2025年12月14日「神の時間割 하나님의 시간표」

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神の時間割 하나님의 시간표

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:1その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
7:2ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
7:3イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
7:4公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
7:5兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
7:6そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7:7世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
7:8あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
7:9こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
7:10しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
7:11祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
7:12群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
7:13しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

“人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。”これは、箴言19:21の御言葉です。人間の歴史において、様々な人間の計らいが交錯しますが、歴史の中で一本貫く筋があり、その一本の筋とは、神の御旨の成就であります。神の御旨の成就の前に、人間の様々な計らいは後に退いていきくすんで見えなくなると、箴言の著者は語っているのです。歴史の中に生かされている私たちも、その歴史を貫く一本の筋に参与することができるなら、いかに幸いなことでしょうか。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 兄弟に操縦されなかったイエス様

ヨハネによる福音書は7章から新しい段落に入ります。7:2に「仮庵祭が近づいていた」とあります。前回までの6章の背景が、6:4に書かれている通り、過越祭が近づく中での出来事でありましたので、6章と7章の間には、約6、7か月ほどの時間の隔たりがあり、場所につきましてもガリラヤから宗教と政治の中心地であるユダヤへと舞台が移っていきます。1~2節をご覧ください。

“その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。”

仮庵祭とは、過越祭、五旬祭と合わせてユダヤの三大祭りの一つです。この祭りは「仮庵」という言葉に示されているように、仮小屋で七日間を過ごしながら、出エジプトをした後、荒れ野において天幕生活したことを覚えるための祭りです。神の恵みの中で、イスラエルの民は人間が住む環境ではない荒れ野において、なんと40年間も過ごしたのであります。この祭は現在の10~11月頃に行われ、収穫を完全に終えて、収穫感謝を意味する祭りでもあり、三つの祭りの中でも最も喜びに満ちあふれた祭りでした。ユダヤ教においては今でも伝統的に守られています。

1節に「ユダヤ人」という言葉が出てきますが、ヨハネの福音書で、「ユダヤ人」という言葉は、イエス様を信じない民、イエス様に敵対する勢力のことを指しています。イエス様はガリラヤ伝道において、公にご自身のことを「御父によって遣わされた (6:57)」と宣言されました。また、御自分が「天から降って来たパン(6:35)」であり、「神と等しい者(5:18)」であり、「命の源(6:54, 58)」であることを明らかにされました。イエス様を信じない人々にとって、そのようなイエス様の主張は受け入れることが出来ないのです。都エルサレムにおいてイエス様に対する殺意が明らかに芽生えていました。この時、イエス様の公生涯は、末期に差し掛かっていたと思われます。実は、今回ガリラヤからユダヤに移動しますと、もう再びガリラヤには戻って来ることはありません。そのまま、翌年の過越祭までユダヤ近辺で過ごすことになり、最終的に十字架に掛けられることになります。共観福音書ではガリラヤでの働きが多く記述されていると言われ、一方、ヨハネの福音書にはガリラヤの働きよりユダヤ近辺での働きが多く記述されていると言われています。ヨハネの福音書には書かれていませんが、恐らく、この時期にはもう既にイエス様は御自身の受難告知について弟子たちに明らかにされていたと考えられます。ところが、イエス様の兄弟たちは、そのような兆しには全く気付いていなかったようです。イエス様の兄弟たちとは、マタイの福音書13:55によりますと、「ヤコブとヨセフとシモンとユダ」この四人の弟がいたと報告されていますし、さらに妹たちもいたようですが、7:3節の「兄弟たち」とは、弟たちを指していると考えられます。その弟たちが、兄であるイエス様に大変的外れな要求をしました。3、4節をご覧ください。

“イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」”

ここで弟たちは、「こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」と言っています。つまり、イエス様が人々を驚かすような奇跡を行う力があることを認めています。その上で、その力を、ユダヤに行って披露し、世間の人々がどのような反応を示すのか見極めようと言うことなのでしょう。イエス様に対する支持率が最近低下していることを察知し、人気を取り戻そうと、そのように助言したのかもしれません。しかし5節を見ますと、この兄弟たちは「イエスを信じていなかった」と書かれています。彼らの要求は、きわめて世俗的な考え方であり、不信仰で、的外れの要求であったということです。なぜでしょうか。それは、悪魔サタンがイエス様を誘惑した言葉を思い起こすなら理解できるかと思います。マタイ4:5~6をご覧ください。

“次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」”

