2024年05月25日「誰が救われることができるのか 누가 구원을 얻을 수 있으리이까」

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誰が救われることができるのか 누가 구원을 얻을 수 있으리이까

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章16節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:16さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
19:23イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
19:24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
19:25弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
19:26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 19章16節~26節

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【序】

本日の聖書箇所の前の段落を見ますと、弟子たちは無力で、社会的な影響力のない子供たちを見て、天の国にふさわしくないと考えましたが、主イエスは、天の国はこのような者たちのものだと言われました。本日の箇所では、その反対に、弟子たちは社会的に影響力のある富める青年を見て、この人こそ天の国にふさわしいと考えましたが、主イエスは金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいと言われました。これを聞いた弟子たちの間に衝撃が走りました。「それでは、誰が救われるのだろうか!」と言うのです。「天の国」、この言葉は、ギリシア語で、(バシレイア トン ウラノン)となっていまして、直訳しますと「天の王国」という意味になります。著者であるマタイによれば、「天の王国に入れられること」、「永遠の命を得ること」、「完全になること」、「救われること」これら全ての言葉が、どれも同じ意味で語られています。本日は、私たちがどのようにして救われるのか、どのようにして天の王国に入れられるのかを念頭に置きつつ、マタイの福音書19章の御言葉から恵みに与っていきたいと思います。16~17節をご覧ください。

【1】. 聖なる律法

“さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」”

一人の男がイエス様に近寄ってきました。この男は、22節を見れば分かりますが、財産のある富める青年です。彼は、イエス様に論争を仕掛けているのではなく、素朴で、純粋な思いから、イエス様に尋ねていると思われます。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのか?」この質問は、私たちキリスト者が聞くと、少し違和感のある質問です。なぜなら救いは行いによるのではなく、信仰によるからです。イエス様はこの質問に対し、何と答えられたでしょうか。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われました。ここで私たちが注目したいことは、イエス様は「救いは行いによるのではなく、信仰によるのだ」と端的に言われなかったということです。「善い」という言葉を取り上げて、その意味合いを探求しています。恐らくこの青年は、「善い」という言葉を、相対的な意味で使用しているのですが、イエス様は「善い」という言葉を、神の属性として絶対的な意味で捉えているのでしょう。そして、旧約聖書の中には、善の絶対的な基準として、次のような御言葉が提示されています。レビ記18:5の御言葉をお読みます。

“わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。”

このレビ記の御言葉から分かりますように、神の聖なる律法こそ、永遠の命を得るための基準であり、善の絶対的な基準であるという事が分かります。そして、律法に少しでも違反するなら、そのことこそ罪なのであります。イエス様はそこから決してぶれることはありませんでした。マタイ19章に戻りまして、18、19節をご覧ください。イエス様は、青年に対し、十戒の第五戒から、第九戒までの戒めをお語りになりました。18、19節です。

“男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな(六戒)、姦淫するな(七戒)、盗むな(八戒)、偽証するな(九戒)、父母を敬え(五戒)、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」”

皆様もよくご存じのように、十戒とは、愛の教えであり、モーセがシナイ山で主なる神から、二枚の石板によって与えられたものであります。一枚目の石板には、要約しますと、神を愛しなさいということが書かれており、二枚目の石板には、隣人を自分のように愛しなさいということが書かれていました。ですから、イエス様は、順番は前後しますが、十戒の二枚目の石板の内容を語って、隣人愛について語り、そして、最後にレビ記19:18の御言葉によって、二枚目の石板の要約である「隣人を自分のように愛しなさい」と締めているのであります。これを聞いた青年は、20節で「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と答えました。青年のこの言葉には嘘はないと思います。どのような水準で律法を守るのかは別として、ユダヤ人にとって、律法とは子供の時から暗記させられ、十戒を守ることは基本中の基本であったからです。それが愛の動機ではなかったとしても、文字に捕らわれながら、律法主義のように、守っていたとしてもです。ましてや彼は、永遠の命を受け継ぎたいと真剣に願っていたのですから、人よりも熱心に、律法主義になっていたに違いありません。使徒パウロも、救われる前の自分について、「私は律法の義については非の打ちどころのない者でした(フィリ3:6)」と回想しています。しかし、それはあくまで律法主義であり、律法を文字的に、相対的に守っているに過ぎないのであります。もし、聖なる律法を、愛の基準から完全に守ろうとするなら、それは、やはり無理な話しであり、律法という鏡の前に私たちは、自分の罪が曝け出されることでしょう。愛の基準から守ろうとするなら、行いによっては、いかなる人も義とされないという告白へ導かれるのであります。

