2020年03月29日「アマレク追撃 아말렉 추격」

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アマレク追撃 아말렉 추격

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 30章1節~31節

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聖句のアイコン聖書の言葉

30:1三日目、ダビデとその兵がツィクラグに戻る前に、アマレク人がネゲブとツィクラグに侵入した。彼らはツィクラグを攻撃して、町に火をかけ、
30:2そこにいた女たち、年若い者から年寄りまで、一人も殺さずに捕らえて引いて行った。
30:3ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。
30:4ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。
30:5ダビデの二人の妻、イズレエルのアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルも連れ去られていた。
30:6兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。
30:7ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じた。「エフォドを持って来なさい。」アビアタルがダビデにエフォドを持って来ると、
30:8ダビデは主に託宣を求めた。「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」という答えであった。
30:9ダビデと彼に従う兵六百人は出立した。ベソル川に着くと、そこで落伍者が出た。
30:10ダビデと四百人の兵は追跡を続けたが、二百人は疲れすぎていてベソル川を渡れなかったので、そこにとどまった。
30:11兵士たちは野原で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのもとに連れて来た。パンを与えて食べさせ、水を飲ませ、
30:12更に干しいちじく一かたまりと干しぶどう二房を与えて食べさせると元気を取り戻した。彼は、三日三晩、飲まず食わずでいたからである。
30:13ダビデが彼に、「お前は誰の配下の者で、どこから来たのか」と問うと、「わたしはエジプトからの従者で、アマレク人の奴隷になっていました。三日前に病にかかり、主人に捨てられました。
30:14クレタ人のネゲブ、ユダに属するネゲブ、カレブのネゲブに侵入し、ツィクラグに火をかけたのは我々です。」
30:15ダビデは尋ねた。「お前はその略奪隊のもとへわたしを案内できるか。」「あなたが、わたしを殺さない、主人に引き渡さないと神にかけて誓ってくだされば、あの略奪隊のところに御案内します。」
30:16彼はダビデを案内して行った。見ると彼らはその辺り一面に広がり、ペリシテの地とユダの地から奪った戦利品がおびただしかったので、飲んだり食べたり、お祭り騒ぎをしていた。
30:17夕暮れになるとダビデは攻撃をかけ、翌日の夕方まで続けた。らくだに乗って逃げた四百人の若者を除いて、逃れた者は一人もなかった。
30:18ダビデはアマレク人が奪って行ったものをすべて取り戻し、二人の妻も救い出した。
30:19年若い者も年寄りも、息子も娘も、戦利品として奪われたものもすべて、ダビデは残らず取り返した。
30:20更に、ダビデは羊と牛をことごとく奪った。一行はこの家畜の群れを引いて行きながら、言った。「これはダビデの戦利品だ。」
30:21やがて、疲労のためダビデに従うことができず、ベソル川にとどまっていた二百人の兵のもとに戻って来ると、彼らはダビデとダビデに従った兵士たちを迎えに出て来た。ダビデはこの兵士たちに近づくと、彼らの安否を尋ねた。
30:22ダビデに従って行った者の中には、悪意を持つならず者がいて、言った。「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り、連れて行くがよい。」
30:23しかし、ダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。
30:24誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。」
30:25この日から、これがイスラエルの掟、慣例とされ、今日に至っている。
30:26ダビデはツィクラグに帰ると、友人であるユダの長老たちに戦利品の中から贈り物をして、「これがあなたたちへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です」と言った。
30:27その送り先は、ベテル、ラモト・ネゲブ、ヤティル、
30:28アロエル、シフモト、エシュテモア、
30:29ラカル、エラフメエル人の町々、カイン人の町々、
30:30ホルマ、ボル・アシャン、アタク、
30:31ヘブロン、そして、ダビデとその兵がかつてさまよい歩いたすべての所の長老たちである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 30章1節~31節

原稿のアイコン日本語メッセージ

序論

サウル王とペリシテの連合軍がギルボア山のふもとのイズレエル渓谷で戦闘を開始した頃、ちょうどダビデもツィクラグのさらに南方においてアマレク人との戦闘が始まりました。サウル王にとっては最後の時を迎えることになりますが、一方ダビデはアマレク人を相手に見事に勝利し、まるでイスラエルの王のようなリーダーシップを発揮することになります。特に戦利品を携え帰ってくるダビデはベソル川において王としての寛容を兵士たち全員に示しました。このように油注がれたダビデによって神の国が少しずつ建て上げられていくことになりますが、本日は、ダビデがなぜこのような憐み深い業をすることが出来たのかについて見て行きたいと思います。

