2018年10月07日「ろばの子に乗る王 나귀 새끼를 타신 왕」

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ろばの子に乗る王 나귀 새끼를 타신 왕

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章1節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章1節~11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエスさまの一行は、オリーブ山の尾根に沿ったベトファゲという町に来ました。そこからエルサレムまでは眼下に見下ろせるほどの距離であり、いよいよ「エルサレムに入城せん」というところです。教会歴では、このエルサレム入城の日を「パームサンデー」、即ち「棕櫚の日曜日」と呼んでいます。この週は受難週であり、この週の五日目に、イエスさまは十字架につけられて、次の日曜日には復活することになります。ですから、エルサレムへの入城とはイエスさまにとって地上でのお働きの最後の1週間であり、もう天に昇られる日も、間近に迫っていました。

ここにきて、イエスさまの一行がロバを借りた目的とは、決して過越しの巡礼の旅を手軽にするためではありません。その目的は、巡礼者の群れがイエスさまに期待を抱き、「ダビデの子、ホサナ」と、歓呼するその喜びに、堂々と応えるためであり、そして御自身がイスラエルの王であることをはっきりとお認めになるためでありました。実は、これまでイエスさまはご自分がメシアであることを、どちらかと言うと隠されてきました。例えばマタイ8:4を見ると、重い皮膚病を患っている人を奇跡によって癒された後に、イエスさまは次のように語っています。

“だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。”

また、12:16を見ると、イエスさまに従ってきた多くの群衆の病をいやされた後に、「御自分のことを言いふらさないように」と、同じように戒められています。つまり、これまで公にはご自身がメシアであり、神の子であることを隠してこられたのです。なぜ、ここに来てメシアであり、イスラエルの王であることをお認めになろうとされたのでしょうか。それは、この最終局面において、私たちにさらに新しい啓示を与えようとされたということです。それは第一に預言者ゼカリヤによって語られた預言の成就です。21:4-5をご覧ください。

“それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」”

この預言はゼカリヤ書9:9からの引用です。「シオンの娘」とは、エルサレムの人々を指しています。なぜ、シオンの子供たちでなく、娘なのかと言えば、都市はヘブライ語で女性名詞ですので、娘というのはその都市に居住する人々を表しています。また、聖書で、「シオンの山」とは聖なる都・エルサレムを意味しますが、特にエルサレム神殿が建てられた小高い山を指すこともあります。その場所は、昔アブラハムがイサクを捧げたときのモリヤの山と一致していますし、ソロモン王によって建てられた第一神殿の場所とも一致しています。

それはさておき、ゼカリヤ書には、エルサレムの人々に対して、「あなた方の王」がおいでになる、そしてその王とは、柔和な王であり、子ロバに乗って来られると預言されています。イエスさまは、まさに今、御自分が子ロバに乗ってエルサレムに入城することによって、ゼカリヤの預言を成就させようとしているのです。弟子たちは早速行って、主イエスが命じられた通り、ロバと子ロバを借りて引いてきました。そして弟子たちの上着をかけて即席の鞍としました。一つ、釈義上の問題を指摘しますと、7節において、マタイによる福音書だけが、イエスさまは二頭のロバにお乗りになったと書かれている点です。7節をご覧ください。

“ロバと子ロバを引いて来て、その(ここは、ギリシャ語では複数形になっています)上に服をかけると、イエスはそれ(やはり複数形になっています)にお乗りになった”

マルコも、ルカも、ヨハネも一頭のロバの子に乗ったと書かれているのに、なぜマタイだけが二頭として描かれているのでしょうか。これは、イエスさまが二頭にまたがって水上スキーのような恰好で、派手にエルサレムに入城したということではありません。弟子たちは二頭のロバの上に服をかけたかもしれませんが、イエスさまは子ロバだけに乗られ、子ロバと母親の雌ロバに頸木がかけられて、母親と一緒にエルサレムに入城したのではないか、と思われます。というのは、まだ人間によって一度も使用されていない子ロバは、飼いならされておらず、仕事を覚えさせる意味で普通そのように頸木がかけられるからです。

