わたしたちのために呪いとなって
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- 川栄智章 牧師
- 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章7節~14節
3:7だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
3:8聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。
3:9それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
3:10律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
3:11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
3:12律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
3:13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
3:14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 3章7節~14節
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【序】
ガラテヤの諸教会において聖霊によって始められた数々の不思議と奇跡が、律法の行いによってではなく、一方的な信仰の聞き取りによってもたらされたことをパウロは明らかにした後に、律法の行いにより頼むことの愚かさについてさらに旧約聖書を引用しながら論証していきます。当時、福音は散らされたユダヤ人が建設した会堂において語られ、ガラテヤの人々が慣れ親しんでいたかどうかに関係なく、新約の教会においては、旧約聖書だけがテキストとして与えられていましたので、パウロは旧約聖書を通して論証しています。最初に明らかにしておく点としてパウロは、律法に命じられている道徳的な行いを否定しているのではなく、律法の行いを救いのための功績と考えることを否定していました。律法それ自体は聖なるものであり、善いものですが、「いかなる人であっても、律法によっては義とされない」ということです。この点をめぐり、パウロとユダヤ教の伝統的なラビ的解釈の間に、大きな差がありました。ラビたちの伝統的解釈によれば、イスラエルは異邦人のような罪人ではないし、場合によっては律法を全て守ることも出来るという前提に立っています。日本人が自分たちの先祖や天皇の血統を美化し英雄視するように、ラビたちも自分たちの先祖アブラハムを美化し英雄視していました。ラビたちの誇る父、アブラハムとは、当時まだ律法がなかったにもかかわらず、十種類の試練において功績を立てて(ラビ・アビンAbinとラビ・アハAhaなどのAmoraim[演説家たち]によると)、律法を全て全うしたために義とされたと認識されていました。十種類の功績とは具体的に何を指しているのか、ラビごとに理解が異なりますが、10番目の功績は、「祭壇でイサクを捧げる代わりに雄羊を捧げたこと」として全員一致していました。その偉大な父祖アブラハムと血縁関係にある自分たちは、義人アブラハムのために義とされていると信じて疑わなかったのです。ラビたちには、決して、律法の中に確かに記されている神の恵みの約束について、目が止まることはありませんでした。というより、彼らの目には隠されていたのかもしれません。神は自分たちに律法を通して、どのような行いを命じているのか、そして何を禁じているのか、ということばかりを読み取っていました。それでは、熱心なファリサイ派のユダヤ人であるパウロは、なぜ律法に対するそのような偏見を拭い去ることが出来たのでしょうか。恐らくパウロに臨んだ復活のイエス様がパウロの目を開いて下さり、福音を啓示してくださったために、律法に対する新しい解釈が与えられたと思われます。即ち律法とは、十字架のイエス・キリストを指し示すものであり、単なる行いの規範書ではなく、イエス・キリストを中心とした、神による選びと贖いの物語であって、その選びと贖いはユダヤ民族を超えて、全ての民族に開かれたものであるということを悟ったのです。このような観点から考えるなら、ガラテヤの人々を惑わしてたユダヤ主義的キリスト者とは、イエス様をメシアとして受け入れていますので、「バリバリのユダヤ教徒」ではなく、一応、彼らなりに「律法の行いによっては義とされることは出来ない」ということを告白した人たちであったと言えるでしょう。しかしユダヤ主義者たちは、自分たちには不可能であっても、偉大な父アブラハムには可能であったという自負心を相変わらずに心のどこかに手放すことはなく固く握りしめていました。どうしても自分たちの中にしみ込んだラビ的伝統的な解釈を拭い去ることが出来ませんでした。そのために、自分たちは律法をすべて守り行うことは出来ないけれど、アブラハムの功績にすがりつこうと考えて、その結果、割礼にあれほど執着したと考えられます。彼らは、しばしば「実際に、誰がアブラハムの子孫なのだろうか?」と議論していました。そして割礼こそアブラハムの子孫であることのしるしであると考え、神とアブラハムの間の交わされた契約を確証する「割礼」にすがりついていたのです。