主題1 神の力によって奮い立つダビデ

ペリシテのアキシュ王から引き返すように言われたため、ダビデの軍隊は、アフェクからツィクラグまでの約90キロの道のりを、三日かけて行軍しました。一日で約30キロ程度進んだことになります。ツィクラグに近づくと何か様子が、いつもと違うことに気づいたことでしょう。町の防備が手薄になっていた所を何者かに襲撃されて、全てを略奪され、町も焼き払われていたということが判明しました。兵士たちは、この絶望的な状況を前にして、ただ、声をあげて泣くしかありませんでした。早く家に温かく迎え入れられ、家族の顔を見ながら、安息を得たいと思って帰ってきたのに、このような状況が待ち受けていたのです。ついに、泣く力もなくなってしまうと、兵士たちの間で、息子、娘、家族を失ったのは指導者であるダビデのせいだという考えが出て来ました。それは、出エジプトをした民が荒れ野においてモーセに不平を言いだしたのと似ています。「何でこのような悲劇が起こってしまったのか」、「ダビデの誤った外交政策のためではないか」、「ペリシテ人と関りを持たなかったなら、こんなことにはならなかったのに」、「先に我々がアマレク人を攻撃しなければ、このようなことは起きなかったはずだ」という声とともに、「指導者ダビデを石打ちで殺そう」と言う者が出て来ました。大変な苦境に立たされたダビデは、主なる神に信頼し、主によって力を奮い起こします。6~8節を御覧ください。

“兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じた。「エフォドを持って来なさい。」アビアタルがダビデにエフォドを持って来ると、ダビデは主に託宣を求めた。「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」という答えであった。”

ダビデは祭司アビアタルにエフォドを持ってこさせ、主に尋ねると、主は“追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。”と言われました。何という恵み深い御言葉でしょうか。かつてダビデはこのようにして神さまから保証を頂き、必ず御言葉の成就を体験してきました。今回もその通りになるに違いありません。ダビデの軍隊600名は、今90キロの道のり歩いてきたばかりでしたが、神さまの御言葉だけを握りしめて、再びツィクラグから南方へ出立しました。

主題2 エジプト人を通しての神の糸口

ツィクラグから25キロほど進み、ベソル川のほとりに到着すると、200人の兵士は疲れ切ってしまい、川を渡りきることができず脱落してしまいました。この時、軍隊の士気は大幅に落ち込んだことでしょう。略奪した敵の正体もわからなければ、どこに逃げたのかも見当もつかない、難しい状況における強行軍が続きました。しかし、この後、思わぬところから事態が急展開していきます。兵士たちが野原で一人のエジプト人を見つけたので、これをダビデの下に連れてくると、ダビデはこのエジプト人を憐み、手厚く保護します。この非常事態にあって、倒れている異邦人を介護している暇などありません。余計な問題にかかわらないで、先を急いだほうが賢明なのではと、考えてしまいそうですが、ダビデにとって旅人をもてなし、孤独な部外者を仲間に迎え入れる事は慣れたことでした。ダビデはこのエジプト人に、パンと水と干しイチジクと干しぶどうを食べさせると、病に倒れていたこの男は元気を取り戻したので、ダビデは彼に問いただします。“お前は誰の配下の者で、どこから来たのか”すると、“わたしはエジプトからの従者で、アマレク人の奴隷になっていました。三日前に病にかかり、主人に捨てられました。クレタ人のネゲブ、ユダに属するネゲブ、カレブのネゲブに侵入し、ツィクラグに火をかけたのは我々です。”と答えました。この時点において、初めて略奪隊の正体が、イスラエルの憎むべき宿敵、聖書の中で最も卑劣な種族として描かれているアマレク人であることが分かりました。彼らは防備がそれぞれ手薄になっているのを見て、いくつかの町々を襲撃したと言うのです。クレタ人のネゲブとはペリシテ領であり、またユダに属するベエル・シェバとヘブロンも襲われたということが分かりました。それにしても、意外な所から神様の導きが与えられました。アマレク人によって落伍者として見捨てられて、一人っきりで、絶望の中にいたエジプト人の奴隷が、ダビデの軍隊に迎え入れられることによって、彼が略奪隊のいる所への案内人となったのです。結局、このことが決定的となり、ダビデの軍隊はアマレク人の陣営を発見することになります。彼らは、そこで羽目を外して、飲んだり、食べたりして、どんちゃん騒ぎに興じていました。彼らの宴会が終わりかける時間帯と思われる、夜明けからダビデは攻め入り、夕方にかけて徹底的にアマレク人を討ちました。ラクダによって逃げた400人の騎馬隊以外は全員虐殺し、あらゆるものを取り戻すことに成功しました。18~20節を御覧ください。

