2020年03月22日「ペリシテ軍からの排除 블레셋 군으로부터의 배제」

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ペリシテ軍からの排除 블레셋 군으로부터의 배제

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 29章1節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

29:1ペリシテ人は、その軍勢をすべてアフェクに集結させた。イスラエル軍は、イズレエルにある一つの泉の傍らに陣を敷いた。
29:2ペリシテの武将たちはおのおの百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその兵はアキシュと共にしんがりを進んだ。
29:3ペリシテの武将たちは尋ねた。「このヘブライ人らは何者だ。」アキシュがペリシテの武将たちに答えた。「イスラエルの王サウルの僕であったダビデだ。彼はこの一、二年、わたしのもとにいるが、身を寄せて来たときから今日まで、わたしは彼に何の欠点も見いだせない。」
29:4だが、ペリシテの武将たちはいらだってアキシュに言った。「この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない。この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか。
29:5『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」
29:6アキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。お前はまっすぐな人間だし、わたしと共に戦いに参加するのをわたしは喜んでいる。わたしのもとに来たときから今日まで、何ら悪意は見られなかった。だが、武将たちはお前を好まない。
29:7今は、平和に帰ってほしい。ペリシテの武将たちの好まないことをしてはならない。」
29:8ダビデはアキシュに言った。「わたしが何をしたとおっしゃるのですか。あなたに仕えた日から今日までに、どのような間違いが僕にあって、わが主君、王の敵と戦うために出てはならないというのでしょう。」
29:9アキシュはダビデに答えた。「わたしには分かっている。お前は神の御使いのように良い人間だ。しかし、ペリシテの武将たちは、『彼は、我々と共に戦いに上ってはならない』と言うのだ。
29:10だからお前も、お前と一緒に来たお前の主君の部下も、明日の朝早く起きて、日が昇ったら出発しなさい。」
29:11ダビデとその兵は朝早く起きて出発し、ペリシテの地へ引き返して行った。ペリシテ軍はイズレエルに向かった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 29章1節~11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

序論

28章において、サウルが苦々しさの内に、夜立ち去ったことによって終わっているのとは対照に、本日の29章は、ダビデが「朝早くに立った」という記事によって終わっています。この「朝」という言葉には、ダビデの喜びの気持ちが現わされているようです。ダビデが喜びで満たされた理由について本日は見て行きたいと思います。ダビデのペリシテにおける亡命生活は、一年と四か月が経ちました。その間、ダビデはガトの王アキシュ王と信頼関係を結び、平和に過ごすことが出来たのですが、突如、問題が発生します。ペリシテ軍がいよいよイスラエルと戦争を始めるということになり、ダビデも出陣するように命令が下ったのです。ダビデが、もし戦争に加わり、神の民イスラエルに手を出すようなことがあれば、イスラエルの王としての資格をなくしてしまう事でしょう。ダビデは、アキシュに対し自分の心の内を暴露するわけにはいきませんので、あいまいな言葉で返事をしながら、ずるずると引きずられて行き、とうとうアフェクに集結してペリシテの連合軍のパレードに参加するまでに至りました。ダビデとアキシュはパレードの最後尾に隊をなしていました。恐らくダビデの軍隊は通常、ペリシテ人たちが持っていた武器とは異なる武器を持っていたものと思われますし、ましてや服装を見れば明らかにイスラエル人ということが分かる特色ある格好をしていたと思われますので、ペリシテ人から見るとアキシュの後ろに、見慣れない軍隊が登場し仰天したことでしょう。今からまさにイスラエルと戦おうとしているのに、最後の部隊は一体何なのか、ということです。領主たちは当然のように、この部隊に対して疑いの目を向けました。以前にもペリシテ軍は、イスラエル軍を前にして身内の反乱によって痛い敗北を喫したことがありました。それはヨナタンと道具持ちがペリシテの陣営に切り込んでいった時に、ペリシテ軍は大混乱に陥り同士討ちをはじめてしまったのです。しかし、アキシュだけは、ダビデに深い信頼を寄せていたので、他の領主たちを説得しようと試みます。領主たちが思い描いているダビデの姿と、アキシュが思い描いているダビデの姿の果たしてどちらが正しいのでしょうか。3~5節を御覧ください。

