2019年12月22日「その名はインマヌエルと呼ばれる 그의 이름은 임마누엘이라 하리라」

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その名はインマヌエルと呼ばれる 그의 이름은 임마누엘이라 하리라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 1章18節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 1章18節~25節

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序論

クリスマスおめでとうございます!イザヤ書に書かれている「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という御言葉の成就として、処女マリアからイエス様がお生まれになりました。しかし婚約者であったヨセフの立場で考えるなら、マリアの妊娠は、大きな戸惑いと葛藤をもたらすものであったことでしょう。ルカ福音書の処女降誕の話はマリアに焦点を当てられていますが、マタイ福音書ではヨセフに焦点をあてられています。教会ではこの処女降誕を「神の受肉」と言いまして、受肉の目的とは罪びとを罪から救い出すためですが、本日は、第一に、正しい人ヨセフによって、神の受肉の奇蹟が守られたという点を見ていきます。第二に、イエス様の受肉とは、私たちの罪を赦すためであったという点と、第三になぜその事を確信することができるのかについて見ていきたいと思います。

主題1 正しい人ヨセフによって、神の受肉が守られた

マリアとヨセフは婚約していましたが、当時の婚約は、今日で言う婚約よりもはるかに強い拘束力がありまして、一般的に婚約を通して二人は夫婦つまり、夫、妻として見做されました。万一、この婚約の期間にお互いが別れようとするなら、二人は正式な離婚手続きを踏まなければ、婚約は破棄されることはありませんでした。大体、ユダヤの婚約は女性の年齢が13歳くらいになると両親から結婚相手を斡旋されました。この時も恐らくマリアは13歳くらいで、ヨセフは兵士として徴用される年齢の20歳くらいだったのではと推測されます。婚約期間は一年ほどで、その間に、新郎側から持参金の一部を新婦側の家に支払います。そして一年が経つと、いよいよ二人は結婚式を挙げて、妻を一つ屋根の下に迎え入れて、夫婦の性の関係が始まりました。ヨセフとマリアの場合、婚約期間において、まだ夫婦生活が始まる前に、マリアのお腹が見る見るうちに大きくなり妊娠していることが明らかになりました。実際マリアは、自分のお腹が大きくなるにあたって、ヨセフに「聖霊によって身ごもった」と相談したとしても、それは言い訳にしか聞こえず、とても信じてはもらえるような状況ではありませんでしたから、ただ沈黙する以外にはなかったのでないでしょうか。夫のヨセフは正しい人でしたから、妻のお腹が大きくなるのを見過ごす訳にもいきません。ヨセフはマリアの姦淫を疑っていましたから、というより、確信していたので、離婚手続きをして、縁を切ろうと決意しました。律法(申命記22:23-24)には次のように書かれています。

“ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。”

ヨセフは良心の呵責を感じ、このままずるずるしていてもしょうがないと思いました。神の御前にこのような重大な事実を見過ごすということは、娼婦の愛人がしていることと変わらないと思い決意したのですが、マリアに対しては嫉妬や怒りの感情というより、むしろ憐みを持っていましたので、この件を表ざたにすることを望まず、マリアに配慮しながら、ひそかに離婚手続きを経て、離縁しようと決意しました。そのような時に、夢に天使が現れて御告げを聞くことになります。1:20~21節を御覧ください。

“このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」”

恐れないで妻を迎え入れなさいという天使の勧めからも、当時のヨセフの良心の呵責に苦しめられ、自分自身も汚れるのではないかと困惑している状況が示されています。しかし、天使はヨセフが清い心をもって、妻と結婚生活を始めることができるように、猜疑心からヨセフを助け出してあげたのです。また天使は「ダビデの子ヨセフよ」と語りかけることによって、この神の深遠な真理に注意深く耳を傾けるようにさせています。ヨセフは確かにダビデの子孫ですが、自分の先祖であるダビデの名を聞いたとき、昔、神がイスラエルの民に約束してくださったメシア預言を想起させられ、夢の中で天使を通して語られた内容は、確かに神からのものであるという確信が与えられたのです。ヨセフは一度決心した自分の決定を翻して、妻マリアを家に迎え入れないさいという御言葉に従順し、結婚することにしました。しかし男の子が生まれるまでは、ヨセフはマリアと性的な関係を結ぶことはありませんでした。通常、聖書の中でイエス様がダビデの子と呼ばれる時、イエス様は、マリアの家系に従ってではなく、ヨセフの家系に従って、ダビデの子と呼ばれていますが、それはヨセフが天使の言葉に従順し、マリアを妻として受け入れ、彼が生まれてくる子にイエスと名付けることによって実現されたのです。たとえイエス様はヨセフの血のつながった息子ではなくても、さらに遡るならアダムの子孫ではなくても、社会的にそして法的にヨセフの息子となったのであり、ヨセフからダビデの王座の権利を相続したのです。

