2020年07月26日「御霊の実」

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5:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
5:24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
5:25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
5:26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 5章22節~26節

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【序】

 パウロは肉の業のリストを挙げた後、今度は御霊の実についてのリストを挙げています。そのリストとは、慈善のための寄付金や、社会奉仕、伝道、或いは未亡人と孤児の世話などではなく、愛から始まり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制でありました。これらは、一見すると目には見えなくて、分かりづらく、評価するのが難しいために、お互いが一等を目指して競争するような類いのものではありませんでした。偽りの教師たちの教えによって、ガラテヤの人々は自分の行いや、律法の遵守などを誇り、自慢するようになると、恐らく我こそ一等になろうとして、教会の中で互いに挑み合ったり、ねたみ合ったり、足を引っ張り合うような状況が生じてきたのではないかと推測されます。しかし、そのような中にあってパウロは、弱肉強食の共同体に建て上げられるのではなく、御霊が支配する共同体に建て上げられていくようにと勧めています。そしてパウロは、既にキリストの所有とされているガラテヤの兄弟姉妹において、きっと御霊の実が結ばれて来るであろうことを確信しながら、御霊に支配されるよう励ましています。この御霊の実とは愛の現れであり、愛は互いの罪を覆い、さらに言えば彼らの究極的な願いであった律法さえも全うするのであります。ガラテヤ書5:22~23節を御覧ください。

【1】. 肉の行いと御霊の実の違い

 “これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。”

背景として、5:19~21節で「肉の業、肉の行い」について15個の項目をリストアップした後に、パウロは22節から「御霊の実」についてリストアップしています。もし、ガラテヤ書を初めて読む人にとっては、その次に来るのは「御霊の業、御霊の行い」のリストアップであると予想するかもしれません。ところがパウロは「業、行い」ではなく「実」という言葉を用いています。これは一体なぜでしょうか。「業、行い」というギリシャ語のエルゴンἔργον の複数形は、これまでガラテヤ書の講解説教において、既に何度も出て来ましたので、パウロがここで、「業:エルゴン」を用いないで「実」という言葉を用いた理由について、もしかしたらお気づきになった方もおられるかもしれません。このエルゴンの複数形が使用されている箇所を調べてみれば分かりますが、常に信仰とは正反対の表現として使用されています。ガラテヤ書を少し戻りまして2:16を御覧ください。ここでは複数形エルゴンが三度も出て来ます。

“けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。”

また、3:2、3:5、3:10にもそれぞれ一回づつ使用されていますが、3:2を調べてみましょう。

“あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。”

パウロが「業、行い」ではなく「実」という言葉を用いた意味について、少しずつ分かってきましたね。「実」というのは木の本性によって受動的に結ばれるものであります。その木が悪い木であるなら、悪い実が結ばれ、善い木であるなら善い実が結ばれるのです。また実という単語が、複数形ではなく単数形になっていることに注目しなければなりません。9つの御霊の実が列挙されていますが、冒頭にあげられている愛が、それに続く8つ全てを含有しているものと考えられるのであります。たとえで表現するなら、扇風機の羽を想像してみてください。最近の扇風機は羽が多くなり、9枚羽の扇風機もございます。この扇風機の羽が御霊の実であり、中心部分が神様だといたしますと、扇風機のボタンを押してみてください。羽が一枚だけ動くのではなく、9枚が同時に回りますね。これと同じように、御霊の実というのも、愛が結ばれているが寛容は全くなかったり、親切は結ばれているが節制は全くなかったというようなことはありえないということです。もちろん人によって、その現れに個人差はあると思います。たとえば、以前、まだ当教会の先々代の牧師であられる、岩永先生ご夫妻がおられた時に、ある方は毎週欠かさずに岩永先生ご夫妻の送り迎えしてくださいました。とても誠実さがあふれていました。また、ある方はいつも教会のお一人お一人のことを覚え、とりなしてお祈りしてくださいます。これは、平和を作り出す働きであり、平和の実が豊かに結ばれています。それから、柔和とは、他者への配慮ですとか、優しさのことでございます。ある方は求道者に対し優しく声をかけたり、兄弟姉妹に対して思いやりを持って接してくださいます。柔和の実が豊かに結ばれています。このように実の結ばれ方には、多少、個人差があるかもしれませんが、それらは善なる神様の品性の現れであるということです。そして何より大切なことは、この御霊の実は、私たちの能動的な努力によって生み出される業ではなく、聖霊によって受動的に与えられるものであり、上からの贈り物であるということです。

