2019年07月28日「悲しみの道」

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聖句のアイコン聖書の言葉

27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
36そこに座って見張りをしていた。
37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章27節~44節

原稿のアイコン日本語メッセージ

十字架に架けられる囚人イエスは、総督官邸に駐在している兵士たちにとって、なぶりものにされ、格好の餌食となりました。兵士たちは、囚人イエスに対し、ローマ皇帝の紫の服の代わりに、赤い外套を着させ、そして茨で冠を編んでイエスの頭に載せました。また右手に葦の棒を持たせ、王様が持つ笏に見立て馬鹿にしました。そして、その前にひざまずき「ユダヤ人の王、万歳」と言っては侮辱し、唾をかけたり、その葦の棒で頭をたたき続けたりしました。

イエス・キリストに向かった、このような情け容赦のない侮辱と辱め、これは一体何だったのでしょうか。本来、私たちが受けるべきものだったのです。神の子が私たちのために、これほどまでに卑しくされ、低くされたことは、私たちに向かう神の愛がどれほど大きいのか、その愛は推し量ることのできないほどの憐みであるということを理解することができるのです。このように侮辱されて、元の服を着せられ、それから、エルサレムの城壁から外に出て行き、ゴルゴタの死刑上に向かっていきます。この城門から死刑上までの大通りを「悲しみの道、つまりヴェアドロローサ」と言われています。

著者マタイは、本日の箇所においてイエス様がどれほど悲しみの道を通られたのか、どれほど恥ずかしい侮辱を受けられたのかそのことを記述するというより、むしろイエス様以外の、周辺描写に目を留めています。これまでこの福音書は、キリストの受難記事と最後の受難週において大変多くの紙面を割いていた割には、肝心要の十字架の苦しみに費やす部分は、実にあっさり記述されています。十字架上のイエスの生々しい姿や十字架上における苦難はありません。これはどういうことでしょうか。それは、旧約聖書における「受難のメシア預言」が粛々と成就しつつあるということを読者に伝えているのだと思われます。27:33~35節を御覧ください。

“そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、”

死刑上であるゴルゴタの丘とは、アラム語で「骸骨の丘とか、されこうべの丘」という意味です。ラテン語ではcalvaria、英語ではカルバリーです。イエス様は二人の強盗と一緒に十字架に架けられます。強盗とは、暴力的な略奪行為を働く者たちで、政治的にローマの支配から自由を求めて、戦うような人々です。屈強な肉体を持つ荒々しい強盗犯がイエス様の右と左に付けられ、イエス様がセンターに配置されている訳です。その罪状書きには「ユダヤ人の王である」と書かれていました。ですから、まるでイエス様が最も極悪非道な強盗の親分のような扱いをされているということです。通常、死刑場には十字架に縦の棒が前もって刺されています。死刑囚は十字架の横木を担ぎながらヴェアドロローサという悲しみの道を歩き、ゴルゴタの丘に到着しました。イエス様は、恐らく身体的に強い身体をもっていなかったと思われますので、その横木を担ぐことができないという状況になったのでしょう。ゴルゴタの丘に到着しますと、第一に、ローマ兵の行動に焦点が当てられます。彼らは、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしますが、イエス様はそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。このようにして、ダビデの敵対者に関する預言である詩編69:22が成就したと見ています。そのままお聞きください。

“人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。”

これは、十字架上の死刑囚に飲ませる、麻酔効果がある「酸いぶどう酒」のような、早く死なせて楽にしてやろうという配慮ではなく、悪意のあるいじめでありました。それから、ローマ兵はくじを引いてイエス様の服を分け合いました。このようにして、詩編22:19の御言葉が成就しました。そのままお聞きください。

“わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。”

これはダビデの詩です。詩編69編もそうですが詩編22編もダビデの詩とされています。つまり、ローマ兵たちは死刑執行人として中立な立場ではなく、悪意のある敵対者として、神の御心を成就しようとする意図などさらさらないのにもかかわらず、予め詩編に預言されている通り、正確に神のご計画と目的を、彼らを通して成就させているのです。盲目で愚か者のように、ローマ兵たちは自分たちが十字架に架けた囚人の服を分け合うのに夢中になっていましたが、逆説的にまさにその事件が世の罪を取り除く贖いの成就だったのです。