主題2 受肉の目的は罪からの救い

21節で天使は、なぜイエスという名前なのかに対して「この子は自分の民を罪から救うからである」と、名前の由来をはっきりと述べています。ギリシャ語のイェスースという言葉は、ヘブライ語では、「ヨホシュア」と書かれます。これが時々短縮されて、「イェシュア」とか、「ホセア」として呼ばれますが、それらの名前の意味するところは、「主は救い」という意味です。イエスという名前にしなさいというのは、まさにイエス様がご自分の民を救うからです。そもそも全人類は堕落したために真の正義が奪われている状態にあり、私たちは全て罪の奴隷になっているのです。このことをまず大前提として受け入れなければなりません。人間は生まれつき原罪をもって生まれ、認めたくなくても、誰もが腐敗と邪悪さをもって生まれて来るのです。従ってすべての人間は、神の審判に定められた者であり、破滅に予定された者ということになっています。このような悲惨な状態から、救われる必要がないという人はだれ一人いません。全ての人が救い主を必要としているのです。ところで、キリストの救いの方法には、二つの側面を持っています。第一に、キリストは私たちの罪を償ってくださり、私たちに無償の赦しを、完全な赦しを与えてくださるということです。これによって死の断罪から解放されて、神との和解が与えられます。第二に、救われた者は聖霊によって導かれ、サタンの圧政と罪の奴隷の状態から解放され、「正しく生きる」ことができるように、聖霊によって義の道へ導かれるのです。従って、もしキリストを私の救い主として認めたいと思うなら、もしキリストを受け入れたいと思うなら、次のような信仰を持たなければなりません。第一に無償の罪の赦しを信じなければなりません。そして、罪びとが神の御前で当然受けるべき、裁きと断罪から解放されているということを信じなければなりません。無償ということは、その裏を返して言うなら、罪が赦されるところにおいて、私たちの行いによる義の功績は一切なく、100%キリストの功によって立てられた義であるということです。つまりキリストによって一部の罪が赦されるということではなく、完全に罪が赦されるということです。そして第二に、信じた者は、信仰を持った以降においても同じように、自分の行ないや、私たちの徳によって神の御前に功が立てられるということを信用しないで、ただ聖霊に願い求め、神の恵みによって、はじめて正しい生活、義なる行いをすることができると信じなければなりません。信じて罪が赦されることにおいても、信者として歩んでいくことにおいても、私たちは自分の功ではなく、ただ恵みによって、ただ信仰によって救われるのです。従って、神の国に入るためには、律法の遵守を通してではなく、悔い改めと信仰と新しく生まれることを通して入ることができるのであり、心の貧しい者、失われた者、徴税人や罪びとに対して神の国の門は開かれているのです。21節に、「ご自分の民」を救うからであると書かれていますが、この、ご自分の民というのは、イエス様を信じる民という意味です。自分の行いや自分の功を通しては決して神の国に入ることができないのです。

主題3 神の救いの成就はインマヌエルを通して確信される

罪びとを救うための神の受肉は、旧約聖書のイザヤ書7:14の御言葉の実現でありました。マタイ1章22~23節を御覧ください。

“このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。”

神の救いは、キリストによって成就しましたが、これによって神の国が完成されたわけではなく、依然として神の国の実現は未来的なものであり、この地上においてはその前味を味わうことしかできません。それでは、一体どのようにして完全に成就されたはずの救いを確信することができるのでしょうか。それは「神さまが我々と共におられる」ことによって確信することができるのだと思います。実はマタイ福音書の一番最後の記事においても、つまり、復活したイエス様が天に昇られる場面ですが、同じ言葉が出てまいります、マタイ28:20を御覧ください。

“あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。”

つまり、信じる者には、神が共におられ、助けと恵みを与え、そしてご自分の民を守るために力強い御手を現わされるということです。イエス様は聖霊の臨在を通して、即ち、聖霊が私たちの心の中に住んでくださることを通して、共にいてくださるのです。逆に考えるなら、もし、罪を贖うキリストが私たちと共におられないのならば、私たちは父なる神から断絶され、遠ざかったものであり、神とは無関係の者となってしまいます。祝宴で譬えるなら、天の祝宴がいざ始まっても、素の状態、裸のような状態なので、会場には入ることが許されません。反対に、もしキリストが私たちと共におられるなら、私たちは神さまと関係を持ち、神の子とされているのです。祝宴で譬えるなら、天の祝宴がいざ始まった時、キリストの義の衣が与えられているため、中身は真っ黒ですが、白く、聖い者、義なる者と見做され、会場に入ることが許されるのです。つまり、私たちには賜物としてイエス・キリストが与えられているということです。それだけではありません。私たち自身がキリストと一つに結ばれて、キリストが相続したすべてのものを共に相続することになるのです。キリストが天の右の座に挙げられたように、私たちも天に住まうために家が備えられているのです。(ヨハネ14:2)

“わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。”

今サムエル記の講解説教をしていますが、神の受肉は、士師の時代から待望していた王が、ダビデに油が注がれることによって、ついに神さまから与えられたことに譬えることができます。神の働きのために油注がれた者がイスラエルの王として立てられますが、この油注がれた者、即ちヘブル語のメシアを通してイスラエルに回復と平和と勝利がもたらされるのです。油注ぎとは、聖霊に満たされることを現わしているのでありまして、油注がれた後、たちまち主の霊に満たされたダビデ王とは、聖霊が限りなく注がれたイエス様をひな型でありました。ダビデ王が民に率先して戦いに出て行き、民に勝利をもたらすという姿は、「神が私たちと共におられる」という、インマヌエルの影に過ぎませんでした。イスラエルの民に対して、ダビデ王が与えられたように、新約の時代、イエス・キリストが賜物として私たちに与えられ、インマヌエルの約束が実現されたのであります。しかし、完全に成就され神の国が完成されるのは、キリストが再臨される時なのです。聖霊の臨在はそのことの保証であり、私たちの救いの確信を与えるものなのです。

結論

第一に、ヨセフは葛藤のすえ、マリアの胎の子を養子として受け入れますが、これによりイエス様はダビデの子とされ、旧約の預言が実現されました。神の救いのご計画が、小さな人間の従順の行いによって成就されたということを見てきました。今日においても神さまは私たちの信仰の従順をお用いになられ、小さな者を通して、神の摂理の業をなされるということを覚えてまいりましょう。第二に、イエス様による救いとは、罪の赦しでありますが、これは、大前提として私たちは神の御前に裁かれるべき罪びとであることを意味し、罪の奴隷であったことを意味しています。そしてキリストによって神との関係が回復されて、奴隷の身分から神の子とされたということを意味します。この救いは、キリストが私たちと共におられることによって、確信することができるのです。油注がれたダビデ王を通して、キリストはイスラエルと共にいてくださり、イスラエルに救いと平安と回復と勝利をもたらしてくださいました。現代においては、インマヌエルは聖霊が私たち一人一人の心の中に住んでくださり、日々私たちを守り、統治し、導いて下さるのです。この恵みを感謝しつつ、ただ聖霊により頼みながら、正しい生活、義なる行いをすることができるよう願い求めてまいりましょう。