“ダビデはアマレク人が奪って行ったものをすべて取り戻し、二人の妻も救い出した。年若い者も年寄りも、息子も娘も、戦利品として奪われたものもすべて、ダビデは残らず取り返した。更に、ダビデは羊と牛をことごとく奪った。一行はこの家畜の群れを引いて行きながら、言った。“これはダビデの戦利品だ。”

ダビデは子どもも、大人もまた息子、娘たちも何一つ失わなかったとありますが、これは、アマレク人が人々を奴隷として売るために、生かしておいたためでしょう。また、エジプト人の証言の通り、アマレク人はツィクラグ以外にも、いくつかの町々を襲撃して、たくさんの略奪物を所有していましたので、それらを羊も牛も丸ごとそのまま、ダビデの戦利品として奪うことができました。余談ですが、ここにおいて、ある神学者は異議を唱えます。もしこの状況を公平に見ようとするなら、サウルのアマレク人に対する行動と、ダビデのアマレク人に対する行動の一体何が異なるのかと問題を提起します。サウルは、アマレク人に対する主の激しい怒りを実行せず、アマレク人を滅ぼし尽くさず、そしてアマレクの王と良い家畜を惜しんで残しておきました。そのためにサウルはイスラエルの王位から退けられたのです。ダビデも同じように戦利品を全て聖絶することなく、略奪したにも関わらず、何のお咎めもありませんでした。さらに言えば、ダビデは、アマレク人以上に無慈悲で野蛮ではないかという声も出て来ます。なぜなら、アマレク人は「一人も殺さずに」物品の略奪だけをしたのに対し、ダビデはアマレク人を殺し、さらに彼らの所有物を略奪しているからです。アマレクの方がむしろ人情深いように見えるのです。ところが神は戦利品を略奪したアマレク人を不快に思われ、ダビデが戦利品を略奪したことを擁護され、喜ばれるのです。この問題提起は全く正しい指摘であると思われます。このことはどのようにしてもうまく説明することは出来ません。私たちの理解を遥かに超えた問題なのです。

主題3 神の国の恵みの法則

ダビデは、400人の兵たちを連れて王のように戦闘からベソル川のほとりに戻ってきました。ベソルと言う名前の意味は「福音」という意味があります。そこで、ダビデは荷物の見張りをしていた200人の者たちの安否を尋ねると、400人の兵たちの中から悪意を持って“彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り、連れて行くがよい。”という声が上がってきました。ダビデは、その言葉に対し“兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。”と言います。つまりダビデはこれらの戦利品は主が与えてくださったものだと言っているのです。考えてみれば、ダビデはエッサイの子どもたちの中の八男坊で、常に兄たちに先を越され、いつも羊の番や荷物の番などをさせられていましたので、力尽きて川沿いで荷物と共に残された兵士たちの気持ちをよく理解することができたのではないでしょうか。ダビデは、ここで王のように振る舞い、神の国を建設するための新しい法を規定しています。この日から、この法はイスラエルの掟となり、慣例とされました。その「法」とは一言で言えば「恵みの法」であり、まさにイエス様が弟子たちに譬えによって教えられた、ぶどう園で朝早くに雇われた労働者と夕方5時に雇われた労働者の賃金が同じ1デナリオンであった話と全く同じ内容であることに気づかされます。神の国における恵みの法は、世の基準で照らし合わせるなら、決して公平ではりません。なぜなら多く労働した者も、少なく労働した者も、賃金が同じだからです。これでは勇敢に命を懸けてアマレクと戦った400人の兵士たちが正当に評価されていないのでは、ということで、世の組織においては成り立たない法でしょう。神の国において、神の民の共同体においてのみ、成立する法なのです。ダビデは、さらにツィクラグに戻ると、ユダの13の町々の長老に対して“これがあなたたちへの贈り物です。主の敵からの戦利品の一部です。”と言いながら、そのおびただしい戦利品を皆で分かちあいました。これも当時の常識では考えられないことです。なぜなら一般に考えられていた一国の王とは、戦争において人々に先立って出陣しますが、その代わりに、民を搾取し、民を軍隊や王宮の働き人として取り、羊やロバを取り、民を王の奴隷のようにするのが普通だったからです。ダビデは世の王様のようではなく、寛容で、あまりにも気前の良い王であり、自分自身を民に与える王様でした。これはイエス様のひな型であり、ダビデを通してユダの人々は神の国の到来の前味を味わっているのです。恵みの支配において、世の常識が全く覆されてしまいます。私たちが見るとそれは大変不公平に見えるものであり、私たちの理解を超えているのです。しかし、それは神の選びと遺棄の問題と全く同じであり、神はなぜ、ある人を望まれ、他の者を望まれなかったのか、彼らを選んで、他の人々を遺棄されるのか、その理由について私たちは全く理解できないですし、人間的に見るなら不公平のようにも思えるのですが、神の御心は常に義しく、聖であり、賢く、善いものであり、全てのことにおいて、私たちには計り知れない神さまの「正当な理由」がそこにあるということです。私たちはそれを決して理解することは出来ませんし、神の計り知れない知恵を理解しようとしてもなりません。ただ、全能な神の絶対的主権とその御心の前に出て行き、そして光の中に留まり、その中で安息するように、招かれているだけなのです。