イエスさまがエルサレムに入城すると、大勢の群衆が自分の服を道に敷いたり、木の枝を切って道に敷きました。当時上着は、寝具を兼ねた高価なものでしたので、それを王の通られる道に敷くという行為は、現代で言えば国賓を迎えるときに赤いじゅうたんを敷くようなものです。ヨハネの福音書12:13によれば、棕櫚の枝(ナツメヤシの枝)を切ってイエスさまを出迎えたと書かれています。巡礼に上ってきた群衆は、これまでイエスさまの奇跡をたくさん見てきましたし、この方こそダビデの子、メシアであると熱心に歓迎しました。9節をご覧ください。

“そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ(未完了)。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」”

この掛け声は、シュプレヒコールのように繰り返されましので、子どもたちまで、すっかり覚えてしまい「ダビデの子にホサナ」と、口ずさんでいました。また、「ホサナ」(ヘブル語:どうかお救いください!)という言葉は、礼拝の中でよく用いられる言葉でして(詩篇118:25)、「万歳!」というような意味あいで用いられています(参照 列王上1:38-40)。巡礼に来た大勢の群衆、特にガリラヤ方面から来たと思われる群衆は、イエスさまの前と後ろに取り巻き、繰り返し「ダビデの子にホサナ」と叫び続けました。「ホサナ・万歳」という喜びからも伝わってくるように、群衆は、イエスさまをイスラエルの王として受け入れたという事実をはっきりと伝えているのです。そのことは並行句からも確認できます。ルカ19:38には(p147)、

“主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。”

とあります。またヨハネ12:13(p192)には、

“なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」”

とあります。このようにイエスさまは聖なる都エルサレムに、「イスラエルの王」として入城されたのです。しかしなぜ、イエスさまは白馬に乗った勝利の戦士として入城されなかったのでしょうか。何の装飾もないロバに乗って、しかも家畜の中でもまだ、一人前に仕事もできない、頸木にかけられたロバの子に乗って入城されたのでしょうか。

これは一見すると、恥ずかしい貧困の象徴のようにも見えます。そして、王を賛美しながら迎え入れたのは誰だったでしょうか。確かに大勢の群衆が、信実な賛美と喜びとをもって王を迎え入れましたが、彼らはエルサレムに住む比較的富裕層の人々ではなく、主にガリラヤ方面の村から出て来た人々でした。つまり、貧しくて、教養がなく、人々から蔑視されるような人々からの讃美をお受けになったのです。イエスさまはわざわざ、過ぎ越しのために集まってきた全ての人々の前で、卑しい王として、嘲られ、からかわれ、笑いの種になろうとしてエルサレムに入城したようにも見えるのです。なぜこのような形で入城されたのか、大変理解に苦しむ所です。群衆をはじめ、弟子たちにも、その本当の意味は理解されませんでした。しかし、実は、この理解し難い、不思議なエルサレム入城にこそ、神の国の本質が隠されているのです。その本質とは、第一に、預言者の預言の言葉を信じ、ひたすら待望しつつ、日々、そこに希望を抱いて生きていた者だけが、イエスさまのエルサレム入城の光景を理解することが出来たということです。信仰によってのみ、イエスさまを正しく受け入れることが出来たということです。

第二に、父なる神は、御子を壮麗な姿と、この世のあらゆる贅沢と権力の服をまとわせて、入城されるより、むしろ、乞食のような哀れな姿に装わせても、柔和で平和な「神の国の霊的な本質」を知らしめようとされたということです。それは、ダビデの子、メシアによってもたらされる「神の国」とは、王が罪びとに対して僕として仕え、犠牲になり、しかも十字架の死にまで、神の御心に従順に従った、「柔和な僕によってもたらされる国」であるということです。そのことによってもたらされるのは、人民の解放とか、ローマ帝国の打倒などではなく、民族的、政治的国家の樹立でもありません。それは何かというと、十字架による罪の赦しであり、神との和解であり、義とされ、永遠の御国を相続させるものでした。従って神の国とは、この世で自分が持っている富や地位や権力などによって、得られるのではなく、ただ神の御国をもたらす真の王であり、救い主にのみより頼むときにのみ得られるのです。神の国は、弱い者、貧しい者たちの国であり、ただ神にしか、望みを置く以外にない者たちの国なのです。