【2】. 救いの招き

さて、イエス様はこの青年に次のように答えられました。21節をご覧ください。

“イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」”

律法の中には、「持ち物を売り払いなさい」という掟はありません。なぜ、イエス様は、ここでこのように言われたのでしょうか。恐らく、青年が、神と富の二人の主人に仕えようとしている、その隠れた罪を暴き出すためであると考えられます。

また、21節の中には多くの命令がなされていますが、これらの命令は最後の「わたしに従いなさい」という言葉に係っていると思われます。つまり、イエス様は、ここで富める青年に対し「わたしに従いなさい」と、救いの招きの言葉を語っておられるのです。「もし完全になりたいのなら」という言葉は、「もし救われたいのなら」、「もし永遠の命を得たいのなら」「もし天の王国に入れられたいのなら」と言い換えることが出来ます。しかし、富める青年は、救いの招きに、子供のように応答することはできず、悲しみながら立ち去って行きました。

するとイエス様は次のように言われたのです。「はっきり言っておく。…金持ちが天の王国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」当時、経済的に豊かであるということは、神様の祝福のしるしであって、その富によって貧しい人々に施しをすることができましたから、弟子たちの目に、この青年こそ天の王国に入れられて、しかるべき人であろうと映っていたわけです。ところが、パレスティナ地域で最も巨大な動物として知られていた、あの、らくだが、針の穴を通る方が、まだ易しいと言われるのです。弟子たちは顔面蒼白になったことでしょう。「それでは一体誰が救われるのだろうか」という驚きの言葉が出てきてしまいました。救われるということ、天の王国に入れられるということ、完全にされるということは、それほど難しいということです。イエス様は別の箇所で次のようにも語っておられます。マタイ5:48です。

“だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。”

完全になるとは、聖なる律法に照らされても、シミも傷も一切見当たらないという意味です。単純に考えれば、欠けの多い私たちが天の父のように完全にされるなんて、とても考えられませんね。例えば、私たちはイエス様を信じ、毎週、教会で礼拝を捧げていますが、私たちの信仰の営みを顧みるなら、どうでしょうか。完全さからは遠くかけ離れているように見えます。しかし、イエス様は「完全になりたいのなら」と私たちを招かれるのです。このことは、天の王国の「すでに」と「未だ」という教理に関係しています。already とnot yetの教理です。私たちはこの教理をしっかり理解して、この地上において天を仰ぎながら、上にあるものを求め、信仰によって歩んでいかなければなりません。

【3】. すでにと、いまだ

「すでに」と「いまだ」の教理は、赤ちゃんのお産によって例えられます。最初に、赤ちゃんの出生は、病院で妊娠したということが宣告されてから始まります。小さな生命がお母さんの身体の中に宿りました。しかし、その生命は母の胎の中に隠されていて、赤ちゃんの顔つきや、体つきをまだ見ることはできません。十月十日という期間を経て、そして母親の産みの苦しみを経て、初めて赤ちゃんは、この世に生まれて来ます。「すでに」と「いまだ」の教理もこれと似ています。イエス様の初臨によって天の王国はすでに到来しました。私たちはイエス様を信じることにより救われました。イエス・キリストの贖罪は完全であり、それに何も付け加える必要はありません。私たちの命は、イエス・キリストの中にすでに息づいているのです。しかし、同時に、天の王国はいまだ、完成には至っておらず、聖化というプロセスを経て、やがての日、イエス様が再臨される時に、初めて、目に見える形で現れます。即ち、天の王国とは一方において現在的であり、既に霊的にこの世に到来しているということです。同時に天の王国とは未来的であり、いまだ具体的に目に見える形として、完成されていないということです。ですから、私たちはこの世にあって、神の国と神の義を求め続けなければならないのです(マタ6:33)。私たちは、信仰によって救われたと言いつつ、同時に自分の救いを達成しなければならないのです。フィリピ2:12をお読みします。

“だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。”

天の王国とは、神様がご自身の善しとする御心に従って、恵みとして与えられる上からの賜物でありますが、しかし、その一方で、人が努力して探し求め、神様に仕えることを通して取得されなければならない「報い」であり、「天に積んでいく宝」なのであります。神様の祝福は、「賜物」であるのと同時に、天から分配される「報い」である、「天に積まれた宝である」という事です。普段、私たちは無償で与えられる賜物という点を強調されますが、聖書には、同時に報いであるということも書かれています。例えばマタイ16:27をご覧ください。P.32です。

“人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。”

「賜物」と「報い」、この二つは矛盾しているように見えます。しかし聖書はそのように主張するのであります。恐らく、救われること、或いは、永遠の命を与えられること、完全にされること、天の王国に入れられること、これらの祝福は全ての人に同じですが、その栄光において、その輝きにおいて差があるということだと思います。夜、夜空を見回しますと、とてもキラキラ輝く星もあれば、うっすらと見える星もございます。そのように栄光と輝きにおいて、差があるということだと思います。この世で、私たちが聖霊によって良き業を献げるなら、天に富みが積まれ、やがての日に、それぞれの行いに従って、報われるのです。しかし、その報いが30倍、60倍、100倍と、あまりにも大きいために、その配当があまりにも大きいために、それはやはり賜物であると言っていいのではないでしょうか。

イエス様は弟子たちを召される時「わたしに従いなさい」と言われました。イエス様の御足に従うということは、イエス様が歩まれた苦難の道に従っていくということです。従いまして、イエス様の弟子である私たち教会は、イエス様の十字架の贖いによって、既に義とされ、既に聖められ(ヘブル10:10)、既に完全とされましたが(ヘブル10:14)、それにも拘わらず、私たち教会は、必ず信仰によって、最後まで忍耐しなければならないように導かれるのであります。試練という炉の中で、日々精錬され、日々、古い人を日々脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身につけなければならず、神を畏れ、自分自身の救いを達成するように導かれるのです。言い換えるなら、キリスト者のこの世の信仰生活は、必ず努力しなければならないということです。この世での教会の営みは、勝利した教会としての営みではなく、戦う教会としての営みなのであります。

【結論】

本日の説教題を、「誰が救われることができるのか!」といたしました。これはクエスチョンマークが付いた疑問文ではなく、ビックリマークが付いた驚きの言葉です。少し紛らわしくなってしまいました。それほど救われるということは難しいということです。

私たちキリスト者の日々の歩みは、決して広い門から入る楽な道ではありません。必ず、過去の自分の生涯と決別しながら、古い自分に死んで、自分の十字架を負い、イエス様の御足に従い、狭い門から入る、いばらの道であります。イエス・キリストが再臨されるまで、キリスト者の信仰の営みは、天を眺めることになるでしょう。そこに彼らに分配されるはずの宝があり、そこに彼らの命であるイエスキリストが神の右に座っておられ、そこに彼らの市民権が登録されており、そこに永遠の嗣業が備えられているからです。しかし、やがて、私たちが天の王国に入れられる時、その栄光と輝きがあまりにも素晴らしいために、その報いがあまりにも大きいために、真に、救いは、神の一方的な賜物であり、神の御業であることを告白し、驚きのあまり「神には何でもできる」と告白する者とされるのです。

