2020年05月24日「キリストの真実によって義とされる」

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【讃美歌277】

【主の祈り】

【信仰告白_ウェストミンスター小教理問答37~38】
問37 信仰者は死のとき、キリストからどのような恩恵を受けますか。
答 信仰者の霊魂は、彼らの死のとき完全に聖くされ、直ちに栄光に入り、信仰者の体は、なおキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
問38 信仰者は復活のとき、キリストからどのような恩恵を受けますか。
答 復活のとき、信仰者は、栄光の内によみがえらせられ、裁きの日に、公に承認され、無罪とされます。さらに、永久に、神を限りなく喜ぶことにおいて完全に祝福されます。

【献金】

【聖書朗読】

2:15わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
2:17もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。
2:18もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。
2:19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
2:20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
2:21わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節

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【序】

 初代教会において異邦人に伝道が拡大していくと、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に対立の兆しが見えてきました。この対立の原因を作ったのは、ユダヤ人キリスト者の中の、ユダヤ主義者たちの影響によるものと考えて間違いないでしょう。彼らは異邦人が救われるためには、ユダヤ化されなければならないと説いていました。これは、エルサレムにおいてキリスト者ではない民族主義的なユダヤ人たちからの報復を恐れるあまりに、そのような歪曲した福音を教えてしまったのですが、実は、彼ら自身も、自分たちがユダヤ人であることに優越感を持ち、異邦人を見下すような習慣があったのかもしれません。そのような雰囲気の中で前回見ましたようにアンティオキアにおいてパウロとペトロの衝突が起こりました。

【1】. 律法とは異なる義の道(キリストの真実)が与えられた

 本日の箇所である2:15~21は、ペトロに対するけん責の続きでありますが、実際はアンティオキア教会の一員であろうと、エルサレムから来た「ある人々」であろうと、或いはこの書簡の読者であろうと、全てのユダヤ人キリスト者に対してパウロは語っていると思われます。そして本日の箇所は、この後に続く3章1節から4章11節までの概要であり、連結点としての働きをもしています。最初にパウロは15~16節において、ユダヤ人キリスト者としての共通の認識点から議論を始めています。15~16節を御覧ください。

“わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。”

 パウロであれ、ペトロであれ、バルナバであれ、自分たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではないが、しかしそれにも関わらず、人が救われるために、罪赦され義とされるために、イエス・キリストを信じたということです。このことが何を意味するのかと言うなら、つまり、ユダヤ教の古い体系が十分でなかったこという告白でもありました。なぜなら、パウロが16節において詩篇143:2を引用しているように、律法の実行によっては誰一人義とされないからです。詩篇143:1~2はダビデの歌ですが、ダビデは次のように告白しています。聖書を御覧ください。

“主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。”

 ダビデの告白のように誰一人、律法を完全に守り行うことは出来ません。人類の始祖であるアダムが罪を犯し、人間の中に原罪が入り込んでしまった以上、全ての人は異邦人と同じく罪人であり、義しいと認められる人は、誰一人いないということです。ですから罪人に対して、律法はもはや罪を指摘する鏡の役割しかしないということです。律法は人を義とする道ではなく、人に対し罪や汚れや、堕落を教え、違反に対する刑罰と、神の聖さを教えるものに過ぎないということです。ところが、律法とは、異なる「別の義の道」が与えられました。それは、福音であり、イエス・キリストによって打ち立てられた義であります。福音書のイエス様の御言葉で、律法と預言は全てわたしを証ししていると言われましたが、旧約聖書全体は、イエス・キリストにおいて啓示の絶頂に至るということでありまして、旧約聖書はキリストの中で成就したということになります。従って次のように言うことが出来るでしょう。

 イエス様の人格は、律法の指し示すもの、律法の完成であり、律法の終わりであって、同時に恵みと真理が充満した福音であられるということです。このイエス様を信じることによって救われて、罪赦され、義とされるのです。ローマ3:21~22を御覧ください。

“ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。”