このように、主イエスの不思議なエルサレム入城とは、王の到来によって、どのような勝利がもたらされるのかを啓示する出来事だったと言えます。それは確かに勝利の入城でありましたが、子ロバに乗った受難の僕イエスさまが、十字架に架けられることによって成就する勝利でした。勝利は勝利でも、弟子たちや群衆が考えていた勝利とは異なっていました。群衆の勝利への高まる期待は、メシアの十字架の死によって完全に裏切られることになりましたが、逆に神の目から見る時、その瞬間、つまり十字架上でイエスさまの遜りが頂点に達した瞬間に、全て事が成就され、信じる者に神の恵みが注がれることとなりました。そして、私たちはまさに、今、十字架から注がれる神の国の恵みを享受しているのです。キリストは父の右に座っておられ、天の御座から弱い者、貧しい者、卑しい人々を立てられ、彼らのその弱さを通して「ダビデの子にホサナ」と、ご自身の威厳を讃美するようにされるのです。

それでは、この不思議なエルサレ入城というのが、それが神の国の本質を示していることは分かりましたが「ダビデの子にホサナ」と讃美した当人である、群衆や弟子たちには、その本当の意味が理解されてはいなかったことになり、従って、そのような讃美は無意味で、主イエスには受け入れられなかったのでしょうか。そんなことはありませんでした。たとえ、その時にはよく理解されていなかったかもしれませんが、後で、イエスさまが十字架につけられた時に、彼らの信仰は大きく揺さぶられることになるかもしれませんが、イエスさまは群衆の讃美を喜ばれ、受け入れられたのです。群衆はまるで、自分たちの町から神の預言者が出たことが、心から誇らしかったかのように、“この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだと言った(未完了)”喜びつつ繰り返し言い続けています(未完了形)。私たちも神のご計画や御心について、まだ完全には理解することはできませんが、私たちの許される範囲で、群衆や弟子たちのように力の限り、主イエスを讃美し、主イエスを喜ぶべきです。

それとは、対照的な反応として、エルサレムの人々の反応が挙げられます。彼らはイエスさまがエルサレムに入城すると“いったい、これはどういう人だ”と騒然となりました。本来、シオンの娘である彼らこそ、最大の敬意をもってメシアなる王を歓迎し喜ぶべきでしたが、彼らは、メシアを拒絶し、恐れ、騒ぎ立てたのです。10節の「騒いだ」という言葉は、地面が揺れ動いたという意味ですが、それほどまでに、エルサレムの人々は混乱し恐れたのです。

これと同じような現象が、以前イエスさまがお生まれになった時にも起こりました。東方の占星術の学者たちがユダヤ人の王を探しにやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言った時に、ヘロデ王はじめ、エルサレム中が、その根底から揺さぶられ、騒ぎ始めた事件がありました。彼らの恐れの理由とは、自分たちが、がっちりと持っていた既得権益が民衆の高揚と共に、奪われるのではないかという恐れだったのです。

しかし、エルサレムの人々は、このロバの子に乗った王の入城を恐れる必要などなかったのです。その代り、次のことは知らなければなりません。やがて、本当にナツメヤシの枝によって迎えられるメシアが、王として白馬に乗って来られる時が来るということです。その日、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと神の長く忍耐して来られた時が終わり、メシアが正義をもって裁き、戦われます。ヨハネの黙示録19:15をお開きください。

“この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。”

不信者は、やがてその日が来ることを、むしろ、恐れなければなりません。その日、キリストに結合された者人々は、キリスト共に裁く側に着き、不信者に対し、主の激しい怒りが降ろされます。過去のすべての罪を一つ残らず精算し、公正に裁かれる日の来ることを、彼らは恐れなければならないのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