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누가 구원을 얻을 수 있으리이까

2024년 5월26일 오오미야교회 강단교환 주일설교 카와에 토모아키목사

설교자 카와에 토모아키 목사

마태복음19장 16~26절

서론

오늘의 성경본문의 앞 단락을 보면, 제자들은 무력하고, 사회적 영향력이 없는 아이들을 보며, 천국에 어울리지 않는다고 생각했는데, 주 예수님은, 「천국이 이런 사람의 것」이라고 말씀하셨습니다. 오늘의 본문에서는, 그 반대로 제자들은 사회적으로 영향력 있는 부유한 청년을 보고, 이 사람이야말로 천국에 어울린다고 생각했는데, 주 예수님은 부자가 하나님 나라에 들어가는 것보다 낙타가 바늘구멍을 통과하는 것이 더 쉽다고 말씀하셨습니다. 이 말을 들은 제자들 사이에 충격이 흘렀습니다. 「그렇다면 누가 구원을 얻을 수 있으리이까」라고 말하는 것입니다. 「천국」, 이 단어는, 헬라어로 (바실레이아 톤 우라논: 바실레이아는 통치권을 의미하며 우라논은 공간과 장소를 의미한다) 이라고 되어 있으며, 직역하면 「하늘의 왕국」이라는 의미가 됩니다. 저자인 마태에 따르면 「하늘의 왕국에 들어갈 수 있는 것」, 「영원한 생명을 얻는 것」, 「완전해지는 것」, 「구원받는 것」이 모든 말들이 모두 같은 의미로 회자되고 있습니다. 오늘은 우리가 어떻게 구원받을 수 있는지, 어떻게 하늘의 왕국에 들어갈 수 있는지를 염두에 두면서 마태복음 19장의 말씀에서 은혜를 얻고자 합니다. 16,17절을 보시겠습니다.

(1) 거룩한 율법

16 어떤 사람이 주께 와서 이르되 선생님이여 내가 무슨 선한 일을 하여야 영생을 얻으리이까

17 예수께서 이르시되 어찌하여 선한 일을 내게 묻느냐 선한 이는 오직 한 분이시니라 네가 생명에 들어 가려면 계명들을 지키라

어떤 사람이 주께 왔습니다. 이 남자는 22절을 보면 알겠지만, 재물이 많은 부유한 사람이었습니다. 그는 예수님께 논쟁을 걸고 있는 것이 아니라 소박하고, 순수한 생각에서 예수님께 묻고 있다고 생각됩니다. 「무슨 선한 일을 하여야 영생을 얻으리이까」라는 이 질문은, 우리 그리스도인들이 들으면, 조금 위화감이 드는 질문입니다. 왜냐하면 구원은 행함에 의한 것이 아니라 믿음에 의한 것이기 때문입니다. 예수님은 이 질문에 뭐라고 대답하셨을까요? 「어찌하여 선한 일을 내게 묻느냐 선한 이는 오직 한 분이시니라 네가 생명에 들어 가려면 계명들을 지키라」고 말씀하셨습니다. 여기서 우리가 주목하고 싶은 것은 예수님은 「구원은 행함에 의한 것이 아니라 믿음에 의한 것이다」라고 단적으로 말씀하지 않으셨다는 것입니다. 「선한 일」이라는 말을 들어 올려 가지고 그 의미를 탐구하고 있습니다. 아마도 이 청년은 「선한 일」이라는 말을 상대적인 의미로 사용하고 있는데, 예수님은 「선한 일」이라는 말을 하나님의 속성으로서 절대적인 의미로 파악하고 계실 것입니다. 그리고 구약성경 안에는, 선의 절대적인 기준으로, 다음과 같은 말씀이 제시되어 있습니다. 레위기 18장 5절의 말씀을 읽겠습니다.

너희는 내 규례와 법도를 지키라 사람이 이를 행하면 그로 말미암아 살리라 나는 여호와이니라

이 레위기 말씀에서 알 수 있듯이, 하나님의 거룩한 율법이야말로, 영원한 생명을 얻기 위한 기준이며, 선의 절대적인 기준임을 알 수 있습니다. 그리고 율법을 조금이라도 위반한다면, 그것이야말로 죄인 것입니다. 예수님은 거기에서 결코 벗어나지 않으셨습니다. 마태복음 19장으로 돌아가서 18,19절을 보시겠습니다. 예수님은 청년에게, 십계명의 제 5계명에서 제 9계명까지의 교훈을 말씀하셨습니다. 18,19절입니다.

