2018年09月16日「神の恵みによる報酬 하나님의 은혜에 의한 삯」

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神の恵みによる報酬 하나님의 은혜에 의한 삯

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章27節~20章16節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
19:28イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
19:29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
19:30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
20:1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った
20:3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 19章27節~20章16節

原稿のアイコン日本語メッセージ

富める青年が、イエスさまに質問しました。「善い先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」それに対するイエスさまの答えとは、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」ということでした。イエスさまがこのように答えられたのは、自分の力では決して永遠の命を手に入れることはできないということを悟らせるためでありました。しかし彼は多くの財産を持っていたため、そんなことは到底できないと思い、結局イエスさまから離れて行きました。永遠の命を得るためには、人間は、小さき者、無能なものとして、神の愛の中に留まり、神の助けと導きによってイエスさまに従う以外に道はありません。従って大切なことは、財産を捨てるのか、捨てないのかではなく、イエスさまから離れないことでありました。ところがこの青年は、結局イエスさまから離れて行ったのです。この青年を横で見ていたペトロは、イエスさまに質問しました。

“このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。”

この言葉には、自分はこの富める青年よりかは、まだましだろうという胸算用をした上での質問でした。このように言うのは、それなりの理由があります。ペトロは、イエスさまに従うために網を捨ててきました。「漁師が網を捨てるということはどれほどのことを意味するのか、主よ、お分かりになりますね!」と言っているのです。また、弟子たちの内には、ヨハネのように舟を捨てて、従ってきた者もいます。父を捨ててきた弟子もいますし、マタイの場合は、人々からは非難される職業ではありますが徴税人という経済的に保証された職業までも捨ててきました。ですから弟子たちは「私たちは全てを捨ててイエスさまに従って参りました。わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言うことが出来るのです。

私たちも思い当たる節があると思います。私たちもイエスさまに従うために、捨ててきたものは、決して少なくはないはずです。私もたくさん捨ててきました。まず職業を捨ててきました。それから一緒に酒を飲む友人や仲間たちを捨ててきました。神学校で学ぶために貯蓄なども捨ててきました。ですから私の心の中にも、ひそかに「イエスさまのためにすべてを捨ててきました。何を頂けるのでしょうか」という思いがあります。このような思いは誰にもあると思うのです。イエスさまの答えは29節です。ご覧ください。

“わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。”

皆さん、やはり、イエスさまに従ってきた良かったですね。この御言葉によればイエスさまのために捨ててきたものは、決して無意味なことではありませんでした。100倍もの報いを受けると書かれています。家を捨てた人は、その100倍を受けることを信じます。アーメン!ペトロの場合は網を捨ててきました。その網の100倍を受けることを信じます。ハレルヤ!弟子たちはイエスさまの御言葉を聞いて、やっぱりこのお方について来てよかったと、心温められました。これで終わりでしたら、「今日はここまでにして説教を終わりにしましょう」となるのですが、イエスさまはなぜか、一言深遠な御言葉を付け加えるのです。その御言葉が、私たちを本当に悩ませるのであります。30節をご覧ください。

“しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。”

これは一体どういう意味でしょうか。イエスさまはなぜこのような余計な、とも思えるような御言葉を付け加えるのでしょうか。20章1節の冒頭に、実は新共同訳には訳されていませんが、ギリシャ語聖書を見ると「なぜなら」という接続詞が挿入されています。つまり、続く20章1-16節の「ぶどう園の主人」の譬えによって、“後にいる者が先になり、先にいる者が後になる”理由が説明されているのです。そしてたとえ話の結論部分として20章16節に再び19章30節と同じ御言葉で話しを結んでいるのです。それでは20章1-2節を見ていきましょう。「なぜなら」を挿入してお読みさせていただきます。

“(なぜなら)天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。”

