2020年03月15日「誰の声に聞き従うのか 누구의 음성을 청종할 것인가」

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誰の声に聞き従うのか 누구의 음성을 청종할 것인가

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 28章3節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

28:3サムエルが死んだとき、全イスラエルは彼を悼み、彼の町ラマに葬った。その時、すでにサウルは国内から霊媒や口寄せを追放していた。
28:4ペリシテ人は集結すると、シュネムに来て陣を敷いた。サウルも全イスラエルを集めてギルボアに陣を敷いた。
28:5ところがサウルはペリシテ人の軍勢を見て、恐れをなし、ひどくおびえた。
28:6サウルは主に伺いを立てることを求めたが、主は夢によっても、ウリムによっても、また預言者によってもお答えにならなかった。
28:7サウルは家臣たちに言った。「霊媒の女を探してくれ。私が彼女のところに行って尋ねてみよう。」家臣たちは言った。「霊媒の女なら、たしかエン・ドルにいます。」
28:8そこでサウルは変装して衣を替え、二人の供の者を連れ、夜になってその女のところへ行った。サウルは言った。「どうか、これから私が話すことを、霊媒によって占ってほしい。」
28:9するとその女は言った。「あなたはサウルがしたことをご存じでしょう。サウルは霊媒と口寄せをこの地から滅ぼしました。なぜあなたは私を罠にかけ、殺そうとするのですか。」
28:10サウルは主にかけて誓い、女に言った。「主は生きておられる。このことで、あなたが罰を負うことは決してない。」
28:11女は言った。「誰を呼び寄せましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び寄せてもらいたい。」
28:12その女はサムエルを見ると、大声で叫び、サウルに言った。「なぜ私を欺いたのですか。あなたはサウル様ではありませんか。」
28:13王は言った。「恐れなくてもよい。何が見えるのか。」女はサウルに言った。「神のような方が地から上って来るのが見えます。」
28:14サウルはその女に言った。「どんな姿だ。」女は言った。「老人が上って来ます。上着をまとっています。」サウルはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。
28:15サムエルはサウルに言った。「なぜ私を呼び寄せ、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困り果てています。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神は私から離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべきことを教えていただくためです。」
28:16サムエルは言った。「なぜ私に尋ねるのか。主があなたを離れ去り、あなたの敵となられたのだ。
28:17主は、私を通して告げられたことを実行された。王国をあなたの手から引き裂き、あなたの隣人であるダビデにお与えになった。
28:18あなたは主の声に従わず、アマレクに対する主の燃える怒りを遂行しなかったので、主は今、あなたに対しこのようにされるのだ。
28:19主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。明日、あなたとあなたの息子たちは、私と共にいるだろう。また主はイスラエルの軍隊をペリシテ人の手に渡される。」
28:20するとサウルは卒倒して、地に倒れ、棒のようになった。サムエルの言葉におびえたのである。また、この日は何も食べておらず、力が尽きていたからである。
28:21女はサウルに近づき、サウルが非常におびえているのを見て、言った。「仕え女はあなたの声に従いました。命を懸けて、あなたが言われたことに従ったのです。
28:22今度は、仕え女の声に従ってください。ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がってください。お帰りになる力がつくでしょう。」
28:23サウルは断って、「私は食べない」と言った。しかし家臣もその女も強く勧めたので、彼らの声に従い、地から身を起こして、台座の上に座った。
28:24女の家には肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。
28:25女がサウルと家臣にそれを差し出すと、彼らはそれを食べて、その夜のうちに立ち去った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 28章3節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

