2018年10月21日「神の家をきよめる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21:12それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
21:13そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
21:14境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
21:15他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
21:16イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
21:17それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章12節~17節

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マタイ21:12-17

イエスさまはエルサレムに入城してから、直ちに神殿に向かわれ、境内に入られました。そこで、犠牲として捧げるための動物を売り買いしていた人々を全員追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒されました。さらに“聖書にこう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』/それを強盗の巣にしている。”と言われました。これは、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれる事件です。これはもちろん、当時、礼拝が腐敗してしまったことに対するイエスさまの怒りであることは確かです。神殿内において、祭司たちに権力が集中してしまったことにより、祭司たちのやりたい放題にされてしまいました。しかし、この宮きよめには、それ以上の深い意味がありました。この事件が起こった場所は、境内の中でも特に異邦人の庭です。ここには、生贄に捧げる動物の市場がありました。市場がそこにあった理由として、各地から巡礼のため人々が神殿に上ってくるのですが、遠い道のりを、供え物の動物を携えてくるのが難しかったためです。通常、生贄として捧げられる動物は傷のない動物でなければ受け入れてもらえませんでした。ですから、この市場で傷のないものとして検査済みの動物を買って、それを捧げたのです。また、当時外国に住むユダヤ人も多かったのですが、彼らは神殿に来て、神殿税を捧げなければなりませんでした。この時ローマの貨幣で神殿税を納めることが出来ず、ユダヤのお金に両替して納めなけれならなかったのですが、この市場において、両替のサービスも行っていたのです。その際、1割のほどの手数料を乗せていたり、生贄の動物なども高価な金額で売られていたと、ある資料には記録されています。それでは、イエスさまの宮清めは、そのような悪徳な商人に対する行動だったのかと言うと、そうでもないようで、聖書を見ると、売り買いしていた人々全員を追い出したと書かれているのです。つまり、売っていた人だけにとどまらず、それを買ったり、両替のサービスを利用する人々全てが対象だったということです。ですから、この事件は、一般的な罪に対するイエスさまの怒りではなく、旧約時代に神殿を中心として行われていた礼拝儀式、つまり、神との会見の方法、それ自体の廃棄を宣言しようとしていると思われます。マラキ書とゼカリヤ書にこの「宮きよめ」が預言されているので、イエスさまのこの行いは、預言の成就であり、象徴的な標しでもあるということが分かります。マラキ書3:1-2をご覧ください。

“だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。”

その日、メシアが来られる日、レビの子らを清め、献げ物を正しく捧げる者となる、とあります。つまり神に受け入れられる完全で正しい献げ物が捧げられるために、律法によって規定された献げ物の完成について書かれているのです。メシアが来てそのようなことをされる、それこそ、メシアの標しであるということです。次にゼカリヤ書14:22には、主の神殿にはもはや商人がいなくなると預言されています。御覧ください。

“エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。”

ですから、この宮きよめの深い意味とは律法を根拠とした旧約的な礼拝、つまり旧約的な神との会見を廃棄することを象徴的に表し、神殿から売り買いする人々を追放することによって、預言の成就を現しているのだと思われます。同時に「神殿よりも偉大なものがここにある(マタイ12:6で)」と言われたお言葉の通り、ご自身がメシアであることを宣言し、証言しているのです。ところで旧約の律法によって定められた礼拝儀式も勿論、神様が定めたものでありました。しかし、そのような礼拝儀式は、実体の影であり本質の予表にすぎなかったのです。メシアの到来によって、実体が現れて、完成されなければならなかったのです。救いとは律法を守り行うことではなく、メシアであるイエスさまを信じることによって救われるからです。このことは、実は旧約においても全く同じでした。イスラエルの民は、律法の行いによって救われるのではなく、来たるべきメシアを待望するその信仰によって救われるのです。律法において、自分自身の罪が示されるだけなのです。しかしこのことを理解できなかった旧約の人々は律法の規定を守り行うことによって安心し、儀式を通して彼らの罪を覆い隠してしまい、祈りという礼拝の本質をかえって妨げていたのです。例えば、生贄の血が注がれる祭壇の角は、どのような罪も赦される安全地帯だと考えられていましたから、どのような悪事を働いても、神殿に入り祭壇の角に触れるなら、罰せられることはなく過ぎこされると考えていました。こうして神殿は強盗のすみかとなってしまいました。エレミヤ書7:4と、9-11ご覧ください。

“4主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。”

“9盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、10わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。11わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。”

神殿が強盗のすみかとなってしまったのは、イスラエルの民の不信仰が原因でありますが、肯定的に捉えようとするなら、神殿とか、礼拝儀式は、所詮、罪を隠ぺいするだけであり、強盗を生み出すだけに過ぎなかったのです。彼らは、神殿において決して神と出会うことはないし、神と交わりをもつこともありません。そのような神殿は必要ないということです。そして真の神殿であるイエス・キリストだけが律法に定められた礼拝儀式を終わらせることが出来るのです。救いとは、生贄の動物を捧げることによるのでも、律法を守り行うことによるのでもなく、ただイエス・キリストの恵みによるのです。このことは、人間の側で持っているいかなる善なる行いや、身分や、資格など、一切救いの根拠にはならないということと同時に、人間の側で持っているどんなに最悪な条件であっても、最も否定的な資格や身分であっても、神にから捨てられる根拠にはならないということです。マタイの福音書に戻りますと、イエスさまが両替の台や鳩を売る者の腰掛を倒されたちょうどその時、イエスさまに近づいてきた人々がいました。一体誰でしょうか。14節をご覧ください。

