2020年08月02日「種蒔きと刈り取り」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
3実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
4各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
5めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
6御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
7思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~10節

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【序】

 いよいよガラテヤの信徒への手紙も終わりに近づいてまいりました。本日お読みしていただいた箇所は、パウロのガラテヤの人々に対する二つの勧めと、その勧めについての理由付けでございます。第一に1~5節において「他人の重荷を負い合うように」という勧めが書かれています。第二に6節において「御言葉を教える人を支援するように」という勧めが書かれています。そして、これらの善行の動機づけとして、この世での善行が天に積まれる報いであるからと説明しています。つまり7~10節に書かれているように、自然界に見られる種蒔きと刈り取りという現象を通して、人は蒔いたものをそのまま刈り取るように、各々この世において、その行ないに応じて報いが与えられるということです。

【1】. 互いに重荷を負い合いなさい

 私たちは依然として肉と霊の戦いの中に置かれています。肉の思いが強い時には傲慢になり、独善的な考えになり、霊の思いが強い時には遜って隣人に仕えることが出来るようになるのではと思います。しかし、全ての人は、基本的に自分の権利を主張しながら、「自分を認めてほしい」、「自分を高く評価してほしい」というふうに考えますので、霊の思いに満たされ、聖霊に支配され続けることはとても難しいことだと思います。6:1~2節を御覧ください。第一番目の善き行いの勧めです。

“兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。”

1節の「正しい道に立ち帰らせなさい」という言葉の意味は、骨折してしまった骨を、ギブスを付けて再びくっつくように「回復させる」という意味です。即ち回復するまで治療とリハビリを施し、待たなければなりません。粘り強い介護とリハビリが要求されるのです。或いは、漁師が漁を終えて、網の破れた箇所を「繕ろう、修繕する」という意味でも使われます。網の繕いは次の漁に備えるために、不可欠のことであり、やはり根気と忍耐が要求されます。ですから、1節の、ガラテヤの人々の誰かが、不注意に陥った罪というのが、一体どのような罪なのかはよく分かりませんが、共同体にまさに、そのような破れが起こった時、ある人が弱さの中にあって、挫けてしまい、まさに折れかけてしまった時に「兄弟たち、あなた方の出番ですよ!」とパウロは言っているのです。なぜなら、共同体の中の破れ口、共同体の弱さ、共同体の折れてしまった部分こそ、キリストの力と栄光が現れる時であり、つまり、キリスト者を通して働く愛によって、律法の要求が確立され、全うされるからです。

そのような時にこそ、あなた方は柔和な心で、忍耐と寛容と、優しい配慮によって、罪に陥っている兄弟を正しい道に立ち帰らせ、健全な状態に回復するように、兄弟がつぶれてしまいそうなその重荷を、「互いに担い合いなさい」と勧めているのです。因みに、この重荷という言葉は、5節の重荷とは異なる単語が使われていまして、2節は本当に重たい荷物ですが、5節は単なる荷物という意味です。ですから5節というのは信者が誰でも負うことになる、あの、「私の軛は負いやすい」とイエス様が言われた「キリストの軛」のことではと思われますが、2節の重荷とは、決して一人では担えない重たい荷なのです。

ところで、聖書の中には、「互いに~をしなさい」という勧めが繰り返し出てまいります。互いに愛し合いなさい、互いに励まし合いなさい、互いに仕えなさい、互いに教えなさい、互いに赦し合いなさい、互いの為に祈りなさい、等々です。一人が苦しむなら共同体が苦しみ、一人が悲しむなら共同体が悲しみ、一人が喜ぶなら共同体が喜び、皆で重荷を担い合いましょうということです。そのように何度も勧められる理由というのは、私たち教会は、「愛」を結びの帯びとしながら、キリストの体という一つの有機体として建て上げられているからだと思います。結び目である愛がきちんと機能する時に、初めてこの有機体である神の国が立ち上がっていくということでしょう。実際、私たちの神さまに対する愛というのは、兄弟愛によって測られるのであり、隣人をどのように愛するのかが神への愛のバロメーターとなります。同じように、教会において聖徒が互いに交わる時に、初めて、私たちはキリストとの交わりを享受することができるのです(エフェ1:22-23)。ですから、「互いに」という言葉はとても重要な言葉であります。この「互いに」は、今度の東部中会の75周年記念宣言のテーマでもありますので、特にこの言葉を心に留めていきたいと思います。つづいて3~4節を御覧ください。

【2】. 御言葉を教える人を支援しなさい

 “実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。”

もし、私たちが、自分自身の過去を冷静に振り返って見た時に、惨めで恥ずかしい姿が浮き彫りにされるのです。穴があったら入りたいくらいの弱い自分、罪を犯さないではいられない自分を認めざるを得ないのです。ですから私たち自身も、人から、そして神さまから赦して頂こうとして、自ら進んで隣人の罪を赦すことができるようになるのです。一呼吸おいて、イエス様の十字架を少し黙想するなら、罪に陥ったり、失敗した兄弟に対して、裁きたくなる、その思いが徐々に消えてなくなってしまいます。

ところが、もし、キリストの十字架を目の前に置いても、なお自分自身を誇り、罪を犯している人を簡単に裁いてしまい、「この人と私とは一切関係ありません!」としてしまうのは、実は盲目な律法学者やファリサイ人の態度と同じであります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」という祈りを捧げながら、重荷を担い合うことを一切しないで、心の内には十字架に対する感謝の気持ちはなく、自分を義とする虚栄とうぬぼれと傲慢で満たされているのです。私たちはこのような思いをすべて十字架に打ち付けて、自己否定をしなければなりません。続いて6節を御覧ください。

“御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。”