【1】. 誰がアブラハムの子孫なのか
そのようなガラテヤ人を惑わしているユダヤ主義者とガラテヤの兄弟たちに対して、パウロは、「あなた方は行いによっては義とされないことを知ってイエス様を受け入れたのでしょう。古い考えに逆戻りしないで、完全にキリストの義に、信仰によって依り頼む人々こそ、アブラハムと霊的な関係を持つことが出来るのではないですか」と福音を想起させています。3:7~9節を御覧ください。
“だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。”
ここでは、アブラハムがただ神に依り頼むことによって救われたのと同じように、信仰に依り頼む人こそアブラハムの子孫であると語られています。ところで8節において創世記12:3の御言葉を引用していますが、パウロは神とアブラハムとの約束のただ中に、既に異邦人が信仰によって義とされるという福音が、前もって示されていることを指摘しています。ですから、異邦人が割礼を受けて一旦ユダヤ人となって初めて義とされるのではなく、ただ信仰によって義とされるということです。従ってアブラハムとは、ユダヤ人の父なのではなく、ユダヤ人も異邦人も関係なく、ただ信仰によって神の恵みを受け入れた全ての者の父であるということです。アブラハムは割礼を受けた者の父ではなく、聖霊によって心の割礼を受けた者の父なのであります。
【2】. 律法に対するユダヤ教の伝統的解釈への訂正
10~12節は、恐らくパウロが、ユダヤ主義者たちが自分たちの考えを主張するのに引用した聖句をそのまま引用しながら、彼らの解釈を訂正しているところであると考えられます。3:10節を御覧ください。
“律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。”
これは、申命記27:26からの引用ですが、実際に見比べてみましょう。申命記27:26を御覧ください。
“「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。”
この申命記の記事だけを見ると、律法を守り行えば義とされ、祝福されるように考えてしまいそうですね。しかしこの御言葉の中にはどこにも義について、祝福について語られていません。ただ、客観的に、「この律法の御言葉を“すべて”守り行わない者は呪われる」ということを示しているだけであるということです。しかし、実際には律法を全て守り行うことが出来る人は一人もいませんから、律法に依り頼む全ての人は呪いの中に閉じ込められるのです。従ってパウロは「呪いに閉じ込められる」ということを強調しながら、伝統的解釈に訂正を迫っています。続いて、3:12節を御覧ください。
“律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。”
これは、レビ記18:5からの引用ですが、これも先ほどと同じようにレビ記の記事を見ると、律法を守り行うことによって命を得ることができるので、律法の行いを奨励しつつ、命への道を教えていると考えてしまいそうですが、そのような伝統的解釈に訂正を迫っています。レビ18:5を御覧ください。
“わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。”
確かに律法を完全に守り行えば、命を得ることが出来るでしょう。しかし、その命とは、功績として、報いとして与えられる命を指しています。従って、パウロの解釈は「功績としての命」、「報いとしての命」であることを強調しつつ、その命とは、むしろ、「信仰によって得られる命」、「恵みによって与えられる命」とは一切関係ないということで一線を引いているわけです。もし、律法により頼むならば、功績としての命、報いとしての命に期待しなければなりません。そして、もし、律法をすべて守ることが出来ない場合は、その反対にその報いとして、呪いの下に置かれてしまうのです。このようにして12節は10節と同じ様に、律法に依り頼む全ての人は「呪いの中に閉じ込められる」ということを強調しているのです。
【3】. キリストの贖い