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그의 이름은 임마누엘이라 하리라

2019년 12월 22일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

마태복음1장 18~25절

서론

성탄절을 축하합니다! 이사야서에 기록된「보라 처녀가 잉태하여 아들을 낳을 것이요 그의 이름을 임마누엘이라 하리라」는 말씀의 성취로, 동정녀 마리아에게서 예수님께서 태어나셨습니다. 그러나 약혼자였던 요셉의 입장에서 생각해보면, 마리아의 임신은 큰 당혹감과 갈등을 가져왔을 것입니다. 누가복음의 동정녀 탄생 이야기는 마리아에게 초점을 맞추고 있지만, 마태복음에서는 요셉에게 초점을 맞추고 있습니다. 교회에서는 이 동정녀 탄생을 「하나님의 성육신」이라고 하며, 성육신의 목적은 죄인을 죄에서 구원하기 위함입니다. 오늘은 첫째, 의로운 사람 요셉을 통해 하나님의 성육신의 기적이 지켜졌다는 점을 살펴보겠습니다. 둘째로, 예수님의 성육신은 우리의 죄를 용서하기 위함이었다는 점과, 셋째로 왜 그 사실을 확신할 수 있는지에 대해 살펴보고자 합니다.

주제 1 의로운 사람 요셉에 의해 하나님의 성육신이 지켜졌다

마리아와 요셉은 약혼한 사이였지만, 당시의 약혼은, 오늘날의 약혼보다 훨씬 강력한 구속력을 지니고 있었으며, 일반적으로 약혼을 통해 두 사람은 부부, 즉 남편과 아내로 간주되었습니다. 만약 약혼 기간 중에 서로 헤어지려 한다면, 두 사람은 정식 이혼 절차를 밟지 않는 한 약혼은 파기되지 않았습니다. 대체로 유대인의 약혼은 여성의 나이가 13세 정도 되면 부모로부터 결혼 상대를 소개받았습니다. 이때도 아마 마리아는 13세 정도였고, 요셉은 병사로 징집되는 나이인 20세 정도였을 것으로 추측됩니다. 약혼 기간은 1년 정도였으며, 그 기간 동안 신랑 측에서, 지참금의 일부를 신부 측 가정에 지급합니다. 그리고 1년이 지나면 마침내 두 사람은 결혼식을 올리고 아내를 한 지붕 아래로 맞아들여 부부의 성관계가 시작되었습니다. 요셉과 마리아의 경우, 약혼 기간 중 아직 부부 생활이 시작되기 전에 마리아의 배가 눈에 띄게 커져 임신한 것이 분명해졌습니다. 실제로 마리아는 자신의 배가 커지는 상황에 대해 요셉에게「성령으로 말미암아 임신했어요」라고 상담했다 하더라도, 그것은 변명에 불과하게 들렸을 뿐, 도저히 믿어줄 만한 상황이 아니었기에, 그저 침묵하는 것 외에는 방법이 없었을 것입니다. 남편 요셉은 의로운 사람이었기에, 아내의 배가 커지는 것을 그냥 지나칠 수도 없었습니다. 요셉은 마리아의 간음을 의심하고 있었고, 오히려 확신했기 때문에 이혼 절차를 밟아 관계를 가만히 끊기로 결심했습니다. 율법(신명기 22:23-24)에는 다음과 같이 기록되어 있습니다.

신명기 22장

23 처녀인 여자가 남자와 약혼한 후에 어떤 남자가 그를 성읍 중에서 만나 동침하면

24 너희는 그들을 둘 다 성읍 문으로 끌어내고 그들을 돌로 쳐죽일 것이니 그 처녀는 성안에 있으면서도 소리 지르지 아니하였음이요 그 남자는 그 이웃의 아내를 욕보였음이라 너는 이같이 하여 너희 가운데서 악을 제할지니라

요셉은 양심의 가책을 느끼고, 이대로 질질 끌어도 소용없다고 생각했습니다. 하나님의 면전에서 이처럼 중대한 사실을 외면하는 것은 창녀의 애인이 하는 일과 다를 바 없다고 생각하여 결심했지만, 마리아에 대해서는 질투나 분노의 감정보다는 오히려 연민을 가지고 있었기에, 이 일을 공개적으로 드러내는 것을 원치 않았습니다. 마리아를 배려하면서 은밀히 이혼 절차를 거쳐 이혼하기로 결심했습니다. 그럴 무렵, 꿈에 천사가 나타나 계시를 듣게 됩니다. 1:20~21절을 보십시오.

