義とされた者の希望
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章1節~12節
5:1この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
5:2ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
5:7あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
5:8このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
5:9わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
5:10あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
5:11兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
5:12あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 5章1節~12節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
イエス・キリストは私たちに自由を得させるために、律法の支配から贖い出してくださいました。それなのに、ガラテヤの人々は以前の奴隷生活に、自ら戻ろうとしています。何と愚かなことかと思うかもしれません。しかし、よくよく考えてみるなら、私たちの中にも、そのような古い自分に戻っていこうとする力が絶えず働いていることに気づかされます。というのは、もしかしたら信仰によって生きるより、律法の下に生きていた時の方が、私たちにとって分かりやすく、楽な生き方であることもあり得るからです。どういうことかというと、例えば、小学校の時、何かを達成した時に、ご褒美として「大変よくできました」というハンコを押してもらったり、シールをもらったり経験などありますでしょうか。それが全部埋まると、皆の前で表彰されたりします。表彰されたことを、クラスの中で鼻高々に自慢し、このようにして自尊心が満たされるのです。ですから、特に熱心で、まじめな人ほど陥りやすいのが律法主義であると言えるのではないでしょうか。律法主義の特徴とは、神さまの力ではなく、自分の力により頼んで達成しようとする救いであるために、常に自分の内側を自己点検して、他人との比較の中で優越感と劣等感の中で生きるようになってしまいます。何より危険なことは、次第に、神さまにより頼み神さまを仰ぎ見ることがなくなってしまうということです。私自身の信仰生活を振り返ってみても、常に律法主義に方向に傾いていく自分を発見するのです。家庭における子供の信仰教育において、実際、私自身が最大の律法主義者であり、信仰によって家族を治めるのではなく「ちゃんとしなさい!」「きちんとやりなさい!」と小さなことについて、小言を言いながら、いつも妻を裁き、子どもを裁いている姿に気づかされます。そこでは、自分でも気づかないうちに、イエス様の恵みを除外し、殺伐とした雰囲気を作ってしまうのです。
【1】. 律法主義という誘惑
ガラテヤの信徒への手紙が書かれた当時、ユダヤ主義者たちがこの律法主義を一生懸命に説くそれなりの理由がありました。初代教会の早い時期において、主に教会を迫害したのはローマ帝国ではなく、律法に熱心なユダヤ人たちでした。ユダヤ人がなぜ教会を迫害するのかと言えば、キリスト者の語る福音が、彼らにとって、とても受け入れられない内容だったからです。裸で木に掛けられて、呪われた者として死んだナザレ人イエスが、神の子であるなどというのは、考えられないほどの神聖冒瀆でした。また、キリスト者は無割礼の異邦人や罪びと親しく交わりを持ちながら、律法の食事規定などをないがしろにするような態度は、ユダヤ人とって決して許されるものではありませんでした。従って、キリスト教に改宗したユダヤ主義者たちは、まさにバリバリのユダヤ人とキリスト者のはざまに置かれていました。彼らは、同胞のユダヤ教徒から危害を加えられたり、迫害されないようにするための妥協策を講じました。福音をちょっとだけ変更させて、異邦人の回心者に対して、イエス様を信じ、そして、割礼を受けてこそ救いが完成すると説き勧めました。これは、表面的に見るならユダヤ教に改宗させているようにも解釈できるので、ユダヤ教徒を喜ばせて、しかもガラテヤの異邦人たちにとっても人気があり、分かりやすい教えだったのです。しかしパウロは、これから割礼を受けてみようか、としているガラテヤ人に対し、信仰によって義とされることと、律法遵守によって義とされることの二つは、決して共存する事はないということを自分自身の経験から踏まえて断言し、救いのために割礼を受けることの無意味さついて、厳粛に注意しています。ガラテヤ書5:2~4節を御覧ください。
“ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。”
パウロは、もし、ユダヤ主義者たちが勧めるように、あなた方が割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たないと断言しています。つまり、もし、救いのために割礼を受けようとするなら、キリストの御業は大変ありがたいけれど、それだけでは不十分であると言っていることと変わらないということです。結局、自分はいかにして自分の救いを完成させるのかと、自分の行いにばかり関心を向けるようになっていき、いつの間にかキリストの御業を軽んじ、過小評価してしまい、キリストのみに依り頼むことが出来なくなってしまうのです。救いの為に割礼を受けるということは、正しい信仰にちょっと何かを付け足す程度ではありません。それはキリストの恵みの支配と相反する道であり、神さまが備えられた祝福の道とは全く異なる道なのです。実は、キリスト教を除くすべての宗教が本質的には、律法主義(自力救済)であると言っても過言ではないでしょう。
【2】. 義の希望
それではキリストにより頼む信仰の立場とは、一体どのようなものかということですが、一言で「希望を持って待つ」ということでしょう。今回のコロナ禍の救済措置の一環として国会において10万円の給付が決定されました。自治体によって実際に給付される迄には、タイムラグが発生し、その間、希望を持って待たなければなりません。しかし、この待っている間に、私たちは10万円給付という国会の決議を否定して、自ら内職やアルバイトを始め、自分の力で10万円を稼ごうとするのは全く愚かな話で、こんな人はどこにもいませんね。或いは、水に落ちてしまい、溺れかけている状況にあって、人命救助員がすぐに助けに来てくれた状況を思い浮かべてみてください。心安らかに救助員に全てを委ねるなら、間もなく安全に助けられることでしょう。しかし、相変わらず、恐怖の中で、真っ青になり手足をじたばたしながら自分の力でなんとかしようともがくなら、救助員がいくら努力してもそのまま溺死してしまうこともあり得るのです。律法主義者が主張するように、救いにおいて自分の力で何とかしようすることは、どれほど愚かなことなのかが分かるのです。ですから、希望を持って、まだ見ぬ自分たちの真の姿を待たなければなりません。5~6節をご覧ください。
“わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。”
ここで、私たちの希望とは、決して私たちの妄想に基づいたものであったり、或いは安易な楽観主義的な観測に基づいたものではありません。ここが大変重要でありますが、信じる者を既に「義としてくださった」イエス様の救いの御業に基づいた希望であり、聖霊によって確かに保証されている事柄に対する希望です。ですから、聖書の言う希望と、私たち使用する楽観主義的な観測とを注意深く区別しなければなりません。聖書には、キリストが信者たちの中に内住して生きておられ、そして、信者たちがキリストの中に入れられているという、神秘的な結合をいろいろな表現によって説明しています。キリストはぶどうの木であり、信者は枝です。キリストは頭であり、信者は体です。キリストは夫であり信者は花嫁です。キリストは土台の石であり信者は建物です。私たちはキリストの中へ入れられ、キリストは私たちの中で生きておられるのです。この神秘的な結合によって、キリストの御業によって獲得されたすべての有益が、私たちのものとなるのです。私たち教会は、キリストと一つだからです。キリストは私たちを罪と死の支配から解放してくださり、奴隷から子の身分としてくださり、キリストの服を着させて下さり、天の栄光の御座に共に座らせてくださり、キリストと共に審判する席に座らせてくださるのです。それだけではなく、キリスト者を嘲り、辱め、高慢に振る舞い、迫害したことを、あたかも主ご自身に対してしたこととして見做されるのです。マタイによる福音書25:40を御覧ください。
“そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』”
キリストと一つとされること、これは、どれほど特権的な立場であり、栄光に富んだ身分でしょうか。ですから、私たちはキリストの中に生かされていること、そして、キリストが私たちの中に聖霊を通して内住してくださっていること、このことをはっきりと意識しながら、喜んで希望と共に、まだ見ぬ約束の完全な成就を待ち続けなければならないのです。ヘブライ人の手紙11:1~3には、信仰こそ、実体であり、本質であると書かれています。新しく出た聖書協会共同訳でお読みさせていただきます。本日の週報に挟まれているチラシを御覧ください。
