2018年07月29日「七たびを七十倍するまでゆるせ」

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七たびを七十倍するまでゆるせ

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章21節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 18章21節~35節

原稿のアイコン日本語メッセージ

前回学びましたように、イエス様は「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」と教えられました。教会といえども、地上にあるかぎり罪の誘惑は必ず来ます。教会内でも罪や過ちは避けられません。同じ信仰を持つ兄弟姉妹であるからには、なるべく早く忠告し合い、互いに赦し合い、最終的な目標として美しい聖徒の交わりを回復しなければならないということでありました。しかし、この時、心に何か苦い根を持っていたり、或いは、裁き心満々で忠告に行ったのでは効果がありません。「罪を憎んで人を憎まず」という諺もありますが、罪は罪として認めながらも、罪を犯した兄弟そのものは赦していなければならないのです。なぜなら、もし赦さないなら、もし兄弟を心の中で告訴し続けるなら、サタンが私たちの心を支配し、サタンに用いられ、ついには私たち自身が病んでしまうからです。本日のテーマは赦しです。イエス様は以前にも、弟子たちに赦しについて教えてこられました。マタイ5章44節には「敵を愛せよ」とありマタイによる福音書6章14-15には、次のように書かれています。

“もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。”

しかし、私たちの誰がイエス様を模範として、イエス様を基準として敵をも赦すことができるというのでしょうか。それに、ただ相手をむやみに赦すことは、かえって、犯罪を助長するだけであり、犯罪者のためにもならないのではないかという心配もあります。したがって、ペトロは、いくらなんでも赦しには、これ以上は赦すことができない「赦しの臨界点」というのがあるかと思うのですが、その臨界点とは一体どこかですかと、イエス様に尋ねているのであります。“主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。”とペトロが言うとき、七回という数字は完全数ですから、ペトロとしてもこれだけ赦すなら、文句はないですね。さすがに、それ以上は赦しの臨界点に達したと判断してもよろしいですね。と自信をもって尋ねているのです。しかし、イエス様は“あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。”と言われました。490回赦しなさい。これは、491回目には、たまりにたまった怒りを爆発させてもいいということではありません。赦しにおいて臨界点などないと言われるのです。際限なく赦しなさいと言われるのです。この赦しとは、35節の結論で“あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦す、”という言葉で言い換えておられます。「心から、その人の犯した罪を、忘れるほどに」赦すことが必要だというのです。赦しの中で、これで何回目と数えながら、心の底に怒りを蓄積させるのではないということです。従って相手が悔い改めていても、いなくても、罪は罪として扱いながらも、相手を赦していなければならないのです。果たして生身の体を持った人間にそんなこと、できるのでしょうか。イエス様はこのことについて、譬えを用いて話されました。23-25節をご覧ください。

“そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントンン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。”

23節は、ギリシャ語を直訳しますと、「天国とは、ある王のようである」となっています。どのような王様なのかと言うと、「王が彼の家来たちと精算をしようと思った、その王のようである。」となっています。イエス様は天国をいろいろな比喩で説明されました。例えば、天国はからし種のようである(13:31)、天国はパン種のようである(13:33)、天国は畑に隠された宝のようである(13:44)、天国は良い真珠を捜している商人のようである(13:45)、天国は地引網のようである(13:47)といった感じです。今日は、精算しようと思った王のようであるということです。皆さん、買い物をするとき、必ず精算所に行ってレジを打ってもらいますね。買い物をした商品の合計の金額が1080円と精算されたら、私たちは自分の財布から1080円払わなければなりません。同じように家来たちは、精算するために王のもとに列を作って並んでいる状況であります。そこへ、ある人の精算が始まり、その金額が一万タラントンであることが分かりました。当然自分の財布から支払わなければなりませんが、そのような金額は持ち合わせてはいませんでした。当時、妻も子も財産の一部と考えられていましたから、主人は、とりあえず持ち合わせの財産を全て売り払い、そして自分自身もまず奴隷になりなさいと命じました。ここで、大変不幸だった事は、家来が一万タラントンという金額がどれほどの金額なのか正式に把握してはいなかったということです。あるいは、自分の負債に対してきっちりと誠実に向き合っていなかったということです。その証拠として、26節を見ると「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』」とシャーシャーと言ってのけているからです。もしかしたら、精算しているときに、電卓とか、そろばんのようなものがあって、その計算機によってはじき出された金額だけを見せられたので、ゼロの数を一けた二ケタ見落としたのかもしれません。いずれにしろ、この言葉がどれほど、不誠実で、非常識な言葉であったのか、それは一万タラントンという金額が、どれほどの値なのかを調べると判明します。注解所には、1タラントンが6,000デナリオンと書いてあります。そして1デナリオンとは、労働者の一日の日当に相当すると書かれていますから、仮に1デナリオンを1万円とすれば、1タラントンは6,000万円。さらに一万タラントンはこれの一万倍で6,000億円になります。6,000億円と言われてもピンときませんが、銀行に行くと新札で、100万円の札束を見ることができますね。この札束を10束、積むといくらになりますか。1千万円です。100束、積み上げるといくらですか?そうです。1億円です。1億円というのは、高さが約1メートル位の柱になるそうです。この1億円の柱を6,000個並べると、6,000億円になります。調べましたら、この礼拝堂の半分くらいが1メートルの柱で埋め尽くされることになります。したがって、もし、妻も子も売り払い、自分も奴隷になったとしても決して1万タラントン、つまり6,000億円をきっちり支払うことはできなかったでしょう。もし家来が6千億円というこの金額が、どれほどの大金であったのか把握していたなら、まさか「きっと全部お返しします」とは言わなかったでしょう。

