律法と福音
- 日付
- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章15節~25節
3:15兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。
3:16ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
3:17わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。
3:18相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
3:19では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
3:20仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
3:21それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
3:23信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 3章15節~25節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
パウロは「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう」ということで「遺言」(ギリシャ語でディアテーケー)という言葉を使っています。ギリシャ語のディアテーケーといえば、普通、遺言を意味しますが、この言葉の元になるヘブル語の「ベリートゥ」という言葉が「契約」という意味でありますから、ディアテーケーを聖書では契約とも訳されたりします。なぜヘブル語の「契約」という言葉の翻訳に「遺言」を意味するディアテーケーが当てられたのかと言うと、神の契約というのが、遺言の性格を持っていて、神と人間の間の契約において、人間の側の行いによって、神が契約を果たされるということではなく、約束によって、恵みによって果たされるからであります。聖書を英語で表記する時にOld TestamentとNew Testamentと表記しますが、Testamentとは「遺言」という意味ですね。しかし、私たちはこれを「契約」と訳し、Old Testamentとは「古い契約」即ち旧約聖書であります。律法と言い換えることもできるかもしれません。New Testamentは「新しい契約」即ち新約聖書であります。福音と言い換えることができるかもしれません。つまり旧・新訳聖書とは、旧い、新しいの違いはありますが、神様と民の間の、「契約の本」であるということです。そして、聖書は救いについて書かれている本ですが、その救いとはまさに契約という形を通して与えられているということです。本日の箇所においてこの契約(ディアテーケー)という言葉が二回、15節と17節に出てまいりますが、この契約がアブラハムとアブラハムの子孫に与えられたと書かれています。それでは、主題1として、誰がアブラハムの子孫なのかという観点から見て行きたいと思います。3:15節を御覧ください。
【1】. 誰が約束されたアブラハムの子孫なのか
兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。
遺言書とは一度有効になったら書き換えることは出来ません。遺言書は遺言者当人によって書き換えることは出来ますが、しかし実際相続が発生したとして、財産贈与を行い、贈与税を支払ったなら、誰もその内容を無効にしたり、その内容に追加したりすることは出来ないということです。アブラハム契約もそれと全く同じであります。一旦、批准された契約は、それを無効にしたり、それに何かを付け加えることは出来ません。続いて16節を御覧ください。
“ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。”
この箇所は、神様がアブラハムに対し契約が与えられた記事である創世記12:7とか13:15の引用ですが、そこで「子孫」つまり「種」という言葉が単数形になっていることにパウロは注目しています。ところでユダヤ人のパウロが、ヘブル語において「種」が単数で表記されたとしても、その意味合いとしては集合名詞である「子孫」を意味するということを知らなかったということではありません。実際パウロは3:29では、この単数形の「子孫」という言葉を、「子孫たち」という意味合いで使っているからです。しかし、もっと深い意味で理解するなら、パウロは、この「子孫」という言葉がイエス・キリストを現わしていると主張しているのです。ユダヤ人たちの理解ではアブラハムの子孫とは、まさにアブラハムの血統を受け継ぎ、きちんと割礼を施している自分たちであると自負していましたが、パウロはそのことに真っ向から否定しているのです。約束されたアブラハムの子孫とは、イエス・キリストであって、アブラハムとアブラハムの子孫に与えられた約束、即ち「子孫繁栄」と「約束の地を与える」という領土に関する約束が、どのように成就されたのかと言いますと、実際にアブラハムに約束の子イサクが与えられ、アブラハムとイサクとヤコブが族長となってイスラエル民族が形成され、カナンの地に入植することが許されました。そのことが旧約聖書に書かれています。しかし、もっと深い霊的な意味において、アブラハムの子孫であるイエス・キリストにおいて約束が完全に成就されたということです。聖霊によって新しく生まれる霊の子孫が天の星の数のように増し加えられ、天の御国をイエス・キリストと、そしてキリストの中にある人々に相続させたということです。そのことが新約聖書に書かれています。続いて17~18節を御覧ください。
“わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。”
モーセがシナイ山において律法を授けられる430年前に、つまり4世紀以上も前に、神様はアブラハムと契約を結んでくださいましたが、その約束の中身を勝手に変えてしまい、最初は、相続の恵みを「約束によって、恵みによって与えますよ」ということだったのが、いつの間にか、相続の恵みを「律法という要求を満たすことによって与えますよ」と、中身を掏り替えられるようなことは、決してありません!と言っています。遺言に書き留められた相続は、イエス・キリストにおいて完全に成就され、そしてキリストの中にある信仰の人々に対し、約束によって、恵みによって与えられるのです。恐らくユダヤ主義者たちにとってパウロのこの律法解釈に、驚かされたことでしょう。何しろ彼らは、自分たちの父祖アブラハムは十の功績を立てたが故に、義とされたと信じ込んでいたからです(ラビ・アビンAbinとラビ・アハAhaなどのAmoraim[演説家たち]によれば)。それでは一体彼らが大切にしてきた律法とは一体何なのか、ということになります。
【2】. 律法とは福音の影である_モーセはキリストの影であり、真の仲介者はイエスキリストである