弟たちが要求しているのは、サタンがイエス様に誘惑しているのと同じように、ショーを見せることによって自分がメシアであることを公に証明せよと言っているのです。一旗揚げて注目されなさい、力によって世間を認めさせなさいということです。これはメシアの本来の使命を逸脱させようとする悪魔の誘惑です。メシアの使命とは、御自身の体を罪のない神の子羊として捧げられることであり、罪人の罪の刑罰を代わりに担われることでありました。兄弟たちの言葉とは、イエス様の使命の重みを一切理解していない無知な者たちの言葉であり、面白半分でイエス様を操縦するような言葉であり、そして意識せずともイエス様を使命から逸脱させる言葉でもあったのです。私の想像ですが、恐らくこの時、イエス様は自分の身内の無理解に対して、とても寂しく、孤独を感じられたことと思います。そして次のように答えらえました。6、7節をご覧ください。

“そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。”

ここの個所は少し分かりづらいですが、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言われ、弟たちの要求を拒絶されました。「時」という言葉に注目しますと、ギリシア語でカイロスという言葉が使用されています。カイロスとは、「機会」とか、「定められた時」という意味です。たとえば、「出産の時」を表す場合にもカイロス(定められた時)が用いられます。十月十日という期間が満ちて、カイロスになり、赤ちゃんが生まれてくることが定められていますね。ですからイエス様にとって「わたしの時」とは、「御父によって定められた時」と言うことができるのです。御父によって定められた時は、今ではないとおしゃっているのです。しかし、10節を見ますと、イエス様は隠れるようにして祭りに上って行かれたとありますので、読者である私たちは混乱してしまいます。イエス様は弟たちに嘘をつかれたということなのでしょうか。

そうではございません。イエス様は、弟たちのリクエストに従うという形ではなく、父なる神の時間割に従って行動したということだと思います。イエス様は常に神によって定められた時間割に従って行動しているのであって、誰であれ、イエス様の行動に影響を及ぼしたり、操縦したりすることは出来ないのです。イエス様はこのように信仰によって、父なる神に完全に捕らえられていました。言い換えれば父なる神と一つにされていたのです。ところが弟たちには、神の時という概念は全くありません。彼らは信じていないからです。彼らは神に従って行動しているのではなく、自分に従って、自己中心的な生き方をしているからです。

イエス様は弟たちに言いました。「世はあなた方を憎むことができないが、わたしを憎んでいる」。これは、不信仰な弟たちがこの世に埋没してしまっている、或いは、この世の人々と完全に一つになっているために、世の人々はあなた方を憎むことができないという意味です。しかし世は、イエス様を憎んでいます。なぜなら、イエス様はこの世と一つになっているのではなく、光である神と一つになっているからです。その光に照らされる形で、世の人々の悪い行いが、露わにされるからです。

イエス様は、弟たちと一緒に祭りに赴くことを断り、祭りの開始される時に到着して、人々の注目を集めることを拒否されました。しかし、その後、隠れるようにしてエルサレムに上って行かれました。14節を見ますと、「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた」とあります。公に神殿で教え始められたのであります。この時、不思議と群衆の中で意見が分かれるという現象が起こり始めました。父なる神は、まさにこの時にこそ、御子を仮庵祭に遣わし、大切な啓示を人々の前で現わされるのであります。その掲示の内容につきましては、次回の説教のお楽しみということになりますが、とりあえず7:11~13節をご覧ください。

“祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。”

イエス様に敵対するユダヤ人たちは、「あの男はどこにいるのか」とイエス様を捜し続けていました。ここで、注目していただきたいのは「群衆」という言葉と「ユダヤ人」という言葉です。ここに至り突然、区別されて使用されるようになったということです。6章までは、「群衆」という言葉と「ユダヤ人」という言葉が、ほぼ同じ意味で使用されていましたが、本日の7章では群衆の間に意見の対立が生まれ、イエス様に好意的な人々と、イエス様に敵対する人々が混在していることが分かります。そして、群衆はユダヤ人を恐れ、イエス様について公然と語ることが憚れたと書かれています。従いまして13節のユダヤ人とは、「ユダヤの当局者たち」とほぼ同意語であると考えていいでしょう。ユダヤの当局者たちの殺意と、人々を恐れさせるプレッシャーの中で、イエス様は逃げも隠れもせず、祭りの半ば頃になって、ご自身を公に現わされ、神殿の境内に上って教え始められたのであります。それは、ただ、イエス様が神の時間割に従って行動されていたからに違いないのですこのことからイエス様が信仰と祈りによって、どれほど父なる神と固く結ばれていたのか、そのことを私たちは確認することが出来るのです。