次にローマ兵から、通りを過ぎ去る人々に焦点が移されます。彼らは、頭をふりながらイエスを罵しりました。このようにして、詩編22:8が成就されました。そのままお聞きください。

“わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。”

次に祭司長たち律法学者たち長老たちに目を向けます。彼らはユダヤの宗教裁判において有罪判決を下した指導者たちでありました。彼らも同じようにイエス様を罵ります。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」このようにして、詩編22:9が成就されました。そのままお聞きください。

“主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。”

旧約聖書の預言が粛々として成就していったことが書かれています。ここで少し余談ですが、大祭司たちの罵りの言葉を注意深く見ますと、大祭司の言葉だけに逆説的な真理が宣言されています。42節を御覧ください。

“他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。…”

この大祭司たちの言葉はまさに真理です。「他人は救ったのに、自分は救えないイスラエルの王」という言葉は、つまり、他人を贖うために自分を犠牲の供え物として献げたイスラエルの王であるということです。さらに言えば43節です。この言葉は直訳すると次のような雰囲気です。「彼は神に信頼した。さあ、もし彼が神のお望みなら、神の喜ばれる者なら、救ってもらうがいい。『私は神の子である』と言っていたのだから。」という言葉です。これはまさに真理であり、十字架の後に、神はご自身の喜ばれる御子を、死から救い出されるのです。つまり、大祭司たちが不可能なことと見做しほら吹きの、話にもならない主張だと馬鹿にした言葉が、逆説的にそのまま真理であったということです。

話しを戻しまして、最後にイエス様と共に十字架に付けられた強盗たちに焦点が移されて行きます。やはり、彼らも同じようにイエス様を罵ります。44節を御覧ください。

“一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。”

このようにローマ兵から始まって、通りすがり者たち、そして祭司、律法学者、長老たち、十字架に架けられた強盗たちまで、全員、そろいも揃ってイエス様に敵対し、イエス様に罵り、なぶりものにしたのです。40節の途中からですが、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」この嘲りの言葉が何度も反復されている状況です。「神の子であることを証明してみなさい」、「十字架から降りて神の子であることを証明してみなさい」。この言葉は、私たちはどこかで聞いた覚えがあります。それは荒れ野におけるサタンの誘惑の言葉です。荒れ野においてイエス様はサタンから試みられました。マタイ4:6節を御覧ください。

“「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」”

つまり、「もしあなたが神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」このような奇跡をもって自分が神の子であることを証明してみよ!という言葉の背景には、神を試みようとするサタンの思いが存在しているということです。この質問は、私たちがこの世においてもしばしば耳にする質問であるかもしれません。ある人はキリスト者に言います。「イエス様を信じて、何か良くなるんですか。」「イエス様を信じて金持ちになれるのですか、健康になれるのでしょうか」「成功するのでしょうか。」というような質問です。このような神を試みる質問に対し、私たちは「アーメン」と言うことはできません。確かに神さまは私たちにしるしとして、或いは、私たちの人生の中に奇蹟的なことを起こされて私たちの信仰を励ましてくださる時もあります。人生のターニングポイントで奇跡を体験し、回心が起こったという証しはよく耳にしますが、しかし、常にそのようにされるということではありません。私たちの信仰はいわゆる「ご利益信仰」ではないのです。私たちは知っています。「神様が私たちのことをまどろむこともなく、眠ることもなく守っていてくださっている」ということを。ですが、もし、神様の助けが肌で感じることが出来なくなった時、いくら祈っても、祈りが天まで聞き届けられていないように感じる時に、サタンは私たちにこっそりやって来て、「イエス様を信じて、何か良くなりますか。」「イエス様を信じて裕福になれるのですか、健康になるのでしょうか」そんなつまらない考えは捨ててしまいなさいと、私たちを誘惑し試みに合わせるのです。そして、いつの間にか私たちも駄々をこねるように「もし、あなたが神の子なら、今、この状況から私を助けてください、あなたが神の子なら十字架から降りてきて証明してください」とサタンと同じような言葉を私たちはイエス様に投げかけてしまうのです。したがって、私たちはたとえ神さまが私たちの目の前にある困難や苦難に対して目を閉じておられるように感じたとしても、信仰と忍耐によってその時を堪え忍ばなければならないのです。必ず主の救いはやってくるからです。もし、反対の立場で考えてみるなら、そのことを容易に理解することは出来るでしょう。つまり、もし、イエス様が人々の要求に従って、神の子であることを証明しようとし、もし十字架から降りて来られ、ご自身が神の御子であることを証明された時、果たして彼らは本当にイエス様を信じるのでしょうか。その後、イエス様の復活を見ても信じなかった彼らですから、おそらく魔術によって十字架から降りてきたに違いないと言うでしょう。そして、もしそのようにイエス様が証明されるなら、その時、キリストは御子としての働きを救い主としての働きを放棄することになるのです。キリストはご自身が犠牲の供え物になることを通して、罪人を父なる神様と和解させるために人の体を着てこの世に来られました。彼が神の子であることを証明するためには、十字架に自ら、かかられそれほどにまで罪びとである私たちを愛しておられるという「愛」によってご自身が神の御子であることを証明する他なかったのです。