ダビデが窮地に追い込まれていく中で、サムエル記の著者は一転してサウルの状況に目を向けるようにさせます。その頃、サウル王もダビデと同じように窮地に追い込まれていました。サウルにこのような危機的状況をもたらしたのは、サウル王を実質的に支えていた預言者サムエルの死によるということを確認させるかのように、もう一度ここで、サムエルが死んだ時点へ振り返るようにさせています。地図を御覧ください。地中海沿岸にペリシテ人の領地がありまして、アキシュの都であるガトがあります。ガトからさらに上に上っていくとちょうどシロの西側延長線上にアフェクという町が確認できます。ペリシテ軍は、イスラエルとの総力戦に臨むために、五つの同盟領主が連合し、このアフェクに集まりました。ダビデはここで、戦いには参加することが許されず、ツィクラグに戻るようにさせられます。ペリシテの連合軍は、アフェクからさらに北東に上り、ガリラヤ湖の南西のイズレエルの渓谷にシュネムという町に上ってきました。実にガトから、シュネムまでの移動距離は120キロにもなります。ペリシテ軍がこのように移動した目的は、イスラエル軍を南北に完全に分断させて、北部を孤立させることを狙っていたと考えられます。サウルはギルボア山から、イズレエルの渓谷に陣取っているペリシテの連合軍を見て、震え慄きました。このような危機的状況において、頼りのサムエルはもういません。幻や夢を通しても神は沈黙され、さらにサウルは自分で、ノブの祭司たちを殺してしまったので、預言によってもウリムとトンミムによっても神は語ってくれませんでした。サウルは、イスラエルの国内で口寄せや魔術師を禁止していましたが、自ら口寄せの出来る女を捜し、エンドルにいるということが分かりました。エンドルの場所を確認してみましょう。ペリシテ軍が陣取っているシュネムの北東に、わずかしか離れていないのが分かります。サウルは危険を冒してでも、変装して、二人の兵だけを連れて、夜、目立たないように、その女の所に出かけて行きました。

主題1 サウルの罪とダビデの罪

律法によると、口寄せや霊媒は禁じられています。なぜなら、口寄せする者や、霊媒する者とは、自分の体の中に悪霊を住まわせて、悪霊に語らせるために、占ってもらう人は、悪霊の声に聞き従う罪を犯すことになり、これは偶像崇拝であって、神の御声に聞き従うことの全く正反対の行為だからです。以前サムエルがサウルを批判した言葉を思い起こしてみましょう。15:22~23を御覧ください。

“サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる。”

サウルは、生贄を捧げたり、律法を形式的に守ることにおいては、抜かりがありませんでしたし、民の声にもよく耳を傾ける性質がありました。しかし、肝心の神さまの御言葉に対しては、頑ななまでに不従順で、いつも神さまとの交わりを拒絶していました。まさにサウルのこの習慣こそ、占いの罪であり、偶像崇拝の罪なのです。今回も、口寄せを通して、ペリシテとの戦いにおける勝利の保証を頂こうと、自ら追放したはずの口寄せの女の所へ出て行くことに決めました。ここでサウルが犯した罪は、ダビデが犯した罪と似たような共通点があります。つまり二人とも、もうどうしようもない所にまで追い込まれて、神様の御声を求めずに、敵の懐に入っていき、そして敵を欺こうとしているのです。ダビデの場合、ペリシテの地に亡命して、ペリシテの友好国を襲いながら、ネゲブ地方のユダ部族を襲ったと嘘をついて、アキシュを騙し続けました。サウルの場合、口寄せの女を騙して、最初は自分の依頼を断られますが、神に誓約を立てながら次のように言っています。10節を御覧ください。

“サウルは主にかけて女に誓った。「主は生きておられる。この事であなたが咎を負うことは決してない。」”

このサウルの誓約自体、とんでもない内容であり、主の御名の矛盾した用い方であります。サウルにおいて、主に対する恐れ、主を敬う心が全くなかったということが分かりますが、いずれにしてもサウルは女を騙して言いくるめることに成功しました。従って、ダビデは敵陣へ入り込み、偽りと虐殺の罪を犯し、サウルも敵陣に入り込み、偽りと、占いの罪を犯したと言うことが出来るのです。

主題2 悪霊の仕業による欺き

ところで、この口寄せの女が呼び出したサムエルの霊は、実際、サムエルなのか、或いは自称サムエルと名乗る悪霊にすぎないのか、色々と議論があります。カルヴァンやルターなどの解釈によれば、本当のサムエルではなく悪霊の仕業であるとしています。というのは、聖書には、死者の霊を呼び出したり、死者の姿が現れるこということが全面的に否定されているからです。ただし新約聖書で、変貌山においてモーセとエリヤがイエス様と一緒に現れた記事がありますが、これは人を介したのではなく、神さまを通してなされた業なので例外とされます。普通、聖書において、例えば金持ちと、金持ちの門前で物乞いをしていたラザロの記事を見ましても、死後、死者がこの世と交流をもつことが否定されています。ルカによる福音書16章22と27~31を御覧ください。

“やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。”

“金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』”

つまり、死後において、自分が生きている間に起こった事柄などはきちんと記憶はしておりますが、死後の世界と、この世の世界は完全に断絶されていて、死者の霊がこの世に影響を及ぼすことは出来ないと聖書は教えています。ヨブ記14:21やイザヤ63:16にも、死んだ先祖たちは、自分たちの子孫について知ることができないと書かれています。ですから、カトリックにおいてマリア崇拝などが見られますが、死者の霊や聖人の霊に祈ったり、死者を崇拝することは、神学的には、まったく聖書から導き出すことはできません。死者の世界とこの世の世界は断絶されているからです。一か所聖書を確認してみましょう。ヨブ記を御覧ください。

“その子らが名誉を得ても、彼は知ることなく/彼らが不幸になっても、もう悟らない。”

百歩譲って、実際のサムエルがここで現れたと考えても、律法には口寄せをする者を滅ぼしなさいと書かれていますから、サムエルがサウルの口寄せの罪に関与するはずはなく、むしろ、なぜこんなことをしているのかと、サウルを叱責しなければならないでしょう。従って、悪霊が催眠状態になっている口寄せの女を利用して、サウルに語っていると結論付けられるのです。サウルに対して語られた悪霊の言葉は、あまりにも正確な内容なので、これは預言ではないかと思われます。しかし神は、占い師バラムを通しても預言を語らせたように、悪霊の仕業を通しても、ご自身の預言を語ることが出来るのです。

主題3 サウルの結末とダビデの結末

それでは、次にサウルとダビデの二人の結末について調べてみましょう。二人の間には非常に大きな違いがあります。まずダビデの場合ですが、ダビデが亡命したペリシテの領地というのは、実はイスラエルがカナンに入植した時に神によって与えられた約束の地であったということです。つまりアキシュ王から賜ったという形によって、結果としてダビデは、ユダとシメオンに割り当てられたイスラエルの嗣業の地を回復したのです。この時、ダビデは決して宗教心に燃えてイスラエルの敵を聖絶するためにアマレク人や、ゲシュル人や、ゲゼル人を襲ったわけではありませんでした。密告されないよう男も女も虐殺し、それでいて家畜や衣服などは、アキシュに持っていくための戦利品として略奪しました。つまり私利私欲のために異邦人を虐殺したに過ぎません。しかしそのことさえも、将来、到来するであろうイスラエル王国を築くための、基礎固めに着手していると、神さまは見做されるのです。そしていざ、ペリシテとイスラエルの全面戦争になった時に、アキシュ王から「あなたは永遠に私の警護に当たってくれ」と命じられ、ダビデは絶対絶命の窮地に追い込まれますが、ぎりぎりのところで、神によって取り分けられ、不思議に、戦いに出ることが許されませんでした。ダビデはこの事件を通して神に対する確信を一層強め、そして、聖書を読む者には、神がご自身の民イスラエルに与えられた約束に対して、とことん信実であられるということを思い知らされるのです。一方、サウルの場合はどうでしょうか。口寄せの女を騙そうとしましたが、正体が発覚され、逆に悪霊によってサウルが騙されるはめになりました。死の宣告を聞いたサウルは、衝撃を受けて、その言葉におびえて、空腹のために倒れてしまいました。突然「バタン」と倒れたサウルを前にして、驚いた女性は、サウルのために食べ物を用意しようと、急いで肥えた子牛を屠り、種を入れないパンを作り、サウルをもてなしました。この女は、子牛一匹の他に、他の子牛をさらに多く所有していたようではなく、従ってサウルを全力で歓迎するようなもてなしをしています。さらに22節の女の言葉に注意するなら、女は「シェマ―」という言葉によってサウルに語りかけています。この「シェマ―」という言葉は、申命記に出てくる、モーセが民に語りかけた「聞け、イスラエルよ!」の「聞け!」に当たる言葉です。22節を御覧ください。