18 이르되 어느 계명이오니이까 예수께서 이르시되 살인하지 말라, 간음하지 말라, 도둑질하지 말라, 거짓 증언 하지 말라,

19 네 부모를 공경하라, 네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라 하신 것이니라

여러분도 잘 알고 계시듯이, 십계명이란 사랑의 가르침이며, 모세가 시내 산에서 주 하나님으로부터 두 장의 돌판으로 받은 것입니다. 첫 번째 돌판에는, 요약하자면 하나님을 사랑하는 것이 적혀 있었고, 두 번째 돌판에는 이웃을 자신처럼 사랑하는 것이 적혀 있었습니다. 그래서 예수님은, 순서대로는 아니지만, 십계명의 두 번째 돌판의 내용을 말하시고, 이웃사랑에 대해 말씀하시고, 그리고 마지막으로 레위기 19장 18절 말씀에 따라 두 번째 돌판의 요약인 「네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라」라고 합쳐서 말씀하고 계시는 것입니다. 이를 들은 청년은, 20절에서 「이 모든 것을 내가 지키었사온대 아직도 무엇이 부족하니이까」라고 대답했습니다. 청년의 이 말에는 거짓이 없다고 생각합니다. 어떤 수준으로 율법을 지킬것인가를 떠나, 유대인들에게 율법이란 어릴 때부터 외우고, 십계명을 지키는 것은 기본 중의 기본이었기 때문입니다. 그것이 사랑의 동기는 아니었더라도, 문자에 사로잡혀 율법주의처럼 지키고 있었더라도 말입니다. 하물며 그는 영원한 생명을 얻고 싶다고 진지하게 바라고 있었으니, 다른 사람들보다 더 열심히, 율법주의가 되었을 것이 틀림없습니다. 사도 바울도, 구원받기 전의 자신에 대해 「율법의 의로는 흠이 없는 자라(빌립보서 3장 6절)」라고 회상하고 있습니다. 그러나 그것은 어디까지나 율법주의이며, 율법을 문자적으로, 상대적으로 지키고 있는 것에 지나지 않습니다. 만약 거룩한 율법을, 사랑의 기준으로부터 온전히 지키려 한다면, 그것은 역시 무리한 이야기이며, 율법이라는 거울 앞에 우리는 자신의 죄가 드러날 것입니다. 사랑의 기준을 지키려 한다면, 행위에 의해서는, 어떤 사람도 의롭지 못하다는 고백으로 인도되는 것입니다.

(2) 구원으로의 초대

이제 예수님은 이 청년에게 다음과 같이 대답하셨습니다. 21절을 보시겠습니다.

예수께서 이르시되 네가 온전하고자 할진대 가서 네 소유를 팔아 가난한 자들에게 주라 그리하면 하늘에서 보화가 네게 있으리라 그리고 와서 나를 따르라 하시니

율법 중에는 「네 소유를 팔아라」는 규칙은 없습니다. 왜 예수님은, 여기서 이렇게 말씀하셨을까요? 아마도 청년의, 하나님과 재물의 두 주인을 섬기려고 하는, 그 숨은 죄를 파헤치기 위해서라고 생각됩니다.

또 21절 안에는 많은 명령이 내려졌는데, 이 명령들은 마지막 「나를 따르라」는 말과 관련이 있다고 생각됩니다. 즉 예수님은 여기서 부유한 청년에게 「나를 따르라」며 구원의 초대를 말씀하시는 것입니다. 「네가 온전하고자 할진대」라는 말은 「만약 구원받고 싶다면」, 「만약 영원한 생명을 얻고 싶다면」, 「만약 하늘의 왕국에 들어가고 싶다면」로 바꿔 말할 수 있습니다. 그러나 부유한 청년은 구원의 초대에 어린아이처럼 응답하지 못하고 슬퍼하며 떠나갔습니다.