結論

以上に見てきましたように、30章にはダビデの憐みの業が光っています。ダビデが憐みを持ってエジプト人を手厚く保護することによって、事態が急展開しました。アマレク人を討伐した後、ベソル川に戻ってくると、ダビデは王のように振る舞い、やはり憐みを持って、戦利品は主からのものであると宣言し、皆で分かち合う事にしました。さらにダビデはツィクラグに戻ると、ユダの13の町々におびただしい戦利品を気前よく分かち合いました。このようにしてダビデは真の王として、「神の国」を、「恵みの支配」を着実に建て上げていったのであります。なぜ、ダビデはそのように恵みに満ち溢れた、憐み深い業を行うことが出来たのでしょうか。それは神の御言葉による恵みの保証を頂いていたからでしょう。神さまが「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」と確かにおっしゃってくださり、愛する家族たちの命が助かるということを聖霊によって印鑑を押してくださったからです。神の恵みと御言葉がダビデに信仰を与え、信仰はダビデに神への恵みの応答として、正しい行いと、憐みの業を呼び起こしてくれました。私たちは、神の恵みがなければ一切、善き業を行うことなど出来ません。私たちが自分の力によって善い業をすることができるなどとは決して考えてはなりません。私たちは神の恵みがなければ、聖霊によらなければ、善き業を一切することが出来ない罪びとあり、そしてイエス様を信じることさえできない者なのです。それは誰も誇ることがないためです。全て、私たちが良い業をした時は、信仰を持つ事が出来た時でさえ、聖霊の恵みによるのです。聖霊がダビデに保証を与えられたように、同じように聖霊は私たちの心に救いと永遠の命の保証の印を押してくださいますので、私たちは悔い改めと信仰に導かれ、そしてその信仰は、感謝と喜びの中で、恵みの応答という形で、憐み深い業を結ばしめるようにしてくださるのです。2コリント1:21~22と5:5をお開きください。

“わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。”

2コリント5:5

“私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。”

ダビデが御言葉の保証を頂き、聖霊に満たされて神の国を建て上げて行ったように、私たちも聖霊によってもたらされる信仰と、そして信仰から生み出される善き業を通して、この地に神の国を建て上げて行きましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

아말렉 추격

2020년 3월 29일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

사무엘상 30장 1~31절

서론

사울 왕과 블레셋 연합군이 길보아 산 기슭의 이스르엘 계곡에서 전투를 시작했을 무렵, 마침 다윗도 시글락의 더 남쪽에서 아말렉인과의 전투가 시작되었습니다. 사울 왕은 마지막 때를 맞이하게 되지만, 한편 다윗은 아말렉인을 상대로 훌륭하게 승리하여 마치 이스라엘 왕과 같은 리더십을 발휘하게 됩니다. 특히 전리품을 들고 돌아오는 다윗은 브솔 시내에서 왕으로서의 관용을, 부하들 모두에게 보여주었습니다. 이렇게 기름 부음 받은 다윗으로 인해 하나님의 나라가 조금씩 세워지게 되는데, 오늘은 다윗이 왜 이런 깊은 긍휼한 일을 할 수 있었는지를 살펴보고 싶다고 생각합니다.