教会は兄弟姉妹が互いに教え合い、互いに学び合う場所ですが、やはり御言葉のために専心して携わる人が必要だと思います。御言葉を教える働きとその準備とは、片手間で出来るものではなく、この世で、一般の仕事をしながら同時にそれをすることは不可能だからです。パウロが6節において、突然このように書いているのは、パウロが去った後、もしかしたらガラテヤの教会が、御言葉に仕える教師・伝道者たちに十分な経済的支援をしておらず、御言葉の奉仕者がしかるべく、顧みられていなかったという事実があったのかもしれません。もし御言葉の奉仕者を軽んじているということであるならば、それは、即ち神の御言葉を聴くことを重んじていない現われであります。そのようなことは教会にとって、深刻な結果をもたらすことでしょう。御言葉の働きに専念する者が、きちんと報酬を受けるべきことは、聖書の他の箇所にも示されています。例えば1コリント9:11と14節を御覧ください。

“わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。”

“同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。”

この点、私たち改革派教会は、御言葉に仕える教師・伝道者たちを本当に大切に保護し、それが教会規定によって制度的にしっかりと守らていると思います。

【3】. 種蒔きと刈り取り

 しかし、他人の重荷を互いに負い合うこと、御言葉を教える人を支援すること、これらの善き業は、簡単にできることではありません。パウロは善き業をたゆまず続けさせるために、その動機づけとして、さらに言葉を続けます。7~9節を御覧ください。

“思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。”

蒔いた通りに刈り取るというメッセージは、古代から一般的に言われていた概念でもありました。旧約聖書にもそういった思想は、いたるところに出て来ますし、他のユダヤ文献にも見られます。しかし、聖書において「刈り取り、ハーベスト」という言葉が使われた時に、特に注意すべき点は、それが必ず世の「終わりの日」、「キリストの再臨の日」を指しているという事実です。当然のことですが、農夫が収穫を望むならば、自分の畑に種を蒔かなければなりませんね。その上、農夫がどのような種を蒔くかによってどのような収穫を収めることができるのかが、あらかじめ決定される訳です。まさか、自分で麦の種を蒔いておいて、トウモロコシやトマトの収穫を期待する農夫はいません。これと同じことが、終末においても当てはまるのです。私たちが良い種を植えれば良い実を収穫することができるのであり、さらに多く種を蒔くなら、さらに多くの収穫が期待されるのです。このように、イエス様の恵みは決して自然法を破棄することはないということです。1コリント7:20~23を御覧ください。

“おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。”

ここで言われているのは、奴隷としてキリストの軛をかけられ神の子と召されたのであれば、奴隷のままで神さまの栄光を現わし、異邦人としてキリストの軛をかけられ神さまの子と召されたのであれば、異邦人のままで神の栄光を現わせばいいということです。律法が福音によって破棄さるのではなく、かえって成就されたように、自然の法則は、恵みによって破棄されるのではなく、むしろその法則の真の意味と秩序が、浮き彫りにされるのです。

もちろん、私たちの善き業とは、キリストによって結実される行いであって、この行いによって救いを得るのではありません。以前の説教でも申し上げたように、私たちの善き行いさえ神の恵みであり、あらかじめ神さまによって備えてくださった良い行いを歩ませていただいているだけで、それをもって神に報いを請求することができるということではありません。それにも関わらず、この世において信仰によってたゆまず善き業を行うキリスト者には、天において恵みによって、その報いが積まれていて、終わりの日に、キリストの再臨の日に、天に積まれた報いの分配に与るのです。それは、この地で涙と共に蒔かれたものが、新しいエルサレムにおいて喜びと共に収穫されるということです。この終わりの日の「刈り取り」に関する御言葉はたくさんございますが、その中でいくつかの御言葉だけ挙げさせていただきます。プリントを御覧ください。ホセア10:12、マタイ16:27、黙示録22:12を御覧ください。

ホセア10:12

“恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。”

マタイ16:27

“人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。”

黙示22:12

“見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。”

人それぞれ、受けることになる報いが異なるように、新しいエルサレムにおける栄光の輝きも、人それぞれ異なってくるのです。救いは全ての信者に等しく与えられますが、将来の栄光の中で、彼らはそれぞれの行いによって区別されるのであります。将来、キリスト者は夜空の星のように輝くことになりますが(ダニエル12:3)、その輝きには、太陽の輝きがあり、月の輝きがあり、星の輝きがあるように(1コリント15:41)、それぞれきらびやかさと栄光において違いがあるのです。それは、この世において信者が各々聖霊によって蒔いたものを、刈り取ることになるということです。キリストの弟子たちがこの世で辱められ、苦難を受け、キリストの苦しみに与るなら、その報いが与えられ、この世で何もかも捨ててイエス様に献身するなら、その報いが与えられ、敵を愛し、慈悲を施し、貧しい者たちの世話をして、祈り、断食し、御言葉を宣べ伝え、そして信仰の兄弟姉妹に仕えるなら、その報いが与えられるのです。

【結論】

 パウロはガラテヤの人々に、教会の中に弱さがある時、教会の中に欠けある時、まさにそのような時にこそ、あなた方が愛によってその破れ口を繕いなさい、折れたその部分を補強し合いなさいということです。もう一つの勧めは、御言葉の奉仕者を支援し、延いては神の御言葉を大切に尊重しなさいということです。たゆまず善を行い、飽きずに励んでいるなら、間もなく主が来られ、実を刈り取ることになります。ですから、私たちは善き種を、善き業を聖霊によって豊かに蒔くべきであります。この誰でも知っている種蒔きと刈り取りの法則は、偉大な法則であり、私たちは決して思い違いをしてはならないのです。

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