나귀 새끼를 타신 왕

2018년 10월 7설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 21장 1절~11절

예수님의 일행은, 올리브 산 능선을 따라 있는 벳바게라는 마을에 이르렀습니다. 거기서 예루살렘까지는, 눈 아래로 내려다보일 만큼 가까운 거리였으며, 이제 곧「예루살렘에 입성하려는」순간이었습니다. 교회력에서는, 이 예루살렘 입성 날을 「종려주일」이라 부릅니다. 이 주는 고난주간이며, 이 주의 다섯째 날에 예수님은, 십자가에 못 박히시고, 다음 주일에는 부활하게 됩니다. 그러므로 예루살렘 입성은, 예수님께 지상에서의 사역 마지막 일주일이 되었으며, 하늘로 승천하실 날도 코앞으로 다가왔습니다.

이때 예수님의 일행이 나귀 새끼를 빌린 목적은, 결코 유월절 순례 여행을 편리하게 하기 위함이 아니었습니다. 그 목적은, 순례자들의 무리가 예수님께 기대를 품고 「호산나 다윗의 자손이여」라며 찬양하는, 그 기쁨에 당당히 응답하기 위함이었고, 또한 그분 자신이 이스라엘의 왕임을, 분명히 인정받기 위함이었습니다. 사실 지금까지 예수님은, 자신이 메시아임을 오히려 숨겨 오셨습니다. 예를 들어 마태복음 8:4을 보면, 중병에 걸린 사람을 기적으로 고쳐 주신 후에 예수님은 이렇게 말씀하셨습니다.

마태복음 8장

4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세가 명한 예물을 드려 그들에게 입증하라 하시니라

또한 12:16을 보면, 예수님을 따라온 많은 군중의 병을 고쳐 주신 후에,「자기를 나타내지 말라 경고하셨으니」라고 마찬가지로 경고하셨습니다. 즉, 지금까지 공개적으로 자신이 메시아이며 하나님의 아들이심을 숨겨 오셨던 것입니다. 그런데 왜, 이 시점에서 메시아이시며 이스라엘의 왕이심을 인정하시려 하셨을까요? 그것은 이 마지막 단계에서 우리에게 더욱 새로운 계시를 주려 하셨기 때문입니다. 그것은 첫째로 선지자 스가랴를 통해 선포된 예언의 성취입니다. 21:4-5을 보십시오.

4 이는 선지자를 통하여 하신 말씀을 이루려 하심이라 일렀으되

5 시온 딸에게 이르기를 네 왕이 네게 임하나니 그는 겸손하여 나귀, 곧 멍에 메는 짐승의 새끼를 탔도다 하라 하였느니라

이 예언은, 스가랴 9:9에서 인용한 것입니다. 「시온 딸」은 예루살렘 사람들을 가리킵니다. 왜, 시온의 자녀들이 아니라 딸인가 하면, 도시는 히브리어로 여성 명사이므로 딸이라는 표현은 그 도시에 거주하는 사람들을 나타냅니다. 또한 성경에서 「시온 산」은 거룩한 도시 예루살렘을 의미하지만, 특히 예루살렘 성전이 세워진 작은 언덕을 가리키기도 합니다. 그 장소는 옛날, 아브라함이 이삭을 바쳤던 모리아 산과 일치하며, 솔로몬 왕이 세운 첫 번째 성전의 위치와도 일치합니다.

그것은 그렇다 치고, 스가랴서에는 예루살렘 백성들에게 「너희 왕」이 오실 것이며, 그 왕은 온유한 왕이시며 나귀 새끼를 타고 오실 것이라고 예언되어 있습니다. 예수님은 바로 지금, 자신이 나귀 새끼를 타고 예루살렘에 입성함으로써 스가랴의 예언을 성취하려 하고 계신 것입니다. 제자들은, 즉시 가서 주 예수님께서 명하신 대로 나귀와 나귀 새끼를 빌려 끌고 왔습니다. 그리고 제자들의 겉옷을 덮어 즉석 안장을 만들었습니다. 하나, 해석상의 문제를 지적하자면, 7절에서 마태복음만이 예수님께서 두 마리의 나귀를 타셨다고 기록하고 있다는 점입니다. 7절을 보십시오.