【2】. 神の時間割に従って生きる

私たちも、イエス様の兄弟たちと同じように神の時間割という概念を最初は持ってはいませんでした。しかし、今イエス様を信じるようになり、この世に埋没するのではなく、或いはこの世の人々と一つになるのではなく、神の時間割に従って生きる者たちとして変えられつつあります。神の時間割に従って生きるとは、言い換えれば、イエス様が御父の御声を聞いて常に一つであられたように、私たちもイエス様の御声に従順し、信仰によってイエス様と結合されること、信仰によってイエス様と一つになることであります。神の時間割に従うことは、イエス様が歩まれたように必ずしも安全な歩みではないかもしれません。むしろ世の人々から憎まれるものとなり、「長いものに巻かれるように」プレッシャーをかけられたりして、私たちが信仰を維持し続けることが困難になる、そのような道であります。しかし、神の時間割に従おうとする者たちは、聖霊の助けによって、恥をかくことがなく、大胆に立ち続けることが出来るのです。そして、神様の目に、神の時間割に従おうとする者たちの歩みは、これ迄のくすんだ灰色の営みではなく、美しく潤いのある営みとして映るのです。これ迄の死んでいた営みが、神の国のために目的を持った意味のある営みへと変えられて、神様を喜ばせることができるのです。イザヤ書52:7をご覧ください。

“いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。”

私たちが神の時間割に従って生きようとする時に、私たちの営みは、滅びゆくこの世に対し、福音を伝える、その美しい足となるのです。イエス様の弟たちは、この時点では、まだ兄がメシアであられることを信じていませんでした。しかし、この後、十字架と復活の出来事を通して、信じる者とされ、彼らの内の二人は教会の指導者となり、新約聖書を執筆するまでになりました。ヤコブ書とユダ書がまさにそれであります。弟たちは神の時間割に従って生きる者たちとされ、大胆さを与えられ、歴史を貫く一本の筋に参与する者となったのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様の兄弟たちが信仰を持つまで時間がかかったように、私たちの家族の中でも、もしまだ信仰を持たない人がいても、私たちは関係を大事にしながら、あきらめずにとりなして祈り続けるべきであります。信仰を持つようにされるまで、それぞれにおいて時があるからです。そして、信仰を持った私たちは、この世に埋没する人生ではなく、或いはこの世と一つになる人生ではなく、イエス様を受けれない世の人々に対し、光として、塩として、常にイエス様を証しし、祭司として人々をとりなしていく者たちとならせていただきましょう。その時、私たちはイエス様のように神の時間割に従って生きる者たちとされ、聖霊の助けの中で大胆さが与えられ、神様の働きに共に参与していく者とされるのであります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 시간표

2025년 12월 14일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 7장 1~13절

서론

「사람의 마음에는 많은 계획이 있어도 오직 여호와의 뜻만이 완전히 서리라」 이것은 잠언 19:21절의 말씀입니다. 인간의 역사에 있어서, 여러가지 인간의 계책이 뒤얽이지만, 역사 속에서 하나의 줄기가 있고, 그 하나의 줄기란, 하나님의 뜻의 성취입니다. 하나님의 뜻이 성취되기 전에 인간의 여러 가지 계책은 뒤로 물러나 희미하게 되어 보이지 않게 된다고 잠언의 저자는 말하고 있는 것입니다. 역사 속에 살고 있는 우리도 그 역사를 관통하는 하나의 줄기에 동참할 수 있다면 얼마나 다행일까요. 오늘도 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜에 참여하시기를 바랍니다.

(1) 형제들에게 조종 당하지 않으신 예수님

요한복음은 7장부터 새로운 단락으로 들어갑니다. 7: 2절에「초막절이 가까운지라」라고 되어 있습니다. 지난 6장의 배경이 6:4절에 적혀 있는 대로 유월절이 다가오면서 생긴 일이었기 때문에 6장과 7장 사이에는 약 6, 7개월 정도의 시간 차이가 있었고, 장소에 대해서도 갈릴리에서 종교와 정치의 중심지인 유대로 무대가 옮겨갑니다. 1~2절을 보세요.