마태복음 1장

20 이 일을 생각할 때에 주의 사자가 현몽하여 이르되 다윗의 자손 요셉아 네 아내 마리아 데려오기를 무서워하지 말라 그에게 잉태된 자는 성령으로 된 것이라

21 아들을 낳으리니 이름을 예수라 하라 이는 그가 자기 백성을 그들의 죄에서 구원할 자이심이라 하니라

두려워하지 말고 아내를 맞아들이라는 천사의 권면에서도 당시 요셉이 양심의 가책에 시달리며 자신마저 더러워질까 고민하는 모습이 드러납니다. 그러나 천사는 요셉이 깨끗한 마음으로 아내와 결혼 생활을 시작할 수 있도록 의심에서 벗어나도록 도운 것입니다. 또한 천사는「다윗의 자손 요셉아」라고 말함으로써, 이 하나님의 심오한 진리에 주의 깊게 귀 기울이도록 했습니다. 요셉은 확실히 다윗의 후손이지만, 자신의 조상인 다윗의 이름을 들었을 때, 옛날에 하나님이 이스라엘 백성에게 약속해 주신 메시아 예언을 떠올리게 되었고, 꿈속에서 천사를 통해 전해진 내용이 확실히 하나님께로부터 온 것임을 확신하게 되었습니다. 요셉은 한 번 결심한 자신의 결정을 뒤집고, 아내 마리아를 집으로 데려오라는 말씀에 순종하여 결혼하기로 했습니다. 그러나 아들이 태어날 때까지 요셉은 마리아와 성관계를 맺지 않았습니다. 보통 성경에서 예수님이 다윗의 아들이라고 불릴 때, 예수님은 마리아의 혈통에 따른 것이 아니라 요셉의 혈통에 따라 다윗의 아들이라고 불리는데, 이는 요셉이 천사의 말씀에 순종하여 마리아를 아내로 받아들이고, 태어날 아이에게 예수의 이름을 붙임으로써 이루어진 것입니다. 예수님이 요셉의 혈육의 아들이 아니더라도, 더 거슬러 올라가면 아담의 후손이 아니더라도, 사회적으로 그리고 법적으로 요셉의 아들이 되었으며, 요셉으로부터 다윗 왕좌의 권리를 상속받은 것입니다.