“今度は、あなたがはしための声に聞き従ってください。ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がり、力をつけてお帰りください。」”

女のシェマ―という言葉に対し、サウルは、最初は「食べたくない」と拒絶しますが、女も、そして部下たちも強く勧めるために、結局その食事を食べることにしました。これまでのサウルは、頑なに主の御声に拒絶し、決して頑なな態度を変えることはありませんでしたが、女を通して語られた悪霊の声に、最終的には聞き従い、もてなされた食事を共にしたのです。24~25節を御覧ください。

“女の家には肥えた子牛がいたので急いで屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。女が、サウルと家臣にそれを差し出すと、彼らは食べて、その夜のうちに立ち去った。”

このことは何を意味しているのかと言えば、女は、そのような事実を知っているのか、知らないのかわかりませんが、あたかもシナイ山においてイスラエルの民がヤハウェとの契約が結ばれた暁に、飲み食いしたように、或いは、最後の晩餐の時にイエス様の弟子たちが主と新しい契約を結んだ後に、主の晩餐に与ったように、サウルは悪霊の言葉に聞き従った後に、女のもてなす喜びの祝宴に与っているのです。昔、人々が契約を締結する際に、動物を屠ってそれを裂きましたが、万が一、契約当事者が契約を破棄した場合には、この裂かれた動物のようになりますよということを現わしていました。つまり契約の儀式とは、契約破棄に伴う呪いの条項が伴った宗教儀式であり、契約の締結後には、お互い契約の内容を銘記するように必ず儀式としての食事が伴ったのです。サウルは口寄せの女に聞き従い、力づけられたのです。

結論

ダビデもサウルも、もうどうしようもない所に追い込まれ、二人は神さまの御声に耳を傾けることをせず、同じように罪を犯してしまいました。ところがダビデの場合を考えるなら、アキシュを騙してペリシテへの亡命する罪は、主の一方的な恩寵の中で、「神がご自身の民に与えた約束に対し信実なるお方である」ことを現わすため用いられました。このことを通して、励まされることは、私たちは罪びとであり、罪から来る弱さや失敗が常に付きまとうのですが、神さまにあって、失敗はないということです。たとえ失敗してしまっても、主にあって、私たちは決して落胆することなく、希望を持ち続けることができるのです。一方、サウルの場合はどうだったでしょうか。女を騙そうとして、逆に悪霊に騙されてしまい、悪霊から死の宣告を受け、さらに口寄せの女の声に聞き従って、契約を結んでいるように描かれているのです。たとえ、サウルは自らの意志によって不従順を選び取り、自ら犯した罪によって、神様から捨てられることになりますけれども、ダビデもサウルと同じように罪を犯しているということに目を留める時に、私たちは、ダビデがサウルより善い選択をしたとか、善い決定を下したなどとは、決して言うことが出来ないのです。それは、新約聖書においてペトロとイスカリオテのユダを比較する時に、ペトロがユダより善い選択をしたとか、善い決断を下したとは、決して解釈することは出来ないのと同じです。ペトロが後で悔い改めて主に立ち返ることができたのは、一方的な神の恩寵によるものでした。従って、天国と地獄とに分ける、「人生の岐路における大切な決定」は、人間の能力にかかっているのではないということを理解することが出来るのです。滅ぶべき罪人が、ただ恵みによって永遠の命と救いに移されるのです。私たちの人生とは、主の中で、ダビデのように恵みによって導かれていることを思い起こしながら、私たちは聖書に書かれている神の御言葉を一層、愛し、それに耳を傾けながら、感謝と喜びを持って歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