주제 1 하나님 여호와를 힘입고 용기를 얻은 다윗

블레셋의 아기스 왕으로부터 되돌아가라는 말을 들었기 때문에 다윗의 군대는 아벡에서 시글락까지 약 90km의 길을 사흘에 걸쳐 행군했습니다. 하루에 약 30km 정도 행군한 셈입니다. 시글락에 다가가니 뭔가 모습이 평소와 다르다는 것을 깨달았을 것입니다. 마을의 방비가 허술하게 되어 있던 곳이, 누군가에게 침노 당해 모든 것을 약탈당하고 마을도 불태워졌다는 것이 판명되었습니다. 부하들은 이 절망적인 상황을 앞에 두고 그저 소리 높여 울 수밖에 없었습니다. 빨리 따뜻한 집에 돌아가서 가족들의 얼굴을 보면 안식하고 싶어서 돌아왔는데 이런 상황이 기다리고 있었던 것입니다. 급기야는 울 기력도 없어져 버리자 부하들 사이에서 아들, 딸 가족을 잃은 것은 지도자인 다윗 때문이라는 생각이 들었습니다. 그것은 출애굽을 한 백성들이 광야에서 모세에게 불평하기 시작한 것과 비슷합니다. “왜 이런 비극이 벌어지고 말았는가”, “다윗의 잘못된 외교정책 때문이 아닌가”, “블레셋 사람과 관계를 갖지 않았더라면 이런 일이 일어나지 않았을텐데”, “먼저 우리가 아말렉 사람들을 침노하지 않았더라면 이런 일은 일어나지 않았을 것”이라는 목소리와 함께 “지도자 다윗을 돌로 쳐서 죽이자”는 자가 나왔습니다. 힘든 곤경에 처한 다윗은 하나님 여호와를 힘입고 용기를 얻습니다. 6~8절을 보시기 바랍니다.

6 백성들이 자녀들 때문에 마음이 슬퍼서 다윗을 돌로 치자 하니 다윗이 크게 다급하였으나 그의 하나님 여호와를 힘입고 용기를 얻었더라

7 다윗이 아히멜렉의 아들 제사장 아비아달에게 이르되 원하건대 에봇을 내게로 가져오라 아비아달이 에봇을 다윗에게로 가져가매

8 다윗이 여호와께 묻자와 이르되 내가 이 군대를 추격하면 따라잡겠나이까 하니 여호와께서 그에게 대답하시되 그를 쫓아가라 네가 반드시 따라잡고 도로 찾으리라

다윗은 제사장 아비아달에게 에봇을 가져오게 하고 주께 물으니 주님은 「쫓아가라 네가 반드시 따라잡고 도로 찾으리라」고 말씀하셨습니다. 이 얼마나 은혜로운 말씀인가요? 이전부터 다윗은 이렇게 하나님으로부터 보증을 받아 반드시 말씀의 성취를 체험해 왔습니다. 이번에도 그렇게 될 것이 틀림없습니다. 다윗의 군대 육백 명은 이제 막 90km의 길을 걸어왔는데, 하나님의 말씀만 붙잡고 다시 시글락에서 남쪽으로 출발했습니다.