普通ユダヤ人の一日の日当は1デナリオンでした。この1デナリオンを約束して、主人は労働者を雇い入れて、彼らを自分のぶどう園に送り込みました。この比喩で、まず最初に押さえておきたいことは、家の主人とは、イエスさまを譬えているということです。そして「ぶどう園で働きなさい」という労働者への召しは、「神の国」で働きなさいという弟子たちへの「召し」に譬えられているということです。ですから、永遠の命を得るためには、まさに神の国へ入れられること、ぶどう園に入れられること、そのこと自体が一番大切なことなのですが、この譬えでは1デナリオンという代価に焦点があてられています。

主人は、朝早く、労働者を雇い入れたのにも関わらず、朝の9時頃、再び広場に出かけました。そこで、どういう訳か、することもなく広場で立っている人を見つけると、彼らをも雇い入れぶどう園へ送りました。そして、正午ごろと午後三時頃に、またまた、どういう訳か、広場に出かけて行き、することもなく立っている人を見つけると、ぶどう園で働かせるために雇い入れました。夕方の五時ごろ、あと1時間で日が沈もうとしている時に、また広場に出かけました。するとまだ、することもなく立っている人々がいたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねました。彼らは、主人に「誰も自分たちを雇ってくれないからです」と答えました。主人は夕方の5時まで、どの雇用者からも声をかけられず、そのまま残っていた人々を見つけては、雇い入れているのです。この時間ですから、恐らく、広場に残っていた人たちとは体つきも、弱々しく、目の輝きや、顔だちも目立たず、いかにも使い物にならない、無能な人々が残っていたと思われます。従って、ぶどう園の主人が労働者を雇い入れた、その条件を考えてみますと、それは私たちがこの世の常識と考えられる経営理念とは全くかけ離れたものでした。あと1時間のために労働者を雇い入れるというのはどう考えてもおかしいからです。少しでも勤勉で腕力のある有能な労働者を雇って生産性を上げるためだとか、経費となる労働費を少しでも低く抑えようというような考えは見られないのです。この主人にとって、ぶどう園の仕事が目的なのではなく、その人をぶどう園に招き入れること、それ自体が目的だったのです。自ら選んだ人々をぶどう園に招き、そこにおいて彼らを生かすという、「寛容と慈善の理念」が貫かれているのです。それは言ってみれば、恵みの理念であり、この世ではなく天国の理念でした。「恵み」というのは、私たちが考えるような公平さだとか、合理性などというものはありません。全く無能で、一切、労働効果をもたらさなかった人々にも注がれるからです。その人の働きっぷりや、平素におけるその人へ対する社会的信頼、評価など関係ありません。その人の顔だちや、容姿なども関係ありません。専ら、主人の御心だけを根拠としており、私たちの目からは「不公平」としか言いようがないもの、それが「恵み」なのです。日の沈むころになり、ぶどう園の主人は労働者たちを呼んで、最後に来た人々から順に賃金を支払ってやりました。一番最後に、つまり5時に雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取っていきます。これを見ていた最初に雇われた人たちは「ふーん、なるほどね ♡ 最後に来た連中は1時間働いて1デナリオンもらったということは、自分たちは10時間以上働いたので、10デナリオンはもらえるだろう」と考えました。ところが、いざ自分たちの番が回って来ると、賃金は1デナリオンぽっきりでした。彼らは、これはあまりにも不公平であると、恨みつらみをこぼし始めました。私は、この主人が、もし最後に来た人にも1デナリオン支払いたいと思ったのなら、何も公然と全員の前で支払うのではなく、最後にこっそりと、人々にわからないようにポケットに1デナリオンを押し入れて「シー」と渡せば、波風立てずに済んだのにと思いました。

それでは実際主人は彼らに不当なことをしたのでしょうか。2節にあるように最初から日当を1デナリオンの約束で雇い入れたので、この主人は彼らに対し一切不当なことをしていません。主人はさらに畳み掛けるように言いました。

“自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。”

