を追い出す権能を授けられた者たちとして、当然その働きが出来て然るべきでありました。主イエスの弟子たちによって、暗い世に信仰の光を灯すべきでありました。ところが、その光が見られない。弟子たちまで不信仰な、よこしまな時代の一部分になってしまったのです。イエス様はそのことを嘆かれたのです。しかし、イエス様は弟子たちと共にいることを諦めたり、放棄することはなさいません。「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われ、弟子たちの失敗に寄り添ってくださったのです。

【2】. 主イエスの権勢

イエス様が少年の中の悪霊にお叱りになると、悪霊は出て行き、すぐに子どもは癒されました。ここでのイエス様の権勢は圧倒的です。弟子たちは、事件の後、なぜ自分たちには悪霊を追い出すことができなかったのか、ひそかに尋ねました。19節~20節をご覧ください。

“弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」”

弟子たちはここで、人々の前で堂々と尋ねるのではなく、群衆のいない所で、こっそりイエス様に尋ねました。その理由は書かれていませんが、恐らくこういうことだと思います。これまで弟子たちは悪霊追い出しを、実際に行ってきました。そのような中で、自分は病を癒し、悪霊を追い出すことができるという、自信感が芽生えたのだと思います。そのような働きの結果、人々は弟子たちのことを特別な存在として見てくれるようになったことを、肌で感じていたのではないでしょうか。ですから、弟子たちにおいてプライドのようなものが出てきて、人々の前で恥ずかしい思いをしたくなかったため、こっそりと尋ねたと推測せずにはいられないのです。ところが、この後、弟子たちは大切なことを忘れていたことに気づかされます。悪霊を追い出す権能とは、自分たちの権能ではなく、イエス様の権能だということです。

さて、弟子たちの質問に対して、イエス様のお答えを見てまいりましょう。イエス様は、まず「信仰が薄いからだ」とはっきりと言われました。「信仰が薄い」とは、「信仰が小さい」という意味です。からし種とは、直径1~1.5ミリほどの小さな種で、鉛筆の芯を削った時の、あの、削りカスのようなものです。そのからし種ほどの信仰があればよいということですから、実際、弟子たちにおいて、信仰がほとんどなかったということになります。これは一体どういうことでしょうか。あの、イエス様から選ばれた十二弟子でさえ、信仰がほとんどなかったということになれば、私たちは一体どうなるのでしょうか。ここで、信仰という言葉は、個々人の信心の力ではなく、イエス様に対する信頼を意味しています。ですから「からし種のような小さな信仰さえあれば山を動かすことができる」とは、「イエス様に信頼する信仰さえあれば、イエス様によって山を動かすことができる」という意味なのです。山のふもとに残された弟子たちは、自分たちに悪霊を追い出す権能があると錯覚していたのでしょう。イエス様、不在の中で、「どれ、いい所を見せてやろう」と考えてしまったということだと思います。或いは、周りの群衆の雰囲気に飲まれてしまい、イエス様の圧倒的な権能をすっかり忘れてしまい、世の価値観に、完全に染まってしまったのかもしれません。いずれにせよ、イエス様との関係が切れてしまったなら、弟子たちは何もできなくなるのです。従いまして「からし種の信仰」という言葉と、対照的な言葉とは、「自分を信じる信仰」或いは「周りの霊的な雰囲気に揺さぶられる信仰」ということになるでしょう。信仰とは、自分の信心の力ではありません。圧倒的な権勢を持っているイエス様に依り頼むことなのです。

聖書には、しばしば、イエス様が良い羊飼いとして描写されています。イエス様は決して、ご自身の羊を不幸にさせることはありません。決して、ご自身の羊を忘れることもありません。羊を青草に導いてくださり、時には、死の陰の谷を歩ませることもありますが、そこに信仰の成長に必要な蜜があり、それを通して羊を強く、健康にするためなのであります。ですから羊は、どんな時にもこのイエス様の御声に従い、このイエス様と共に歩ませていただけるなら、最終的に幸いと祝福が約束されているのです。イエス様との関係に生きることこそ、「からし種の信仰」を持つということになるのです。