주제 2 애굽인을 통해 주신 하나님의 단서

시글락에서 25km 정도 나아가 브솔 시내에 도착하자 이백 명의 부하는 지칠 대로 지쳐 시내를 건너지 못하고 쳐지고 말았습니다. 이때 군대의 사기는 크게 떨어졌을 것입니다. 약탈한 적의 정체도 모르고, 어디로 도망갔는지도 짐작할 수 없는 어려운 상황의 강행군이 이어졌습니다. 그러나 이후 예상치 못한 곳에서 사태가 급전개 되어 갑니다. 부하들이 들판에서 한 애굽인을 찾아서 이를 다윗에게로 데려왔고 다윗은 이 애굽인을 불쌍히 여기고 극진히 간호합니다. 이 비상 사태 가운데 쓰러져 있는 이방인을 간호하고 있을 시간 따위는 없습니다. 쓸데없는 문제에 상관하지 않고, 앞을 재촉하는 편이 현명한 것은 아닐까 생각해 버릴 것 같습니다만, 다윗에게 있어 나그네를 대접하고, 고독한 객을 동료로 맞아들이는 것은 익숙한 일이었습니다. 다윗이 이 애굽인에게 떡과 물과 무화과와 건포도를 먹이자 병으로 쓰러져 있던 이 남자는 정신을 차렸으므로 다윗은 그에게 묻습니다. 「너는 누구에게 속하였으며 어디에서 왔느냐」그러자 「나는 애굽 소년이요 아말렉 사람의 종이더니 사흘 전에 병이 들매 주인이 나를 버렸나이다 우리가 그렛 사람의 남방과 유다에 속한 지방과 갈렙 남방을 침노하고 시글락을 불살랐나이다」라고 대답했습니다. 이 시점에서 비로서 약탈대의 정체가 이스라엘의 가증스러운 숙적, 성경속에서 가장 비열한 종족으로 묘사되는 아말렉인임을 알게 되었습니다. 그들은 방비가 각각 허술해진 것을 보고 몇몇 마을을 침노했다고 말합니다. 그렛 사람의 남방은 블레셋 땅이며 또 유다에 속한 지방과 갈렙 남방도 침노 당했다는 것을 알았습니다. 그렇다 치더라도 의외의 곳에서 하나님의 인도하심이 있었습니다. 아말렉에 의해 낙오자로 버려져 홀로 절망 속에 있던 애굽인 종이 다윗의 군대에 영입됨으로써 그가 약탈대가 있는 곳으로 안내하는 사람이 된 것입니다. 결국 이 일이 결정적이 되어 다윗의 군대는 아말렉인의 진영을 발견하게 됩니다. 그들은 거기서 정신없이 술을 마시고 먹거나 하면서 야단법석으로 즐기고 있었습니다. 그들의 연회가 끝나갈 시간대라고 생각되는 새벽부터 다윗은 쳐들어가 저녁에 걸쳐 철저하게 아말렉인을 쳤습니다. 낙타를 타고 도망한 소년 사백 명 외에는 모두 학살하고 모든 것을 되찾는데 성공했습니다. 18~20절을 보시죠.

18 다윗이 아말렉 사람들이 빼앗아 갔던 모든 것을 도로 찾고 그의 두 아내를 구원하였고

19 그들이 약탈하였던 것 곧 무리의 자녀들이나 빼앗겼던 것은 크고 작은 것을 막론하고 아무것도 잃은 것이 없이 모두 다윗이 도로 찾아왔고

20 다윗이 또 양 떼와 소 떼를 다 되찾았더니 무리가 그 가축들을 앞에 몰고 가며 이르되 이는 다윗의 전리품이라 하였더라

다윗은 아이도, 어른도 또한 아들, 딸들도 무엇 하나 잃지 않았다고 하는데, 이는 아말렉 사람들이 사람들을 노예로 팔기 위해 살려 두었기 때문일 것입니다. 또한 애굽 종의 증언대로 아말렉인들은 시글락 이외에도 여러 마을을 습격하여 많은 약탈물을 소유하고 있었기 때문에 그것들을 양과 소 모두 통째로 다윗의 전리품으로 빼앗을 수 있었습니다. 여담이지만 여기서 어떤 신학자는 이의를 제기합니다. 만약 이 상황을 공평하게 보려고 한다면 사울의 아말렉인에 대한 행동과 다윗의 아말렉인에 대한 행동이 도대체 무엇이 다른지 문제를 제기합니다. 사울은 아말렉 사람에 대한 주님의 격한 분노를 실행하지 않고, 아말렉 사람을 멸망시키지 않고, 그리고 아말렉의 왕과 좋은 가축을 아껴 남겨두었습니다. 그 때문에 사울은 이스라엘의 왕위에서 물러나게 된 것입니다. 다윗 역시 마찬가지로 전리품을 모조리 진멸하지 않고 약탈했음에도 아무런 문책을 받지 않습니다. 심지어 다윗은 아말렉인 이상으로 무자비하고 야만적이 아니냐는 말이 나옵니다. 왜냐하면 아말렉인은 “한 명도 죽이지 않고”물품 약탈만 한 반면 다윗은 아말렉인을 죽이고 심지어 그들의 소유물을 약탈하고 있기 때문입니다. 아말렉이 오히려 인정이 많아 보이는 것입니다. 그런데 하나님은 전리품을 약탈한 아말렉 사람을 불쾌해 하시고 다윗이 전리품을 약탈한 것을 옹호하시고, 기뻐하시는 것입니다. 이 문제제기는 전적으로 올바른 지적이라고 생각됩니다. 이 일은 어떻게 해도 잘 설명할 수는 없습니다. 우리의 이해를 훨씬 넘어선 문제인 것입니다.