누구의 음성을 청종할 것인가

2020년 3월 15일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

사무엘상 28장 3~25절

서론

다윗이 궁지로 몰려가는 가운데 사무엘기의 저자는 일전해 사울의 상황으로 눈을 돌리게 합니다. 그 무렵 사울 왕도 다윗과 마찬가지로 궁지에 몰려 있었습니다. 사울에게 이런 위기 상황을 초래한 것은 사울 왕을 실질적으로 지탱하던 선지자 사무엘의 죽음에 따른 것이라는 것을 확인시켜주듯 다시 한번 이곳에서 사무엘이 죽은 시점으로 되돌아보게 하고 있습니다. 지도를 보세요. 지중해 연안에 블레셋인의 영지가 있고 아기스의 수도인 가드가 있습니다. 가드에서 더 위로 올라가면 마침 실로 서쪽 연장선상에 아벡이라는 마을을 확인할 수 있습니다. 블레셋 군대는 이스라엘과의 총력전에 임하기 위해 동맹을 맺고 있는 다섯 곳의 방백이 연합해 이 아벡에 모였습니다. 다윗은 여기서 싸움에는 참가하는 것이 허용되지 않고 시글락으로 돌아가게 되었습니다. 블레셋 연합군은 아벡에서 더 북동쪽으로 올라가 갈릴리 호수 남서쪽의 이스르엘 계곡의 수넴이라는 마을로 올라왔습니다. 실로 가드에서 수넴까지의 이동 거리는 무려 120킬로미터나 됩니다. 블레셋 군대가 이렇게 이동한 목적은 이스라엘 군대를 남북으로 완전히 분단시켜 북부를 고립시키려는 것으로 보입니다. 사울은 길보아 산에서 이스르엘 계곡에 진을 치고 있는 블레셋 사람들의 군대를 보고 두려워서 그의 마음이 크게 떨렸습니다. 이러한 위기 상황에서 의지할 사무엘은 더 이상 없습니다. 환상이나 꿈을 통해서도 하나님은 침묵하셨고, 또 사울이 스스로 놉의 제사장들을 죽여 버렸기 때문에 예언을 통해서도, 우림과 둠밈으로도, 하나님은 그에게 대답하지 않으셨습니다. 사울은 이스라엘 국내에서 신접한 자와 박수를 금지하고 있었는데, 자기 스스로 신접한 여인을 찾으라고 명령하여 엔돌에 신접한 여인이 있다는 것을 알게 됩니다. 엔돌의 위치를 확인해 봅시다. 블레셋 군대가 진을 치고 있는 수넴의 북동쪽에서 불과 얼마 떨어져 있지 않은 것을 알 수 있습니다. 사울은 위험을 무릅쓰고 변장을 하고 두 명의 군사만 데리고 밤에 눈에 띄지 않게 그 여인을 찾아갔습니다.

주제 1 사울의 죄와 다윗의 죄

율법에 따르면 신접이나 영매는 금지되어 있습니다. 왜냐하면 신접하는 자나 영매하는 자는 자신의 몸 안에 악령을 살게 하고 악령에게 말하게 하고, 점을 치는 사람은 악령의 목소리에 순종하는 죄를 범하게 되고, 이는 우상숭배이자 하나님의 음성에 순종하는 것의 정반대의 행위이기 때문입니다. 예전에 사무엘이 사울을 비난했던 말을 떠올려 봅시다. 15장 22,23절을 보시기 바랍니다.

22 사무엘이 이르되 여호와께서 번제와 다른 제사를 그의 목소리를 청종하는 것을 좋아하심 같이 좋아하시겠나이까 순종이 제사보다 낫고 듣는 것이 숫양의 기름보다 나으니

23 이는 거역하는 것은 점치는 죄와 같고 완고한 것은 사신 우상에게 절하는 죄와 같음이라 왕이 여호와의 말씀을 버렸으므로 여호와께서도 왕을 버려 왕이 되지 못하게 하셨나이다 하니

사울은 제물을 바치거나 율법을 형식적으로 지키는 데는 허술함이 없었고, 백성의 목소리에도 잘 귀를 기울이는 성질이 있었습니다. 그러나 가장 중요한 하나님의 말씀에 대해서는 완고하게 불순종했고 언제나 하나님과의 교제를 거절했습니다. 바로 사울의 이 습관이야말로 점치는 죄요, 우상숭배의 죄입니다. 이번에도 점치는 자를 통해 블레셋과의 싸움에 있어서의 승리를 보장받고자, 스스로 금지한 신접한 여인에게 찾아가기로 결정을 했습니다. 여기서 사울이 지은 죄는 다윗이 지는 죄와 비슷한 공통점이 있습니다. 즉 두 사람 모두 이제 어쩔 수 없는 곳까지 몰려 하나님의 음성을 구하지 않고 적의 품으로 들어가 적을 속이려고 하는 것입니다. 다윗의 경우 블레셋 땅으로 망명해 블레셋의 우방국을 침노하면서 네겝 지방의 유다 부족을 덮쳤다고 거짓말을 하며 아기스를 계속 속였습니다. 사울의 경우 신접한 여인을 속여서 처음에는 자신의 부탁을 거절 당하지만 여호와께 서약을 하면서 다음과 같이 말하고 있습니다. 10절을 보시겠습니다.

