2018年09月16日「神の恵みによる報酬」

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神の恵みによる報酬

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章27節~20章16節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
19:28イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
19:29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
19:30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
20:1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った
20:3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 19章27節~20章16節

原稿のアイコン日本語メッセージ

富める青年が、イエスさまに質問しました。「善い先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」それに対するイエスさまの答えとは、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」ということでした。イエスさまがこのように答えられたのは、自分の力では決して永遠の命を手に入れることはできないということを悟らせるためでありました。しかし彼は多くの財産を持っていたため、そんなことは到底できないと思い、結局イエスさまから離れて行きました。永遠の命を得るためには、人間は、小さき者、無能なものとして、神の愛の中に留まり、神の助けと導きによってイエスさまに従う以外に道はありません。従って大切なことは、財産を捨てるのか、捨てないのかではなく、イエスさまから離れないことでありました。ところがこの青年は、結局イエスさまから離れて行ったのです。この青年を横で見ていたペトロは、イエスさまに質問しました。

“このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。”

この言葉には、自分はこの富める青年よりかは、まだましだろうという胸算用をした上での質問でした。このように言うのは、それなりの理由があります。ペトロは、イエスさまに従うために網を捨ててきました。「漁師が網を捨てるということはどれほどのことを意味するのか、主よ、お分かりになりますね!」と言っているのです。また、弟子たちの内には、ヨハネのように舟を捨てて、従ってきた者もいます。父を捨ててきた弟子もいますし、マタイの場合は、人々からは非難される職業ではありますが徴税人という経済的に保証された職業までも捨ててきました。ですから弟子たちは「私たちは全てを捨ててイエスさまに従って参りました。わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言うことが出来るのです。

私たちも思い当たる節があると思います。私たちもイエスさまに従うために、捨ててきたものは、決して少なくはないはずです。私もたくさん捨ててきました。まず職業を捨ててきました。それから一緒に酒を飲む友人や仲間たちを捨ててきました。神学校で学ぶために貯蓄なども捨ててきました。ですから私の心の中にも、ひそかに「イエスさまのためにすべてを捨ててきました。何を頂けるのでしょうか」という思いがあります。このような思いは誰にもあると思うのです。イエスさまの答えは29節です。ご覧ください。

“わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。”

皆さん、やはり、イエスさまに従ってきた良かったですね。この御言葉によればイエスさまのために捨ててきたものは、決して無意味なことではありませんでした。100倍もの報いを受けると書かれています。家を捨てた人は、その100倍を受けることを信じます。アーメン!ペトロの場合は網を捨ててきました。その網の100倍を受けることを信じます。ハレルヤ!弟子たちはイエスさまの御言葉を聞いて、やっぱりこのお方について来てよかったと、心温められました。これで終わりでしたら、「今日はここまでにして説教を終わりにしましょう」となるのですが、イエスさまはなぜか、一言深遠な御言葉を付け加えるのです。その御言葉が、私たちを本当に悩ませるのであります。30節をご覧ください。

“しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。”

これは一体どういう意味でしょうか。イエスさまはなぜこのような余計な、とも思えるような御言葉を付け加えるのでしょうか。20章1節の冒頭に、実は新共同訳には訳されていませんが、ギリシャ語聖書を見ると「なぜなら」という接続詞が挿入されています。つまり、続く20章1-16節の「ぶどう園の主人」の譬えによって、“後にいる者が先になり、先にいる者が後になる”理由が説明されているのです。そしてたとえ話の結論部分として20章16節に再び19章30節と同じ御言葉で話しを結んでいるのです。それでは20章1-2節を見ていきましょう。「なぜなら」を挿入してお読みさせていただきます。

“(なぜなら)天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。”

普通ユダヤ人の一日の日当は1デナリオンでした。この1デナリオンを約束して、主人は労働者を雇い入れて、彼らを自分のぶどう園に送り込みました。この比喩で、まず最初に押さえておきたいことは、家の主人とは、イエスさまを譬えているということです。そして「ぶどう園で働きなさい」という労働者への召しは、「神の国」で働きなさいという弟子たちへの「召し」に譬えられているということです。ですから、永遠の命を得るためには、まさに神の国へ入れられること、ぶどう園に入れられること、そのこと自体が一番大切なことなのですが、この譬えでは1デナリオンという代価に焦点があてられています。