主題1 アキシュの言葉が正しいのか、ペリシテの武将たちの言葉が正しいのか

“ペリシテの武将たちは尋ねた。「このヘブライ人らは何者だ。」アキシュがペリシテの武将たちに答えた。「イスラエルの王サウルの僕であったダビデだ。彼はこの一、二年、わたしのもとにいるが、身を寄せて来たときから今日まで、わたしは彼に何の欠点も見いだせない。」だが、ペリシテの武将たちはいらだってアキシュに言った。「この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない。この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか。『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」”

「ヘブライ人」という言葉は、イスラエル人を侮蔑する差別用語のようなものでありまして、意味としてはペリシテ人の繁栄を脅かし、秩序を乱す「君主や、国家を持たない者たち」という意味です。ダビデの軍隊は、まさに君主を持たない、チンピラどもの集まりではないのか?と問い詰めているのです。そして以前ダビデが、ガト人ゴリアトを倒した時に、イスラエルによって歌われた「勝利の歌」を取り上げて警戒心をあおります。~“サウルは千を討ち、ダビデは万を討った”~この歌は、サウル王が聞いた時、自分の王位とダビデとの間の緊張関係を現わし、ダビデに対する憎しみとなりましたが、ペリシテ人がこの歌を聞いたとき、ダビデとサウルの二人の連帯を祝う歌として聞こえてくるのです。つまり二人が軍事的功績を分かち合いながら、絶妙なコンビネーションによって戦争に勝利していく姿が目に浮かぶのでした。それにもかかわらず、アキシュはサウルとダビデの間に生じていた決定的な確執を鋭く読み取っていました。実際、この頃、マナセの人々がサウル王を見限り、ダビデの軍隊に従って来るという現象も起こっていたのです。1歴代誌12:20には次のような記事があります。

“ダビデがペリシテ人と共にサウルと戦おうとしたとき、マナセ族からもダビデにつく者があったが、彼らがこの戦いに力を貸すことはなかった。なぜならペリシテの領主らは協議し、「ダビデは我々の首を持ってその主君サウルのもとに降るに相違ない」と言って、ダビデを帰らせたからである。”

サウルとダビデの間には、ペリシテの武将たちが考えるような連帯はない、とアキシュは読んでいました。ここ1~2年のダビデのアキシュに対する忠実さは、サウルとダビデの関係が完全に破綻していて、もはや修復不可能であるということの、裏側の側面であることを知っていたのです。アキシュは他のペリシテの武将たちの知らない、もっと深いところでダビデを理解していたと言えるでしょう。ところが実は、アキシュの理解もダビデの姿のほんの一面に過ぎませんでした。そのことは、29章の全体に渡って「アドナイ(主、主君)」というヘブル語が出て来ますが、この言葉の解釈を明確にするときに、明らかにされます。最初に武将たちのアドナイの解釈を見てみましょう。4節で、武将たちが次のように言っています。“この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか”ここで「主人」という言葉がヘブル語のアドナイという言葉ですが、これは誰を指しているでしょうか?サウル王を指していますね。続いてアキシュに目を移していきましょう。アキシュは結局、武将たちを説得することができず、ダビデの部隊にツィクラグへ帰ってもらうようにします。10節で、アキシュが次のように言っています。“だからお前も、お前と一緒に来たお前の主君の部下も、明日の朝早く起きて、日が昇ったら出発しなさい。”ここで「お前の主君の部下も」という言葉の「主君」がアドナイという言葉ですが、これは誰を指しているでしょうか?アキシュ自身のことを指していますね。それでは、最後にダビデの言葉を見てみましょう。ダビデはアキシュによって「平和に元のツィクラグに帰ってほしい。」と告げられた時に、8節で次のように言っています。“どのような間違いが僕にあって、わが主君、王の敵と戦うために出てはならないというのでしょう。”ここで「わが主君」という言葉の「主君」がアドナイですが、これはアキシュを指しているでしょうか。それとも、サウルを指しているでしょうか?一見、アキシュを指しているように見えますが、しかし、これまでダビデはアドナイという言葉を何度か使用してきましたが、いずれもサウルにのみ使用しています。24:11においても、26:17~19においても、アドナイという言葉をサウルに用いています。一か所引いてみましょう。26:17を御覧ください。