사울이 여호와의 이름으로 그에게 맹세하여 이르되 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하노니 네가 이 일로는 벌을 당하지 아니하리라 하니

이 사울의 맹세 자체는 터무니없는 내용이며, 주님의 이름이 모순적으로 사용되는 방식입니다. 사울에게 주님에 대한 두려움, 주님을 공경하는 마음이 전혀 없었다는 것을 알 수 있지만, 어쨌든 사울은 여인을 속이고 구슬리는데 성공했습니다. 따라서 다윗은 적진에 들어가 거짓과 학살의 죄를 지었고 사울도 적진에 들어가 거짓과 점 치는 죄를 지었다고 할 수 있습니다.

주제 2 악령의 소행에 의한 속임수

그런데 이 신접한 여인이 불러낸 사무엘의 영혼은 사실 사무엘인지, 혹은 사무엘이라고 자칭하는 악령에 불과한지 여러 가지 논란이 있습니다. 칼빈이나 루터 등의 해석에 따르면 진짜 사무엘이 아니라 악령의 소행이라고 합니다. 왜냐하면 성경에는 죽은 사람의 영혼을 불러내거나 죽은 사람의 모습이 나타나는 것이 전면적으로 부정되어 있기 때문입니다. 다만 신약성경에서 변화 산에서 모세와 엘리야가 예수님과 함께 나타난 기사가 있는데, 이는 사람을 통한 것이 아니라 하나님을 통해 이루어진 역사이므로 예외로 여겨집니다. 보통 성경에서 예를 들면 부자집 문 앞에서 구걸을 하던 나사로의 기사를 보더라도 사후에 사망자가 이 세상과 교류를 갖는 것이 부정되고 있습니다. 누가복음 16장 22절과 27~31절을 보시기 바랍니다.

22 이에 그 거지가 죽어 천사들에게 받들려 아브라함의 품에 들어가고 부자도 죽어 장사되매

27 이르되 그러면 아버지여 구하노니 나사로를 내 아버지의 집에 보내소서

28 내 형제 다섯이 있으니 그들에게 증언하게 하여 그들로 이 고통 받는 곳에 오지 않게 하소서

29 아브라함이 이르되 그들에게 모세와 선지자들이 있으니 그들에게 들을지니라

30 이르되 그렇지 아니하니이다 아버지 아브라함이여 만일 죽은 자에게서 그들에게 가는 자가 있으면 회개하리이다

31 이르되 모세와 선지자들에게 듣지 아니하면 비록 죽은 자 가운데서 살아나는 자가 있을지라도 권함을 받지 아니하리라 하였다 하시니라

즉 사후에 자신이 살았있는 동안 일어난 일 등은 잘 기억하고 있지만 사후세계와 이 세상은 완전히 단절되어 있어 죽은 사람의 영혼이 이 세상에 영향을 미칠 수 없다고 성경은 가르치고 있습니다. 욥기 14장 21절이나 이사야 63장 16절에도 죽은 선조들은 자신들의 자손에 대해 알 수 없다고 쓰여 있습니다. 그래서 가톨릭에서 마리아 숭배 등을 볼 수 있지만, 죽은 자의 영혼이나 성인의 영혼에게 기도하거나 죽은 자를 숭배하는 것은 신학적으로는 전혀 성경에서 도출할 수 없습니다. 죽은 자의 세계와 이 세상은 단절되어 있기 때문입니다. 성경을 한 곳 확인해 봅시다. 욥기 14장 21절을 보십시오.