15節の「私の気前の良さをねたむのか」という箇所は、ギリシャ語で直訳すると、「私が善であるために、あなたの目がよこしまになったのか?」という意味です。つまり、何を言っているのかというと、主人が、「あまりにも慈しみ深く憐れみ深いので」、主人が、「あまりにも正しすぎたために」、かえって、朝早くから来た者は恨みを持つに至ったということです。彼はなぜ、主人と共に喜ぶことが出来なかったのでしょうか。なぜ目が邪になってしまったのでしょうか。それは、1デナリオンという日当を、その字のごとく、「ぶどう園で働いた代価」として考えてしまったからです。もし代価として考えるのなら、明らかに最後に来た人はえこひいきされたのに、自分は不当に扱われたと思い、常に他人と自分を比較する中で、恨みつらみが出てくるのです。しかし、そもそも神の国に入ることができるのは、私たちの行いによったのでしょうか。いいえ。神の一方的な選びと召しによるのです。昔、神は、アダムと契約を結んだことがありました。人間はその契約を履行するなら、永遠の命が得られるという行いの契約でした。ところが人間は契約を破り、これによって人間が自らの力では神の国に入ることができないことが証明されたのです。従って神の国には、恵みを通して入る以外に方法はありません。ですから、神の国である教会において、たとえ多く働くことができたとしても、そのことをもって神の国に入れられたと考えることはできませんし、神に何か貸しを与えたので、後で返してもらおうと考えることもできないのです。神の国において多くの犠牲を払ったこと、自分は何もかも捨ててきたことを、ペトロや弟子たちのように代価として誇り、神に貸しを作ったと考えてはならないのです。そのように考えるなら、私たちは朝早くから働いた労働者のように、神の慈しみ深さを共に喜ぶことが出来ない者になってしまいます。しかし、代価ではなく、むしろ多くの神さまの働きに与ることができ、イエスさまの同労者となることができて何と幸いな時間を過ごすことができただろうか、と感謝することができたらどうでしょうか。神さまはご自分の民をご自分の国に招き入れ、彼らに平安を与えられます。この平安や幸福感は、キリストを知らない人々が不安の中、巨大の富を所有することより、はるかに勝るものです。キリスト者は日々、自然に顔から笑顔があふれ、自然に感謝の思いで満たされるのです。コロサイ3:12-17には次のように書かれています。

“あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。”

常に感謝することによって私たちは、夕方五時に神の国に入れられた、「後に来たもの」のようになり、神の慈しみと神の気前の良さを褒め称え続けることが出来るようになるのです。常に感謝することによって他人と比較しないで、このような私にさえ、注いでくださった主の限りない恵みに目を留めて、喜ぶことができるのです。悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアを見てください。彼女は、まさに主のために多くのものを捨ててきたとか、主のために多くの犠牲を払ったなどという考えは持っていませんでした。彼女はいつもイエスさまによって召されたことだけを感激し、感謝していたのです。そして十字架につけられる直前にイエスさまの足に香油を塗り、イエスさまに最後まで従っていくことが出来ました。このマリアに、復活の主は誰よりも先にお会いになってくださいました。後の者が先になるのです。このような、足りない私を主が召してくださったこと、キリスト者としてこのような幸いな日々に与らせてくださり、恵みを注いでくださったこと、そのことだけに目を留めて、私たちはいつも感謝しながら歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 은혜에 의한 삯

2018년 9월 6일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 19장 27~20장 16절

부유한 청년이 예수님께 질문했습니다. 「선생님이여 내가 무슨 선한 일을 하여야 영생을 얻으리이까」 이에 대한 예수님의 대답은 「가서 네 소유를 팔아 가난한 자들에게 주라 그리하면 하늘에서 보화가 네게 있으리라 그리고 와서 나를 따르라」는 것이었습니다. 예수님께서 이렇게 대답하신 것은 자신의 힘으로는 결코 영생을 얻을 수 없다는 것을 깨닫게 하시기 위함이었습니다. 그러나 그는 많은 재산을 가지고 있었기에 그런 일은 도저히 할 수 없다고 생각하고, 결국 예수님을 떠나갔습니다. 영원한 생명을 얻기 위해서는 인간은 작은 자, 무능한 자로서 하나님의 사랑 안에 머물며, 하나님의 도움과 인도하심으로 예수님을 따르는 것 외에는 길이 없습니다. 따라서 중요한 것은 재산을 버리는가, 버리지 않는가가 아니라 예수님에게서 떠나지 않는 것이었습니다. 그런데 이 청년은 결국 예수님에게서 떠나가 버렸습니다. 이 청년을 옆에서 지켜보던 베드로가 예수님께 질문했습니다. 27절입니다.