1 그 후에 예수께서 갈릴리에서 다니시고 유대에서 다니려 아니하심은 유대인들이 죽이려 함이러라

2 유대인의 명절인 초막절이 가까운지라

초막절은 유월절, 오순절과 함께 유대의 3대 명절 중 하나입니다. 이 축제는「초막」이라는 말에 나타나 있듯이 천막에서 7일을 지내면서 출애굽을 한 후 공야에서 천막생활을 했던 것을 기억하기 위한 명절입니다. 하나님의 은혜 속에서 이스라엘 백성들은 인간이 살 환경이 아닌 황무지에서 무려 40년을 보냈습니다. 이 명절은 현재의 10~11월경에 열렸으며, 수확을 완전히 마치고, 수확 감사를 의미하는 축제이기도 하며, 세 명절 중에서도 가장 기쁨이 넘치는 명절이었습니다. 유대교에서는 지금도 전통적으로 지켜지고 있습니다.

1절에「유대인」이라는 말이 나오는데, 요한복음에서 「유대인」이라는 말은 예수님을 믿지 않는 백성, 예수님께 적대적인 세력을 가리킵니다. 예수님은 갈릴리 전도에서 공개적으로 자신을「아버지께서 나를 보내시매(6:57)」라고 선언하셨습니다. 또 자신이「생명의 떡(6:35)」이며, 자기를「하나님과 동등(5:18)」으로 삼으셨으며, 「생명의 근원(6:54, 58)」임을 밝히셨습니다. 예수님을 믿지 않는 사람들에게 그런 예수님의 주장은 받아들일 수 없는 것입니다. 또 예루살렘에서 예수님에 대한 살의가 분명히 싹트고 있었습니다. 이때 예수님의 공생은 말기에 접어들었던 것으로 보입니다. 사실 이번에 갈릴리에서 유대로 이동하면 다시 갈릴리로 돌아오는 일은 없습니다. 그대로, 다음 해의 유월절까지 유대 부근에서 지내게 되어, 최종적으로 십자가에 못 박히시게 됩니다. 공관복음서에서는 갈릴리에서의 사역이 많이 기술되어 있다고 하며, 한편 요한복음서에는 갈릴리의 사역보다 유대 부근에서의 사역이 더 많이 기술되어 있다고 합니다. 요한복음에는 적혀 있지 않지만, 아마도 이 시기에는 이미 예수님은 자신의 수난 고지에 대해 제자들에게 밝히셨을 것으로 생각됩니다. 그런데 예수님의 형제들은 그런 조짐을 전혀 눈치채지 못했던 것 같습니다. 예수님의 형제들이란, 마태복음 13:55에 따르면 「야곱과 요셉과 시몬과 유다」이 네 동생이 있었다고 보고되었고, 심지어 여동생들도 있었던 것 같은데, 7:3절의 「형제들」이란 남동생들을 가리키는 것으로 여겨집니다. 그 동생들이 형인 예수님께 아주 빗나간 요구를 했습니다. 3, 4절을 보세요.

3 그 형제들이 예수께 이르되 당신이 행하는 일을 제자들도 보게 여기를 떠나 유대로 가소서

4 스스로 나타나기를 구하면서 묻혀서 일하는 사람이 없나니 이 일을 행하려 하거든 자신을 세상에 나타내소서

여기서동생들은, 이런일을 하고 있으니 자신을 세상에 분명히 보여주라고합니다. 즉, 예수님이 사람들을 놀라게 하는 기적을 행하는 힘이 있다는 것을 인정하고 있습니다. 그런 다음 그 힘을 유대에 가서 선보이고, 세상 사람들이 어떤 반응을 보이는지 지켜보자는 것이겠지요. 예수님에 대한 지지율이 최근 떨어지고 있음을 깨닫고 인기를 되찾자고 그렇게 조언했을지도 모릅니다. 그런데 5절을 보면 이 형제들은 「예수를 믿지 않았다」고 적혀 있습니다. 그들의 요구는 지극히 세속적인 사고방식이었고, 불신앙이며, 빗나간 요구였다는 것입니다. 왜 그럴까요? 그것은 악마 사탄이 예수님을 유혹한 말씀을 상기한다면 이해할 수 있을 것 같습니다. 마태 4:5~6을 보세요.