그러자 예수님은「다시 너희에게 말하노니 낙타가 바늘귀로 들어가는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 쉬우니라」라고 말씀하셨습니다. 당시, 경제적으로 풍요롭다는 것은 하나님으로부터의 축복의 표시였고, 그 부로 인해 가난한 사람들에게 베풀 수 있었기 때문에, 제자들의 눈에 이 청년이야말로 천국에 들어가기에 마땅한 사람으로 비치고 있었던 것입니다. 그런데 팔레스타인 지역에서 가장 거대한 동물로 알려진, 그 낙타가 바늘구멍을 통과하는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 아주 쉽다고 말씀하십니다. 제자들은 얼굴이 창백해졌을 것입니다. 「그렇다면 누가 구원을 얻을 수 있으리이까」라는 놀라움의 말이 나오고 말았습니다. 구원을 받는다는 것, 하늘의 왕국에 들어갈 수 있다는 것, 온전해진다는 것은 그만큼 어렵다는 것입니다. 예수님은 다른 곳에서 다음과 같이 말씀하십니다. 마태복음 5장 48절입니다.

그러므로 하늘에 계신 너희 아버지의 온전하심과 같이 너희도 온전하라

온전해진다는 것은, 거룩한 율법에 비춰도, 얼룩도 흠도 일절 찾아볼 수 없다는 뜻입니다. 단순하게 생각하면, 허물이 많은 우리가 하늘의 아버지처럼 온전해 진다는 것은, 도저히 생각할 수가 없습니다. 예를 들어 우리는 예수님을 믿고 매주 교회에서 예배를 드리고 있는데, 우리 믿음의 행위를 돌아본다면 어떨까요? 온전함에서는 멀리 떨어져 있는 것처럼 보입니다. 그러나 예수님은 「온전해지고 싶다면」이라고 우리를 초대하시는 것입니다. 이는 하늘의 왕국의 「이미」와 「아직」이라는 교리와 관련이 있습니다. already와 not yet의 교리입니다. 우리는 이 교리를 잘 이해하고 이 땅위에서 하늘을 우러러보면서, 위의 것을 구하며 믿음으로 걸어가야 합니다.

(3) 이미와 아직

「이미」와 「아직」의 교리는, 아기의 출생에 비유됩니다. 가장 먼저 아기의 출생은, 병원에서 임신했다는 것이 선고된 후 시작됩니다. 작은 생명이 어머니의 몸 속에 깃들었습니다. 그러나 그 생명은 어머니의 태 속에 숨겨져 있어, 아기의 얼굴이나 몸매를 아직 볼 수 없습니다. 10개월이라는 기간을 거쳐, 그리고 어머니의 산고를 통해서, 비로소 아기는 이 세상에 태어납니다. 「이미」와 「아직」의 교리도 이와 비슷합니다. 예수님의 초림으로 하늘의 왕국은 이미 도래했습니다. 우리는 예수님을 믿음으로써 구원받았습니다. 예수 그리스도의 속죄는 완전하며, 거기에 아무것도 덧붙일 필요는 없습니다. 우리의 생명은, 예수 그리스도 안에서 이미 숨쉬고 있는 것입니다. 그러나 동시에, 하늘의 왕국은 아직 완성되지 못했고, 성화라는 과정을 거쳐, 이윽고 그날, 예수님이 재림하실 때, 비로소 눈에 보이는 형태로 나타납니다. 즉, 하늘의 왕국이란 한편으로 현재적이며, 이미 영적으로 이 세상에 도래한 것입니다. 동시에 하늘의 왕국이란 미래적이고, 아직 구체적으로 보이는 형태로는 완성되지 않았다는 것입니다. 그러므로, 우리는 이 세상에서 있어서, 하나님의 나라와 하나님의 의를 계속해서 구해야 합니다(마태복음 6장 33절). 우리는 믿음으로 구원받았다고 말하면서, 동시에 자신의 구원을 이루어야 합니다. 빌립보서 2장 12절을 읽겠습니다.

그러므로 나의 사랑하는 자들아 너희가 나 있을 때뿐 아니라 더욱 지금 나 없을 때에도 항상 복종하여 두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라

하늘의 왕국이란, 하나님께서 자신의 선하신 뜻에 따라, 은혜로 주시는 위로부터의 선물이지만, 그러나 다른 한편으로 사람이 노력하고 찾고 하나님을 섬김으로써 취득되어야 하는 「상」이자 「하늘에 쌓아가는 보물」입니다. 하나님의 축복은 「선물」인 동시에, 하늘에서 분배되는 「상」인 「하늘에 쌓인 보물」이라는 것입니다. 보통, 우리는 무상으로 받는 선물이라는 점을 강조받지만, 성경에는 동시에 상이라는 것도 적혀 있습니다. 예를 들면 마태복음 16장 27절을 보시기 바랍니다.

