2025年12月21日「救いの創始者、憐み深い大祭司」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

救いの創始者、憐み深い大祭司

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 2章10節~18節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

2:10というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
2:11事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
2:12「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、
2:13また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
2:14ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
2:15死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
2:16確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
2:17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
2:18事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヘブライ人への手紙 2章10節~18節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

クリスマスおめでとうございます。クリスマスとは、救い主イエス・キリストがご降誕されたことをお祝いする日であります。これは私たちキリスト者にとって普通のことでありますけれども、世間一般ではそうではありません。この世の人々は、クリスマスに教会で御子のご降誕をお祝いすること、或いは、聖書の御言葉を信じることを恥ずかしい事だと感じています。ですから今日、御子を信じる兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができるのは、私にとっても大変うれしいことであります。

神の御子であるイエス様のご降誕のことを神学用語では、受肉の出来事と言います。神の御子はロゴスとして、即ち御言葉として、父なる神と共に天におられましたが、今から約2000年前に、私たちと同じ肉と血をお取りになって、人としてお生まれになりました。この受肉の出来事は、ヘブライ人の手紙によると、人々のために十字架で死なれるための受肉であったと語っています。つまり最初から「死」を目指すものであったと語っています。これは一体どういう意味でしょうか。本日はヘブライ人への手紙を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 救いの創始者

2:10節をご覧ください。

“というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。”

「数々の苦しみを通して完全な者とされた」とは、何もイエス様がそれまで不完全な者であったとか、イエス様に罪があったという意味ではありません。「数々の苦しみを通して完全な者とされた」とは、人として律法の下で歩まれ、信仰によって御父の御心に従い、実に数々の苦しみを経たイエス様のご生涯とは、アダムが成し遂げることができなかった神に対する従順の歩みであり、律法を全うする歩みであったということです。それは、神にとってふさわしいことでありました。

10節の「創始者(韓国語では主)」という言葉に注目してください。ギリシア語で「アルケゴス」です。この言葉は、新約聖書の中で使徒言行録と、このヘブライ人の手紙にしか出てきません。ヘブライ人の手紙では、「創始者」と翻訳されていますが、使徒言行録(3:15、5:31)では、「導き手(新共同訳)」とか、「君(新改訳)、(韓国語では王)」と翻訳されています。もともとの意味は、勇者ですとかチャンピオンという意味です。

恐らくこの手紙を読んだ読者は、「アルケゴス(勇者)」、という言葉を読んで、ギリシャ神話の最強の英雄、ヘラクレスを連想したのではないかと言われています。と言いますのは、まず、ヘブライ人の手紙とは、散らされユダヤ人に書かれた手紙ですが、彼らはギリシャ語を話す、ヘレニズム化されたユダヤ人であったからです。読者である彼らにとってギリシャ神話は、大変聞き慣れたものでありました。神ゼウスと人間の女との間に生まれてきたヘラクレスは、生まれてきた時から、人間離れした怪力を持っていました。ヘラクレスは、成長し、数々の試練を乗り越え、最後には死んで天に昇り、神々の一員になったという神話であります。ヘラクレスが勇者であったように、イエス様も勇者であり、あたかもダビデがゴリアトと戦ったあの戦闘を彷彿させるような代表戦士でありました。イエス様は怪力の持ち主ではありませんが、イエス様は御自身に属する子らを栄光に導くために先頭に立って戦ったのであります。その戦いの相手とは誰かと言いますと、罪と死の権勢であり、罪を通してこの世を支配しようとする悪魔であります。ルカによる福音書11:21~22には次のように書かれています。イエス様のお言葉です。

“強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。”

ルカ福音書のこの文脈では、強い人というのは、悪魔です。悪魔は、悪霊たちを従えています。ところがそこへもっと強い者、即ちイエス様がこの屋敷を襲って悪魔に勝利すると、悪魔から頼みの武具がすべて奪われてしまいます。そして悪魔が実行支配していたこの世を、霊的に神の国に変えてくださるのです。

