2020年06月21日「養子とされて、自由とされて」

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
3:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
3:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
3:29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
4:1つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、
4:2父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。
4:3同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
4:4しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
4:5それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
4:6あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
4:7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~4章7節

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【序】

 アブラハムの契約から430年後に与えられた律法の役割とは、一体何なのかということで、前回「養育係」という言葉によって説明がなされました。律法というのはキリストへ導く養育係であって、誰もこの期間を飛び越えては、キリストへ導かれることはないということです。ユダヤ人であれ、さらには異邦人であれ、人は誰でも、聖なる律法によって、或いは良心の光によって照らされる時に、自分自身の罪深さを知り、全的に堕落している悲惨な姿を思い知らされるのです。従って神の救いの御手は、まさに貧しい者、病んでいる者、徴税人、罪びとに対し、差し伸べられるのであり、もし自分には医者は必要ない、自分には救いなど必要ないと考えるなら、キリストを正しく迎え入れることは出来ないのです。自分の義を誇る者や、金持ちが救われるのが難しいのはそのためであります。本日の箇所では、キリストによってもたらされる救いとは、歴史の中でユダヤの一民族を超えて、人種に関係なく異邦人にも及ぶ救いであり、そして律法の束縛から自由にする救いであると説明されてますが、そのような救済史の出来事は、ガラテヤのキリスト者のお一人お一人の生涯においても、同じように適用されますとパウロは説明しています。

全体的に見ますと、パウロが呼びかける対称として、「あなた方」と「私たち」という言葉が交互に使われていて、解釈をする上で注意が必要となります。つまり、パウロが「あなた方」と「私たち」と言った時に、誰を念頭においているのかをはっきりさせなければなりませんが、「あなた方」というのは、この手紙の受取人であるガラテヤの人々と考えて間違いないでしょう。それでは、「私たち」が指している内容ですが、これは神学者によっていろいろ意見が分かれるところですが、パウロ自身を含めたすべてのキリスト者であり、特に一次的にはユダヤ人キリスト者を念頭に置いているのだろうと思われます。それでは3:26~28を御覧ください。

【1】. 信仰を通して、キリストにあって

 “あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。”

26節において、「キリスト・イエスに結ばれて神の子である」と訳されていますが、大変素晴らしい訳だと思います。直訳するなら、「キリスト・イエスの中(内)で」とか、「キリスト・イエスにあって」となりますが、あなた方、ガラテヤの人々が神の子とされているのは、イエス・キリストの中にあなた方が存在しているからであり、あなた方はキリストの身体として、頭なるイエス様に結合されているから神の子だと言っているのです。そもそも、御父なる神から生まれたお方とは、御子イエス・キリストお一人だけであって、人間は被造物であり、決して神の子ではあり得ません。しかしキリストの中にあって、キリストに結合されて神の子なのです。服は、普通その人の身分の象徴と考えられていました。また、当時、ローマにおいて成人式を迎える日に、特に、古い服を脱いで、新しい服(トーガ)に着替えることをしましたので、パウロは、あなた方も成人となって、神の子の身分を現わすキリストの服に着替えたんですよ!と説明していると思われます。ここで、少し余談ですが、突然27節で「洗礼」という言葉が出てまいります。キリストを信じた後に授ける洗礼とは、新約時代にイエス様によって与えられた礼典であります。そもそも礼典というのは、何かといいますと、「目に見える御言葉」とも呼ばれて、神の御言葉の中にある約束のしるしであり、約束に対する証印であります。つまり、神様の恵みの御言葉を見える形で眺めさせるものであり、それによって御言葉に対する信仰を支えるためのものです。旧約時代に割礼が与えられたのも、やはり礼典として与えられました。アブラハムが信仰によって義とされて、神と契約を結び、神の一方的な恵みの契約の中に入れられていることを思い起こさせて、信じさせるために与えられたのです。ユダヤ人が主張するように、割礼によって義とされるためではありません。創世記を見ますと、15:6に信仰義認の御言葉がございまして、15:18で契約を結ばれた上で、次のように語られています。17:11と13節を御覧ください。