이에 베드로가 대답하여 이르되 보소서 우리가 모든 것을 버리고 주를 따랐사온대 그런즉 우리가 무엇을 얻으리이까

이 말에는 자신이 이 부유한 청년보다는 낫겠지 하는 속셈을 품은 질문이 담겨 있었습니다. 이렇게 말하는 데는 그럴 만한 이유가 있습니다. 베드로는 예수님을 따르기 위해 그물을 버렸습니다. 「어부가 그물을 버린다는 것이 얼마나 큰 의미를 지니는지 주님, 아시겠지요」라고 말하는 것입니다. 또한 제자들 중에는 요한처럼 배를 버리고 따라온 자도 있습니다. 아버지를 버리고 온 제자도 있고, 마태의 경우 사람들로부터 비난받는 직업이긴 하지만 세리라는 경제적으로 보장된 직업마저 버렸습니다. 그러므로 제자들은 「우리는 모든 것을 버리고 예수님을 따랐습니다. 우리는 무엇을 받을 수 있겠습니까」라고 말할 수 있는 것입니다.

저희도 짐작이 가는 부분이 있다고 생각합니다. 우리도 예수님을 따르기 위해 버려온 것이 결코 적지 않을 것입니다. 저도 많이 버리고 왔어요. 우선 직업을 버리고 왔습니다. 그리고 함께 술을 마시는 친구나 동료들을 버리고 왔습니다. 신학교에서 배우기 위해 저축 같은 것도 버려왔습니다. 그래서 내 마음속에도 은밀히 「예수님을 위해 모든 것을 버리고 왔습니다. 무엇을 받을 수 있을까요」 라는 생각이 듭니다. 이런생각은 누구에게나 있다고 생각합니다. 예수님의 대답은 29절입니다. 보세요.

또 내 이름을 위하여 집이나 형제나 자매나 부모나 자식이나 전토를 버린 자마다 여러 배를 받고 또 영생을 상속하리라

여러분, 역시 예수님을 따라온 것이 다행이네요. 이 말씀에 따르면 예수님을 위해 버리고 온 것은 결코 무의미한 것이 아니었습니다. 100배의 보답을 받는다고 적혀 있어요. 집을 버린 사람은 그 100배를 받을 것을 믿습니다. 아멘! 베드로 같은 경우에는 그물을 버리고 왔어요. 그 그물의 100배를 받을 것을 믿어요. 할렐루야! 제자들은 예수님의 말씀을 듣고 역시 이분을 따라오길 잘했다고 마음이 따뜻해졌습니다. 이것으로 끝이 나면 「오늘은 여기까지 하고 설교를 끝냅시다」가 되는데, 예수님은 웬일인지 한마디, 헤아리기 어려운 말씀을 덧붙입니다. 그 말씀이 우리를 정말 고민하게 합니다. 30절을 보시죠.

그러나 먼저 된 자로서 나중 되고 나중 된 자로서 먼저 될 자가 많으니라

이게 대체 무슨 뜻일까요? 예수님은 왜 이런 쓸데없는, 이라고도 생각할 수 있는 말을 덧붙이시는 것일까요. 20장 1절 첫머리에 사실 일본성경 신공동번역에는 번역되지 않았지만, 헬라어 성경을 보면 「왜냐하면」이라는 접속사가 삽입되어 있습니다. 즉, 이어지는 20장 1-16절의 「포도원 주인」의 비유에 따라 「나중 된 자로서 먼저 되고 먼저 된 자로서 나중 되리라」는 이유가 설명되어 있습니다. 그리고 비록 이야기의 결론 부분으로 20장 16절에 다시 19장 30절과 같은 말씀으로 이야기를 맺고 있습니다. 그럼 20장 1~2절을 살펴보도록 하겠습니다. 「왜냐하면」을 삽입해서 읽어드리겠습니다.