마태복음 4장

5 이에 마귀가 예수를 거룩한 성으로 데려다가 성전 꼭대기에 세우고

6 이르되 네가 만일 하나님의 아들이어든 뛰어내리라 기록되었으되 그가 너를 위하여 그의 사자들을 명하시리니 그들이 손으로 너를 받들어 발이 돌에 부딪치지 않게 하리로다 하였느니라

동생들이 요구하는 것은, 사탄이 예수님을 유혹하는 것과 마찬가지로 쇼를 보여줌으로써 자신이 메시아임을 공개적으로 증명하라고 말하는 것입니다. 한 깃발을 들고 주목받고 힘으로 세상의 인정을 받으라는 것입니다. 이것은 메시아의 본래 사명을 일탈시키려는 악마의 유혹입니다. 메시아의 사명은 자신의 몸을 죄 없는 하나님의 어린 양으로 바치는 것이었고, 죄인의 죄의 형벌을 대신 받는 것이었습니다. 형제들의 말이란, 예수님 사명의 무게를 일절 이해하지 못하는 무지한 자들의 말이요, 재미삼아 예수님을 조종하는 듯한 말이요, 그리고 의식하지 않고도 예수님을 사명에서 벗어나게 하는 말이기도 했습니다. 제 상상인데, 아마 이때 예수님은 자기 집안의 몰이해에 대해 매우 외롭고 고독을 느끼셨을 거라고 생각합니다. 그리고 다음과 같이 대답하셨습니다. 6, 7절을 보세요.

6 예수께서 이르시되 내 때는 아직 이르지 아니하였거니와 너희 때는 늘 준비되어 있느니라

7 세상이 너희를 미워하지 아니하되 나를 미워하나니 이는 내가 세상의 일들을 악하다고 증언함이라

이곳의 구절은, 조금 알기 어렵지만 예수님은「내 때는 아직 이르지 아니하였거니와」라고 하시며 동생들의 요구를 거절하셨습니다. 「때」라는 말에 주목하면 헬라어로 카이로스라는 말이 사용되고 있습니다. 카이로스는 「기회」라든가, 「정해진 때」라는 뜻입니다. 예를 들어, 「출산의 때」를 나타내는 경우에도 카이로스(정해진 때)가 사용됩니다. 10개월 10일이라는 기간이 차서, 카이로스가 되고, 아기가 태어나는 것이 정해져 있지요. 그러므로 예수님에게 있어서 「내 때」란, 「아버지에 의해 정해진 때」라고 말할 수 있는 것입니다. 아버지에 의해 정해진 때는 지금이 아니라고 말씀하고 계시는 것입니다. 그러나 10절을 보면 예수님은 명절에 올라간 후에 자기도 올라가시되 나타내지 않고 은밀히 가셨다고 하니, 독자인 우리는 혼란스러워집니다. 예수님은 동생들에게 거짓말을 하셨다는 건가요?

그렇지 않습니다. 예수님은 동생들의 요청에 따르는 형태가 아니라, 아버지 하나님의 시간표에 따라 행동했다는 것이라고 생각합니다. 예수님은 항상 하나님에 의해 정해진 시간표에 따라 행동하는 것이지, 누구든 예수님의 행동에 영향을 미치거나 조종할 수는 없는 것입니다. 예수님은 이처럼 믿음에 의해 아버지 하나님께 완전히 사로잡혀 있었습니다. 말하자면 아버지 하나님과 하나가 되어 있었던 것입니다. 그런데 동생들에게는 하나님의 때라는 개념은 전혀 없습니다. 그들은 믿지 않기 때문입니다. 그들은 하나님을 따라 행동하고 있는 것이 아니라 자신을 따라 자기중심적인 삶을 살고 있기 때문입니다.

예수님은「세상이 너희를 미워하지 아니하되 나를 미워하나니」라고 동생들에게 말씀하셨습니다. 이는 불신하는 동생들이 세상에 빠져 있거나, 세상 사람들과 완전히 하나가 되어 있기 때문에 세상 사람들은 너희를 미워할 수 없다는 뜻입니다. 그러나 세상은 예수님을 미워하고 있습니다. 왜냐하면 예수님은 이 세상과 하나가 되어 있는 것이 아니라 빛인 하나님과 하나가 되어 있기 때문입니다. 그 빛에 비춰지는 형태로 세상 사람들의 나쁜 행실이 드러나기 때문입니다.