全員が全員、イエス様を罵り、なぶりものにし、サタンの思いと一つになって「もしあなたが神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と叫び続ける中で、ひときわ異彩の光を放っている人が出てきます。それはキレネ人のシモンです。キレネ人ということは、恐らく北アフリカのリビア出身の田舎者のユダヤ人だったと思われます。

イエス様は、昨夜から一食もとらず、一睡もせず、法廷に引きずり回されて、殴られ、むち打ちにされたので、もう、十字架の木を担ぐ力は残されていませんでした。そこで、ローマ兵はちょうどそこにいた、見物人シモンに、無理やりに木を担ぐようにさせました。ローマ兵の命令は絶対です。急にそんなことを言われて、その時、シモンにとっては、「はい、喜んでさせていただきます」とはとても言えなかったでしょう。ユダヤ人にとっては、十字架に木に触れること自体、自分が汚れると考えていました。「せっかく祭のために遠くから来たのに、何て恥ずかしいことだろうか!」「よりによって自分が指名されるなんて、悔しい!」と大変苦々しい思いを持っていたかもしれません。しかし、その時はそのように思ったかもしれませんが、やがてシモンはイエス様の十字架の真の意味を知るようになります。そのイエス様の苦しみの与ったことを大変栄光に思う時が来たということが予想されます。その理由は、並行記事のマルコによる福音書15:21を見ますと、シモンとその二人の息子も記述されているからです。ご覧ください(p.95)。

“そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。”

つまり、アレクサンドロとルフォスは、初代教会の共同体において良く知られていたキリスト者でしたが、その父であると書かれていますから、恐らく、まず父シモンが信仰を持ち、その子らも信仰に入ったと予想されるのです(ルフォスはローマ書16:13にもでてきます)。もしそうであるなら、聖書に自分の出身地と自分の名前とそして二人の息子の名前が記述され、永遠に残されたということです。そして何よりも、イエス様の十字架の苦難に共に与ることができたということは、シモンにとってどれほど光栄なことだったでしょうか。イエス様の贖いの御業に共に参与することが出来たその喜びと誇りはどれほど大きかったことでしょうか。このように、私たちは、現在先の見えない不安の中にあり困難な状況に置かれていて、祈りが果てして神さまに聞き届けられているのかどうか、わからないと感じたとしても、私たちの置かれている状況は、まさに主と共にある困難に与らせていただいているのであり、イエス様の担われた十字架の木の横木を一緒に担がせていただいているのだと私たちは悟ることが出来るのです。私たちはそこに目を留めて、むしろ感謝しつつ、日々を歩ませていただきましょう。最後にヘブル人の手紙12:6をお読みします(p.417)。

“なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。”

神さまはご自身の子供たちを養育し、さらに素晴らしい御国を相続させるためにこの世にあっては試練の鞭を用いて養育されるのです。このことを覚え、感謝して歩ませていただきましょう。

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