2018年07月15日「天国で一番偉い者」

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聖句のアイコン聖書の言葉

18:1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
18:6「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
18:7世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
18:8もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
18:9もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 18章1節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

教会に子供の泣き声や笑い声が響くときに、大変雰囲気が和むように、神の国の共同体の中に小さき者がいることは大変祝福であります。本日の説教の内容は、教会生活における偉い人に関するお話ではなく、教会生活における小さき者に関するお話しです。先ほどお読みした18章の冒頭で「そのとき」とありますけれども、実際は、17章でペトロが釣りをして魚の口から1シェケル銀貨を見つけ、それを神殿税として納めてから、しばらく時間が経過したある日のこと、と考えられます。そのとき、弟子たちが集まって何か議論をしていました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という順位争いの議論です。聖書をよく見ますと、この弟子たちの順位争いは、イエス様の死と復活の予告の後に必ず始まっていると解釈することもできます。例えば20:17~21においてもイエス様の死と復活の予告の後に順位争いが繰り広げられています。最後の晩餐の席でも、ルカによる福音によるとイエス様が死と復活の予告をした後に順位争いが繰り広げられています。イエス様の受難と復活が意味する、その大切な内容よりも、ポスト・イエスの問題、つまり間もなく樹立されるであろうメシア王国における自分たちの身分の問題が、彼らにとってもっと緊急で重要な内容だったのです。それにしてもこれまでイエス様と何年も一緒に生活してきて、あと数週間後にはエルサレムで十字架に架けられるというのに、弟子たちのみ言葉に対する理解とはこの程度のものだったということには驚かされます。イエス様は、言葉によって説明するよりも実際に一人の子供を呼び寄せ、弟子たちの間に立たせました。百聞は一見に如かず、この子をご覧なさいということです。3~4節をご覧ください。

“はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。”

これは一体、どういう意味でしょうか。少なくともこのみ言葉は次の二つの点において、弟子たちに大変大きな衝撃を与えました。まず、第一に、弟子たちの質問の前提から大きく揺さぶられています。弟子たちは、既に天国に入っていることが大前提であり、その上で報いとして金メダルなのか、銀メダルなのか、或いは入賞なのか、優越感をもちつつ、その辺りを、高慢にも知りたがっていたのですが、イエス様は、心を入れ替えて、向きを変えなければ、天国に入ることさえできないと言われました。第二に、誰が偉いかの議論自体が否定されています。むしろ、子供から大人まで、イエス様が贖われた魂を大切にすべきであり、目の前の子供に至るまで、自分より偉い者であるかのように受け入れなさいと勧めているのです。弟子たちの野望に満ちた議論が、イエス様によってすり替えられ、完全に骨抜きにされてしまいました。それでは、イエスさまの言葉をもう少し深く考えてみましょう。近代とは違い、当時、幼子とか、子供たちと言えば、決してかわいい天使のように偶像視されてはいませんでした。つまり、幼子の無邪気さとか、素直さなどを美徳としてみなされることはなかったのです。大人から見るとき、幼子といえば、むしろつまらない愚か者の比喩としてよく用いられ、価値のない者、取るに足らない者、10歳で律法を学び始めるのですが、律法もまだよくわかっていない罪深い存在だという意味です。また、事実、子供は自分を、実際よりも低く遜ることはありません。子供は謙遜であるというより、子供は自分がいかに低いかを知っているのです。ですから、ここでイエス様が言わんとしていることは、私たちがよく聞く、立派な人になるための道徳的な謙遜の勧めではないということです。つまり「成熟するほど、頭を垂れる稲穂」ですとか、「能ある鷹は爪隠す」というような勧めではなく、或いは誰よりも柔和で、誰よりも穏健で、誰よりも低く遜った人格者こそ天国で一番偉いのだということでもないということです。そうではなく、イエス様はあなた方自身、ちっぽけな子供であることを知りなさいと言っているのです。神の御前に自分がどれだけくだらない存在であるのか、取るに足らなく、罪深く、恥ずかしい存在であるのかを知りなさいと言っているのです。私たちは恵みによってそのことに少しずつ目が開かれます。信仰生活の中で、病や、試練や困難に遭い、失敗や、傷を通して、自分が神様に受け入れられていること、そして神様がいなければ何もすることができないということを悟り、自らの貧しさを悟り、祈りの中で神に完全に降伏するのです。ですから、「謙遜さ」というのは、道徳的勧めではなく、信仰生活の中で神の恵みにより、少しずつ自分が子供に過ぎないこと、小さく、恥ずかしい存在に過ぎないことに目が開かれ、謙遜にさせられるということなのです。キリストの弟子たちとは、大きな者、ひとかどの人物ではなく、小さき者であるということです。余談ですが、使徒言行録を見ると、ローマの市民権をもっていたサウロはパウロに名前を変えていますが、パウロという名前はギリシャ語ではなく、ラテン語の名前で「小さき者」という意味です。自ら小さき者ということによって、ローマにいる信徒たちに共感や深い愛情を示しているのです。イエス様も、小さき者、社会的弱者に対し、特に強い関心を払われ、彼らに、特別強いこだわりと感情を示されています。それがよくわかるのが、12~13節のたとえです。12~13節をご覧ください。

“あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。”

この譬えでは、迷い出た一匹を捜しに行くために、残りの99匹を山においていきます。羊飼いが離れた間、残され放置された99匹の安全については、羊飼いの関心の外にあります。イエス様はなぜ、迷い出た者、小さき者にそのような強い関心を示されるのでしょうか。それは、主ご自身、この世において、人々から蔑まれ、辱められ、取るに足らない小さな罪びととして来られたからだと思われます。5節をご覧ください。

“わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。”

つまり、小さき者を受け入れることは、イエス様を受け入れることだと言うのです。小さき者に水一杯でも飲ませることは、イエス様に水一杯を飲ませることなのです。このことを現在の私たちに適用するなら、普段教会でしている奉仕がありますね。兄弟姉妹に仕えているのですが、特に求道者ですとか、信仰の初心者に仕えたりします。実は、小さきものを暖かく受け入れる奉仕とは、イエス様を受け入れることなのです。主イエスも二千年前、人々から蔑まれるような、罪びととして、小さき者として世に来られたからです。もし、イエス様がファリサイ人を救うために世に来られたのでしたら、ファリサイ人として来られたでしょう。サドカイ人を救うために来られたのでしたら、サドカイ人として来られたでしょう。しかしイエス様は小さき者を救うために、小さきものとして来られたのです。この、小さき者への配慮として、最重要事項として第一に、躓かせてはならないことが挙げられます。聖書で「躓き」という言葉は、スキャンダル、つまり罠という英語の語源にあたりますが、実は大変重たい意味を持っています。それは、永遠の滅びに追いやったり、信仰を完全に失わせるという意味で、私たちが日ごろ使っているような、「躓いても(信仰がダウンしても)再び立ち上がって来るだろう」というような生ぬるい意味ではありません。イエス様は現実において、この躓きが起こることは仕方のないことだと言われます。教会においてもつまずきが起こり、信仰から離れる人が実際いるかもしれません。しかしだからと言って、躓きをきたらせる人の責任については、はっきりさせるのです。どうせ、石ころだらけの道だから、邪魔な石をどんどん放り込んでも構わない、ということにはなりません。むしろ精を出して、つまずきの石を取り除くべきなのです。つまずきの石を平気で投げ込むような人には、いっそ“大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。”とイエス様は言われます。ここで、大きな石臼とはどういうものかというと、脱穀するために、ロバに挽かせるドーナツ型の大きな石ですが、それを首にかけてガリラヤ湖に沈めなさいと言うのです。大変過激なことを言われました。つまずきをもたらせる者は、それほど恐ろしい重罪人であるということです。さらには、他人を躓かせるだけではなく、自分自身をも躓かせることに対しても、厳しく警告しています。「小さき者」から脱線する内容ですが、8-9節のみ言葉をご覧ください。

“もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。”

このみ言葉は、山上の垂訓の5:29~30にも出てきました。もし、このみ言葉を文字通り受け取って実行するのなら、教会には片手、片足、片目の人だらけになってしまいますので、誇張された言い方なのですけれど、とにかく、他人であれ、自分自身であれ、信仰から躓かせるということが、どれほど恐ろしいことなのかを強調し、決して躓かせてはならないと警告しているのです。小さき者が配慮されるべき理由として第二に、彼らがどれほ大切な存在であるのかが10節に書かれています。

“これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。”

つまり逆を返せば、共同体のすべての構成員は、大人から子供まで一人ひとりこの上なく大切な価値を持っているということです。そのことを強調するために天にいる彼らの天使について話しているのです。万が一、神の御顔を仰いでいる天使たちが小さきものに関心を持っているのなら、キリスト者同士である私たちが、お互いのために配慮し、関心を持ち、尊敬することがどれほど重要なことだろうかと訴えているのです。世では無視されやすい小さき者、社会的弱者が最も大切にされる、というのが教会の特徴であることが分かります。弱者を尊ぶということは、計算には合わない、大変非効率なことだと言えるでしょう。教会政治においても、この世と同じように多数決で決めて大勢の人の益になることを実行するべきだと思うかもしれません。しかし聖書ではそのように言わないのです。弱者を大切にしなさい。弱者の声に耳を傾けなさいと教えるのです。このように神の国の考え方は世の考え方とは、かけ離れているということがしばしば起こるのです。それは、教会には根底に愛があるからです。教会政治においてもたとえ非効率であっても、ひたすら父なる神の愛が実現されるように祈りつつ進められるべきです。そして、もし小さき者がないがしろにされ、最小の労力で最大の効果だけを追求しようとするのなら、そこはもはや教会ではなくなるのです。例えば、教会でもし何か問題が起こった場合、私たちが第一にしなければならないのは、問題において誰が被害者なのか、誰が抑圧されている者なのかを正しく見極めなければなりません。そして被害者、抑圧されている者、最も弱い者の声に耳を傾けなければならないのです。私が前にいた教会もそうでしたが、牧師のセクハラ事件などが起こったときに、抑圧されている者、悲鳴を上げている者に耳を貸さないで、加害者があたかも被害者のように扱われてしまい、名誉棄損だ、濡れ衣だ、宣教における迫害だと言いながら問題牧師が裁かれないという事態が起こりました。結局、罪を犯した者は悔い改めをせず、嘘がまかり通り、被害者がないがしろにされるのです。しかし教会ではそのようにしてはいけません。神様は、小さき者にひときわ大きな関心を抱いていることを忘れてはなりません。そして私たちの教会に小さき者、弱い者、子供たちを送ってくださるのは神様の祝福でもあります。ですから、私たちは常に、小さきものを顧みて、自分自身の言葉や行動によって、小さき者を躓かせていることはないだろうか考えるべきです。そのようにして教会から、真の愛があふれていくように祈ってまいりましょう。

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