1 (왜냐하면) 천국은 마치 품꾼을 얻어 포도원에 들여보내려고 이른 아침에 나간 집 주인과 같으니

2 그가 하루 한 데나리온씩 품꾼들과 약속하여 포도원에 들여보내고

보통 유대인의 하루 일당은 1데나리온이었습니다. 이 1데나리온을 약속하고 주인은 품꾼을 고용해 그들을 자신의 포도원으로 보냈습니다. 이 비유에서 가장 먼저 알아두고 싶은 것은 집 주인이란 예수님을 비유하고 있다는 것입니다. 그리고 「포도원에서 일하라」는 품꾼들에게의 부르심은, 「하나님의 나라」에서 일하라는 제자들에게의 부르심이라는 것에 비유되고 있다는 것입니다. 그래서 영원한 생명을 얻기 위해서는 바로 하나님의 나라에 들어갈 수 있는 것, 포도원에 들어갈 수 있는 것, 그 자체가 가장 중요한 것인데, 이 비유로는 1데나리온이라는 삯에 초점이 맞춰져 있습니다.

집 주인은 아침 일찍 품꾼을 고용했는데도 아침 9시쯤 다시 장터로 나갔습니다. 그래서 무슨 이유에서인지 할 일 없이 장터에 서 있는 사람을 발견하자 그들을 고용해 포도원으로 보냈습니다. 그리고 정오 무렵과 오후 3시경에 또 무슨 이유에서인지 장터에 나갔다가, 하는 일 없이 서 있는 사람을 발견하면 포도원에서 일하게 하기 위해 고용했습니다. 제십일시인, 저녁 5시경, 앞으로 1시간 만에 해가 지려고 할 때 다시 장터로 나갔습니다. 그러자 아직도 하는 일 없이 서 있는 사람들이 있었기 때문에 「너희는 어찌하여 종일토록 놀고 여기 서 있느냐」고 물었습니다. 그들은 주인에게 「우리를 품꾼으로 쓰는 이가 없음이니이다」라고 대답했습니다. 주인은 저녁 5시까지 어느 고용자에게도 고용되지 못하고 그대로 남아 있던 사람들을 발견하고는 고용하고 있는 것입니다. 이 시간이기 때문에 아마도 장터에 남아 있던 사람들은 체격도 연약하고, 눈빛이나 얼굴 생김새도 눈에 띄지 않고, 도저히 쓸모없는 무능한 사람들이 남아 있었다고 생각됩니다. 따라서 포도원 주인이 품꾼을 고용한 그 조건을 생각해 보면 그것은 우리가 이 세상의 상식이라고 생각할 수 있는 경영이념과는 전혀 동떨어진 것이었습니다. 앞으로 1시간을 위해 노동자를 고용한다는 것은 아무리 생각해도 이상하기 때문입니다. 조금이라도 근면하고 완력이 있는 유능한 노동자를 고용해 생산성을 올리기 위해서라든가, 경비가 되는 노동비를 조금이라도 낮게 억제하려는 생각은 보이지 않습니다. 이 주인에게 포도원 일이 목적인 것이 아니라 그 사람을 포도원으로 초대하는 것, 그 자체가 목적이었던 것입니다. 스스로 선택한 사람들을 포도원으로 불러들여 그곳에서 그들을 살리겠다는 관용과 자선의 이념이 관철된 것입니다. 그것은 말하자면 은혜의 이념이었고, 이 세상이 아니라 천국의 이념이었습니다. 「은혜」라는 것은 우리가 생각하는 것과 같은 공평함이라든가, 합리성이라든가 하는 것은 없습니다. 전혀 무능하고, 일절 노동 효과를 가져오지 못한 사람들에게도 쏟아지기 때문입니다. 그 사람의 일하는 모습이나 평소 그 사람에 대한 사회적 신뢰, 평가 등은 관계가 없습니다. 그 사람의 생김새나 외모 같은 것도 상관없습니다. 오로지 집 주인의 마음만을 근거로 하고 있어, 우리의 눈에서는 「불공평」하다고 밖에 말할 수 없는 것, 그것이 「은혜」입니다. 해가 질 무렵이 되어 포도원 주인은 품꾼들을 불러 마지막에 온 사람들부터 차례로 임금을 지불해 주었습니다. 제일 마지막으로, 즉 5시에 고용된 사람들이 와서 1데나리온씩 받아갑니다. 이것을 보고 있던 최초로 고용된 사람들은 「음, 그렇구나. 마지막에 온 친구들은 1시간 일하고 1데나리온 받았다는 것은 우리는 10시간 이상 일했으니 10데나리온은 받을 것이다」라고 생각했습니다. 그런데 막상 자기들 차례가 돌아오니 임금은 1데나리온뿐이었습니다. 그들은 이것은 너무 불공평하다고 집 주인을 원망하기 시작했습니다. 나는 이 주인이 만약 마지막에 온 사람에게도 1데나리온을 지불하고 싶다고 생각했다면, 아무래도 공공연히 모든 사람 앞에서 지불하는 것이 아니라, 마지막에 몰래 사람들이 모르게 주머니에 1데나리온을 밀어 넣고 「쉿」이라고 눈짓하며 살짝 건네주면 풍파가 일지 않고 끝났을 것이라고 생각했습니다.