“サウルはダビデの声と気づいて、言った。「この声はわが子、ダビデではないか。」ダビデは答えた。「わが主君、王よ。わたしの声です。”

ダビデにとって主君は、サウル王以外にはいませんでした。アキシュに対し「主君アドナイ」を用いたことは一度もありません。ですからダビデは、ここでもアキシュに対して、どっちにもとれるあいまいな返事をしながらも、実はサウルを指していると考えられます。つまりダビデのことをよく知らなかったペリシテの武将たちの見解の方が正しかったことになります。アキシュはサウルとダビデの二人の関係を正確に把握していましたが、ダビデが主なる神への信仰を持つ者であり、敵をも愛し、復讐を主に委ねるキリスト者であるという所までは理解が及ばなかったということです。

主題2 塞翁が馬に譬えられるキリスト者の人生

皆さんは「塞翁が馬」の話を知っているでしょうか。ある日、老人の飼っていた馬が、突然国境の外に、逃げていってしまいました。人々が見舞いにやってくると、この老人は「今度のことは福を呼び込んでくれるかもしれんよ」と言います。それから何か月かして、この逃げた馬がなんと、隣国の立派な馬を何頭か引き連れて戻ってきました。人々がまたやってきて「良かった、良かった」と祝福すると老人は、「今度のことは災いをもたらすかもしれんよ」と言います。この老人の家では良馬をたくさん飼っていたのですが、ある日、老人の息子が馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。人々が見舞いにやってくるとこの老人は、「今度のことは良いことかもしれんよ」と言います。それから一年が過ぎ、隣国が攻め込んで来たので、体の丈夫な男子は皆兵隊に取られてしまいました。彼らの多くは戦死しましたが、老人の息子は足を悪くしていたため徴兵を免れて、親子ともども命拾いしたという話です。主は私たちと共におられることには間違いありませんが、私たちは、神さまの摂理の全体像を決して見ることが出来ないという点において、まさに私たちの人生全体も「塞翁が馬の物語」に譬えられるのです。私たちの人生を通して、突然災いが来ることもありますし、場合によっては、結果的にそれが災いとはならなかったり、或いは、突然幸運がやって来ても、却ってそれが原因となり、とんでもないことが引き起こされたりします。ですから、極端な話ですが、私たちが祈った祈りの内容を、神さまがその通りに全て応えてくださるのなら、どうでしょうか。これは大変なことになってしまうでしょう。なぜなら、私たちの祈りというのは、主観的で、個人的な肉欲に関連した祈祷課題がどうしても多くなってしまうからです。確かに神さまは私たちの祈りに耳を傾けてくださいますが、神様の私たちに対する祈りの答えは、私たちの考えを遥かに超えているのです。神さまは私たちと共におられますが、神さまの全体像を私たちが見ることが出来ないということを覚えましょう。そのことは、30章に読み進んで行くとはっきりします。ダビデは、神さまによってツィクラグへ戻るようにされますが、その緊急の理由として、ちょうどその頃、ツィクラグの残された家族たちがアマレクの襲撃に会い、彼らを救うために、間一髪のタイミングでダビデの部隊を引き返されたということが分かるのです。ですから、道が閉ざされたように見えることが起こっても、すっかり絶望して問題の木だけを見つめるのではなく、主が共におられることを決して疑わないで、考えを一時保留にしながら、森全体を見るように努力すべきです。時間が経って、後で振り返って見る時に、始めて森全体がぼんやりと見えてくるからです。

