2019年08月04日「封印された墓」

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聖句のアイコン聖書の言葉

55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
57夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。
58この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。
59ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
60岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
62明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、
63こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。
64ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」
65ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
66そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章55節~66節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエス・キリストが十字架刑によって死なれたのは、午後三時頃であったと推定されますが、今、お読みした聖書箇所は、過ぎ越しの祭の日の当日であり、同時に安息日の備えの日の、午後3時から午後6時くらいまでの出来事です。

神の救済史の観点から見るなら、十字架の死から復活に至るまでの、この時間帯は、世を救済する神の計画が最終局面に達し、御子イエス・キリストによる贖いの御業というまさにその現場に差しかかっていると、言うことができるでしょう。しかしこの肝心な局面において、弟子たちは四方に、それぞれ一目散に逃げ去ってしまいました。ヨハネによる福音書によると使徒ヨハネだけはかろうじてその場にいたと読み取れますが、マタイによる福音書によれば、この十字架から主が復活なされ、再び弟子たちが活動することになる28章16節に至るまでの中間の時間帯は、キリストの証人である弟子たちが全くいなくなったと言うことができるでしょう。つまり28:16まで弟子たちの不在期間があるのです。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」

この間、神様は急遽、中継ぎのリリーフピッチャーとして、三つのグループを証人としてお立てになりました。第一のリリーフは、最初の復活の証人として立てられた女たちで、マグダラのマリアと、ヤコブとヨセフの母マリヤと、ゼベダイの子らの母です。マグダラのマリアとは、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた女であり、ヤコブとヨセフの母マリアとは、恐らく、十二弟子の一人アルファイの子ヤコブと、ヨセの母だと思われます。そしてゼベダイの子の母とは、雷の子ら、つまりヨハネとヤコブの母であり、イエス様に神の国が到来した暁には自分の息子たちをイエス様の右と左に座らせてほしいと懇願した母でした。彼女たちはガリラヤの故郷を捨てて弟子たちと一緒に、イエス様に献身的にお従いして来た人々だったのです。このお母さん方が、後で、ペトロに主の復活を告げる、最初の復活の証人として活躍することになるのです。

第二のリリーフピッチャーは、キリストの弟子であり、お金持ちのアリマタヤのヨセフです。マルコとルカの並行記事を見ると彼はサンヘドリンの議員でもありました。普通ローマ人の慣例に従うなら、十字架に付けられた極悪な犯罪人の死体というのは、そのまま穴に投げ込まれるだけです。そんな状況の中で、十字架上に死んだその惨めな死体を譲り受けることが、どれほど恥ずかしいことであったか想像してみてください。しかも、聖書には金持ちは救われるのが難しいと書いてありますし、普通、金持ちというのは、並みの人より一層、用心深くなり、あえて、危険を冒してまでして、人々の蔑視を受けるかもしれないようなこととか、常識を超えた、波風が立つようなことを、したがらないものです。しかしアリマタヤのヨセフは、側近の弟子たちも皆逃げ去った後であるのに関わらず、ピラトの所に行き、自分が実はイエスの弟子であることを明かしし、そしてイエスの遺体を渡してくれるようにと願い出たのです。この時、もし、聖霊がアリマタヤのヨセフに導きと勇気とを与えられなかったなら、このように大胆にピラトの前に進み出て、願い出ることなどできなかったでしょう。聖霊が彼をお用いになられたのです。日が暮れ始め、もう間もなく仕事ができなくなる安息日に入ってしまうため、ヨセフに与えられている時間はそんなに多くはありませんでした。59~61節を御覧ください。

ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、

岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。

マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

「きれいな亜麻布」とは、マルコによる福音書の並行記事によれば新しく買ってきた亜麻布であり、ヨハネの福音書の並行記事によれば、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、イエス様の体を香料と一緒に亜麻布で巻かれたと書かれています。このようにしてイエス様のご遺体は香で包まれました。そして60節の「新しい墓」とは、石をくりぬいて掘ったもので、まだ一度も使われていない墓、遺体が一つも入っていない墓を意味します。アリマタヤのヨセフによって遺体に対し丁寧に取り扱いがなされ、最後に重さ1トン以上するのではないかと推測される大きな円形の石が転がされて墓は閉じられました。つまり、犯罪人イエスの死体は、ヨセフによって配慮と敬意をもって埋葬されたのであり、共同の穴に不名誉に投げ捨てられたのではないということです。2歴代誌16:13~14節にはアサ王の葬りの様子が書かれていますが、この時の王の埋葬と共通点を見出すことができます。そのままお聞きください。

アサはその治世第四十一年に先祖と共に眠りにつき、死んだ。

彼はダビデの町に掘っておいた墓に葬られた。人々は特別な技術で混ぜ合わせた種々の香料の満ちた棺に彼を納め、また彼のために非常に大きな火をたいた。

聖霊に満たされた金持ちのヨセフの働きによって、キリストが葬られたことが歴史的に確かなものとなり、そして、それはイザヤ書53:9の預言の成就でもありました。(p1150)

彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。

因みにこの時、マグダラのマリヤと、もう一人のマリアとは、そこに残って、墓の方を向いて座っていました。そしてイエス様がどこに埋葬されたのか、女たちはじっと目撃していました。そういう訳で、安息日が明けた週の最初の日の朝、イエス様が埋葬されていたはずの墓が、確かに空になっていることを確認することができたのでした。28章5~6節を御覧ください。

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

女たちは遺体の置いてあった場所に、イエス様の遺体がなかったことを確認できたのです。弟子たちの不在の中、女たちが立てられたのも、アリマタヤのヨセフが立てられたのも、全て神のご計画の内だったのです。