그럼 실제 집 주인은 그들에게 부당한 일을 했을까요? 2절에 나와 있듯이 처음부터 일당을 1데나리온의 약속으로 고용했기 때문에 이 주인은 그들에게 일절 부당한 일을 하지 않았습니다. 주인은 다시 단번에 말했습니다. 14~16절입니다.

14 네 것이나 가지고 가라 나중 온 이 사람에게 너와 같이 주는 것이 내 뜻이니라

15 내 것을 가지고 내 뜻대로 할 것이 아니냐 내가 선하므로 네가 악하게 보느냐

16 이와 같이 나중 된 자로서 먼저 되고 먼저 된 자로서 나중 되리라

15절의 「내가 선하므로 네가 악하게 보느냐」라는 부분은 헬라어로 직역하면 「내가 너무 선하기 때문에 네 눈이 사악해졌느냐」라는 뜻입니다. 즉, 무슨 말을하는거냐하면, 주인이 너무 자비하고 긍휼히 많아서 주인이 너무 선하게 하는 바람에, 오히려 아침 일찍부터 온 품꾼은 원망을 하기에 이르렀다는거죠. 그는 왜 주인과 함께 기뻐할 수 없었던 것일까요. 왜 사악한 눈이 되었을까요? 그것은 1데나리온이라는 일당을 문자대로 「포도원에서 일한 삯」으로 생각해 버렸기 때문입니다. 만약 삯으로 생각한다면 분명히 마지막에 온 사람은 편애를 받았는데 자신은 부당하게 대우받았다고 생각하고, 항상 남과 자신을 비교하는 가운데 원망의 아픔이 나오는 것입니다. 그러나 애초에 하나님의 나라에 들어갈 수 있는 것은 우리의 행위에 의한 것일까요. 아니요. 하나님의 일방적인 선택과 부르심에 따른 것입니다. 옛날에 하나님은 아담과 언약을 맺은 적이 있었습니다. 인간은 그 언약을 이행한다면 영원한 생명을 얻을 수 있다는 행위의 언약이었습니다. 그런데 인간은 언약을 어겼고, 이로 인해 인간이 스스로의 힘으로는 하나님의 나라에 들어갈 수 없음이 증명된 것입니다. 따라서 하나님 나라에는 은혜를 통해 들어가는 것 외에는 다른 방법이 없습니다. 그래서 하나님의 나라인 교회에서 비록 많이 일할 수 있었다 하더라도 그것을 가지고 하나님의 나라에 들어갈 수 있었다고 생각할 수 없고, 하나님께 뭔가 빌려드렸기 때문에 나중에 돌려받을 생각도 할 수 없는 것입니다. 하나님 나라에서 많은 희생을 치렀다는 것, 자신은 모든 것을 버리고 온 것을 베드로나 제자들처럼 대가로 자랑하며 하나님께서 빚을 졌다고 생각해서는 안 되는 것입니다. 그렇게 생각한다면 우리는 아침 일찍부터 일한 품꾼처럼 하나님의 인자함을 함께 기뻐하지 못하는 자가 되고 말 것입니다. 그러나 삯이 아니라 오히려 많은 하나님의 일에 참가할 수 있고, 예수님의 동역자가 될 수 있어 얼마나 다행스러운 시간을 보낼 수 있었을까 하고 감사할 수 있다면 어떨까요. 