続いて、イエス様のお答えに戻りまして、「山を動かす」という表現が出てきます。これはユダヤ人が習慣的に用いた慣用句であり、その意味は「行く手を、山のような障害物によって塞がれても、その不可能と思われた困難や問題を克服できる」という意味です。イエス様の弟子たちの地上での営みは、必ず不可能と思われる困難や問題を克服する歩みへと導かれるでしょう。しかし、不思議なことに、そのようにして主イエスが証しされ、神の福音が全世界に宣べ伝えられるのです。そして、その福音は、私たちの家族にも宣べ伝えられ「とても信仰を持つとは思えなかった、あの、私の配偶者が、信仰を持つように導かれた」そんな、山が動かされたような不思議な証しを、私たちは次々に聞くことになるのです。地上における弟子たちの困難な歩みを通して、神の福音宣教が前進するのです。

最後に、「あなたがたにできないことは何もない」という表現が出てきます。このお言葉は、ここだけを切り取りますと、信仰者が願ったことは、必ずその通りに実現されると読み取れますが、そういう意味ではありません。私たちは聖書を読む時、文脈の中で読まなければなりませんね。例えば、イエス様はこの後、ゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(26:39)」と祈りましたが、そのイエス様の願いは聞き遂げられませんでした。「あなたがたにできないことは何もない」とは、私たちが気ままに、心に思う事が何でもその通りになる!と約束しているのではなく、イエス様から与えられた使命の遂行において、できないことはないということです。十二弟子は、イエス様から悪霊を追い出す権能を確かに授けられていましたが、今回は、その使命を遂行することが出来ませんでした。しかし、からし種一粒の信仰さえあれば、神様から与えられた使命の遂行において、できないことはないのです。皆様、お一人お一人にも神様から与えられた「使命」があります。イエス様を信じ、イエス様の弟子とされた時点で、必ず信仰生活を通して成し遂げるべき「使命」が与えられるのです。それでは、その使命とは具体的に何でしょうか。ある人は、家庭の中で、子育てと、子どもへの信仰の継承を、使命として与えられているかもしれません。自分自身を見れば、必ず信仰のつまずきとなりそうなものの、祈りながらイエス様と共に子どもたちを育てていくうちに、子どもたちに信仰の継承をすることができるのです。ある人は、礼拝の奏楽の奉仕を使命として与えられているかもしれません。奏楽奉仕、これも自分の力でしようと思っても、中々思うようにできなかった奉仕が、イエス様と共にするのなら、礼拝の中で豊かに賜物が用いられるのです。ある人は長老・執事など、役員としての使命を与えられているかもしれません。自分の力では、その難しい使命をとても果たすことは出来ませんが、イエス様と共にするのなら、それを果たすことが出来るのです。キリストの弟子である私たちのこの地上での営みは、イエス様を信頼にすることによって、不可能と思われた困難や問題を、必ず克服するように、必ずそれを乗り越えることができるように、導かれます。それは自分の力ではとてもできないことですが、信仰によって成し遂げられるのです。そして、最終ゴールである、救いの完成に、天の栄光に導かれます。「救いの完成」、それはちょうど、山の頂上で体験した、天の栄光に輝いたモーセとエリヤの姿でありました。私たちが信仰の歩みを終えて、イエス様の身元に引き上げられ、勝利の冠が備えられているのです。

【結論】

私たちの営みは、イエス様と共に歩み、やがて最終ゴールに到達し、勝利の冠が与えられることになります。天の栄光と祝福に満ちた救いの完成に導かれるのです。しかし、そこに至るまで、この地上において困難や問題を信仰によって乗り越えなければなりません。イエス・キリストが困難を通して栄光に入れられたように、キリストの弟子である教会も必ず困難を通して栄光に入れられるようになります。しかし、その困難や試練は、あたかも山が動かされるように、イエス様と共に見事に克服されるのです。私たち一人一人に与えられたその使命が、とても自分には不可能と思われるその働きが、イエス様と共に果たし、成就することができるのです。そのことを信じ、いよいよ主に信頼していくことこそ、「からし種の信仰」を持つことであり、「真の信仰」を持つことであります。私たちは、主が来られるその日まで、イエス様に依り頼みながら歩ませていただく者たちとならせていただきましょう。