【2】. 神の属性

 マルコによる福音書10:18には“神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。”とありますが、私たちは、私たちの人生において御霊の実が豊かに結ばれるために、善い木であられるキリストに結合され、キリストに留まらなければなりません。神さまは私たちの心に御言葉の種を撒いて下さり、それが芽生え、やがて実が結ばれるようにしてくださいます。ですから、キリスト者が神様に委ね、明け渡し、御言葉に従順に歩んで行くときに、このような実が結ばれていくのです。私たちは自分自身によっては善行を生み出すことが出来ませんが、ただこのお方に接ぎ木される時に、私たちを通して神様の善き業が結ばれるのです。このようなことを言いますと、ノンクリスチャンでも、慈善のための寄付金や、社会奉仕、寛大な行いや、立派な行いをするではないかと、異議を唱える人もいるかもしれません。しかし、神様お一人の他に善いお方はいないので、人は、神さまを抜きにして、どのような立派な行いや、称賛されるべき業をしたとしても、それは完全なものではなく、必ず他人の目を欺く偽善がそこに隠されているのです。

神の善とは、英語では「goodness」ですが、ヘブライ語ではヘセッドという言葉でありまして、旧約聖書では「慈しみ」と翻訳されます。詩編36:5節を御覧下さい。

“主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。”

また、詩編145:9節を御覧下さい。

“主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。”

そして詩編136編は直接お開きいただけますでしょうか。(旧p976)慈しみのオンパレードです。ですから、アウグスティヌスは神の属性として、第一に善を指摘し「神は絶対的な善なるお方である」と語りました。神さまがこのように完全な善であられ、人間は意識しても意識しなくても、最高善である神を追及し、望もうが、望まなかろうが、自然に最高善である神を渇望するのです。神は、善の源泉であって、自ら全ての事に充足されたお方であり、何も欠けるところがありません。そのために被造物は専ら神の中においてのみ安息を得ることができるのであります。

従って、神さまを抜きにして、いくら人間が生まれつき持っている道徳的価値観の中で善を追求したとしても、或いは社会的な共生の精神に則って、或いは他者への愛や思いやりの精神に則って善を追求したとしても、善に到達することはできないということです。ところが、大変不思議なことですが、神さまの中でそれを追求する時に、御霊の実として、愛という現れによって、善に到達することとなるのです。ガラテヤ書5:23節の後半には「これらを禁じる掟はありません。」とありますように、御霊によって結ばれる愛の実は、律法に全くかなっていて、律法を満たすものなので、律法はこれに何の文句もつけることが出来ないということです。ガラテヤ書5:24~25を御覧ください。

【3】. キリスト・イエスの所有となった人たち

 “キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。“

この24~25節は5:16節の反復のように見えます。私たちキリスト者は、依然として罪を持っているために肉と霊の葛藤の中に置かれています。即ち教会とは罪人の集まりであり、弱さを持ち、欠けのある共同体であって、それ故に、この世にあっては、今なお「戦う教会」なのであります。しかしそれにもかかわらず、信仰によって歩む私たちは、24節でパウロが言っているように「キリスト・イエスのものとなった人たち」「キリストの所有となった者」と断言することができるのです。つまり、目には見えませんがキリストに結び合わされ、キリストとの交わりの中に生かされている人々であるということです。ですからキリスト者は肉や欲情や欲望もろとも、イエス様の十字架と共に釘付けにいたしました。今や、霊の導きに従って前進していくことが出来るのです。