하나님은 자신의 백성을 자신의 나라로 초대하여 그들에게 평안을 줍니다. 이 평안과 행복감은 그리스도를 모르는 사람들이 불안 속에서 거대한 부를 소유하는 것보다 훨씬 뛰어납니다. 그리스도인은 날마다 자연스럽게 얼굴에서 미소가 넘쳐나고 자연스럽게 감사함으로 채워집니다. 골로새서 3:12-17에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

골로새서 3장

12 그러므로 너희는 하나님이 택하사 거룩하고 사랑 받는 자처럼 긍휼과 자비와 겸손과 온유와 오래 참음을 옷 입고

13 누가 누구에게 불만이 있거든 서로 용납하여 피자 용서하되 주께서 너희를 용서하신 것 같이 너희도 그리하고

14 이 모든 것 위에 사랑을 더하라 이는 온전하게 매는 띠니라

15 그리스도의 평강이 너희 마음을 주장하게 하라 너희는 평강을 위하여 한 몸으로 부르심을 받았나니 너희는 또한 감사하는 자가 되라

16 그리스도의 말씀이 너희 속에 풍성히 거하여 모든 지혜로 피차 가르치며 권면하고 시와 찬송과 신령한 노래를 부르며 감사하는 마음으로 하나님을 차냥하고

17 또 무엇을 하든지 말에나 일에나 다 주 예수의 이름으로 하고 그를 힘입어 하나님 아버지께 감사하라

항상 감사함으로써 우리는 저녁 5시에 하나님의 나라에 들어가게 되었던, 「나중 된 자」처럼 되어 하나님의 인자함과 하나님의 선하심을 계속 찬양할 수 있게 되는 것입니다. 늘 감사함으로써 남들과 비교하지 않고 이런 나에게조차 부어주신 주님의 한없는 은혜에 시선을 고정하고, 기뻐할 수 있는 것입니다. 악령을 쫓아낸 막달라 마리아를 보세요. 그녀는 바로 주님을 위해 많은 것을 버리고 왔다거나 주님을 위해 많은 희생을 했다거나 하는 생각은 가지고 있지 않았습니다. 그녀는 항상 예수님에 의해 부르심을 받은 것만을 감격하고 감사하고 있었습니다. 그리고 십자가에 못 박히시기 직전에 예수님의 발에 향유를 바르고 예수님을 끝까지 따라갈 수 있었습니다. 이 마리아에게 부활의 주님은 누구보다 먼저 만나주셨습니다. 나중 된 자가 먼저 된 것입니다. 이런 부족한 자신을 주님이 찾아주신 것, 그리스도인으로서 이런 복된 날들을 주시며 은혜를 베풀어 주신 것, 그 일에만 시선을 고정하고, 우리는 늘 감사하며 걷도록 합시다.

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