7 나귀와 나귀 새끼를 끌고 와서 (이 부분이 헬라어에서는 복수형으로 되어 있습니다.) 자기들의 겉옷을 그 위에 얹으매 예수께서 그 위에 (역시 복수형으로 되어 있습니다.)타시니

마가복음도, 누가복음도, 요한복음도 한 마리의 나귀 새끼를 탔다고 기록되어 있는데, 왜 마태복음만 두 마리로 묘사하고 있을까요? 이것은 예수님께서, 두 마리를 타고 수상스키를 타는 듯한 모습으로 화려하게 예루살렘에 입성하셨다는 뜻이 아닙니다. 제자들은 두 마리 나귀 위에 옷을 걸쳤을지 모르나, 예수님은 새끼 나귀만 타시고, 새끼 나귀와 어미 암나귀에게 목줄을 매어 어미와 함께 예루살렘에 입성하신 것이 아닐까 생각됩니다. 왜냐하면, 아직 사람에 의해 한 번도 사용되지 않은 새끼 나귀는 길들여지지 않았으며, 일을 가르치기 위해 보통 그렇게 목줄을 매기 때문입니다.

예수님께서 예루살렘에 입성하시자, 많은 무리가, 자기 옷을 길에 깔거나 나뭇가지를 잘라 길에 깔았습니다. 당시 겉옷은, 침구 역할을 겸한 값비싼 것이었기에, 그것을 왕이 지나가시는 길에 깔아 드리는 행위는 현대로 치면, 국빈을 맞이할 때 붉은 융단을 깔아 드리는 것과 같습니다. 요한복음 12:13에 따르면, 종려나무 가지(대추야자나무 가지)를 잘라 예수님을 맞이하러 나왔다고 기록되어 있습니다. 순례를 위해 올라온 군중들은 지금까지 예수님의 기적을 많이 목격해 왔으며, 이분이 바로 다윗의 자손, 메시아라고 열렬히 환영했습니다. 9절을 보십시오.

9 앞에서 가고 뒤에서 따르는 무리가 소리 높여 이르되 (미완로) 호산나 다윗의 자손이여 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이여 가장 높은 곳에서 호산나 하더라

이 구호는 슈프레히콜(독일어로 말하다와 합창의 합성어)처럼 반복되었기에 아이들까지 완전히 익혀서「호산나 다윗의 자손이여」라고 흥얼거리고 있었습니다. 또한 「호산나」 (히브리어: 구원하소서!)라는 말은 예배 중에 자주 사용되는 말로(시편 118:25), 「만세!」라는 의미로 쓰입니다(참조 열왕기상 1:38-40). 순례 온 수많은 무리, 특히 갈릴리 지방에서 온 것으로 보이는 무리는, 예수님의 앞에서 가고 뒤에서 따르며, 계속해서 「호산나 다윗의 자손이여」라고 외쳤습니다. 「호산나·만세」라는 기쁨에서도 전해지듯, 무리는, 예수님을 이스라엘의 왕으로 받아들였다는 사실을 분명히 전하고 있는 것입니다. 이는 병행구에서도 확인할 수 있습니다. 누가복음 19:38에는, 「이르되 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 왕이여 하늘에는 평화요 가장 높은 곳에는 영광이로다 하니」라고 기록되어 있습니다. 또한 요한복음 12:13에는, 「종려나무 가지를 가지고 맞으러 나가 외치되 호산나 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이 곧 이스라엘의 왕이시여 하더라」라고 기록되어 있습니다. 이처럼 예수님은 거룩한 도시 예루살렘에 「이스라엘의 왕」으로 입성하셨습니다. 그러나 왜 예수님은, 백마를 탄 승리의 전사로 입성하지 않으셨을까요? 아무 장식도 없는 나귀를 타고, 그것도 가축 중에서도 아직 제대로 일도 못하는 목줄에 매인 나귀 새끼를 타고 입성하셨을까요?