인자가 아버지의 영광으로 그 천사들과 함께 오리니 그 때에 각 사람이 행한 대로 갚으리라

「선물」과 「상」, 이 둘은 서로 모순된 것으로 보입니다. 하지만 성경은 그렇게 주장하는 것입니다. 아마도, 구원받는 것, 혹은 영원한 생명을 받는 것, 온전히 되는 것, 하늘의 왕국에 들어 가는 것, 이 축복들은 모든 사람에게 동일하지만, 그 영광에 있어서, 그 빛의 차이가 있다는 것이라고 생각합니다. 밤에, 밤하늘을 둘러보면 아주 반짝반짝 빛나는 별도 있고, 희미하게 보이는 별도 있습니다. 그렇게 영광과 빛에 있어서 차이가 있다는 것이라고 생각합니다. 이 세상에서, 우리가 성령에 의해 좋은 일을 할 수 있다면, 하늘에 보물이 쌓이고 이윽고 그 날에 각 사람이 행한대로 모든 일에 따라 보상을 받는 것입니다. 그러나 그 보답이 30배, 60배, 100배로 너무 크기 때문에 그 배당이 너무 크기 때문에 그것은 역시 선물이라고 해도 좋지 않을까요.

예수님은 제자들을 부르실 때 「나를 따르라」고 말씀하셨습니다. 예수님의 발걸음을 뒤 따른다는 것은, 예수님께서 걸어가신 고난의 길을 따라간다는 것입니다. 따라서 예수님의 제자인 우리 교회는, 예수님의 십자가의 속죄로 이미 의롭게 여겨졌고, 이미 거룩해졌고(히브리서 10장 10절) 이미 온전하게 되었지만 (히브리서 10장 14절), 그럼에도 불구하고, 우리 교회는 반드시 믿음으로 끝까지 인내해야 하도록 인도되는 것입니다. 시련이라는 용광로 속에서, 날마다 정련되고, 옛사람을 날마다 벗어 던지고, 하나님의 형상으로 만들어진 새사람을 입어야 하며, 하나님을 경외하고, 자기 자신의 구원을 이루도록 인도받는 것입니다. 바꿔 말하자면, 그리스도인의 이 세상 믿음생활은, 반드시 노력해야 한다는 것입니다. 이 세상에서의 교회의 영위는, 승리한 교회로서의 영위가 아니라, 싸우는 교회로서의 영위인 것입니다.

결론

오늘의 설교제목을 「누가 구원을 얻을 수 있으리이까」라고 했습니다. 이것은 물음표가 붙은 의문문이 아니라, 깜짝 마크가 붙은 놀라움의 말입니다. 조금 헷갈리게 되어 버렸습니다. 그만큼 구원받기는 어렵다는 것입니다.

우리 그리스도인의 하루하루의 걸음은, 결코 넓은 문으로 들어가는 편한 길이 아닙니다. 반드시 과거의 자신의 생애와 결별하면서, 옛자신에 대해 죽고 자신의 십자가를 지고 예수님의 발걸음을 따라, 좁은 문으로 들어가는 가시밭길입니다. 예수・그리스도가 재림하실 때까지, 그리스도인의 믿음의 영위는, 하늘을 바라보게 될 것입니다. 거기에 그들에게 분배되어야 할 보물이 있고, 거기에 그들의 생명이신 예수 그리스도께서 하나님의 오른쪽에 앉아 계시며, 거기에 그들의 시민권이 등록되어 있고, 거기에 영원한 사업이 구비되어 있기 때문입니다. 그러나 이윽고 우리가 하늘의 왕국에 들어갈 때, 그 영광과 빛이 너무나 엄청나기 때문에, 그 보답이 너무나 크기 때문에, 진정으로 구원은 하나님의 일방적인 선물이며 하나님의 역사임을 고백하고 놀란 나머지 「하나님은 무엇이든 할 수 있다」라고 고백하는 자가 되는 것입니다.

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