“信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。昔の人たちは信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。”
私たちが信仰によって、しっかりとキリストに結ばれているなら、自然に愛の実が結ばれてきます。信仰が根っこのようなものであり、愛は結ばれてくる実であるというふうに理解してください。福音書の中で、イエス様は多くの罪を赦された者は、多く愛することができるとおっしゃいました。自分自身の罪の完全な赦しを、深いところで信じるなら、その信仰は愛によって表現されるのです。なぜなら、キリストにある信仰と、愛は切っても切り離すことができない関係にあるからです。愛の業によって私たちの信仰が証明していくのであります。一方で、もし、律法主義に陥る時に、そこから結ばれて来る実というのは、人々を裁いたり、人々を判断する思い、或いは自分を誇る高慢であります。ガラテヤの人々から、喜びと感謝がなくなってしまったのは、まさに律法主義の教えが蔓延したからであったからでしょう。ガラテヤ書に戻りまして5:7~9を御覧ください。
【3】. 十字架のつまずき
“あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。”
パウロは信仰者の天のエルサレムへの旅路を、しばしばマラソンの競争に例えています。信仰者はイエス・キリストから目を離さないようにして、忍耐を持って走り切り、天の都へ入らなければなりません。しかし、サタンの勢力が虎視眈々と狙い、それを妨害しようとします。つまり、割礼を受けるように律法主義の種をまきながら、イエス様により頼むのではなく、自分自身の力により頼むように誘惑するのです。そしてよく走っていたガラテヤの人々を走路から脱落するようにさせるのです。パウロは続けて言います。11節を御覧ください。
“兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。”
パウロは、キリスト者になる前までは、バリバリのファリサイ派のユダヤ人として、熱心に異邦人に対し、割礼と律法を説いていました。しかし、救われた後、今もなお、ユダヤ主義者たちのように割礼を説くということは、考えられないことです。パウロ自身がひどい迫害を今なお、受け続けているその理由を一度考えてみてほしいということです。使徒言行録の、パウロの第一回宣教旅行において小アジアをめぐった時に、まさに山火事が拡がるようにユダヤ人の間に騒動が起こり、迫害を受けました。もし、パウロが割礼を宣べ伝えたのなら、迫害を受けることはなかったでしょう。なぜならそれは人々の反感を買うことのない、好感の持たれるメッセージだからです。しかし十字架の福音はそうではありません。聞く人々につまずきをもたらします。なぜなら、それは、自分の力では自分を救うことができないとはっきり告げるからです。ただキリストのみが、あなたを救う。その救いを受けるために、あの裸で木に掛けられて、呪われた者として死んだあの方の前にひれ伏さなければならない。これは、人間にとって聞きたくない教えなのです。なぜ、あのような人に救ってくださいと願わなければならないのか、私はそんなに惨めで落ちぶれた人間なのか…このような訳で、人々は十字架の福音につまずき、福音を伝える人を拒絶し、嘲り、辱めながら迫害するのです。パウロ自身真っ直ぐに福音を宣べ伝えるが故に、迫害は止むことがありませんでした。このことから、私たちは、福音を伝える時に、全ての人々が喜ぶであろうという甘い期待を持ってはならないという結論に導かれます。むしろ福音は、つまずきのメッセージであって、私たちが一たび伝道するならば、必ず迫害を受けることになります。このことをしっかり留める時に、私たちは人々に受け入れられることを、過度に求めすぎないようにと、戒められるのです。
【結論】
私たちの天の都への旅路は、私たちのマラソンの競争は、聖霊によって導かれ、訓練される過程でありますが、その過程において、必ず苦難と困難が伴うということです。特に、伝道する時に、嘲られ、辱められ、迫害に遭うことになります。しかし私たちが覚えるべきこととして、それは、私たちと共におられるイエスさまが私たちと結合してくださり、私たちに一杯の水を飲ませた者は、イエス様に水を飲ませたことであり、私たちを恥ずかしめ、嘲り、迫害したことはまさに、イエス様に対してされた仕打ちであると聖書は語っていることです。そこに私たちは大きな慰めを受けるのです。私たちの信じていること、聖書の約束に従ってかたく握りしめていること、イエス・キリストが獲得された全ての有益が私たちのものになったということ、永遠の命、罪の赦し、子とされる身分、これらすべてのものが私たちのものになった、そのことこそ真実であり、聖書の教えている真っすぐな福音であります。そのことに堅く立って私たちの信仰を愛の業によって証明していくような歩みにさせていただきましょう。