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겨자씨 한 알 만큼의 믿음

2024년 6월23일 강단교환 주일설교 카와에 토모아키목사

마태복음17장 14~20절

서론

마태복음 17장 첫머리에, 예수님은 베드로와 야곱과 요한 세 제자들을 데리고 높은 산에 올라가셨다는 것이 적혀 있습니다. 산 위에서 예수님이 변형되시고 얼굴이 해 같이 빛나며 옷이 빛과 같이 희어졌습니다. 그리고 그곳에 모세와 엘리야가 나타나 예수님과 이야기를 나누고 있었습니다. 산 위에서 본 영광과 축복이 가득한 그 멋진 광경은 바로 하나님의 나라의 모습을 미리 맛보는 것과 같았습니다. 이윽고, 그리스도인인 우리 성도도 하늘로 올라가 예수님 곁으로 끌어 올려진다면 모세나 엘리야처럼 흰옷을 입고 영광에 빛나게 될 것입니다. 예수님과 세 제자들은, 산에서 내려와, 그 여운이 채 가시기도 전에 이 지상에서 겪게되는 혼란을 보게 됩니다. 열두 제자 중 남겨진 제자들이 많은 군중에 둘러싸여 있고 그리고 그 혼란 속에서 한 남자가 예수님을 발견하자마자 다가와 간청하는 것입니다. 이 상황은 믿음이 없는 것에 기인한 혼란이었습니다. 그것은 마치, 모세가 시내산에 올라가 주 하나님으로부터 두 장의 십계명 석판을 받은 후 산 아래로 내려가 보니, 무리가 금송아지를 만들어 우상숭배를 하던, 그런 혼란이었습니다. 오늘은 전도예배인데, 마태복음 17장 말씀으로부터 은혜를 얻고자 합니다. 14~16절을 보시기 바랍니다.

(1) 산 아래에서의 혼란

14 그들이 무리에게 이르매 한 사람이 예수께 와서 꿇어 엎드려 이르되

15 주여 내 아들을 불쌍히 여기소서 그가 간질로 심히 고생하여 자주 불에도 넘어지며 물에도 넘어지는지라

16 내가 주의 제자들에게 데리고 왔으나 능히 고치지 못하더이다

15절에 「간질」이라는 말이 나옵니다. 이 말은 신약성경 중에서 이 15절과 마태복음 4장 24절에만 나오는 특이한 말입니다. 직역하면 「月病」이란 의미입니다. 「몽유병」이라고 번역하는 학자도 있는 것 같습니다. 그렇기때문에, 이 구절에서의 「간질」이란, 현대의 의학에 있는 「간질」을 반드시 의미하는 것은 아니라는 것을 알 수 있습니다. 그 병에 의해서, 아이는 자신을 컨트롤 할 수 있는 능력을 잃고, 불 가운데나 물 가운데서 쓰러지게 되었습니다. 이것이 한 두번이 아닙니다. 「자주」즉, 여러 번 그런 증상이 반복되고 있는 것입니다. 아마도 부모에게 있어, 자녀가 생명의 위험에 노출되어 있을 때, 그 생명을 지켜줄 수 없는 것만큼 비참하고 허무한 것은 없을 것입니다. 아이의 아버지는 예수님을 보자마자, 지푸라기라도 잡는 심정으로 다가와 무릎을 꿇고, 「주여 내 아들을 불쌍히 여기소서」라고 간청했습니다. 어린아들의 병의 원인은, 분명히 악령에 의한 것이었습니다. 16절 아버지의 말 중에 「제자들」이라고 되어 있는데, 여기는 직역하면 「주의 제자들」이라고 되어 있습니다. 즉 「주의 제자들에게 데리고 왔으나 능히 고치지 못하더이다」라고 호소하고 있는 것입니다. 사실 예전에, 예수님은 제자들에게 더러운 영을 쫓아낼 권능을 주셨습니다. 마태복음 10장 1절을 읽겠습니다. 그냥 들어주십시오.