11“包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。”

13“あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。”

このように割礼というのは実は、旧約における礼典であったということです。そしてこの旧約の礼典が、新約においては洗礼に代わっただけであって、その意味するところは同じです。ですから洗礼という行為によって救われるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのですが、それでは信じた後に授けられる洗礼とは何かと言うと、キリストによって与えられる「罪の赦し」と「聖め」を、目に見えるような形で表し、さらに言えば、水の中に一度入り、出てくることによって、キリストと共に十字架によって死に、義とされて復活し、イエス様との交わりに入れられていることを現わしているのであって、キリストにある信仰を支え強めることを目的としています。ガラテヤの人々もこの洗礼を受けて、キリストの義の衣を着せられたのです。続いて3:28~29節を御覧ください。

【2】. キリストにあって一つであり、自由とされて

 “そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。”

当時、多くのユダヤ人の男性は、「主よ、わたしが異邦人でもなく、奴隷や女に生まれなかったことを感謝します」という祈りによって一日を始めていました。社会的に当たり前のように男女差別と人種差別ははびこっていました。しかしパウロは、キリストにあるなら、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分もなく、男も女もないと語り、これらすべての障壁が完全に除去されて、キリストにあって一つであると言うのです。考えてみますと、救いの根拠がただ、キリストのみにあるのなら、主にあって私たちが持っている優越感と劣等感など、すべてが除去されるのかもしれません。

例えば、もし私たちが未信者に対して、信仰を持っている自分の方が優れているというような優越感を少しでも持ったとしたなら、それは、救いがただキリストだけではなく、「自分自身の信心深さ」であったり、「自分の性格の素直さ」などに救いの根拠を置いているということになります。

或いは、もし、他宗教の人々に対し、仏教徒であれ、イスラム教徒であれ、彼らに対して軽蔑感を持ったり、知らず知らずに彼らを卑下したりするなら、やはり、私たちは、自分には何か、神さまによって選ばれるに足る要素があるに違いないと密かに考えたり、自分の先祖が正しいことを行ったからに違いないという風になってしまうのです。救いが、ただキリストのみによるのなら、そのことを本当に信じるなら、誰も自分を誇り、そして相手を裁いたり、相手を差別することは出来なくなるのです。キリスト教が愛の宗教であると呼ばれるのは、私たちの救いとは、何の働きもなく、無償で与えられるためであり、私たちの内には、一切誇るものがなく、ただ恵みから始まったからではないでしょうか。しかし、もし救いが恵みではなく、行いよって始められるなら、そして、もし、ガラテヤの人々が救いのために割礼を受けようとするなら、必ず自分の義を誇るようになり、自分の民族を誇るようになり、自分の性別を誇るようになり、他人を裁いて、差別と、不一致という障壁を生み出してしまうのです。ですからキリスト教が全ての障壁を除去し、普遍的な宗教となったのは、救いが、「ただキリストによる」のであって、無償で与えられるものであり、「恵みによって」始められたからなのです。救いの為に割礼を受けようとする行為は、不信仰であり、それはまさに自由とされたのに関わらず、再び奴隷の状態に戻ろうとした、荒れ野におけるモーセに反抗したイスラエルの行為なのです。ですから、パウロは口酸っぱく割礼によって、ユダヤ人の血統によって、アブラハムの子孫になるのではなく、キリストの内にある、信仰の人々こそ、アブラハムの子孫であり、約束の相続人であるということを語っているのです。

【3】. 自由とされて、養子とされて。

 パウロはこのキリストにある救いについて、とりわけ自由を強調しています。キリスト者に与えられる自由とはやがて、私たちが肉体という幕屋を脱ぎ捨て、天からの住まいによって享受する自由の前味であると言えるでしょう。4:1~4節を御覧ください。

“つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。”