그의 아들들이 존귀하게 되어도 그가 알지 못하며 그들이 비천하게 되어도 그가 깨닫지 못하나이다

백 번 양보해서 실제 사무엘이 여기서 나타났다고 생각해보아도 율법에는 점치는 자를 멸하라고 쓰여 있으니 사무엘이 사울의 점치는 죄에 관여할 리는 없고, 오히려 왜 이런짓을 하느냐고 사울을 질책해야 할 것입니다. 따라서 악령이 최면 상태인 신접한 여인을 이용해서 사울에게 말하고 있다고 결론지을 수 있는 것입니다. 사울에 대해 한 악령의 말은 너무나 정확한 내용이기 때문에 이것은 예언이 아닐까 생각됩니다. 그러나 하나님은 점쟁이 발람을 통해서도 예언을 말하게 하셨듯이 악령의 소행을 통해서도 자신의 예언을 말씀하실 수 있습니다.

주제 3 사울의 결말과 다윗의 결말

자, 이제 사울과 다윗 두 사람의 결말에 대해 알아보겠습니다. 두 사람 사이에는 매우 큰 차이가 있습니다. 먼저 다윗의 경우인데, 다윗이 망명한 블레셋의 영지라는 것은 사실 이스라엘이 가나안에 정착했을 때 하나님이 주신 약속의 땅이었다는 것입니다. 즉 아기스 왕으로부터 하사받았다는 형태지만, 결과적으로 다윗은 유다와 시므온에게 할당된 이스라엘의 기업의 땅을 회복한 것입니다. 이때 다윗은 결코 믿음에 불타 이스라엘의 적을 진멸하기 위해 아말렉 사람이나 그술 사람이나 기르스 사람을 침노한 것이 아니었습니다. 밀고 당하지 않으려고 남자도 여자도 학살했고, 그러면서 가축이나 의복 등은 아기스에게 가져가기 위한 전리품으로 약탈했습니다. 즉 사리사욕을 위해 이방인을 학살한 것에 불과합니다. 그러나 그 일조차도 미래에 도래할 이스라엘 왕국을 세우기 위한 기초 다지기에 착수하고 있다고 하나님은 간주하십니다. 그리고 정작 블레셋과 이스라엘의 전면전이 시작되었을 때 아기스 왕으로부터 「내가 너를 영원히 내 머리 지키는 자를 삼으리라」라는 명을 받고 다윗은 절대 절명의 궁지에 몰리게 되지만, 아슬아슬하게 하나님에 의해 그들과 분리되어 기이하게 싸움에 나서는 것이 허용되지 않았습니다. 다윗은 이 사건을 통해 하나님께 대한 확신을 한층 더 강하게 하고, 성경을 읽는 자에게는 하나님이 자신의 백성 이스라엘에게 주신 약속에 대해 철저히 신실하시다는 것을 깨닫게 되는 것입니다. 반면 사울의 경우는 어떨까요? 신접한 여인을 속이려다 정체가 발각되고, 반대로 악령에 의해 사울이 속게됩니다. 죽음의 선고를 들은 사울은 충격을 받고 그 말에 겁을 먹고 공복감으로 인해 쓰러져 버렸습니다. 갑자기 “쾅”하고 쓰러진 사울을 앞에 두고 놀란 여인은 사울을 위해 음식을 장만하려고 급히 살진 송아지를 급히 잡고 가루를 가져다가 뭉쳐 무교병을 만들어 사울을 대접했습니다. 이 여인은 송아지 한 마리 외에 다른 송아지를 더 많이 소유하고 있었던 것 같지 않고, 따라서 온 힘을 다해 사울을 환대하고 있습니다. 게다가 22절 여자의 말에 주의한다면, 여자는 「쉐마」라는 말로 사울에게 말하고 있습니다. 이 「쉐마」라는 말은 신명기에 나오는 모세가 백성들에게 말한 「들어라 이스라엘아」의 「들어라」에 해당하는 말입니다. 22절을 보세요.

그런즉 청하건대 이제 당신도 여종의 말을 들으사 내가 왕 앞에 한 조각 떡을 드리게 하시고 왕은 잡수시고 길 가실 때에 기력을 얻으소서

여인의 「쉐마」라는 말에 사울은 처음에는 「내가 먹지 아니하겠노라」라고 거절하지만 여인도, 그리고 신하들도 강권하기에 결국 그는 음식을 먹기로 했습니다. 지금까지의 사울은 완고히 주님의 음성을 거절하고 결코 완고한 태도를 바꾸지 않았지만 여인을 통해 들려온 악령의 목소리에 결국에는 귀를 기울이고 대접받은 식사를 함께 했습니다. 24,25절을 보세요.