アキシュからの言葉によって神の臨在を確信するダビデ

ダビデは、アキシュの口から出る一言一言の言葉を通しても、主が共におられることを確信することができました。アキシュが、武将たちの意見を受け入れ、自分の考えを無理に押し通すことをせず、ダビデに対し、退陣してもらうように要求しますが、アキシュはあえてダビデの信じている神さまの名によって誓いながら、退陣の要求を、腹を立てないで受け入れてほしいと願っています。6節を御覧ください。

“アキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。お前はまっすぐな人間だし、わたしと共に戦いに参加するのをわたしは喜んでいる。わたしのもとに来たときから今日まで、何ら悪意は見られなかった。だが、武将たちはお前を好まない。”

当然アキシュは、主なる神を信じていたわけではありませんが、ダビデの誠実で良い人柄を伝えようと、ダビデの信じているヤハウェの名によって誓っています。この時、ダビデの心中は、「やったー!出陣することから免れた!」と、どれほどうれしかったでしょうか。そして、それにもまして、まさか、アキシュの口から主の御名が出て来たことに驚いたことでしょう。この出来事の背後に間違いなく主の摂理が働いていることをダビデは感じ取ることが出来たのではないでしょうか。この後ダビデが、アキシュに対して“わたしが何をしたとおっしゃるのですか。あなたに仕えた日から今日までに、どのような間違いが僕にあって、わが主君、王の敵と戦うために出てはならないというのでしょう。”と言ったのは、このように悔しさをにじませて言うことによって、アキシュに怪しまれないようにするためだと考えられますが、すると、アキシュの口から、なんと、次のような言葉が出て来ました。9節の途中からお読みします。

“お前は神の御使いのように良い人間だ。しかし、ペリシテの武将たちは、『彼は、我々と共に戦いに上ってはならない』と言うのだ。だからお前も、お前と一緒に来たお前の主君の部下も、明日の朝早く起きて、日が昇ったら出発しなさい。”

お前は「神の御使いのように」良い人間だと形容されたのです。アキシュの口から出る一言一言によって、ダビデは、主の憐みを感じないではいられなかったことでしょう。自分がたとえ神さまの嗣業の地から離れ、今このように異邦人の地にいたとしても、主は共にいてくださり、全能の力によって守り導いて下さるということを確信し、神さまに心から感謝をささげたことでしょう。こうしてダビデは翌日の朝早く、アフェクを出発し、ツィクラグに引き返し、一方ペリシテの連合軍は、ダビデと背を向けるようにイズレエルに北上して行ったのです。

結論

主はどのような時にも私たちと共におられます。たとえ今日のように全世界的に新型コロナウィルスが蔓延しても、たとえ、自分自身がそれに感染してしまったとしても、主がダビデと共におられたように、私たちと共におられます。私たちは、もしそのような不幸が自分たちの身に及んだとしても、問題の木だけをひたすら見つめるのではなく、共におられる神さまを信じ、神さまの摂理全体を見ることが出来るように祈ってまいりましょう。神さまの摂理は私たちの考えを遥かに超えているからです。最後にイザヤ書55:9をお読みします。

“天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。”