주제 3 하나님 나라의 은혜의 법칙

다윗은 사백 명의 군사들을 데리고 왕처럼 전투를 마치고 브솔 시내로 돌아왔습니다. 브솔이라는 이름의 뜻은 「복음」이라는 뜻이 있습니다. 그래서 다윗은 브솔 시내에 머물게 한 이백 명의 백성에게 문안하자 다윗과 함께 갔던 자들 가운데 악한 자와 불량배들로부터「그들이 우리와 함께 가지 아니하였은즉 우리가 도로 찾은 물건은 무엇이든지 그들에게 주지 말고 각자의 처자만 데리고 떠나가게 하라」는 말이 나왔습니다. 다윗은 그 말에 「나의 형제들아 여호와께서 우리를 보호하시고 우리를 치러 온 그 군대를 우리 손에 넘기셨은즉 그가 우리에게 주신 것을 너희가 이같이 못하리라 이 일에 누가 너희에게 듣겠느냐 전장에 내려갔던 자의 분깃이나 소유물 곁에 머물렀던 자의 분깃이 동일할지니 같이 분배할 것이니라」라고 말합니다. 즉 다윗은 이 전리품들은 여호와께서 주신 것이라고 말하고 있는 것입니다. 따지고 보면 다윗은 이새의 아들 중 여덟째 아들로 항상 형들에게 앞질러지고 항상 양의 순번이나 짐의 순번 등을 맡았기 때문에 기력이 다해 강가에서 짐과 함께 남겨진 무리들의 마음을 잘 이해할 수 있었던 것이 아닐까요. 다윗은 여기서 왕처럼 행세하며 하나님의 나라를 건설하기 위한 새로운 법을 규정하고 있습니다. 이날부터 이 법은 이스라엘의 율례와 규레가 되었습니다. 그 「법」이란 한마디로 「은혜의 법」으로, 바로 예수님께서 제자들에게 비유에 따라 가르치신, 포도원에서 아침 일찍 고용된 노동자와 저녁 5시에 고용된 노동자의 임금이 같은 한 데나리온이었던 이야기와 똑같은 내용임을 깨닫게 됩니다. 하나님 나라의 은혜의 법은 세상의 기준으로 비추어 본다면 결코 공평할 수 없습니다. 왜냐하면 많이 일한 자나 적게 일한 자나 임금이 같기 때문입니다. 이래서는 용감하게 목숨을 걸고 아말렉과 싸운 사백 명의 무리들이 정당하게 평가되지 않는 것은 아닐까라는 것으로, 세상의 조직에서는 성립할 수 없는 법입니다. 하나님 나라에서 오직 하나님 백성의 공동체에만 성립되는 법입니다. 다윗은 다시 시글락으로 돌아오자 유다의 13개 마을 장로들에게 보내어 「보라 여호와의 원수에게서 탈취한 것을 너희에게 선사하노라」라고 말하면서 그 엄청난 전리품을 모두 함께 나누었습니다. 이것도 당시의 상식으로는 생각할 수 없는 일입니다. 왜냐하면 일번적으로 생각했던 한 나라의 왕이란 전쟁에서 사람들에 앞서 출전하지만 대신 백성을 착취하고 백성을 군사나 왕궁의 일꾼으로 삼으며 양과 당나귀를 가져가, 백성을 왕의 노예처럼 만드는 것이 보통이었기 때문입니다. 다윗은 세상의 왕 같지 않고 너그럽고 너무나 인심 좋은 왕이었고, 자기 자신을 백성에게 주는 왕이었습니다. 이것은 예수님의 모형이며, 다윗을 통해 유다 사람들은 하나님 나라의 도래를 미리 맛보고 있는 것입니다. 은혜의 지배에 있어서 세상의 상식이 완전히 뒤집혀 버립니다. 우리가 보기에 그것은 매우 불공평해 보이는 것이며, 우리의 이해를 넘어서는 것입니다. 그러나 그것은 하나님의 선택과 유기의 문제와 완전히 같으며, 하나님은 왜 어떤 사람을 원하시고 다른 사람은 원하시지 않았는지, 그들을 선택하고 다른 사람들을 유기하시는지 그 이유에 대해 우리는 전혀 이해할 수 없고, 인간적으로 본다면 불공평할 것 같기도 하지만, 하나님의 마음은 항상 의롭고, 거룩하며, 지혜롭고, 선한 것이며, 모든 일에 있어서 우리에게는 헤아릴 수 없는 하나님의 「정당한 이유」가 거기에 있다는 것입니다. 우리는 그것을 결코 이해할 수 없으며, 하나님의 헤아릴 수 없는 지혜를 이해하려고 해서도 안 됩니다. 다만 전능하신 하나님의 절대적 주권과 그 뜻 앞에 나가 빛 속에 머물며 그 안에서 안식하도록 초청 받았을 뿐입니다.