主人は、朝早く、労働者を雇い入れたのにも関わらず、朝の9時頃、再び広場に出かけました。そこで、どういう訳か、することもなく広場で立っている人を見つけると、彼らをも雇い入れぶどう園へ送りました。そして、正午ごろと午後三時頃に、またまた、どういう訳か、広場に出かけて行き、することもなく立っている人を見つけると、ぶどう園で働かせるために雇い入れました。夕方の五時ごろ、あと1時間で日が沈もうとしている時に、また広場に出かけました。するとまだ、することもなく立っている人々がいたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねました。彼らは、主人に「誰も自分たちを雇ってくれないからです」と答えました。主人は夕方の5時まで、どの雇用者からも声をかけられず、そのまま残っていた人々を見つけては、雇い入れているのです。この時間ですから、恐らく、広場に残っていた人たちとは体つきも、弱々しく、目の輝きや、顔だちも目立たず、いかにも使い物にならない、無能な人々が残っていたと思われます。従って、ぶどう園の主人が労働者を雇い入れた、その条件を考えてみますと、それは私たちがこの世の常識と考えられる経営理念とは全くかけ離れたものでした。あと1時間のために労働者を雇い入れるというのはどう考えてもおかしいからです。少しでも勤勉で腕力のある有能な労働者を雇って生産性を上げるためだとか、経費となる労働費を少しでも低く抑えようというような考えは見られないのです。この主人にとって、ぶどう園の仕事が目的なのではなく、その人をぶどう園に招き入れること、それ自体が目的だったのです。自ら選んだ人々をぶどう園に招き、そこにおいて彼らを生かすという、「寛容と慈善の理念」が貫かれているのです。それは言ってみれば、恵みの理念であり、この世ではなく天国の理念でした。「恵み」というのは、私たちが考えるような公平さだとか、合理性などというものはありません。全く無能で、一切、労働効果をもたらさなかった人々にも注がれるからです。その人の働きっぷりや、平素におけるその人へ対する社会的信頼、評価など関係ありません。その人の顔だちや、容姿なども関係ありません。専ら、主人の御心だけを根拠としており、私たちの目からは「不公平」としか言いようがないもの、それが「恵み」なのです。日の沈むころになり、ぶどう園の主人は労働者たちを呼んで、最後に来た人々から順に賃金を支払ってやりました。一番最後に、つまり5時に雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取っていきます。これを見ていた最初に雇われた人たちは「ふーん、なるほどね ♡ 最後に来た連中は1時間働いて1デナリオンもらったということは、自分たちは10時間以上働いたので、10デナリオンはもらえるだろう」と考えました。ところが、いざ自分たちの番が回って来ると、賃金は1デナリオンぽっきりでした。彼らは、これはあまりにも不公平であると、恨みつらみをこぼし始めました。私は、この主人が、もし最後に来た人にも1デナリオン支払いたいと思ったのなら、何も公然と全員の前で支払うのではなく、最後にこっそりと、人々にわからないようにポケットに1デナリオンを押し入れて「シー」と渡せば、波風立てずに済んだのにと思いました。

それでは実際主人は彼らに不当なことをしたのでしょうか。2節にあるように最初から日当を1デナリオンの約束で雇い入れたので、この主人は彼らに対し一切不当なことをしていません。主人はさらに畳み掛けるように言いました。

“自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。”

15節の「私の気前の良さをねたむのか」という箇所は、ギリシャ語で直訳すると、「私が善であるために、あなたの目がよこしまになったのか?」という意味です。つまり、何を言っているのかというと、主人が、「あまりにも慈しみ深く憐れみ深いので」、主人が、「あまりにも正しすぎたために」、かえって、朝早くから来た者は恨みを持つに至ったということです。彼はなぜ、主人と共に喜ぶことが出来なかったのでしょうか。なぜ目が邪になってしまったのでしょうか。それは、1デナリオンという日当を、その字のごとく、「ぶどう園で働いた代価」として考えてしまったからです。もし代価として考えるのなら、明らかに最後に来た人はえこひいきされたのに、自分は不当に扱われたと思い、常に他人と自分を比較する中で、恨みつらみが出てくるのです。しかし、そもそも神の国に入ることができるのは、私たちの行いによったのでしょうか。いいえ。神の一方的な選びと召しによるのです。昔、神は、アダムと契約を結んだことがありました。人間はその契約を履行するなら、永遠の命が得られるという行いの契約でした。ところが人間は契約を破り、これによって人間が自らの力では神の国に入ることができないことが証明されたのです。従って神の国には、恵みを通して入る以外に方法はありません。ですから、神の国である教会において、たとえ多く働くことができたとしても、そのことをもって神の国に入れられたと考えることはできませんし、神に何か貸しを与えたので、後で返してもらおうと考えることもできないのです。神の国において多くの犠牲を払ったこと、自分は何もかも捨ててきたことを、ペトロや弟子たちのように代価として誇り、神に貸しを作ったと考えてはならないのです。そのように考えるなら、私たちは朝早くから働いた労働者のように、神の慈しみ深さを共に喜ぶことが出来ない者になってしまいます。しかし、代価ではなく、むしろ多くの神さまの働きに与ることができ、イエスさまの同労者となることができて何と幸いな時間を過ごすことができただろうか、と感謝することができたらどうでしょうか。神さまはご自分の民をご自分の国に招き入れ、彼らに平安を与えられます。この平安や幸福感は、キリストを知らない人々が不安の中、巨大の富を所有することより、はるかに勝るものです。キリスト者は日々、自然に顔から笑顔があふれ、自然に感謝の思いで満たされるのです。コロサイ3:12-17には次のように書かれています。

“あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。”

常に感謝することによって私たちは、夕方五時に神の国に入れられた、「後に来たもの」のようになり、神の慈しみと神の気前の良さを褒め称え続けることが出来るようになるのです。常に感謝することによって他人と比較しないで、このような私にさえ、注いでくださった主の限りない恵みに目を留めて、喜ぶことができるのです。悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアを見てください。彼女は、まさに主のために多くのものを捨ててきたとか、主のために多くの犠牲を払ったなどという考えは持っていませんでした。彼女はいつもイエスさまによって召されたことだけを感激し、感謝していたのです。そして十字架につけられる直前にイエスさまの足に香油を塗り、イエスさまに最後まで従っていくことが出来ました。このマリアに、復活の主は誰よりも先にお会いになってくださいました。後の者が先になるのです。このような、足りない私を主が召してくださったこと、キリスト者としてこのような幸いな日々に与らせてくださり、恵みを注いでくださったこと、そのことだけに目を留めて、私たちはいつも感謝しながら歩ませていただきましょう。

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