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블레셋 군으로부터의 배제

2020년 3월 22일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

사무엘상 29장 1~11절

서론

28장에서 사울이 괴로움 가운데 밤에 떠나면서 끝난 것과 대조적으로 오늘의 29장은 다윗이 「아침에 일찍이 일어나서 떠나」라는 기사로 끝이 났습니다. 이 「아침」이라는 말에는 다윗의 기쁜 마음이 드러나 있는 것 같습니다. 다윗이 기쁨으로 가득 찬 이유에 대해서 오늘 알아보도록 하겠습니다. 다윗의 블레셋에서의 망명 생활은 1년 4개월이 지났습니다. 그동안 다윗은 가드의 왕인 아기스 왕과 신뢰관계를 맺고 평화롭게 지낼 수 있었는데 갑자기 문제가 발생합니다. 블레셋 군이 드디어 이스라엘과 전쟁을 시작하게 되었고 다윗에게도 출전하라는 명령이 내려졌던 것입니다. 다윗이 만약 전쟁에 가담하여 하나님의 백성 이스라엘에 손을 대는 일이 생기면 이스라엘 왕의 자격을 잃어버릴 것입니다. 다윗은 아기스에게 자신의 속마음을 폭로할 수 없으니 애매한 말로 대답을 하면서 질질 끌려갔고, 마침내 아벡에 집결해 블레셋의 연합군 퍼레이드에 참가하기에 이르렀습니다. 다윗과 아기스는 퍼레이드의 맨끝에 대를 이루고 있었습니다. 아마도 다윗의 군대는 보통 블레셋 사람들이 가지고 있던 무기와는 다른 무기를 가지고 있었을 것이고, 하물며 복장을 보면 분명히 이스라엘인이라는 것을 알 수 있는 특색 있는 모습을 하고 있었을 것으로 생각되므로 블레셋 사람들이 보기에 아기스 뒤에 낯선 군대가 등장해 몹시 놀랐을 것입니다. 지금부터 바로 이스라엘과 싸우려고 하는데 마지막 부대는 도대체 무엇인가 하는 것입니다. 방백들은 당연하다는 듯이 이 부대에 대해 의심의 눈초리를 보냈습니다. 이전에도 블레셋 군대는 이스라엘 군대를 앞에 두고 내분으로 인해 아픈 패배를 당한 적이 있었습니다. 그것은 요나단과 무기 든 자가 블레셋의 진영으로 숨어 들어 왔을 때, 블레셋 군은 대혼란에 빠져 서로 공격을 했었습니다. 그러나 아기스만은 다윗을 깊이 신뢰했었기 때문에 다른 방백들을 설득하려고 시도합니다. 방백들이 생각하는 다윗의 모습과 아기스가 생각하는 다윗의 모습 중 과연 어느 것이 옳은 것일까요? 3~5절을 보시죠.

주제 1 아기스의 말이 옳은가, 블레셋 방백들의 말이 옳은가

3블레셋 사람들의 방백들이 이르되 이 히브리 사람들이 무엇을 하려느냐 하니 아기스가 블레셋 사람들의 방백들에게 이르되 이는 이스라엘 왕 사울의 신하 다윗이 아니냐 그가 나와 함게 있은 지 여러 날 여러 해로되 그가 망명하여 온 날부터 오늘까지 내가 그의 허물을 보지 못하였노라

4 블레셋 사람의 방백들이 그에게 노한지라 블레셋 방백들이 그에게 이르되 이 사람을 돌려보내어 왕이 그에게 정하신 그 처소로 가게 하소서 그는 우리와 함께 싸움에 내려가지 못하리니 그가 전장에서 우리의 대적이 될까 하나이다 그가 무엇으로 그 주와 다시 화합하리이까 이 사람들의 머리로 하지 아니하겠나이까

5 그들이 춤추며 노래하여 이르되 사울이 죽인 자는 천천이요 다윗은 만만이로다 하던 그 다윗이 아니니이까 하니

「히브리 사람들」이라는 말은 이스라엘 사람을 모멸하는 차별 용어와 같은 것으로 의미는 블레셋 사람들의 번영을 위협하고 질서를 어지럽히는 「군주나 국가가 없는 자들」이라는 뜻입니다. 다윗의 군대는 바로 군주가 없는 졸개들의 모임이 아닌가? 라고 따지고 있는 것입니다. 그리고 예전에 다윗이 가드 사람 골리앗을 물리쳤을 때 이스라엘에 의해 부르던 「승리의 노래」를 거론하며 경계심을 보입니다. 「사울이 죽인 자는 천천이요 다윗은 만만이로다」이 노래는 사울 왕이 들었을 때 자신의 왕위와 다윗 사이의 긴장관계를 드러내며 다윗에 대한 미움이 생겼는데, 블레셋 사람이 이 노래를 들었을 때는 다윗과 사울 두 사람의 연대를 축하하는 노래로 들려오는 것입니다. 즉 두 사람이 군사적 공적을 나누면서 절묘한 조합으로 전쟁에서 승리해 가는 모습이 눈에 선했습니다. 그럼에도 불구하고 아기스는 사울과 다윗 사이에 생겼던 결정적인 불화를 예리하게 읽어내고 있었습니다. 사실 이 무렵 므낫세 사람들이 사울 왕을 단념하고 다윗의 군대를 따라오는 현상도 일어나고 있었습니다. 역대상 12장 19절에는 다음과 같은 기사가 있습니다.