 このように、律法の規定を守ることによってではなく、キリストを信じることによって義とされるという所までは、パウロと、全てのユダヤ人キリスト者たちの共通認識でありました。しかし、ここで注意深く見なければならないことは、イエス様を信じて救われるといった時に、その救いの根拠となるのは、「神の義」であり、即ちイエス様が救い主として成し遂げられた救済の御業こそが、救いの根拠であるということです。この義は、私たちの内側にある義ではなく、外側にある「神の義」です。ですから勘違いしてはならないことは、信仰によって神の義が私たちの所有となり、「私たちの義」となるということではなく、信仰によって義と見做されるということであって、私たちは依然として罪人に過ぎないということです。ガラテヤ書に戻り2:17~18節を御覧ください。

【2】. 信仰によって始められた後、行い(律法)によって完成されるのか?

 “もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。”

 私たちの体験からも分かりますように、キリスト者は、キリストによって義とされるように努めながらも、依然として自分の内面に汚らわしい罪があることに気づかされます。ですから、ユダヤ主義者たちは、義認というのは、信仰と洗礼によって開始して、割礼と、律法の規範を守ることによって完成されるというように福音を歪曲してしまいました。これと同じような誘惑は現代の私たちにもあります。義認は信仰によって開始し、愛の業によって、善き行いによって完成するという考え方です。このように考えてしまうのは分からないでもありません。それは、キリストを信じて受け入れたはずなのに、義認とされたはずなのに、最初は調子が良かったのですが、しばらくして私の内に依然として罪の残滓が残っていることが判明し、そのことを受け入れることが出来ないからでしょう。カトリック教会の場合、洗礼によって過去の全ての罪は許されますが、(依然として罪の残滓が残っているために)、洗礼を受けた後に犯してしまった罪については、第二の救済措置として懺悔、つまり、「ゆるしの秘跡」とか「告解」と呼ばれる礼典を作り出しました。司祭に懺悔して告白することによって罪赦され、再び義とされるという教えです。つまり、神によって義とされる義認が、神秘的に作用して、日々の倫理的生活の実際においても自分のものにならない限り、「自分の義」にならない限り、安心できないということだと思います。特に当時のユダヤ人にとっては律法が、自分たちの倫理的規準として機能していましたので、その律法から解放されて自由になるということは、ユダヤ人と異邦人の区別がなくなり、即ち放縦に暮らしている異教徒たちのように成り下がることのように思われて、どうしても納得がいかず、律法から解放させたイエス様のことを「罪の助成者(奉仕者)」であるというような批判を、ついつい言ってしまったのではないでしょうか。しかし、そもそもユダヤ人キリスト者は信仰に入る際に、律法の業に頼ることをやめ、そして、自分の行いに頼ることをやめ、キリストにすべてを委ねたはずなのに、再び、律法を守ることを自分を支える支柱として重要視し、それどころか異邦人をユダヤ化させようとすることは、たとえ律法の下に戻ってきたと言っても、一度律法を壊したことには変わりないために、律法の違反者であって、律法によって罪に定められるとパウロは言っているのです。それでは、彼らの関心の的であった、「倫理的・道徳面における、義認の完成について」は、どのように考えればいいのでしょうか。また、義認が倫理的行いよって完成されるのではないとしたら、義認とは、一体どのようにして完成されるのでしょうか。

【3】. 義認を追求する人生

 第一にガラテヤ書2:16においてパウロの使用している「義認」という言葉は、法廷用語であり“キリストへの信仰によって義としていただく”という箇所は「キリストへの信仰によって義と宣告された(過去形)」という意味になります。これは裁判官の発令のような、法廷的な意味であるために、ここでの文脈においては、「義と宣告された」という言葉に、倫理的に変化をもたらすような神秘的な意味は含まれていないと解釈することが出来るでしょう。つまり、キリスト者は依然として罪人に変わりないということです。ですからいつも、キリスト者は祈りの中で「神よ、私は全くの罪人です。私はあなたの戒めを守りたいと思っていますが、それを実行することができません。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。どうか助けてください。」と告白するのです。そしてキリスト者はキリストにおいて、キリストの中から義を探すのです。ガラテヤ書2:19~21を御覧ください。

“わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。”

 キリスト者は信仰によってのみ、神様から義と宣告されるのですが、なぜなら、信仰によってキリストの義が転嫁されるからです。私たちは聖なる律法によれば、死ななければならない罪人でありました。そのために信仰によってキリストと共に十字架に付けられて死にました。これが転嫁であります。十字架上において贖い金が全て支払われたのです。また、信仰によってキリストと共に復活に与り、もはや、生きているのは私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのであり、キリストの義が転嫁されることを信じて神と共に生きるのです。つまり、キリスト者の義は自分の内にはなく、ひたすら神の義の中に、キリストの十字架と復活の中にあるということです。ということは、「義認」とは神様が御覧になられる時に「義しい」として見做されるということであって、キリスト者はこの世において自分が義とされたことを経験することも出来ず、知ることもできないということになります。

ですからキリスト者はこの地上においては、病気にかかった者であると同時に、元気な者であり、罪人であると同時に義人であり、過ちのある者であると同時に、無罪な者であるということです。聖徒は内的に見るなら、常に罪人でありますが、外的には、神様が御覧になられる時には、常に義とされた者たちなのです。一方、偽善者は御言葉(律法)に照らした時に、明らかに自分が罪人でありながら、自分を罪人と認定することなく、そして義とされることを切に祈り求めるのでもなく、自分が既に「自分の義」を所有していると信じています。従って偽善者の祈りは次のようになります。「私はあなたの戒めを守ることが出来ますし、将来必ず行うことでしょう。」偽善者のこのような考え方は、罪を示す律法をそのまま受け入れることをしないで、即ち、神の御言葉を偽りとし、神を偽り者としている行為なのです。従って、偽善者においては内的には常に義しい者たちでありますが、彼らは外的には、神が御覧になる時に常に罪人なのです。なぜなら、彼らの考えは信仰とは全く関係がなく、自分を罪に定める律法をそのまま受け入れることをせず、自らの功労に頼りながら、神に対して自分を誇るからです。言い換えるなら、偽善者は自分の人生を、自分自身の関心のために生きて、そしてその目的のために神を利用しようとするのであります。

 病気に煩った人は多少の倦怠感があり、体調が中々すぐれないけれど、医者の「必ず良くなるでしょう」という約束を信じて、医者の処方に従う時、元気を回復することができるように、同じように、キリスト者は、事実上、罪人ではありますが、神が完全に治療する時までに、そこから救い出すという「神の宣告と約束」を信じ、御言葉に従順するために義人とされるのです。したがって、信仰の人は、生涯を通して「どうか助けてください」という祈りを捧げながら、十字架のイエス様に立ち帰り、私たちを愛されたその愛に立ち帰りながら、信仰によって義認を追求する人生となるのです。キリスト者は自分の義認を要求し、希望し、期待し、喜んで確信する人生を送ることになります。そして、神さまはご自身が約束されたことを決して放棄することはされず、ご自身の御業として完全に成就してくださるのです。なぜなら神はご自身の民に、ご自分の名にかけてそのことを誓われて、保証されたからです。

【結論】

 第一に、キリスト者にとって倫理・道徳の基礎となるのは何かと言えば、律法による戒めではなく、私たちを愛してくださり、自ら進んで、ご自身を十字架に明け渡されたイエス様の愛であるということです。私たちはこの十字架から流れ出る愛によって、道徳的な歩みを踏み出すことが出来るのです。第二に、私たちは、私たちの内側にある義ではなく、外側にある「キリストの義」が根拠となって、救われるということです。従って内的には依然として全き罪人であり、自分には何も誇るものはないのですが、御言葉の通りに、ただ医者であられるイエス様を信じる信仰によって義と見做されるのです。従ってこの世において自分が義とされたことを経験することも出来ず、知ることもできませんが、神はご自身の御業を決して放棄することはされず、ご自身が約束されたことを必ず果たされることを信じながら、キリスト者は義とされることを要求し、希望し、期待し、喜んで確信する人生を送るのです。

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