이는 언뜻 보기엔 부끄러운 가난의 상징처럼 보입니다. 그리고 왕을 찬양하며 맞이한 이들은 누구였을까요? 확실히 많은 무리가, 신실한 찬양과 기쁨으로 왕을 맞이했지만, 그들은 예루살렘에 사는, 비교적 부유한 계층이 아니라 주로 갈릴리 지방 마을에서 나온 사람들이었습니다. 즉, 가난하고 교양이 없으며 사람들로부터 멸시받는 이들의 찬양을 받으신 것입니다. 예수님은, 일부러 유월절을 위해 모여든 모든 사람들 앞에서 천한 왕으로 조롱받고, 놀림받고, 웃음거리가 되려고 예루살렘에 입성하신 것처럼 보입니다. 왜 이런 형태로 입성하셨는지, 매우 이해하기 어려운 부분입니다. 무리를 비롯해 제자들에게도 그 진정한 의미는 이해되지 않았습니다. 그러나 사실, 이 이해하기 어렵고 신비로운 예루살렘 입성 속에야말로 하나님의 나라의 본질이 숨겨져 있습니다. 그 본질은 첫째, 선지자의 예언의 말씀을 믿고 오로지 기다리며, 날마다 그곳에 희망을 품고 살아가던 자만이, 예수님의 예루살렘 입성 광경을 이해할 수 있었다는 점입니다. 오직 믿음으로만 예수님을 바르게 받아들일 수 있었다는 것입니다.

둘째로, 아버지 하나님은, 아들을 화려한 모습과 이 세상의 모든 사치와 권력의 옷을 입혀 입성시키기보다는, 오히려 누추하고 불쌍한 모습으로 꾸미셔서 온유하고 평화로운「하나님 나라의 영적 본질」을 알려주려 하셨다는 것입니다. 그것은 다윗의 아들, 메시아에 의해 도래하는 「하나님의 나라」가, 왕이 죄인들에게 종처럼 섬기고 희생하며, 심지어 십자가의 죽음까지도 하나님의 뜻에 순종한 「온유한 종에 의해 도래하는 나라」라는 것입니다. 그것으로 도래하는 것은, 백성의 해방이나 로마 제국의 타도 등이 아니며, 민족적·정치적 국가의 수립도 아닙니다. 그것은 무엇이냐 하면, 십자가를 통한 죄의 용서이며, 하나님과의 화해이며, 의롭다 함을 받고 영원한 하나님 나라를 상속받는 것이었습니다. 그러므로 하나님 나라는, 이 세상에서 자신이 가진 부나 지위나 권력 등으로 얻을 수 있는 것이 아니라, 오직 하나님 나라를 가져오시는 참된 왕이시며, 구주이신 분께만 의지할 때에야 얻을 수 있는 것입니다. 하나님의 나라는 약한 자, 가난한 자들의 나라이며, 오직 하나님께만 소망을 둘 수밖에 없는 자들의 나라입니다.

이처럼 주 예수님의 놀라운 예루살렘 입성은, 왕의 도래로 인해, 어떤 승리가 다가올 것인지를 계시하는 사건이었다고 할 수 있습니다. 그것은 확실히 승리의 입성이었지만, 나귀 새끼를 탄, 고난의 종 예수님께서 십자가에 달리심으로써 성취되는 승리였습니다. 승리이긴 하지만, 제자들과 무리가 생각했던 승리와는 달랐습니다. 무리의 승리에 대한 높아진 기대는 메시아의 십자가 죽음으로 완전히 배신당하게 되었지만, 반대로 하나님의 눈으로 볼 때, 바로 그 순간, 즉 십자가 위에서, 예수님의 낮아지심이 정점에 달한 순간에 모든 일이 성취되었고, 믿는 자에게 하나님의 은혜가 부어지게 되었습니다. 그리고 우리는 바로 지금, 십자가에서 부어지는 하나님의 나라의 은혜를 누리고 있습니다. 그리스도는 아버지의 우편에 앉아 계시며, 하늘 보좌에서 약한 자, 가난한 자, 천한 사람들을 세우시고, 그들의 그 연약함을 통해 「호산나 다윗의 자손이여」라고 자신의 위엄을 찬미하게 하십니다.