다윗이 전에 블레셋 사람들과 함께 가서 사울을 치려 할 때에 므낫세 지파에서 두어 사람이 다윗에게 돌아왔으나 다윗 등이 블레셋 사람들을 돕지 못하였음은 블레셋 사람들의 방백이 서로 의논하고 보내며 이르기를 그가 그의 왕 사울에게로 돌아가리니 우리 머리가 위태할까 하노라 함이라

사울과 다윗 사이에는 블레셋의 방백들이 생각하는 것과 같은 연대는 없었다고 아기스는 읽고 있었습니다. 최근 1,2년 사이의 다윗의 아기스에 대한 충실함은 사울과 다윗의 관계가 완전히 파탄나 더 이상 복원 불가능하다는 것의 뒷 사정을 알고 있었기 때문입니다. 아기스는 다른 블레셋의 방백들이 모르는 더 깊은 부분에서 다윗을 이해하고 있었다고 할 수 있을 것입니다. 그런데 사실 아기스의 이해도 다윗의 모습의 한 단면에 불과했습니다. 그 사실은 29장 전체에 걸쳐서 「아도나이(주군)」라는 히브리어가 나오는데 이 말의 해석을 명확히 할 때 밝혀집니다. 먼저 방백들의 아도나이의 해석을 살펴보겠습니다. 4절에서 방백들이 다음과 같이 말하고 있습니다. 「그가 무엇으로 그 주와 다시 화합하리이까 이 사람들의 머리로 하지 아니하겠나이까」여기서 「주」라는 말이 히브리어로 「아도나이」라는 말인데, 이것은 누구를 가리키고 있을까요? 사울 왕을 가리키고 있네요. 이어서 아기스로 눈을 돌려 볼까요? 아기스는 결국 방백들을 설득하지 못하고 다윗의 부대가 시글락으로 돌아가도록 합니다. 10절에서 아기스가 다음과 같이 말하고 있습니다. 「그런즉 너는 너와 함께 온 네 주의 신하들과 더불어 새벽에 일어나라 너희는 새벽에 일어나서 밝거든 곧 떠나라」여기서 「너는 너와 함께 온 네 주의 신하들도」라는 말의 「주」가 「아도나이」라는 말인데, 이것은 누구를 가리키고 있을까요? 아기스 자신을 가리키고 있습니다. 자, 그럼 마지막으로 다윗의 말을 살펴보겠습니다. 다윗은 아기스로부터 「이제 너는 평안히 돌아가서」라고 들었을 때 8절에서 다음과 같이 말하고 있습니다. 「내가 무엇을 하였나이까 내가 당신 앞에 오늘까지 있는 동안에 당신이 종에게서 무엇을 보셨기에 내가 가서 내 주 왕의 원수와 싸우지 못하게 하시나이까」여기서 「내 주」라는 말의 「주」가 「아도나이」인데 이것은 아기스를 가리키고 있을까요? 아니면 사울을 말하는 것일까요? 언뜻 보기에는 아기스를 가리키는 것처럼 보이지만 그러나 지금까지 다윗은 「아도나이」라는 말을 여러 번 사용해 왔지만 모두 사울에게만 사용하고 있습니다. 24장 10절에서도 26장 17~19절에서도 「아도나이」라는 말을 사울에게 사용하고 있습니다. 한 군데 뽑아 보죠. 26장 17절을 보십시오.