예수께서 그의 열두 제자를 부르사 더러운 귀신을 쫓아내며 모든 병과 모든 약한 것을 고치는 권능을 주시니라

이처럼 제자들은 이미, 예수님으로부터 직접, 더러운 귀신을 쫓아내는 권능을 받았고, 실제로 더러운 귀신을 쫓아내는 것을 경험하기도 했습니다. 그럼에도 불구하고, 이번의 이 혼란 속에서는 아이를 고칠 수 없었습니다. 아마 제자들 자신도 “이럴리가 없는데.. 왜 안되는 걸까!”라고 당황했을 것입니다. 무리도, 제자들의 무능함을 힐책하며 “뭐야! 하나님의 나라가 도래했다더니, 그건 거짓말이었구나, 완전히 소란스럽기만 하구나”등으로 생각했을지도 모릅니다. 이 상황을 보시고, 예수님은 17절에서 다음과 같이 대답하셨습니다.

예수께서 대답하여 이르시되 믿음이 없고 패역한 세대여 내가 얼마나 너희와 함께 있으며 얼마나 너희에게 참으리요 그를 이리로 데려오라 하시니라

예수님은 여기서, 매우 깊이 한탄하고 계십니다. 도대체 누구에 대해 한탄하고 계시는 걸까요?「믿음이 없고 패역한 세대」라고 말씀하셨기 때문에, 당시의 「세상전체」를 가리킨다고 할 수 있습니다. 하지만, 거기에는 제자들도 포함되어 있을 것으로 생각됩니다. 그들은 더러운 귀신을 내쫓을 권능을 받은 자들로서, 당연하게도 그 사역을 마땅히 할 수 있어야 했습니다. 주 예수님의 제자들로 인해, 어두운 세상에 믿음의 빛을 밝혀야 했습니다. 그런데 그 빛을 볼 수가 없습니다. 제자들까지 불신하는, 패역한 세대의 한 부분이 되어버린 것입니다. 예수님은 그것을 한탄하셨습니다. 그러나, 예수님은 제자들과 함께 있는 것을 단념하시거나 포기하지 않으셨습니다. 「그를 이리로 데려오라」고 말씀하시며 제자들의 실패에 다가와 주셨습니다.

(2) 주 예수의 권세

예수님이 소년 안의 귀신을 꾸짖으시니, 귀신이 나가고 아이가 그 때부터 나았습니다. 여기서 예수님의 권세는 압도적이었습니다. 제자들은 사건 이후, 왜 자신들은 귀신을 쫓아내지 못했는지 조용히 예수께 나아와 물었습니다. 19절, 20절을 보시겠습니다.

19 이 때에 제자들이 조용히 예수께 나아와 이르되 우리는 어찌하여 쫓아내지 못하였나이까

20 이르시되 너희 믿음이 작은 까닭이니라 진실로 너희에게 이르노니 만일 너희에게 믿음이 겨자씨 한 알 만큼만 있어도 이 산을 명하여 여기서 저기로 옮겨지라 하면 옮겨질 것이요 또 너희가 못할 것이 없으리라

제자들은 그곳에서, 사람들 앞에서 당당하게 묻는 것이 아니라 무리가 없는 곳에서 조용히 예수님께 물었습니다. 그 이유는 적혀 있지 않지만, 아마 이런 것이라고 생각합니다. 그동안 제자들은 귀신을 실제로 쫓아내기도 했습니다. 그러한 가운데 자신은 병을 치유하고, 귀신을 쫓아낼 수 있다는 자신감이 싹튼 것이라고 생각합니다. 그러한 사역의 결과, 사람들은 제자들을 특별한 존재로 봐주게 된 것을, 피부로 느끼고 있었던 것이 아닐까요. 그러니까 제자들의 자존심 때문에 사람들 앞에서 창피함을 느끼고 싶지 않았기 때문에 슬쩍 물어봤을 거라고 추측하지 않을 수가 없은 것입니다. 그런데 이 후, 제자들은 소중한 것을 잊고 있었음을 알게 됩니다. 귀신을 쫓아내는 권능이란, 자신들의 권능이 아니라, 예수님의 권능이라는 것입니다.