주제 2 성육신의 목적은 죄로부터의 구원

21절에서 천사는 왜 예수라는 이름인지에 대해「그가 자기 백성을 그들의 죄에서 구원할 자이심이라」라고 이름의 유래를 분명히 밝히고 있습니다. 헬라어 「예수스」라는 말은 히브리어로 「여호수아」라고 씁니다. 이것이 때로 축약되어 「예슈아」나 「호세아」로 불리기도 하지만, 그 이름들이 의미하는 바는 「주님은 구원자」라는 뜻입니다. 예수라는 이름으로 하라는 것은, 바로 예수님께서 자신의 백성을 구원하시기 때문입니다. 근본적으로 전 인류는 타락으로 인해 참된 의가 빼앗긴 상태에 있으며, 우리는 모두 죄의 노예가 되어 있습니다. 이 사실을 먼저 큰 전제로 받아들여야 합니다. 인간은 태어날 때부터 원죄를 지니고 태어나, 인정하고 싶지 않아도 누구나 부패와 악함을 지니고 세상에 나옵니다. 따라서 모든 인간은 하나님의 심판이 정해진 자이며, 멸망이 예정된 자라고 할 수 있습니다. 이러한 비참한 상태에서 구원받을 필요가 없다고 말하는 사람은 단 한 사람도 없습니다. 모든 사람이 구세주를 필요로 하고 있습니다. 그런데 그리스도의 구원 방법에는 두 가지 측면이 있습니다. 첫째, 그리스도는 우리의 죄를 대신하여 속죄하시고, 우리에게 무상의 용서, 완전한 용서를 베풀어 주신다는 것입니다. 이를 통해 죽음의 정죄에서 해방되어 하나님과의 화해가 주어집니다. 둘째, 구원받은 자는 성령에 의해 인도되어 사탄의 압제와 죄의 노예 상태에서 해방되어 「의롭게 살 수 있도록」 성령에 의해 의의 길로 인도됩니다. 따라서 만약 그리스도를 나의 구세주로 인정하고 싶다면, 만약 그리스도를 받아들이고 싶다면 다음과 같은 믿음을 가져야 합니다. 첫째, 값없이 주어지는 죄 사함을 믿어야 합니다. 그리고 죄인이 하나님 앞에서 당연히 받아야 할 심판과 형벌로부터 해방되었다는 것을 믿어야 합니다. 무상이라는 것은, 그것을 뒤집어서 말하자면, 죄가 용서되는 데 있어서 우리의 행위에 의한 의의 공로는 전혀 없고, 100% 그리스도의 공로로 세워진 의라는 것입니다. 즉 그리스도로 인해, 일부 죄가 용서된다는 것이 아니라, 완전히 죄가 용서된다는 것입니다. 둘째로, 믿은 자는 믿음을 가진 이후에도 마찬가지로, 자신의 행실이나 자신의 덕으로 하나님 앞에 공이 세워진다고 믿지 말고, 오직 성령께 구하며 하나님의 은혜로, 비로소 바른 삶, 의로운 행실을 할 수 있다고 믿어야 합니다. 믿음으로 죄 사함을 받는 일에서도, 믿는 자로서 걸어가는 일에서도 우리는 자신의 공이 아니라 오직 은혜로, 오직 믿음으로 구원받는 것입니다. 그러므로 하나님의 나라에 들어가기 위해서는 율법 준수를 통해서가 아니라 회개와 믿음과 새로 태어남을 통해서 들어갈 수 있으며, 마음이 가난한 자, 잃어버린 자, 세리와 죄인들에게 하나님의 나라 문이 열려 있습니다. 21절에 「자기 백성」을 구원하시기 때문이라고 기록되어 있는데, 이 「자기 백성」이란 예수님을 믿는 백성을 의미합니다. 자기 행함이나 자기 공로로는 결코 하나님의 나라에 들어갈 수 없습니다.

주제 3 하나님의 구원의 성취는 임마누엘을 통해 확신된다

죄인을 구원하시기 위한 하나님의 성육신은 구약성경의 이사야 7:14 말씀의 성취였습니다. 마1:22~23절을 보시기 바랍니다.

마태복음 1장

22 이 모든 일이 된 것은 주께서 선지자로 하신 말씀을 이루려 하심이니 이르시되

23 보라 처녀가 잉태하여 아들을 낳을 것이요 그의 이름은 임마누엘이라 하리라 하셨으니 이를 번역한즉 하나님이 우리와 함께 계시다 함이라

하나님의 구원은 그리스도에 의해 성취되었지만, 이로 인해 하나님 나라가 완성된 것은 아니며, 여전히 하나님 나라의 실현은 미래적인 것이며, 이 지상에서는 그 전미를 맛볼 수밖에 없습니다. 그렇다면 도대체 어떻게 완전히 성취되었을 구원을 확신할 수 있을까요? 그것은「하나님이 우리와 함께 계시다」는 것에 의해 확신할 수 있는 것이라고 생각합니다. 사실 마태복음의 가장 마지막 기사에 있어서도, 즉 부활하신 예수님이 하늘로 올라가는 장면인데, 같은 말이 나옵니다, 마태 28:20을 보십시오.

마태복음 28장

20 내가 너희에게 분부한 모든 것을 가르쳐 지키게 하라 볼지어다 내가 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라 하시니라