사울이 다윗의 음성을 알아 듣고 이르되 내 아들 다윗아 이것이 네 음성이냐 하는지라 다윗이 이르되 내 주 왕이여 내 음성이니이다 하고

다윗에게 주군은 사울 왕외에는 없었습니다. 아기스에 대해 「주(아도나이)」를 사용한 적은 한 번도 없습니다. 그래서 다윗은 여기서도 아기스에게, 어느 쪽으로도 해석 할 수 있는 애매한 대답을 하면서도 실은 사울을 가리킨다고 생각됩니다. 즉 다윗을 잘 몰랐던 블레셋의 방백들의 견해가 더 옳았던 셈입니다. 아기스는 사울과 다윗 두 사람의 관계를 정확히 파악하고 있었지만, 다윗이 주 하나님에 대한 믿음을 가진 자이고 원수도 사랑하며 복수를 주님께 맡기는 그리스도인이라는 것에 까지는 이해가 미치지 못했다는 것입니다.

주제 2 새옹지마 그리스도인의 삶

여러분은 「새옹지마 이야기」를 알고 계실까요? 어느 날 한 노인이 기르던 말이 갑자기 국경 밖으로 도망쳐 버렸습니다. 사람들이 방문을 오자 이 노인은 “이번 일은 복을 불러줄지도 몰라요”라고 말합니다. 그로부터 몇달 후, 이 도망친 말이 무려 이웃 나라의 훌륭한 말을 몇 마리 데리고 돌아왔습니다. 사람들이 다시 찾아와서는 “잘 됐어요, 잘 됐어요”라고 축하하자 노인은 “이번 일은 재앙을 불러올지도 몰라요”라고 말합니다. 이 노인의 집에서는 좋은 말을 많이 기르고 있었는데, 어느 날 노인의 아들이 말에서 떨어져 다리뼈가 부러져 버렸습니다. 사람들이 병문안을 오자 이 노인은 “이번 일은 좋은 일일지도 몰라요”라고 말합니다. 그로부터 1년이 지나, 이웃 나라가 쳐들어 왔기 때문에 몸이 건장한 남자는 모두 병사로 착출되고 말았습니다. 그들 중 상당수는 전사했지만 노인의 아들은 다리에 장애가 있어 징병을 면하고 부모와 자식 모두 목숨을 건졌다는 이야기입니다. 주님은 우리와 함께 하실 것임에는 틀림없지만, 우리는 하나님의 섭리의 전체상을 결코 볼 수 없다는 점에서 바로 우리 삶 전체도 「새옹지마 이야기」에 비유되는 것입니다. 우리 인생을 통해 갑자기 재앙이 올 수도 있고, 경우에 따라서는 결과적으로 그것이 재앙이 되지 않거나, 혹은 갑자기 행운이 찾아와도 도리어 그것이 원인이 되어 어처구니 없는 일이 일어나기도 합니다. 그러니까 극단적인 이야기지만 우리가 기도한 기도의 내용을 하나님께서 그대로 다 응답해 주신다면 어떨까요? 이거 큰일 나잖아요. 왜냐하면 우리의 기도라는 것은 주관적이고 개인적인 육의 욕심과 관련된 기도 제목이 아무래도 많아지기 때문입니다. 분명 하나님은 우리의 기도에 귀를 기울여 주시지만, 하나님의 우리에 대한 기도의 답은 우리의 생각을 훨씬 뛰어넘는 것입니다. 하나님은 우리와 함께 계시지만 하나님의 전체상을 우리가 전부 볼 수는 없다는 것을 기억합시다. 그 일은 30장을 읽어 가면 분명해집니다. 다윗은 하나님에 의해 시글락으로 돌려보내지는데 그 긴급한 이유로 바로 그 무렵 시글락의 남은 가족들이 아말렉의 침노를 받아 그들을 구하기 위해 아슬아슬한 타이밍에 다윗의 부대가 회향당했다는 것을 알 수 있는 것입니다. 그러므로 길이 막힌 것처럼 보이는 일이 벌어지더라도 완전히 절망하여 문제의 나무만 바라볼 것이 아니라 주님이 함께 하실 것을 결코 의심하지 말고 생각을 잠시 보류하면서 숲 전체를 보도록 노력해야 합니다. 시간이 지나고 나중에 뒤 돌아봤을 때 비로서 숲 전체가 희미하게 보이기 때문입니다.