第三のリリーフピッチャーは、ユダヤの当局者たちです。彼らは第一と第二のケースとは異なり、不本意に神さまに用いられるようになります。次の日、つまり安息日のことですが、復活を信じないサドカイ派の祭司長たちと、復活を信じるファリサイ人たちは、意気投合し、一緒になってピラトのところに集まりました。というのは、イエス様の語っていたお言葉を思い出し、それを心配してのことでした。62~66節を御覧ください。

明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、

こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。

ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」

ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」

そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

祭司長とファリサイ派では、復活についての考え方が全く異なりますが、共にイエス様の死後三日間は、一抹の不安をぬぐい去ることができなかったのでしょう。それにしても、昨日、あれほどの奇蹟が起こったというのに、彼らは一切イエス様をメシアとして認める気配がありません。昨日、イエス様が息を引き取られる時に、太陽が暗くなり、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂けるというような奇蹟が起こりました。さらに言えば、百人隊長でさえ「この方は真に神の子だった」と告白しました。それにもかかわらず、彼らは、依然として心が頑なにされて、イエス様のことを「人を惑わすあの者」と呼んでいるのです。イエス様の上に、明らかに神が働いていることを知りながらも、イスラエルの宗教指導者である彼らは、神様の御業を嘲り、軽く考えていました。彼らこそ神聖冒涜者であり、神様の顔に唾を吐くような者なのです。ですから私たちの心の中に、もし、神の光と栄光が示されたならば、私たちは敬虔な態度と謙遜によって、そのことを心に留めて、深く考えなければなりません。そして神の御心を常に祈り求めながら、神の導きに従っていくことができるように普段から祈っていくことが重要なのです。

表面上、彼らは、弟子たちの盗みを恐れているように見えますが、本当のところは、イエスの墓で起こるかもしれない何事かを怖がっていたのだと思います。そのころ弟子たちと言えば、完全に散らされていました。イエス様が生前、あれほど口酸っぱくご自分の十字架と復活に関する受難告知をしてこられましたが、あいにく、弟子たちの中にあの預言を心に留めて、主の復活を予期していたような者は、誰一人いませんでした。ユダヤの当局者たちがイエスの言葉を心に留めていたのとは対照的に、弟子たちにとって主の復活は、まったく予期しなかったことであり、弟子たちの中には、遺体を盗み出そうとするような、気概のある者は、一人もいなかったからです。

一方、ユダヤの当局者たちはローマの番兵を借りて、墓を封印をし、万が一のことが起きないよう、彼らのできる最大限のことをしました。封印とは蓋が右にも左にも動かないように固く封じるということです。ダニエル書6:17~18を見ますと、ダニエルがライオンの穴に入れられた時、その扉が封印されたと書かれています。そのままお聞きください。

それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」

一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。

しかし、このように狡猾な彼らが、粉飾とはかりごとの業を、重ねれば重ねるほど、彼らの意図とは異なり、結果としてキリストの復活を天下に知らしめることとなるのです。後で、み使いが現れ、番兵たちは恐れのあまり凍り付き、そして、封印された墓が開かれ、もぬけの殻にされていることを発見した時、イエスの死体に発生した出来事に対していかなる説明もできなくなりました。墓を鉄壁に守ってきたこれまでの彼らの努力が、逆にキリストが復活されたということの証拠となってしまったのです。

封印されたはずの墓が空にされたという否定することのできない事実は、正しい判断力をもつ人であれば、キリストが復活されたということの客観的な証拠となってしまいました。そして誰よりも確実にイエスが復活したことを知ることになった彼らは、さらに新しい嘘をでっちあげるしかありませんでした。28章12~15節を御覧ください。

そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、

言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。

もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」

兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

従って、空にされた墓という事実を前にして、もしかしたら、弟子たちが遺体を盗み出したんだというユダヤ当局者たちの主張を信じる人もいたかもしれませんが、このでっちあげが嘘であるということは、一目散に逃げてしまった弟子たち本人が一番よくわかっていました。弟子たちは、自分たちが不在の時、神さまがリリーフピッチャーとして、立てられた三つのグループの証言によって、キリストの救済史が継続され、歴史的にキリストが確かに葬られたことと、歴史的に封印されたはずの墓が空にされるということが、福音として語られていくことになることを見ることになるのです。

私たちが、この三つのリリーフピッチャーを通して学ぶことができるのは、何でしょうか。それは、私たちがどのようにして神さまに用いられるのかということです。日々、祈りつつ聖霊の導きに身を委ね、主に仕え、従順していく者と、自分の考えを優先にして、神の御心を背を向けてこの世を愛する者の違いです。第一の女たちや、第二のアリマタヤのヨセフの場合、確かに聖霊に導かれ、神の御心に従って、キリストの弟子の模範として聖書にその名が残されました。しかし、第三の祭司長たちやファリサイ派の人々の場合、神さまに敵対し、わが道を行き、嘘に嘘を重ね、神の大きな摂理の中で不本意ながら、反面教師として神に用いられたのです。前者は幸いな者であり、キリストに献身する者たちであり、御国を相続する者たちです。後者は、この世を愛し、正しい者の集いに立つことなく、相共に集まり空しく騒ぎたち、主と主に油注がれた者に逆らう者であり、焼き物の器のように粉々にされる者たちです。私たちは女たちやアリマタヤのヨセフのように、聖霊に満たされて、常に祈りながら、神の御心を探り求めていく者になりましょう。本日の礼拝後の祈り会にもぜひご参加ください。お祈りします。

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