즉, 믿는 자에게는 하나님이 함께 하시며, 도움과 은혜를 베풀고, 그리고 자신의 백성을 지키기 위해 힘찬 손을 드러내신다는 것입니다. 예수님은 성령의 임재를 통해, 즉 성령이 우리 마음속에 살아주시는 것을 통해 함께 해 주시는 것입니다. 거꾸로 생각한다면, 만약 죄를 속죄하는 그리스도가 우리와 함께 계시지 않는다면, 우리는 아버지 하나님으로부터 단절되고 멀어진 것이며, 하나님과는 무관한 자가 되어버립니다. 결혼축하연에 비유하자면 하늘의 축연이 막상 시작되더라도 벌거벗은 맨몸의 상태이기 때문에 행사장에 들어가는 것이 허용되지 않습니다. 반대로 만약 그리스도가 우리와 함께 계시다면 우리는 하나님과 관계를 맺고 하나님의 자녀로 여겨지고 있는 것입니다. 잔치에 비유하자면 하늘의 잔치가 막 시작되었을 때 그리스도의 의로운 옷이 주어져 있기 때문에 속은 새까맣지만 희고 성스러운 자, 의로운 자로 간주되어 행사장에 들어가는 것이 허용되는 것입니다. 즉, 우리에게는 선물로 예수 그리스도가 주어져 있다는 것입니다. 그뿐만이 아닙니다. 우리 자신이 그리스도와 하나로 연결되어 그리스도가 상속받은 모든 것을 함께 상속받게 되는 것입니다. 그리스도가 하늘에 오르사 보좌 우편에 앉으신 것처럼, 우리도 하늘에 살기 위해 거처가 구비되어 있는 것입니다. 요14:2절을 보시겠습니다.

요한복음 14장

2 내 아버지 집에 거할 곳이 많도다 그렇지 않으면 너희에게 일렀으리라 내가 너희를 위하여 거처를 예비하러 가노니

지금 사무엘기 강해설교를 하고 있는데, 하나님의 성육신은, 사사 때부터 대망하던 왕, 다윗에게 기름이 부어짐으로써 마침내 하나님이 주신 것에 비유할 수 있습니다. 하나님의 일을 위해 기름 부음을 받은 자가 이스라엘의 왕으로 세워지는데, 이 기름 부음을 받은 자, 즉 히브리어의 메시아를 통해 이스라엘에 회복과 평화와 승리가 올 것입니다. 기름 부음이란 성령으로 가득 차 있음을 나타내는 것인데, 기름 부음을 받은 후, 금세 주님의 영으로 가득 찬 다윗 왕은, 성령이 한없이 쏟아지신 예수님의 모형이었습니다. 다윗 왕이 백성에게 솔선수범해 싸움에 나서 백성에게 승리를 가져다준다는 모습은「하나님이 우리와 함께 계신다」는 임마누엘의 그림자에 불과했습니다. 이스라엘 백성에게 다윗 왕이 주어진 것처럼 신약의 시대에는, 예수 그리스도가 선물로 우리에게 주어졌고 임마누엘의 약속이 실현된 것입니다. 그러나 온전히 성취되고 하나님의 나라가 완성되는 것은 그리스도가 재림하실 때입니다. 성령의 임재는 그 일의 보증이며, 우리의 구원의 확신을 주는 것입니다.

결론

첫째, 요셉은 갈등 끝에 마리아의 복중에 있는 아이를 양자로 받아들이는데, 이로써 예수님은 다윗의 아들로 여겨졌고 구약의 예언이 실현되었습니다. 하나님의 구원 계획이 작은 인간의 순종의 행실로 성취되었다는 것을 보았습니다. 오늘날에도 하나님은 우리 믿음의 순종을 쓰시고, 작은 자를 통해 하나님의 섭리의 일을 하신다는 것을 기억합시다. 둘째, 예수님에 의한 구원이란, 죄의 용서인데, 이는 대전제로서 우리는 하나님 앞에 심판받아야 할 죄인인 것을 의미하며 죄의 노예였음을 의미합니다. 그리고 그리스도로 인해 하나님과의 관계가 회복되고 노예의 신분에서 하나님의 자녀로 여겨졌다는 것을 의미합니다. 이 구원은 그리스도께서 우리와 함께 하심으로써 확신할 수 있는 것입니다. 기름 부어진 다윗 왕을 통해 그리스도께서는 이스라엘과 함께 해주시고 이스라엘에 구원과 평안과 회복과 승리를 가져다 주셨습니다. 현대에 있어서 임마누엘은 성령께서 우리 한 사람 한 사람의 마음속에 내주하여 주시고, 날마다 우리를 지키고 통치하고 인도해 주시는 것입니다. 이 은혜를 감사하면서 오직 성령께 의뢰하면서, 바른 생활, 의로운 행실을 할 수 있도록 간구하며 걸어갑시다.

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