“境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。”

目の見えない人や足の不自由な人たちは、当時の習慣で、境内の中には入れませんでした。ですから恐らく彼らは、異邦人の庭に入るのを拒まれたに違いありません。この慣習は、律法において去勢された宦官が主の会衆に加われなかったこと、また、祭司の既定として、祭司は去勢された人や、身体に傷のある者は、祭司にはなれないとレビ記21章17節に規定されているので、それらの教えが一般の礼拝する人々にまで拡大解釈されたと思われます。神さまには、傷のない、全き動物しか捧げることができないように、健全な人しか神殿に近づけないと考えたのでしょう。イエスさまは近づいてきた彼らに対して「ここは境内の中だから、あなたたちは出て行きなさい」とは言われませんでした。暖かく迎え入れ、癒されたと書かれています。他方、この癒しの奇跡を見た祭司長と律法学者たちは腹を立てました。15-16節をご覧ください。

“他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」”

神の御業である「不思議な業」を見た後に、祭司や律法学者が激怒したということは、明らかにそれが彼らの悪い考えから出てきていることを示しています。つまり、彼らの既得権益が侵されるという危険を感じたのでしょう。彼らは一旦手に入れた既得権を維持し続けようと、どんなことでもする用意がありました。ですから、素性も知れないナザレ人イエスが、群衆からメシアと歓迎されて認められていることは、とんでもないことだったのです。こうして群衆たちや子供たちが「ダビデの子にホサナ!」と真理を語る一方において、本来、自分たちこそメシアを証すべきユダヤの当局者たちは、神の救いの真理をひたすら覆い隠そうとしていのです。イエスさまの宮きよめの核心は、旧約の儀式を廃棄し、御自身が真の神殿として来られ、御自身を通して人は神と出会うことができるようになるということです。そしてイエスさまの十字架によって何が起こったのかと言うと、救いはただ、神の恵みによってのみ与えられるということ、私たちの持っている身分や立場、或いは、最高の能力や最善の資格などは、一切救われるための根拠にはならないということ、同時に私たちが置かれている挫折、絶望、神に見捨てられたような呪われた状況、このような否定的な面も一切、救われない根拠にはなりえないということです。このことは、同時に選民であるイスラエルの民にも十字架による救いが必要であるということを意味します。彼らの選民と言う立場は決して、救いの条件にはならないのです。イエスさまはイスラエルの選民の意識の中にあった、傲慢な心や、肉的な優越感を廃棄されました。そのようなものによっては神にお会いすることはできないからです。しかし、実際、イエスさまを信じる私たちの信仰生活を見るときに、日々、信仰の勝利を体験しているでしょうか。ここが問題なのですが、私たちは、イエスさまを受け入れたはずなのに、その生活全般は、以前とは、さほど変化もなく、依然として、失敗者であり、敗北者であって勝利の体験があまりにも少ないように思えるのです。私自身もこれまでの人生振り返る時に、ほとんど失敗の連続でした。もしかしたら、皆さんの中で金銭的にも、社会的地位においても恵まれていて、職業も十分な保証が与えられて、それが安全装置のように働いていたという人がいるかもしれませんが、仮にそのような人であっても、それではそれだけ幸いな日々を歩んできたのかと言うと、そうでもなかったと告白するのではないでしょうか。人間である以上、幸いで何の心配なく生きていける人というのはいないのではないでしょうか。ですから信仰生活における失敗や敗北や葛藤や争いなどは常につきまとうということです。私たちを取り囲む悪の勢力の前に、私たちの持っている信仰や私たちの道徳心はいつも不足していて、物足りないために、常に敗北者であるのです。しかし、このような苦しみは、キリストの中で決して無駄に終わるのではありません。1コリント15:55-58をご覧ください。

“死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。”

ですから、私たちが信仰生活において勝利したいと思うときに、自分の側の行いを根拠として旧約時代の祭司長たちや律法学者たちのように、規定通り神殿で生贄を捧げようとしてはならないということです。自分の持っているローマのコインをユダヤのコインに両替して神の御前に出ようとしてはないということです。真の神殿はまさにイエス・キリストだからです。イエス・キリストの下に来るなら、私たちに勝利を与えてくださるのです。私たちが死ぬときに直ちに私たちの霊はイエスさまのもとへ引き上げられ、イエスさまの再臨の日に私たちの体は甦るのです。死の権勢に対する勝利とは、もはや私たちは旧約の律法の下には置かれていないということです。イエスさまは、両替人の台や売り買いする人々の腰掛を倒されました。イエスさまご自身が旧約の律法を成就させ、完成させ、廃棄されたのです。律法の下にないということは、私たちの側の根拠のよって救われるのではないということです。ただキリストの恵みによって救われるのです。ですから、イエスさまの下に来るものは、誰であっても、イエスさまの血潮によって聖められ、律法を全うしたものとして義と認められ、救われて、終わりの日に裁かれることはなく、白い服を着せられているということです。そのことに希望を置いて歩んでまいりましょう。

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