人間は、義とされるために、神の祝福に与るために、律法とは異なる別の義の道が、必要となりました。それはイエス・キリストによって成し遂げられた救済の道であり、キリストは天下において、救いのために与えられた唯一の名であります。ガラテヤ書3:13~14節を御覧ください。
“キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。”
13節で「贖い出してくださいました(過去形)」とありますが、これは、イエス様の十字架を指しています。イエス様の十字架がどのような意味だったのかを説明するために、申命記21:23を引用していますが、申命記21:18~23を御覧いただけますでしょうか。
“ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。”
ここで、「わがままで、反抗する息子」は、放蕩にふけり、大酒飲みのために、石打ちで殺され、木にかけられるならば、この人は神に呪われた者であるということを現わしていました。ところが福音書においてイエス様のたとえ話の中で、全くこれと同じような状況が出て来ます。即ち、放蕩息子が放蕩にふけり、大酒を飲んで、親の相続財産を湯水のように使い切ってしまい、ある日、奴隷として雇ってもらうために再び家に帰って来ましたが、父親は、この放蕩息子を共同体から悪を取り除くために石打ちにして木に掛けるどころか、祝宴を開いて息子が戻ってきたことを喜び祝ったと書かれています。これらのことは、旧約の神さまが厳しいお方であったのに、新約になって、ゆるゆるの妥協する神さまに変質されたということではありません。放蕩息子が赦され、呪いから解放され、子として迎え入れられたのは、イエス・キリストが放蕩息子の代わりに処刑され、十字架にかけられ、放蕩息子の代わりに呪いとなられたからであります。ここにおいてイエス様が、信じる者の為に、代理贖罪の供え物となられたということが暗示されています。キリストは、そのご生涯を、神と人間の仲保者として、罪を清める大祭司としての職務を全うされました。ですから自ら進んで十字架に架けられ、ご自身を生贄として捧げられることにより、その血潮によって私たちを買い取られ、わたしたちを神に献げて、すべての罪から清めてくださったのです。つまり、キリストが罪となったことは、私たちをして、神の義となるようにするためでありました。キリストが女から生まれて律法の下に置かれたことは、私たちをして、律法の呪いから贖って私たちをして神の子とするためでありました。このように私たちが義とされる根拠は、キリストの義であるということです。私たちの中にある義ではなく、私たちの外にある義、神の義であります。アダムが罪を犯し全人類に罪と汚れが転嫁されたように、全く同じような仕方によってキリストがその職務を成就され罪と呪いがキリストに転嫁され、キリストの義と、知恵と、聖さと、救済と、永遠の命が、信者に転嫁されるのです。アダムは、肉から生まれてきた全人類の始祖(頭)でありますが、キリストは霊によって生まれてきた信じる者の初穂(頭)となられたのです。代理贖罪によって何の働きもないのに、無償で、これらの「キリストにある祝福」が与えられました。私たちのものがキリストのものとなり、キリストのものが私たちのものとされましたのです。こんなことを言うと、それはあまりにも膨大な贈り物のために、ちょっと気前が良すぎるのではないか、もしそれが本当なら、キリストの恵みが増し加わるよう、もっともっと悪いことをしたらいいではないかと非難がでてきたほどであります。どうしてもその点に躓いてしまうために、キリストがメシアであることは信じるが、やはり、多少なりとも我々の側の義が必要なのではないかということで、自分の義を主張してしまうのです。結局、イエス様を信じないバリバリのユダヤ教徒であろうと、イエス様を信じているユダヤ主義者たちであろうと、キリストの義ではなく、自分の義により頼んでいる限り、依然として律法の下に、呪いの下に置かれているのです。
【結論】
人は、決して律法をすべて守り行い、命を得ることはできません。アブラハムであろうとモーセであろうとダビデであろうと同じことです。罪びとが、何の働きもない者が、義とされて、神の全ての祝福に与るために、律法とは異なるもう一つ、別の義の道が、備えられなければなりませんでした。別の義の道とはイエス・キリストによって成し遂げられた救済の業であり、十字架上において完全に成就されました。私たちは、「自分の義」により頼むことを放棄し、報いとして、功績として与えられる義を放棄し、ひらすらキリストによって打ち立てられた「神の義」を信じ、イエス・キリストに信頼することによって罪赦され、義とされ、命に移され、イエス様の全ての祝福に与る者とされるのです。それらの祝福は私たちの外にあり、私たちはこの世にあって、それらを経験することも出来ず、知ることもできませんが、既に与えられているものとして信じて歩ませていただくのです。