イスラエルの場合12~13歳で成人式を迎えますが、ローマの場合は成人年齢が具体的に特定されておらず、大体25歳前後くらいまでは、後見人や管理人による厳しい訓練の下に置かれて、その間は、遺産は相続されず、奴隷生活同様の生活を強いられました。パウロはこのようなローマの習慣を、イスラエルの救済史に当てはめて説明しています。つまり、イスラエルは旧約時代という永い期間を、ローマの訓練期間に例えて、養育係とか管理人の下に、奴隷として束縛されていたと説明します。3節の「世を支配する諸霊に」という言葉の意味が、大変難しいのですが、直訳しますと「世の基本原理の下で」となりまして、恐らくパウロは一次的には、時が満ちてメシアが遣わされる前までは、イスラエルが律法の支配下にいたということを言っていると思われます。律法によって罪に定められ、律法によって自分自身の汚れと悲惨さと、罪の代価を思い知らされた民に対し、時が満ちて、メシアが遣わされ、未成年であり、奴隷のような状態から「成人として」、「自由人として」、「相続人として」、解放してくださったと言うのです。引き続き5節を御覧ください。

“それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるため(養子縁組)でした。”

ここで、「神の子となさるため」とありますが、ギリシャ語を見ると「養子縁組をするために」という意味です。しかし、だからと言って「養子縁組」を決して侮ることはできません。なぜならローマにおいて、養子縁組によって、孤児や奴隷を、法的に子供とする場合、養子だからと言って、決して実子と比べて一段低い位置に置かれるわけではなかったからです。当時、養子と実子は、差別なく全く同じ権利に与りました。ですから、キリストにある私たちも同じように、イエス様と同等の天の嗣業の相続者とするために養子縁組されたのです。子としての身分を受けて、キリストが御父から相続する全てのものに対し、共同相続人としての権利を持つようにされたのです。このイスラエルの救済史の出来事をガラテヤの人々にも適用しています。6~7節を御覧ください。

“あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。”

4節のキリストを「お遣わしになった」という動詞と6節の聖霊を「送ってくださった」という動詞は全く同じ動詞でありまして、即ち、イスラエルの救済史において律法の下の置かれていた民にメシアが派遣されて、律法の支配から贖い出されたように、同じようにガラテヤの人々に対しては聖霊が遣わされました。それは、ガラテヤの異邦人たちが、厳しい後見人や管理人による監督の中で、絶望し、全的に堕落している姿をまざまざと見せられた中で、信仰がやって来たのです。キリストを信じない者にとっては、「世を支配する諸霊」や「律法」は、依然として、厳格な養育係であり、絶望をもたらす管理人でありますが、キリストにある者は、未成年であったのを、成人として解放してくださり、孤児であったのを、養子として相続人に立ててくださったのです。さらに、実際にガラテヤの人々に聖霊が遣わされた証拠として、彼らの祈りを挙げています。「アッバ」というアラム語の言葉は、子どもが父を呼び求めるような親密感のある言葉でありまして「パパ!」とか「お父ちゃん!」という意味です。イエス様が祈られる時も、全く同じように「アッバ」と叫ばれました。実は、この声を叫んでいるのはガラテヤの人々の当人たちではなく、彼らの内に内住しておられる聖霊であるとパウロは指摘しているのです。キリスト者の祈りにおいて、この御父に対する叫びこそ、聖霊の内住の証拠であり、信者がキリストの内にある者とされている証拠であると言っているのです。

【結論】

救いとは、一言で言えば、キリストの内にあることであります。私たちはアダムの子孫であり、全き罪びととして生まれました。しかし、時が満ちて、信仰が現れ、キリストの十字架と復活によって新しく生まれ変わり、律法の下にあるものから、恵みの下にあるものとされました。もはや絶望におとしいれ、罪に定められることはなく、自由な者とされたのです。孤児であったのが、養子として相続人に立ててくださったのです。ですから、キリストの所有とされたことを信じる時、いつもの景色が全く違って見えてくるのです。普段、歩いていた同じ道が、キラキラと輝き、花々が自分に微笑みかけているような錯覚を覚えるのです。普段目にしていた、律法が蜜のように甘く感じられ、呪われたような悲惨な世界が、喜びと感謝に満ち溢れた新しい世界に見えて来るのです。なぜなら、キリストが獲得されたものが、すべて共同相続人である私たちのものになったからです。

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