結論から言いますと、律法とは福音の影であり、不完全な福音であると言えるでしょう。そして同じように仲介者モーセとは仲保者イエス・キリストの影であると言えるのではないでしょうか。19~20節を御覧ください。
“では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。”
この20節は、最もあいまいで難しい箇所の一つでありまして、その解釈は学者ごとに異なり、250通りも、300通りも、解釈があると言われています。20節のギリシャ語を直訳しますと、「(モーセという)仲介者は、ただ一人の仲介者ではありません。しかし神はお一人です。」となります。聖書の中で仲介者とか仲保者の称号が与えられているのは、モーセとイエス様の二人だけですが、律法は、仲介者モーセによって与えられました。しかしモーセといえども、罪がありますので神の御顔を見ながら、面と向かって神と交わることは出来ません。つまりモーセは仲保者には違いありませんが、厳密にいうと「完全な仲保者」ではなかったのです。依然として民と同じ側に立っていて、罪びとである自分自身のためにも天使たちを通して律法を受け取る必要があったのです。それでは、キリストはどうでしょうか。キリストはご自身が御言葉そのものであられ、御言葉を石板によって与えられるというより、自らが直接神の御言葉として、神の家を治められます。さらに言えば、キリストは、神と人間との間に、外部からひょこっと、介入する第三者ではなく、イエス様ご自身が神の子であられ、神的な属性を所有しながら、同時に人の子であり、全き人であられるのです。つまり、キリストはご自身の人格において完全な仲保者として神と人間の二つの陣営となっておられるのです。ヨハネによる福音書1:17をお開きください。
“律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。”
従いまして、律法と福音の関係を見るなら次のようになります。律法が完全な義を要求する反面、福音はその義を無償で提供し、律法は行いの功績を通して永遠の命に導く反面、福音は信仰の中で提供された永遠の命から善い行いが喜びと共に発生するようにし、律法は人を罪に定める反面、福音は人を解放し、律法はすべての人に例外なく向かう反面、福音はただ、福音の下に生きる者たちだけに向かうということです。このように律法と福音は、全く正反対のように見えますけれども、律法も福音も神による著作であり、一つであって、律法が神の聖さから出てきており、福音が神の恵みから出てきているという違いはございますが、神の契約の中において一つであるということです。ですから、律法と福音を、一言で説明するなら、律法とは不完全な福音であり、そして福音とは律法の回復であるということです。律法について、パウロは譬えによってさらに話を進めて行きます。ガラテヤ書3:21~22を御覧ください。
【3】. 律法とはキリストが来るまでの養育係である。_律法を通して人は信仰による義へ導かれる。
“それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。”
22節と23節は同じことが繰り返し語られています。また、21節において「律法」という言葉が22節では、神の御言葉である「聖書」という言葉に置き換えられていることに注意してください。聖書は全ての人を、つまり、律法を持っているユダヤ人にはその掟と戒めによって、また律法を持っていない異邦人には心に刻まれた神の法によって、全人類を罪の支配下に閉じ込めました。たとえ異邦人であろうと自然の光の中で、良心の呵責の中で罪の支配に閉じ込められるのです。それは、神の約束がイエス・キリストの信実さによって、信じる人々に与えられるようにするためです。ローマ書2:14~15をお読みしますそのままお聞きください。
“たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。”
ユダヤ人だけでなく、全人類に向かった律法の役割とは、例外なく全人類を「罪の支配下に閉じ込める」ことであり、この点において律法は機能しているのです。そのような律法の働きを「養育係」という言葉で説明されています。3:23~25節を御覧ください。
“信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。”
日本においても中学校に進学するために、小学校の6年間で、基本的な読み書きや計算、道徳や躾などを学びますが、古代ギリシャ・ローマ世界においても、奴隷制度の中で、貴族の家庭において、養育係として奴隷を買い入れ、その奴隷によって自分たちの子どもたちを監視させて、養育を施しました。その養育の期間とは、子どもたちが成長し、自由人になるために、なければならない期間であり、誰もその時を飛び越えて自由人になることは出来ませんでした。これと同じように真理であるイエス様がいきなり啓示されても、理解されないために、養育の期間が必要であり、律法を通して福音の影を啓示し、時が満ちて真理が現れ自由とされるのです。養育期間と自由人がお互いに切っても切れない関係にあるように、やはり律法と福音も、お互いが切っても切れない関係になっています。つまり神がある人に福音を提示され、その人を召されるという形態は、必ず「信仰と悔い改め」という律法から由来したものを通して実現されるのであります。それでは、「信仰と悔い改め」とは、救われるための条件なのかと言うと、信仰と悔い改めさえ、救いの条件ではなく、神の恵みであります。しかし、それにも関わらず福音とは、自分が全くの罪びとであって、「どうか助けてください」と心から願い求めている、心の貧しい者、弱い者、徴税人や罪びとに対して福音が提示されるのであって、自分の行いを誇り、自分の信仰を誇り、自分の義を主張する者には、福音はまったく響かないのです。なぜなら、律法が罪を明らかにし、罪の報いである刑罰と、死と、呪いが明らかにされているのに関わらず、律法に誠実に向き合わず、律法を信じないで、神を偽り者とし、自分は偽善者のように振舞っているからです。福音の中で語られる神は、ご自身の聖なる律法の中で、ご自身を知らせたお方でもあるのです。
【結論】
神の救いは、神さまが約束され、人が信じるという「契約」という形を通して与えられましたが、律法と福音とは、神の契約の中でお互い対立するものではなく、契約の中にあって一つであるということです。なぜなら、律法とは不完全な福音であり、福音の影でありますが、律法とは、時が満ちて真理であるイエス・キリストが福音の中で啓示されるその時まで、罪びとを罪の中に閉じ込め、違反を示し、呪いと神の刑罰を教えて、自分の義を放棄させ、信仰と悔い改めを通して福音が提示されるからであります。キリスト者は確かに律法から自由となりましたが、もうこれ以上律法とは関係がないということではなく、ただ律法が救いの条件としてキリスト者にこれ以上何も要求することがなく、そして罪に定めることもないということです。キリスト者は、内なる人に従って、神の律法を喜び、夜昼これを黙想し、福音と関連しながら教会で宣言されなければならないということです。