しかし、主人はこの家来を憐れに思い、彼を赦し、そして1万タラントンを、つまり6,000億円を帳消しにしてやりました。主人は決して、「しょうがないな、それじゃ、半分は減額してあげるから、残りは自分でなんとか頑張りなさい」とは言いません。帳消しにされたのです。とんでもないことが起こりました。この比喩の中で、イエス様は天国の福音を語っておられます。比喩の中で王であり、主人とは、誰のことでしょうか。そうです。神さまです。1万タラントンという決して返すことのできない負債を抱えている家来とは誰でしょうか。そうです。私たち罪人であります。神さまは全ての罪人を憐れんでくださるのです。ここまでが第一場面であります。この巨額の負債を帳消しにしていただいた家来は、本来、喜んで、家族と仲間たちを呼んで祝宴を開き、これを報告し、この大きな喜びを分かち合うべきでした。次に、第二場面です。この家来は、自分自身の身に何が起こったのか、よく把握していなかった為に外に出て、自分に100デナリオンを貸している仲間に出会ったとき、彼を捕まえ、首を絞め「借金を返せ」と言いました。100デナリオンとは、現在の金額で100万円札に相当します。100万円と言えば結構な金額かもしれませんが、返せない金額ではありません。家来は6,000億円を帳消しにして頂いたのに、100万円を赦してあげることができなかったのです。100万円と6,000億を分かりやすく比で説明すれば、6,000万円帳消しにされたのに、100円に対してあまりにも厳密になり、それを赦してあげなかったということです。29-30節をご覧ください。

“仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。”

家来の仲間はひれ伏して、赦しを乞うています。この状況は、以前、家来が主人に対してとった26節の状況と全く同じであります。26節と29節を比較してみてください。異なるのは「全部」という言葉がないというだけで、残りはほとんど同じです。家来は以前、同じように主人にしきりに願い、借金を帳消しにしていただいたのにも関わらず、ここでは、残忍にも仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫り、借金を返すまで牢に入れてしまいました。同じ状況の中に、主人と家来が置かれて対比されているのです。つまり「巨額の借金に比較と、ごく些細な、ほんのわずかな借金」が対比されています。そしてほんの些細な金額にもかかわらず、「主人の憐れみ深さと、不届きな家来の残忍性」が対比されているのです。仲間たちは事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て行き、事件について残らず告げました。そして、主君はその家来を呼びつけて、次のように言っています。32-33節をご覧ください。

“不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか”

神さまが私たちを憐れんでくださった。イエス様は確かに寛容なお方である。しかし、だからといって、私たちが、神のように、イエス様のように憐れみ深くなるのは不可能であります。しかし、ここで神さまは、決してあなたも同じように他人に対し6,000万円の負債を赦してやりなさいと勧めているのではなく、100円を赦してあげなさいと勧めているのです。何も神のようにふるまうことができなくても、少なくとも全く自分と同じ境遇に置かれている者に対し、かわいそうだと思う、憐れむ気持ちぐらいは、持つことができるのではないのかということです。

結論として、この家来の不幸だった点は、神が自分に対し、どれだけ多くの憐れみを示してくださったのかということを十分に認識していなかったということです。むしろ、この家来は、神は自分に対し当然のことをしてくださった、自分に対し神の公義を示しておられると錯覚していた点にあります。しかし、もし、神が私たちに公義もって神の公正な裁きを私たちに向かって厳格に行使するのなら、私たちは滅びる以外にはありません。35節をご覧ください。“あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。”とありますが、これは万が一、神の公正な裁きと神の義が厳格に執行されるなら、どのようになるかについて書かれているのです。もし、神の義がそのまま私たちに向かうなら、精算の時に示された通りの借金の取り立てが、私たちに行使され、私たちは地獄の獄吏に渡され、永遠の火の地獄に閉じ込められるのです。しかし、神は、常に憐れみに満ちておられ、忍耐深く、怒るのに遅く、イエス・キリストの十字架によって私たちの決して返済することのできない1万タラントンという負債を、超消しにしてくださるお方であります。私たちの罪を心から赦してくださり、完全に記憶から消してくださるお方です。ですから、神が私たちと精算しようと、私たちに負債の返済を求められるとき、私たちの覆いであり、私たちの避難所であるイエス様に祈るということによって、隠れることができるのです。私たちは、神の恵みを受けるのに無価値な者でありますが、どうか私を憐れんでくださいと切に懇願することができるのです。そして、自分の負債を正しく認識し、いかに多くの負債が帳消しにされたのかを知り、神から多くの憐れみを受けた者は、自分に負債を負っている兄弟に対して、あたかもそこに過去の自分自身の姿を見ているように、「あー自分も必死にイエス様の陰に隠れて、神の憐れみを乞い願ったなー」と、その時の姿を思い起こし、兄弟の罪を憐れんであげることができるのです。そして、彼に対し、決して厳格な裁きを執行するのではなく、むしろ少しズボラになり、兄弟の罪をすっかり忘れてしまうように、赦すことができるのです。

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