자, 제자들의 질문에 대한, 예수님의 대답을 살펴보겠습니다. 예수님은 먼저 「믿음이 작은 까닭이니라」라고 분명히 말씀하셨습니다. 겨자씨란 지름 1~1.5mm 정도의 작은 씨앗으로 연필심을 깍았을 때의 그 심의 부스러기 같은 것입니다. 그 겨자씨 한 알 만큼만의 믿음이 있으면 된다는 것이기 때문에, 실제로 제자들에는 믿음이 거의 없었다는 것이 됩니다. 이게 대체 무슨 일일까요? 예수님께서 선택하신 열두 제자조차 믿음이 거의 없었다고 한다면, 우리는 도대체 어떻게 되는 것일까요. 여기서 믿음이란 말은, 개개인의 믿음의 힘이 아니라 예수님에 대한 신뢰를 의미합니다. 그래서 「믿음이 겨자씨 한 알 만큼만 있어도 이 산을 명하여 여기서 저기로 옮겨지라 하면 옮겨질 것이요」라는 것은 「예수님을 신뢰하는 믿음만 있으면 예수님으로 인해 산을 움직일 수 있다」는 뜻입니다. 산 아래에 남겨진 제자들은, 자신들에게 귀신을 쫓아내는 권능이 있다고 착각했을 것입니다. 예수님의 부재 중에 “어디 한번, 우리의 능력을 보여주자”라고 생각해버렸다는 것이라고 생각합니다. 혹은 주위의 무리의 분위기에 휩쓸려, 예수님의 압도적인 권능을 완전히 잊어버리고 세상의 가치관에 완전히 물들어 버린 것일지도 모릅니다. 어쨌든 예수님과의 관계가 끊어진다면 제자들은 아무것도 할 수 없게 되는 것입니다. 따라서 「믿음이 겨자씨 한 알 만큼만 있어도」라는 말과 대조되는 말은 「자신을 믿는 믿음」혹은 「주변의 영적인 분위기에 흔들리는 믿음」이라고 할 것입니다. 믿음이란, 자신의 믿음의 힘이 아닙니다. 압도적인 권세를 가진 예수님께 의뢰하는 것입니다.

성경에는 종종, 예수님이 좋은 목자로 묘사됩니다. 예수님은 결코, 자신의 양을 불행하게 만들지 않습니다. 결코, 자신의 양을 잊는 일도 없으십니다. 양을 푸른 초장으로 인도해 주시고, 때로는 사망의 음침한 골짜기를 걷게 하기도 하시는데, 거기에 믿음의 성장에 필요한 꿀이 있고, 그것을 통해 양을 강하고, 건강하게 만들기 위해서입니다. 그래서 양은, 어떤 때에도 이 예수님의 음성을 따르고, 이 예수님과 함께 걷는다면, 최종적으로 복이 약속되어 있는 것입니다. 예수님과의 관계 가운데에 사는 것이야말로, 「겨자씨 한 알 만큼의 믿음」을 가진다는 것이 되는 것입니다.

이어서 예수님의 대답으로 돌아가서 「이 산을 명하여 여기서 저기로 옮겨지라 하면 옮겨질 것이요」라는 표현이 나옵니다. 이는 유대인들이 습관적으로 사용하는 관용구로, 그 의미는 「앞길이, 산더미 같은 장애물에 막혀도, 그 불가능할 것 같았던 어려움과 문제를 극복할 수 있다」는 뜻입니다. 예수님의 제자들의 지상에서의 영위는, 반드시 불가능하다고 생각되는 고난과 문제를 극복하는 발걸음으로 인도될 것입니다. 그런데, 신기하게도 그렇게 주 예수님이 증거되고, 하나님의 복음이 온 세상에 선포되고 전해지는 것입니다. 그리고 그 복음은, 우리 가족에게도 전해져서 “도저히 믿음을 가질 것이라고는 생각되지 않았던 내 배우자가 믿음을 갖도록 인도되었다”는, 그런 산이 움직인 것 같은 놀라운 간증을 우리는 계속해서 듣게 되는 것입니다. 지상에서의 제자들의 고난의 발걸음을 통해, 하나님의 복음선교가 전진하는 것입니다.