【2】. 憐み深い大祭司

2:11節~13節はスキップしまして、先に14節以降を見て行きたいと思います。ここでは、イエス様の十字架の死について焦点が当てられており、しかもそれは、大祭司による捧げものであったということが書かれています。2:14~15節をご覧ください。

“ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。”

イエス様の十字架の死とは、悪魔の働きを滅ぼすものであると書かれています。なぜご自身の死によって悪魔の働きを滅ぼすことが出来たのでしょうか。そもそも悪魔とは、堕落した天使であります。傲慢になり、神に敵対したため、天から追放され、地に落とされました。悪魔が人間を支配し、人間を神の最後の審判へと道連れできるのは、人間が罪を犯したからであります。このことから分かるのは、悪魔とて、神の絶対的な法の下で、自らの影響力を行使しているに過ぎないということであります。人間に罪があり、神の御前に立ち得る者ではないために、悪魔は神に訴えて、「神様、人間どもも、自分と同じように恵みを受ける資格はありません。あなた様に反逆しているため死に値します」と告訴しているのです。こうして、罪人である人間は、自らの罪ゆえに、悪魔の支配の中で、奴隷となっているのです。しかし、神の御子イエス様が血と肉を取られ、完全な人間としてこの世に現れました。そして、死の権勢に立ち向かい、罪のないお方が、代わりに十字架上で刑罰を受けられることによって、御自身に属する子らの罪を贖ってくださったのです。これにより贖われた子らは死の恐怖から解放されました。贖われた子らにとって、死とは永遠の命への通過点となり、死後、その魂は直ちにイエス・キリストの御許に引き上げられるようになったのです。

もしかしたら「死の恐怖」などと言いますと、「いやいや、私は神なんか信じていないが、死なんて鼻っから恐れていないよ」と言う人もいるかもしれません。社会問題として、自殺の問題がありますが、この世の苦悩から解放されようとして、自ら命を絶つ人もいるくらいです。ある人が、「死なんて怖くない。すべてのものに終わりがあるのは、厳しいことだけど、それは自然なことだ」と考えるのも頷けます。しかし、本当に死の恐怖などないと言い切れるでしょうか。たとえ、平然と死ぬことが出来たとしても、それだけでは死の恐怖から解放されているとは言えません。なぜなら死んだ後、身体と魂が分離された死後の世界が確かにあるからです。死後、陰府に降るのか、或いはキリストの御許に引き上げられるのか、これは大変大きな違いです。この問題が解決されなければ、死の恐怖から、真に自由になったとは決して言えないのであります。続いて16~17節をご覧ください。

“確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。”

ここでは、イエス様に対する新たな呼称が出てまいります。それは憐み深い、忠実な「大祭司」という言葉です。ギリシア語では「アルキエレウス」です。大祭司とは神と民の間に立って、犠牲の供え物を捧げる役割を担いました。イエス様は罪のないご自身の身体を十字架に捧げ、御自ら、犠牲の供え物となられました。それにより神への真のなだめの供え物を捧げることが出来たのです。と言うのは、旧約に出てくる犠牲の捧げものは、全てイエス・キリストを予表するものであり、神は、決して牛や羊の犠牲それ自体によって宥められる訳ではないからです。牛や羊の血、そのものを求めていた訳ではなかったからです。そして、大祭司の働きは神と民を仲介する働きでありますから、そこで求められるのは、罪を犯す民との連帯であり、一体感です。ですから大祭司は、必ず民の中から立てられる必要がありました。イエス様も同じように神の民と同じ血と肉を持たれたのであります。18節をご覧ください。

“事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。”

先ほどの17節にも「憐み深い」という言葉がありましたが、罪人である民と全く同じ苦難を味わうことがなければ、決して罪人を憐れむことなど出来ません。試練の中にある人々を助けることが出来る資格とは、その人も同じような試練を受けていなければならない。どんなに神様に敬虔な信仰の持ち主であっても、その人が試練を受けていなければ、それは他人に何の影響も及ぼすことは出来ないと言うことです。ヨブ記の中で、悪魔は神様に対し次のように訴えました。ヨブ記1:9~11をご覧ください。

“サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」”

悪魔は、もしヨブが苦難の中に置かれるなら、きっとあなたを呪い、罪を犯すに違いないと言っています。他人が苦しんでいる時に神様に忠実であることと、自分自身も苦しんでいる時に、なお神様に忠実であり続けることは全く別問題だと言っているのです。イエス・キリストは罪人の悲惨な生涯にダイレクトに参与されました。それでも、神を呪うことなどせず、神に忠実に歩み続けられました。ですから、イエス様が体験された痛みによって、イエス様が人々から拒絶され、侮辱され、十字架に付けられたことによって、彼こそ私たちの中の大祭司であることを証明され、イエス様はまさに、私たちの人生の中で、私たちの戦いの試練の中で、しんがりとして守ってくださったのです。

【3】. 兄弟とされる祝福

イエス様の受肉には勇者として御自身の民の代表戦士になること、一方で憐み深い大祭司として罪人に寄り添い、真のなだめの供え物として捧げられること、しんがりとなること、この二つの意味があったと考えられます。この二つが十字架に死によって完全に成し遂げられ、その結果、贖われた民が、神の家族として迎え入れられ、栄光に導き入れられるという事態が起こったのであります。先ほどスキップしました11~13節をご覧ください。

“事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。”

イエス様は、弟子たちを兄弟たちと呼ぶことを恥とされませんでした。もはや、ラビと弟子という上下関係ではなく、兄弟姉妹という家族の関係に入られたことを宣言してくださっています。かぎ括弧の部分は旧約聖書の引用です。開ける方は旧約聖書の詩編22編をお開きください(852ページ)。詩編22編は、「わが神、わが神 なぜ私をお見捨てになったのか」という言葉で始まっていますね。この叫びは、イエス様が十字架に掛けられた時に告白した言葉でもあります。ところが22編23節で、がらりと雰囲気が変わっています。23節をお読みします。

“わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。”

これまでの苦難と苦痛の叫びから、一転して感謝の言葉になっています。イエス様は戦いに勝利したため、復活によってこれまで低められたところから、高く引き上げられたことが暗示されているのです。また、「集会」という言葉は、ヘブライ語で「カーハール」、ギリシア語で「エクレシア」という言葉が使用されていますので、この個所は「教会の中であなたを賛美します」と読み取ることが出来ます。イエス様は兄弟たちに父なる神を証しされ、教会の中であなたを賛美しますと語られているのです。同じ様に2章13節のかぎ括弧の箇所もイザヤ書8:17~18からの引用でありますが、ここでは旧約聖書を開くことを割愛させていただきますが、ここも、やはり私たちの霊が死後、御許に引き上げられた状況を想起させます。勝利されたイエス様が、御父の右の座に着座され、御自身に属する民の贖いについて「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます。」そう語っているのです。神の家族として、イエス様を長兄とする兄弟姉妹の関係に入れられるとは、どれほど大きな恵みでしょうか。受肉されたイエス様によってもたらされた栄光とは、このように豊かで恵み深いものなのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様が死なれるためにこの世に受肉された理由とは、十字架の死が、勇者としての代表戦士の勝利であり、また、同時に神の怒りをなだめるために、大祭司が捧げることができる真の捧げものであったからです。私たちの救いの勇者は、私たちに先立ち、律法を完全に成就してくださいました。それだけではなく、憐み深い大祭司は私たちの弱さにまで遜り、寄り添ってくださり、私たちが受けるべき刑罰を代わりに担ってくださいました。それによって死の恐怖から解放され、自由とされ、父なる神を仰ぎ、イエス様を長兄とする神の家族に迎え入れられ、栄光に入れられたのであります。クリスマスの受肉の出来事とは、そのような目的をもっていたことを覚えつつ、私たちはイエス様に信頼し、イエス様を心から賛美し、礼拝する者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

ハングル語によるメッセージはありません。

関連する説教を探す関連する説教を探す