2020年07月05日「アブラハムの二人の子」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:21わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。
4:22アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。
4:23ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。
4:24これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。
4:25このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
4:26他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。
4:27なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」
4:28ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。
4:29けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。
4:30しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
4:31要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 4章21節~31節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 パウロはガラテヤの人々に対し、奴隷の子イシュマエルと自由の子イサクの寓喩(アレゴリー)を用いながら、ガラテヤの人々が神の永遠の約束の中に自分たちの姿を見出すように試みています。ガラテヤの兄弟たちが約束の子であり、既に自由とされた民であることを自覚させ、神さまと交わりを持つために割礼など不必要であることを納得させようとしています。しかし、パウロの寓喩的解釈は、モーセが創世記を書いた時点でそのように解釈されるよう念頭において書かれた訳では、もちろんありませんでした。ですから釈義の原則に則って、創世記を書いた記録者の意向と、かけ離れた解釈をするのは「けしからん」と、ある神学者たちは考えます。確かに聖書は、たくさんの記録者、筆記者によって書かれた書物ではありますが、それにも関わらず統一性があり、その背後に、本当の著者であられるお一人の神様がおられるということを私たちは悟らされるのです。ですから、聖書を書いた歴史的記録者はたくさんいますが、その記事の背後に隠された意味があって、それは真の著者である神様が意図された内容であると言えるのです。パウロの寓喩的な旧約聖書の解釈も、同じように聖霊によって導かれたものであると言えるのです。

【1】. キリスト者の自由

 初めに、「自由」という言葉に着目しますと、これはいつも注意喚起している通り、キリスト者の自由とは、自分のやりたいようにする「放縦主義」になることや、無律法主義になることではありません。私たちキリスト者は「神を愛し、隣人を愛せよ」というキリストの律法を愛しています。それでは、キリスト者が得た自由とは一体何か、ということになりますが、それは、確かに律法からの解放であり、もはや律法は、キリスト者を告訴したり、死を宣告することはできないという意味であります。しかし、ここにはさらに霊的な意味が隠されていて、「自由」とは真理によって与えられる自由のことであり、この自由は私たちの想像を遥かに超越した自由であるということです。イエス様はファリサイ派の人々にこのことを教えるために次のように語りました。ヨハネ8:31~35節を御覧ください。

“イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。”

ここでファリサイ派の人々は、自分たちを自由であると自覚していました。しかしイエス様から見るには、彼らは自由ではなく罪の奴隷だったのです。ファリサイ派に限らず、人は全て罪の奴隷であると言うことが出来るでしょう。イエス様によってもたらされた自由とは、一次的には律法の儀式から解放され、恵みに下に入れられることでありますが、もっと深い霊的な自由を意味し、それはイエス様に贖い出され、真理であるキリストの内に入れられることにより、終わりの日に、肉体という幕屋を脱ぎ捨て、天からの住まいによって享受することになる、まだ目に見ない「自由」であり、罪も傷もなく悲しみもない完全な自由であります。この世において、私たちはそのほんの前味しか味わうことができないのです。ガラテヤ書の本文に戻りまして4:22~23節を御覧ください。

【2】. 二つの契約

“アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。”

ユダヤ人とユダヤ主義者たちは、自分たちこそアブラハムの子孫であり、約束の子孫であるということを大変誇りに思っていましたが、パウロは、彼らに対して律法にはそのようには書かれていないと警告し、アブラハムには、イシュマエルとイサクの二人の子がいたことを想起させています。二人とも当然割礼を受けていました。イシュマエルは奴隷の女から生まれた子であり、イサクは自由な身の女から生まれた子でありますが、23節には特に、イサクのことを、神の「約束によって」、つまり、神の永遠の予定によって生まれて来たと、補足説明されています。つまり、パウロが注意を促しているのは、アブラハムの血統と割礼によって、無条件でアブラハムの子孫になるのではなく、あなた方は果たして、どちらの母から生まれて来たのか、一体どのようにして生まれて来たのか、その点こそ重要なのだと言っているのです。パウロは、さらに説明を続け、サラとハガルの二人の母を二つの契約、つまり「律法」と「福音」であると語ります。24~26節を御覧ください。

“これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。”

26節に「天のエルサレム」という言葉が出て来まいりますね。これは地上のエルサレムというのが古いイスラエルの集合場所であったように、天のエルサレムというのは、新しいイスラエル(つまり教会)の集合場所であり、つまり、時間を超越した信仰の全家族、見えない教会と考えられます。見える教会とは地上における現在の地域教会でありますが、見えない教会とは天にある教会であり、見える教会の実体であるということです。このように考えてください。旧約時代のイスラエルが新約時代の教会のひな型でしたが、新約時代の教会とは、天にある見えない教会のひな型であるということです。創世記を見ますと、神さまはアブラハムに対し契約を結ばれ、約束の子を与え子孫を繁栄させ、そして約束の地を嗣業として与えると言われました。しかし実際には、その約束の実現において大きな障害がありました。妻のサラが不妊の女であったからです。そこで、アブラハムはハガルという女奴隷との間に子供をもうけることにしました。どうやら、神さまの約束がいくら待っても実現しそうにないために、アブラハムとサラは肉的な思いから、自然的な方法によって子をもうけ、その子を通して神さまの約束が実現してくださるようにと願いました。創世記16:1~2を御覧ください。

“アブラムの妻サライには、子どもが生まれなかった。彼女には、その名をハガルと言うエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った。「主は私に子どもを授けてくださいません。どうか私の女奴隷のところに入ってください。そうすれば私は彼女によって子どもを持つことができるかもしれません。」アブラムはサライの願いを聞き入れた。”