마지막으로 「또 너희가 못할 것이 없으리라」라는 표현이 나옵니다. 이 말씀은 여기만 잘라낸다면, 믿는 자가 바라던 것은 반드시 그대로 실현된다고 읽을 수 있지만 그런 뜻은 아닙니다. 우리는 성경을 읽을 때, 문맥속에서 읽어야 합니다. 예를 들어, 예수님은 이후에, 겟세마네 동산에서 「내 아버지여 만일 할 만하시거든 이 잔을 내게서 지나가게 하옵소서(마태복음 26장 39절)」라고 기도하셨으나 그 예수님의 소원은 이루어지지 않았습니다. 「또 너희가 못할 것이 없으리라」는 것은 “우리가 마음대로, 마음에 생각하는 것이 무엇이든 그대로 될 것이다!”라고 약속하는 것이 아니라, 예수님이 주신 사명의 수행에 있어서 못할 것이 없다는 것입니다. 열두 제자는, 예수님으로부터 귀신을 쫓아낼 권능을 분명히 받았는데, 이번에는 그 사명을 수행할 수 없었습니다. 그러나 겨자씨 한 알 만큼의 믿음만 있으면 하나님께서 주신 사명의 수행에 있어 못할 것이 없는 것입니다. 여러분 한 분 한 분에게도 하나님께서 주신 「사명」이 있습니다. 예수님을 믿고, 예수님의 제자로 여겨진 시점에서, 반드시 신앙생활을 통해 이루어야 할 「사명」이 주어지는 것입니다. 그렇다면 그「사명」이란 구체적으로 무엇일까요? 어떤 사람은, 가정 안에서 육아와 자녀에 대한 신앙의 계승을 「사명」으로 부여받고 있을지도 모릅니다. 자기 자신을 보면 자녀에게 반드시 신앙의 걸림돌이 될 것 같지만, 기도하면서 예수님과 함께 아이들을 키워나가다 보면 아이들에게 신앙의 계승을 할 수 있는 것입니다. 어떤 사람은, 예배의 반주 봉사가 사명으로 주어져 있을지도 모릅니다. 반주의 봉사, 이것도 내 힘으로 하려고 해도 좀처럼 생각대로 되지 않았던 봉사가 예수님과 함께 한다면, 예배 안에서 풍성하게 은사가 쓰임을 받게 되는 것입니다. 어떤 사람은 장로・집사 등 임원으로서의 사명을 부여받고 있을지도 모릅니다. 자신의 힘으로는, 그 어려운 사명을 도저히 완수할 수 없지만, 예수님과 함께 한다면, 그것을 완수할 수 있는 것입니다. 그리스도의 제자인 우리의 이 땅 위에서의 영위는, 예수님을 신뢰함으로써, 불가능할 것 같았던 어려움과 문제를 반드시 극복하도록 인도됩니다. 그것은 자신의 힘으로는 도저히 할 수 없는 일이지만, 믿음에 의해 이루어지는 것입니다. 그리고 최종 골인 「구원의 완성」으로 하늘의 영광에 인도됩니다. 「구원의 완성」, 그것은 바로, 산 정상에서 체험한, 하늘의 영광에 빛났던 모세와 엘리야의 모습이었습니다. 우리가 믿음의 발걸음을 마치고 예수님의 곁으로 끌어올리워질 때, 승리의 면류관이 구비되어 있는 것입니다.

결론

우리의 영위는, 예수님과 함께 걷고, 이윽고 최종 골에 도달하여, 승리의 관이 주어지게 됩니다. 하늘의 영광과 축복이 가득한 구원의 완성으로 인도되는 것입니다. 그러나, 거기에 이르기까지, 이 지상에서 고난과 문제를 믿음으로 극복해야 합니다. 예수・그리스도가 고난을 통해 영광으로 들어가셨듯이, 그리스도의 제자인 교회도 반드시 고난을 통해 영광으로 들어가게 됩니다. 그러나, 그 고난과 시련은, 마치 산이 옮겨지는 것처럼 예수님과 함께 훌륭하게 극복되는 것입니다. 우리 한 사람 한 사람에게 주어진 그 사명이, 도저히 자신에게는 불가능할 것으로 보이는 그 사역이, 예수님과 함께 완수하고, 성취될 수 있는 것입니다. 그것을 믿고, 드디어 주님을 신뢰해 가는 것이야말로, 「겨자씨 한 알 만큼의 믿음」을 갖는 것이며 「참된 신앙」을 갖는 것입니다. 우리는 주님이 오시는 그날까지 예수님을 의뢰하며 걸어가는 자들이 되도록 합시다.

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