2018年11月04日「実を結べ」

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21:18朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
21:20弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21:21イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
21:22信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章18節~22節

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マタイ21章18-22節

日本を象徴する花と言えば、皆さんもご存じのように桜でございます。オランダではチューリップ、韓国ではムクゲ、聖書の中でイスラエルを象徴するのは、ぶどうとイチジクです。当時、イスラエルにはイチジクの木がいたるところに生えており、イチジクからとれる実は、人々にとって重要な日常の糧でありました。イチジクは年に二度実を結びますが、「初なりのイチジク」は6~7月に実を結び、もっと大きな果実である「秋イチジク」は、8~9月に実を結びます。前回見てきましたように、主イエスは、過ぎ越しの祭りの期間に神殿に入られ、最初に、所謂「宮きよめ」と呼ばれる大きな騒動を起こされました。祭りの期間中は、都に巡礼に上ってくる人々で大変込み合いますので、巡礼者は、特にこの一週間に限り、大概エルサレムの外で宿泊場所を探しましたが、主イエスもベタニアで夜を過ごされ、翌日、また神殿へ出かけ、人々に御言葉を教えるために朝早くベタニアを出発しました。本日の聖書箇所に書かれている事件は、その道中の道端において起こりました。

一本のイチジクの木があったので主イエスが近寄られると、そのイチジクの木には、葉の他に、何もないということが分かりました。マルコによる福音書によれば、イエスさまは空腹を覚えられたために近寄られたと書かれています。そのイチジクに対し、イエスさまは「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われました。するとイチジクの木はたちまち枯れてしまったのです。弟子たちはこれを見て大変驚きました。過越しの祭りのこの時期は4月上旬ですから、6~7月に実を結ぶ「初なりのイチジク」の時期ではありません。なぜイエスさまはご自分が空腹だからといって不機嫌になられ、実がなる時期ではない、何の罪もない一本のイチジクの木に対し審判を下され、これほど苛酷な奇跡を行われたのでしょうか。私たちはこれまで、山上の説教を通して、或いは目の見えない人、耳の聞こえない人々の癒しを通して、罪人に対する「神の憐れみ」がどれほど大きいのかについて教えられて来ました。ダビデの子・メシアである主イエスは、私たちに仕えるために来られ、そして十字架上で、その愛を完全にお示しになるために来られたはずでした。そのようなイエスさまが、ご自分の空腹を満たすことができなかったため、イチジクの木を呪うほどに機嫌を損ねたというのは、とてもありそうにないことです。本日の聖書の箇所は一体、私たちに何を教えようとされているのでしょうか。

ある人々は、こう言います。21~22節に「信仰」について書かれているので、弟子たちに、どんなことでも信じるならば、その通りになるということを教えるために「イチジクを枯らすという否定的な奇跡」を起こされたと言います。従って大胆に自分の夢を思い描き、それを頑なに信じ続けるなら、どんなことであってもそれが叶えられると教えますが、果たしてそうでしょうか。この箇所は、マルコによる福音書を見るときに解釈の助けが与えられます。マルコ11:12~13と11:20をご覧ください。イチジクの木の話が二つに分割されていて、その間に宮きよめの話が挟み込まれています。ですからマルコによると、イチジクはすぐに枯れたのではなく、宮きよめを終えた翌日、同じ場所を通った時に枯れているということに気づきました。これは、イチジクの話も、宮きよめの話も同じ文脈にあるということを意味しています。それでは、「宮きよめ」とは何を意味していたでしょうか。前回お話ししたように、宮きよめとは、高値で動物を売り付ける悪徳商人に対して、主の怒りが下されたのではありません。取引慣行それ自体に対し、つまり、イスラエルの律法と、供え物を捧げるという儀式的な礼拝形式そのものに対し、怒りを表されました。そして“わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている”と言われたのです。その意味は、礼拝儀式、生贄の供え物、律法の表面的な行いによって神を礼拝するのではなく、神がお喜びのなるのは砕かれた魂であり、罪を心から悔い改め、主が善なるお方で慈しみ深いことを信じて御前に出ることを喜ばれます。ですから、「イチジクが実を結ぶことができなかった」とは、どういうことかと言うと、イチジクが象徴しているイスラエルの人々において、実が結ばれていなかったということです。彼らには、確かに神を知る特権を与えられていました。特権として、律法が与えられ、神の民として契約のしるしである割礼が与えられ、神殿と、そこで生贄を捧げる儀式が与えられていました。しかし、それにも関わらず、メシアが来られ、神の国が近づいた時に、悔い改めることが出来ませんでした。というのは、それらの特権によって神に近づくことが出来るのではなく、自分の罪を認め、それを心から悔い改め、恵みによってのみ、神に近づくことが出来るのです。イスラエルの民は、与えられた律法と特権の故に、神の民とされ、救いに与っていると勘違いをしてしまいました。救いとは、儀式そのものによって、或いは律法の行いによって得られるのではありません。恵みによって、信仰によって得られるのです。彼らはその点において大きな誤解をしていて、行いや、血統により頼み、表面的に繕うだけで、実を結ぶことが出来なかったのです。エレミヤ8:13とミカ書7:1には、実を結ぶことが出来ないご自分の民について神が嘆いておられる聖句がございます。

“わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。”(エレミヤ8:13)

“悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。” (ミカ書7:1)

従って、イエスさまがご覧になられた葉の茂ったイチジクの木とは、まさに、当時のユダヤ当局の人々・エルサレムの宗教指導者であるファリサイ人や律法学者たちによって代表されるイスラエルを表していると思われます。というのは、通常イチジクというのは、実がなった後に葉が出てくるのであって、従って葉が茂っているということは、実を結んだ標しでもありました。イエスさまは、まだ4月には違いありませんが、葉が茂っている木をご覧になり、「おや」ということで、初なりの実があるかもしれないと思われて近づいたのでしょう。ところが、そのイチジクの木は、葉ばかり茂らせて肝心の実を結んでいなかったのです。あたかも口先だけで神様を敬うけれども、神の御子がこの世の来られた時に、激しく敵対し、拒絶し、悔い改めの実を結ばなかったのです。律法と生贄の儀式は、イエス・キリストを指し示すものであり、実体であるイエス・キリストが、肉を取られ、この世にお生まれになったということは、それらが成就され廃棄されたということを表す出来事でした。そして本来イスラエルの人々にもたらされた神の国の福音は、彼らがそれを拒絶することによって、異邦人に向かいました。ヘブル人の手紙9:1~10には旧約の儀式について詳しく書かれています。イエスさまによって成就された事柄です。

“さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。”

つまり、簡単に要約しますと、聖所と至聖所の間には垂れ幕があって、大祭司だけが年に一度、生贄の血を携えて、至聖所の中に入ることが出来ましたが、垂れ幕によって聖所と至聖所が断絶されていたということです。そしてこのような儀式は肉の規定にすぎず、礼拝者の良心まで完成に導くことはできないということです。しかし、この垂れ幕は、神の子羊である主イエスが十字架によって捧げられた時に、真っ二つに破られました。つまり旧約の律法、神殿と供え物の礼拝儀式は成就され廃棄され、新約の時代は真の大祭司であるイエスさまを通して神に近づき、神と会見することが出来るようになったのです。イエス・キリストによって神の民となることが出来るのです。ということは、異邦人である私たち日本人にそれを適用するなら、私たちが救われるためには、決してユダヤ人化されてイエスさまに結び合わされるのではないということです。律法を守り、生贄を捧げ、割礼を受けて、律法を守りながら、イエスさまを信じるのではありません。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、誰であろうと、ただ、旧約聖書が指し示しているイエス・キリストを救い主として信じ、イエスさまによって神と和解され、イエスさまを信じることによってのみ、契約の民となり、神との交わりが回復されるのです。新約の時代も、旧約の時代も恵みにより、信仰によって救われるのです。律法の行いにもよらず、生まれや、血統にもよらず、ただ上からの恵みによって、信仰によって救われるのです。信仰によって救われることは、必然的に祈りへと導かれます。口先だけでなく、表面的ではない、真の信仰を持っている人は、自分のどんな功績をも神の御前に持っていく事はできませんから、ただ祈りへと導かれるのです。21章21~22節をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」”

21節でこの「この山に向かい…」という言葉は、以前マタイ17章20節にも出て来た言葉であって、これは「不可能のように思われる大きな障害を乗り越えることができる」という意味で使われる慣用句です。ですから、実際にイエスさまはオリーブ山を指して、それを死海に沈ませると言っているのではありません。それは、もし「疑わないで、信仰をもつなら、不可能と思えるような障害が取り除かれるだろう」ということです。何を疑わないのかというと、私たちの神は、信実なるお方で、善いお方、慈しみ深いお方であるということです。神は善そのものであり、善いお方ですから、私たちの人生に対しても必ず良い、幸せなご計画を持っておられるということです。神は王として私たちの人生を支配し、統治してくださり、今、現実に私たちの前に存在する、どのような苦しみも、痛みも、思い煩いも、全てのことをご存じであられ、それらが神の許しの中で起こっているということです。従って、それは必ず神の摂理の中で私たちに益となるために、私たちにとって良いこととなるために、神がお計らいくださっているということです。私たちが、そのように神の慈しみを疑わないなら、必ず神の御手を動かされ奇跡が起こされるということです。神によって不可能と思えるような障害が取り除かれ、平坦になるのです。そして、そのような信仰を持っている者は、口先だけの、表面的な儀式や行いを通して神に近づこうとするのではなく、ただ恵みにより頼み、イエス・キリストを信じる信仰によって、祈りへと導かれるのです。使徒たちを中心にして、ペンテコステの後に形成された原始キリスト教会は、当初ユダヤ教の異端のように思われていましたが、彼らはただイエス・キリストを信じる信仰によって歩み、ユダヤ教の行っていた割礼や、生贄による礼拝儀式、律法の表面的な解釈をすべて廃棄させてしまいました。キリストの体である教会こそが神の神殿であり、信者一人ひとりが聖霊の内住する神殿であると信じて歩み始めたのです。まさにこの時、山が海に飛び込むような、不可能と思えるような大きな奇跡が起こり、目前にはだかる大きな障害物が取り除かれたのです。私たちの信仰の歩みの上にも、このような神の御業が起こされることを期待いたしましょう。

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