次の17章を見ますとアブラハムもサラと同じような考えを持っていたことが分かります。17:17~19を御覧ください。

“アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。”

神様は自然的な方法ではなく、奇跡的な方法によって、贈り物であるかのように妻サラの胎に子どもを与えられました。実にアブラハムが100歳、サラが90歳の時の子供でしたので、明らかに神様が介入された奇跡としか考えられませんでした。イシュマエルは、肉の思いによって、自然的な方法によって生まれてきましたが、イサクは、神の永遠の約束によって、奇跡的な方法によって生まれてきたのです。このことからパウロは、「アブラハムの子孫」というのは、自然的な生まれ方によって生まれてきた、血統のつながりのある人々ではないと言っているのです。それは、むしろ奴隷の子、イシュマエルの子孫であって、それでは「アブラハムの子孫」とは誰か、それは、神の永遠の約束に従って、聖霊によって奇跡的に再生した者たちのことであり、人は悔い改めを通して聖霊によって再び生まれ変わらなければ、信仰の子孫、アブラハムの系譜に入ることは出来ないということです。ですからイシュマエルとイサクの違いというのは、どちらが従順で、どちらが高慢であるという問題ではありません。どちらが信心深く、どちらが不敬虔であるという問題ではありません。本人たちの選択ではなく、本人たちの身分にかかっているのであり、もっと言えば、神の予定、神の約束、にかかっているということです。申命記7:7~8には次のような御言葉がございます。

“主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。”

ですから、イシュマエルではなく、イサクがアブラハムの子孫となり得たのは、ただ神の約束、神の選びによるものでした。

【3】. 奇跡的に再生したガラテヤの人々こそ約束の子孫である

 次にパウロは預言者イザヤの御言葉(54:1)を引用します。イザヤはバビロン捕囚によって不幸な状態にあるイスラエルを、不妊の女であり、夫に捨てられたイスラエルと形容し、彼らに喜びの声を上げて叫びなさいと命じます。なぜなら、イスラエルに恵みと約束によって、子供たちが授けられるからと言います。ガラテヤ書4:27~28節を御覧ください。

“なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。”

預言者イザヤが、「多くの子を産む」というのは、「あらゆる国民、種族、民族が、神ご自身の下に集められるだろう」という意味でありまして、イザヤ自身、神の召しが異邦人に及ぶことを聖霊によって知らされていたようです。パウロはこの預言が、まさにガラテヤの人々を通して成就したとでも言うように、すぐさま28節で「あなた方が約束の子です」と言います。ここで、注意すべきことは、この喜ばしい預言の成就は、不妊であり、夫に捨てられたイスラエルが何か律法をきちんと遵守したからとか、何か準備したからその成就を見ることが出来たというのではありません。この預言の成就は、一方的な神の約束によるのです。この時パウロの言葉によって、ガラテヤの人々はどれほど慰めを受けたことでしょうか。そしてパウロはさらに当時、奴隷の子と、自由の子の間に起こった出来事が同じように、今、ユダヤ主義者とガラテヤの人々の間で繰り広げられていると付け加えます。29~30節を御覧ください。

“けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。”

イサクが腹違いの兄、イシュマエルから受けた嘲り、辱め、高慢な態度による悔しさは、イサクの子孫であるガラテヤの人々が、イシュマエルの子孫であるユダヤ主義者たち、およびユダヤ人から受ける迫害であるとパウロは言っています。そして、全く同じ様に、イサクが彼の父アブラハムから受けた優遇は、ガラテヤの人々が神から期待し、待ち望まなければならない優遇であると言うのです。従って、約束の子であるガラテヤの人々が、惑わされたり、彼らのような生き方や割礼に憧れを抱いてしまう事もあるかもしれませんが、教会の地位を簒奪し、あたかも指導者のように振る舞っている、偽りの教師たちを決して憧れることなく、彼らがやがて刈り取ることになる結果を、忍耐強く待ちなさいと、パウロは勧めているのであります。これを私たちに適用するなら、キリスト者は必ずイシュマエルのように人々によって迫害を受けることになります。自分が長男であることに思い上がり、月足らずで生まれたキリスト者に対する高慢と、嘲りは、最後には天の嗣業を継ぐに値しない、追い出されるハガル人であることが明らかにされるのです。ですから、キリスト者はそのような迫害を受けても忍耐強く待たなければならないのです。

【結論】. 真の教会は信仰によって天のエルサレムを仰ぎ見る群れである

 パウロの説得によって、ガラテヤの人々は自分たちが既に置かれている立場というものが、キリストにあって、どれほど優遇された特権的な立場なのか、そして栄光に富んだ身分なのか、を理解するようになり深い慰めと信仰の励ましを受けました。奴隷の子であるイシュマエルにとっての母とは、神殿礼拝に象徴される今のエルサレムに当たりますが、自由の子イサクにとっての母とは、使徒たちの信仰の土台の上に建てられた天上にある、見えない教会、即ち天のエルサレムであるということです。この天のエルサレムこそ、つまり、天にある見えない教会こそ、まだ見ぬ自分たちの本当の姿であります。これは、霊の目によって、信仰の目によって見るしかありません。キリスト者の歩みとは、まだ見ぬ自分たちの真の姿である、天のエルサレムを仰ぎながら恋い慕う巡礼の旅であり、キリストにあって確かに与えられている特権と、自由と、栄光の姿を信じる歩みなのです。

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