주제 3 아기스의 말에 의해 하나님의 임재를 확신하는 다윗

다윗은 아기스의 입에서 나오는 한 마디 한 마디 말을 통해서도 주님이 함께 하실 것임을 확신할 수 있었습니다. 아기스가 수령들의 의견을 받아들여 자신의 생각을 무리하게 밀어붙이지 않고 다윗에게 퇴진하라고 요구하지만 아기스는 감히 다윗이 믿는 여호와의 이름으로 맹세하면서 퇴진 요구를 화내지 말고 받아들이길 바라고 있습니다. 6절을 보시죠.

아기스가 다윗을 불러 그에게 이르되 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하노니 네가 정직하여 내게 온 날부터 오늘까지 네게 악이 있음을 보지 못하였으니 나와 함께 진중에 출입하는 것이 내 생각에는 좋으나 수령들이 너를 좋아하지 아니하니

당연히 아기스는 여호와 하나님을 믿었던 것은 아니지만, 다윗의 성실하고 좋은 성품을 전하고자 다윗이 믿는 여호와의 이름으로 맹세하고 있습니다. 이때 다윗의 마음은 “됐다! 출진하는 것에서 벗어났다!”며 얼마나 기뻤을까요? 그리고 그 때문에 설마 아기스의 입에서 여호와의 이름이 나온 것에 놀랐을 것입니다. 이 사건의 배후에 틀림없이 주님의 섭리가 작용하고 있음을 다윗은 느낄 수 있었던 것은 아닐까요? 이후 다윗이 아기스에게 「내가 무엇을 하였나이까 내가 당신 앞에 오늘까지 있는 동안에 당신이 종에게서 무엇을 보셨기에 내가 가서 내 주 왕의 원수와 싸우지 못하게 하시나이까」라고 말한 것은, 이처럼 분함을 나타내 보임으로서 아기스에게 의심을 받지 않도록 하기 위한 것이라고 생각되는데, 그러자 아기스의 입에서 무려 다음과 같은 말이 나왔습니다. 9절 중간부터 읽어드릴게요.

9 .. 네가 내 목전에 하나님의 전령 같이 선한 것을 내가 아나 불레셋 사람들의 방백들은 말하기를 그가 우리와 함께 전장에 올라가지 못하리라 하니

10 그런즉 너는 너와 함께 온 네 주의 신하들과 더불어 새벽에 일어나라 너희는 새벽에 일어나서 밝거든 곧 떠나라 하니라

너는 「하나님의 전령 같이」선한 사람이라고 형용된 것입니다. 아기스의 입에서 나오는 말 한마디 한마디로 인해 다윗은 주님의 긍휼하심을 느끼지 않을 수 없었을 것입니다. 자신이 비록 하나님의 기업의 땅을 떠나 지금 이렇게 이방인의 땅에 있다 하더라도 주님은 함께 해주시고 전능하신 능력으로 지켜 주시고 이끌어주실 것을 확신하며 하나님께 진심으로 감사를 드렸을 것입니다. 이렇게 해서 다윗은 다음날 아침 일찍 아벡을 출발해서 시글락으로 되돌아 갔고 반면 블레셋 연합군은 다윗과 등을 돌리듯 이스르엘로 북상해 간 것입니다.

결론

주님은 어떤 때에도 우리와 함께 계십니다. 비록 오늘날처럼 전 세계적으로 코로나 19 바이러스가 창궐하더라도 비록 자기 자신이 그것에 감염되어 버렸다하더라도, 주님이 다윗과 함께 하셨듯이 우리와 함께 계십니다. 우리는 만약 그런 불행이 자신들의 몸에 미치더라도 문제의 나무만 바라보지 말고 함께 계신 하나님을 믿고 하나님의 섭리 전체를 볼 수 있도록 기도해 갑시다. 하나님의 섭리는 우리의 생각을 훨씬 뛰어넘기 때문입니다. 마지막으로 이사야서 55장 9절을 읽겠습니다.

이는 하늘이 땅보다 높음 같이 내 길은 너희의 길보다 높으며 내 생각은 너희의 생각보다 높음이니

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