그러면 이 신비로운 예루살렘 입성이, 하나님의 나라 본질을 보여준다는 것은 알겠으나, 「호산나 다윗의 자손이여」라고 찬양한 당사자인 무리와 제자들에게 그 진정한 의미가 이해되지 않았던 것이 되어, 따라서 그런 찬양은 무의미하여 주 예수님께 받아들여지지 않았던 것일까요? 그렇지 않았습니다. 비록 그때에는 잘 이해하지 못했을지라도, 후에 예수님께서 십자가에 달리셨을 때, 그들의 믿음이 크게 흔들릴 수도 있었지만, 예수님께서는 무리의 찬양을 기뻐하시고 받아들이셨습니다. 무리는, 마치 자기들의 마을에서 하나님의 선지자가 나왔다는 것이 마음속 깊이 자랑스러웠던 것처럼, 「갈릴리 나사렛에서 나온 선지자 예수라」하며, 기뻐하며 계속해서 찬송하고 있습니다(미완료). 우리도 하나님의 계획이나 뜻을 아직 완전히 이해할 수는 없지만, 우리에게 허락된 범위 안에서 무리나 제자들처럼 힘껏 주 예수님을 찬양하고 주 예수님을 기뻐해야 합니다.

이와 대조적인 반응으로 예루살렘 사람들의 반응이 있습니다. 그들은 예수님께서 예루살렘에 입성하시자「이는 누구냐」 하며 소동했습니다. 본래 시온의 딸인 그들이야말로 가장 큰 경의를 가지고 메시아이신 왕을 환영하고 기뻐해야 했지만, 그들은 메시아를 거부하고 두려워하며 소동했습니다. 10절의 「소동하다」라는 말은 땅이 흔들릴 정도로 소란스러웠다는 뜻인데, 그만큼 예루살렘 사람들은 혼란스러워하고 두려워했던 것입니다.

이와 비슷한 현상이 예전에 예수님께서 태어나셨을 때에도 일어났습니다. 동방으로부터 박사들이 유대인의 왕을 찾아 와서 「유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시냐 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라」라고 말했을 때, 헤롯 왕을 비롯한 예루살렘 전체가 그 뿌리부터 흔들리며 소동한 사건이 있었습니다. 그들의 두려움의 이유는 자신들이 확고히 붙잡고 있던 기득권이, 민중의 고양과 함께 빼앗길지도 모른다는 두려움이었기 때문입니다.

그러나 예루살렘 사람들은, 이 나귀 새끼를 탄 왕의 입성을 두려워할 필요가 전혀 없었습니다. 대신, 다음 사실을 알아야 합니다. 머지않아 정말로 종려나무 가지로 환영받는 메시아가 왕으로서, 흰 말을 타고 오실 때가 올 것이라는 사실입니다. 그날, 단 한 사람도 멸망하지 않고 모두가 회개하도록 하신 하나님의 오래 참으심이 끝나고, 메시아께서 의로 심판하시며 싸우실 것입니다. 요한계시록 19장 15절을 펴 보십시오.

요한계시록 19장

15 그의 입에서 예리한 검이 나오니 그것으로 만국을 치겠고 친히 그들을 청장으로 다스리며 또 친히 하나님 곧 전능하신 이의 맹렬한 진노의 포도주 틀을 밟겠고

불신자들은 오히려 그 날이 올 것을 두려워해야 합니다. 그 날, 그리스도와 연합된 사람들은, 그리스도와 함께 심판하는 편에 서게 되며, 불신자들에게는 주님의 격노가 내릴 것입니다. 과거의 모든 죄를 하나도 남김없이 정산하고 공평하게 심판받는 날이, 올 것을 그들은 두려워해야 합니다.

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