25節の翻訳で「霊の導きに従って生きているなら」と仮定の翻訳がなされていますが、ここでは仮定の意味はないようです。新しく出た聖書協会共同訳を見ると、“私たちは霊によって生きているのですから、”霊の導きに従って前進しましょうと、訂正されています。「前進していきましょう」という言葉は、5:16の「歩みなさい」とは、また異なる単語が用いられていまして、5:16は、普通に、「生きること」、「生きる営み」を指していますが、25節の「前進しなさい」という言葉は、軍隊で使われる用語であり、「横に列を組んで、足並みをそろえる」という意味です。私たちの指揮官であられる聖霊の導きに聞き従い、聖霊の息遣いに合わせながら、祈りによって一歩一歩足並みをそろえるように進んで行きましょうということです。私たちは、昨年から今年にかけてサムエル記上を学んできましたが、ダビデの歩みこそ、まさに聖霊と足並みをそろえて歩んだ人と言えるでしょう。ダビデの軍隊がペリシテ軍のアキシュ王と共にアフェクに駐留して、いよいよイスラエルに攻め上ろうとしていた時に、神は恵みによってダビデの軍隊を、ペリシテ軍から取り除けられました。ところがツィクラグに帰って来たとき、町は襲撃されていて、全てが略奪され、焼き払われた後でありました。アマレク人に襲撃されたのです。この惨状を前にして民は泣く力も失せてしまいました。さらに周りからはダビデを恨む声も聞こえてきました。この時ダビデの取った行動とはどのようなものだったでしょうか。すぐに祭司アビアタルに命じ「エフォド」を持ってこさせました。祈りによって神さまの御心を伺ったのです。すると神は託宣によって略奪隊を“追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。”と約束してくださいました。途中、ベソル川のほとりにおいて疲労困憊した200人の兵士が、川を渡ることが出来ずに脱落していきましたが、ダビデは忍耐を持って、神さまの約束の言葉を信じ待ち望みました。すると、略奪隊から落ちこぼれた一人のエジプト人を見つけ、このエジプト人が敵アマレク人の居場所を案内してくれることになったのです。夜、アマレク人が油断している中でダビデは一気に攻め入り、徹底的に敵を討ち、奪われた全てのものと、それ以上のおびただしい戦利品を奪い取りました。そして再びベソル川に戻ってくると、脱落した200人の兵士が荷物の見張りをしながら待っていました。ダビデは、彼らを労り、戦いに出た者にも、脱落して荷物の番をしていた者にも戦利品を等しく分け合いました。ここにダビデを通して神の愛が結ばれているのを確認できます。この時、ダビデが言った言葉に注目しなければなりません。サムエル記上30:23を御覧ください。

しかし、ダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。

ダビデは、この戦利品が自分たちの働きの功労ではなく、神の賜物であることを十分に理解していました。ですから、当然この神からの贈り物である戦利品を、神さまが望まれるよう分配しなければならないことを知っていたのです。神の慈しみによって、ダビデから愛の業が結ばれたことが大変よくわかります。さらにダビデは、このおびただしい戦利品の残りを、近隣のユダの13の町々の長老に気前よく分け与えました。やはりダビデの言葉を調べてみましょう。サムエル記上30:26を御覧ください。

ダビデはツィクラグに帰ると、友人であるユダの長老たちに戦利品の中から贈り物をして、「これがあなたたちへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です」と言った。ダビデが戦ったのは主の戦いであって、単に主が戦われる戦いに、自分たちも参加させていただいただけであり、そして主の敵からの戦利品を代表して受け取ったに過ぎないということをよく理解していました。ですから、ユダの13の町々の民にもその戦利品を分かち合いながら、今後とも主の戦いに共に励んで行きましょうと力づけていると理解することができるのです。サムエル記上30章にはダビデの憐みの業がキラキラと光っていますが、それはまさに聖霊によって結ばれた実であったと言えるでしょう。私たちは神の恵みがなければ、聖霊によらなければ、善き業を一切することが出来ない罪びとであることをもう一度覚えつつ、誰も自分の行いを誇ることが出来ず、ただ十字架の主を誇ることができるだけだということを、もう一度覚えたいと思います。

【結論】

 キリストに接ぎ木され、キリストの所有とされた私たちは、弱さや欠けを持ちつつも、信仰によって聖霊の導きに従って前進していくことができます。それは全ての結果を神さまの主権と摂理に委ねるようにする歩みであり、必然的に結果よりもプロセスを重視する人生となっていきます。このプロセスの中で忍耐を持って、希望を持って、信仰によって神さまの約束を待ち望まなければなりません。時が来ると、善いお方であり、慈しみ深いお方である神さまは、私たちが自分の力では決して結ぶことのできないような御霊の実を、必ず、不思議な形で、私たちに結ぶようにしてくださるお方です。この神の恵みを信じながら、いよいよ信仰の歩みに導かれてまいりましょう。

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