24 여인의 집에 살진 송아지가 있으므로 그것을 급히 잡고 가루를 가져다가 뭉쳐 무교병을 만들고 구워서

25 사울 앞에와 그의 신하들 앞에 내놓으니 그들이 먹고 일어나서 그 밤에 가니라

이 일은 무엇을 의미하는가 하면, 여인은 그런 사실을 아는지 모르는지 모르지만, 마치 시내 산에서 이스라엘 백성이 여호와와 언약이 맺어진 새벽에 먹고 마신 것처럼, 혹은 최후의 만찬 때 예수님의 제자들이 주님과 새로운 언약을 맺은 뒤에 주님의 만찬에 참여한 것처럼, 사울은 악령의 말을 들은 뒤에 여자가 대접하는 기쁨의 축연에 참여하고 있는 것입니다. 옛날에 사람들이 계약을 체결할 때 동물을 도살해서 그것을 반으로 갈랐는데, 만일 계약의 당사자가 계약을 파기할 경우에는 이 갈라진 동물처럼 된다는 것을 나타냈습니다. 즉 계약의식이란 계약의 파기에 따른 저주의 조항이 수반된 종교의식이며 계약체결 후에는 서로 계약의 내용을 명기하듯 반드시 의식으로서의 식사가 수반된 것입니다. 사울은 신접하는 여인의 말에 따르고 먹음으로써 힘을 얻었던 것입니다.

결론

다윗도 사울도 이제 어쩔 수 없는 지경으로 몰렸고 두 사람은 하나님의 말씀에 귀 기울이지 않고 똑같이 죄를 짓고 말았습니다. 그런데 다윗의 경우를 생각한다면, 아기스를 속여 블레셋으로 망명하는 죄는 주님의 일방적인 은총 가운데 “하나님은 자신의 백성에게 주신 약속에 대하여 신실하신 분이시다”를 나타내기 위해 쓰여졌습니다. 이 일을 통해 격려받는 것은 우리는 죄와, 죄에서 오는 연약함과 실패가 늘 따라다니지만 하나님께 있어 실패는 없다는 것입니다. 비록 실패하고 말더라도, 주 안에서 우리는 결코 낙담하지 않고 희망을 계속 가질 수 있는 것입니다. 한편, 사울의 경우는 어땠을까요? 여자를 속이려다 반대로 악령에게 속아버려 악령으로부터 죽음을 선고받고, 심지어 신접한 여인의 목소리를 듣고 계약을 맺은 것처럼 그려져 있는 것입니다. 비록 사울은 스스로의 뜻에 따라 불순종을 택하고 스스로 지은 죄로 인해 하나님으로부터 버림을 받게 되지만, 다윗도 사울과 마찬가지로 죄를 짓고 있다는 것을 주목할 때 우리는 다윗이 사울보다 좋은 결정을 내렸다고는 결코 말할 수 없는 것입니다. 그것은 신약성경에서 베드로와 이스카리옷 유다를 비교할 때 베드로가 유다보다 나은 선택을 했다거나 좋은 결정을 내렸다고는 결코 해석할 수 없는 것과 같습니다. 베드로가 나중에 뉘우치고 주님께 돌아설 수 있었던 것은 일방적인 하나님의 은혜에 의한 것이었습니다. 따라서 천국과 지옥으로 나뉘는 “인생의 기로에서의 중요한 결정”은 인간의 능력에 달려 있는 것이 아니라는 것을 이해할 수 있는 것입니다. 망하는 것이 마땅한 죄인이 오직 은혜로 말미암아 영원한 생명과 구원으로 옮겨지는 것입니다. 우리의 삶이란 주 안에서 다윗처럼 은혜에 인도되고 있음을 상기하면서 우리는 성경에 적혀 있는 하나님의 말씀을 더욱 사랑하고 그것에 귀 기울이면서 감사와 기쁨을 가지고 걸어가도록 합시다.

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