결론

이상에서 살펴보았드시 30장에는 다윗의 긍휼의 업적이 빛나고 있습니다. 다윗이 긍휼한 마음으로 애굽 소년을 극진히 간호함으로써 사태가 급전개 되었습니다. 아말렉인을 토벌한 뒤 브솔 시내로 돌아오자 다윗은 왕처럼 행세하며 역시 긍휼한 마음으로 전리품은 주님이 주신 것이라고 선언하고 모두 함께 나누기로 했습니다. 또 다윗은 시글락으로 돌아오자 유다의 13개 마을에 엄청난 전리품을 선심 쓰듯 나누었습니다. 이렇게 해서 다윗은 진정한 왕으로서 「하나님의 나라」를, 「은혜의 통치」를 차근차근 세워 나갔습니다. 왜 다윗은 그렇게 은혜가 넘치는 긍휼 어린 일을 할 수 있었을까요? 그것은 하나님의 말씀에 의한 은혜의 보증을 받았기 때문일 것입니다. 하나님께서「그를 쫓아가라 네가 반드시 따라잡고 도로 찾으리라」라고 분명히 말씀해 주셨고, 사랑하는 가족들이 생명이 구해진다는 것을 성령님께서 도장을 찍어주셨기 때문입니다. 하나님의 은혜와 말씀이 다윗에게 믿음을 주었고, 믿음은 다윗에게 하나님에 대한 은혜의 응답으로 바른 행실과 긍휼히 여기는 마음을 불러일으켜 주었습니다. 우리는 하나님의 은혜가 없으면 일절 선한 일을 할 수 없습니다. 우리가 자신의 힘에 의해 좋은 일을 할 수 있다고 결코 생각해서는 안됩니다. 우리는 하나님의 은혜가 없으면, 성령에 의하지 않고는 선한 일을 일절 할 수 없는 죄인이며 예수님을 믿을 수조차 없는 자입니다. 그것은 아무도 자랑할 수 없게 하기 위함입니다. 우리가 모든 좋은 일을 했을 때에도, 믿음을 가질 수 있는 것조차 성령의 은혜에 의한 것입니다. 성령이 다윗에게 보증을 주신 것처럼 마찬가지로 성령은 우리들의 마음에 구원과 영원한 생명의 보증의 인을 쳐주시니 우리는 회개와 믿음에 이끌리고, 그리고 그 믿음은 감사와 기쁨 속에서 은혜의 응답이라는 형태로 긍휼함의 열매를 맺게 해 주시는 것입니다. 고린도후서 1장 21,22절과 5장 5절을 보시겠습니다.

고린도후서1장

21 우리를 너희와 함께 그리스도 안에서 굳건하게 하시고 우리에게 기름을 부으신 이는 하나님이시니

22 그가 또한 우리에게 인치시고 보증으로 우리 마음에 성령을 주셨느니라

5장

5 곧 이것을 우리에게 이루게 하시고 보증으로 성령을 우리에게 주신 이는 하나님이시니라

다윗이 말씀의 보증을 받아 성령충만으로 하나님의 나라를 세워 갔듯이, 우리도 성령으로 말미암아 주어지는 믿음과, 그리고 믿음에서 우러나오는 선한 행실을 통해 이 땅에 하나님의 나라를 세워갑시다.

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