예수님은 동생들과 함께 명절에 가는 것을 거절하셨고, 명절이 시작될 때 도착하셔서 사람들의 주목을 받는 것을 거부하셨습니다. 그러나 그 후 숨듯이 은밀하게 예루살렘으로 올라가셨습니다. 14절을 보면「이미 명절의 중간이 되어 예수께서 성전에 올라가사 가르치시니」라고 되어 있습니다. 공개적으로 성전에서 가르치기 시작한 것입니다. 이때 이상하게 무리 중에서 의견이 갈리는 현상이 일어나기 시작했습니다. 아버지 하나님께서는, 그야말로 이 때에, 아들을 초막절에 보내셔서, 중요한 계시를 사람들의 앞에서 보여주시는 것입니다. 그 계시의 내용에 대해서는, 다음 설교의 즐거움으로 하겠습니다만, 우선 7:11~13절을 봐 주세요.

11 명절중에 유대인들이 예수를 찾으면서 그가 어디 있느냐 하고

12 예수에 대하여 무리 중에서 수군거림이 많아 어떤 사람은 좋은 사람이라 하며 어떤 사람은 아니라 무리를 미혹한다 하나

13 그러나 유대인들을 두려워하므로 드러나게 그에 대하여 말하는 자가 없더라

예수님에게 적대하는 유대인들은「그가 어디 있느냐」하고 예수님을 계속 찾고 있었습니다. 여기서 주목해 주셨으면 하는 것은 「무리」라는 말과 「유대인」이라는 말입니다. 여기에 이르러 갑자기 구별되어 사용되게 되었다는 것입니다. 6장까지는 「무리」라는 말과 「유대인」이라는 말이 거의 같은 의미로 사용되었지만, 오늘 7장에서는 무리 사이에 의견 대립이 생겨나 예수님께 호의적인 사람들과 예수님께 적대하는 사람들이 혼재되어 있음을 알 수 있습니다. 그리고 무리는, 유대인을 두려워하고 예수님에 대해 공공연히 말하는 것을 꺼렸다고 쓰여 있습니다. 따라서 13절의 유대인이란 「유대의 당국자들」과 거의 동의어라고 생각해도 좋을 것입니다. 유대 당국자들의 살의와 사람들을 두렵게 하는 압박 속에서 예수님은 도망치지도 숨지도 않고 명절 중반 무렵에야 자신을 공개적으로 드러내어 성전 경내에 올라가 가르치기 시작했습니다. 그것은 단지 예수님이 하나님의 시간표에 따라 행동하셨기 때문임에 틀림없는 것입니다. 이로부터 예수님이 믿음과 기도로 얼마나 아버지 하나님과 굳게 맺어져 있었는지 그것을 우리는 확인할 수 있는 것입니다.

(2) 하나님의 시간표에 따라 살다

우리도 예수님의 형제들과 마찬가지로 하나님의 시간표라는 개념을 처음에는 가지고 있지 않았습니다. 그러나 지금 예수님을 믿게 되면서 이 세상에 빠져버리는 것이 아니라, 혹은 이 세상 사람들과 하나가 되는 것이 아니라 하나님의 시간표에 따라 사는 자들로 변해가고 있습니다. 하나님의 시간표에 따라 산다는 것은, 다시 말해 예수님이 아버지의 음성을 듣고 늘 하나이셨듯이 우리도 예수님의 음성에 순종하며 믿음에 따라 예수님과 결합되는 것, 믿음에 따라 예수님과 하나가 되는 것입니다. 하나님의 시간표를 따르는 것은 예수님이 걸어가신 것처럼 반드시 안전한 걸음은 아닐 수 있습니다. 오히려 세상 사람들로부터 미움을 받는 것이 되고, 「세상의 요구에 대하여 예스맨이 되라」는 압박을 받기도 해서 우리가 믿음을 계속 유지하는 것이 곤란해지는 그런 길입니다. 그러나 하나님의 시간표를 따르려는 자들은 성령의 도움으로 부끄러움 없이 담대하게 계속 설 수 있는 것입니다. 그리고 하나님의 눈에 하나님의 시간표를 따르려는 자들의 발걸음은 지금까지의 칙칙한 회색빛 행실이 아니라 아름답고 윤택한 행실로 비치는 것입니다. 그동안의 죽었던 행실이 하나님의 나라를 위해, 목적을 가진 의미 있는 행실로 바뀌어 하나님을 기쁘시게 할 수 있는 것입니다. 이사야서 52:7을 봐주세요.

이사야 52장

7 좋은 소식을 전하며 평화를 공표하며 복된 좋은 소식을 가져오며 구원을 공포하며 시온을 향하여 이르기를 네 하나님이 통치하신다 하는 자의 산을 넘는 발이 어찌 그리 아름다운가

우리가 하나님의 시간표에 따라 살려고 할 때 우리의 행실은, 멸망해가는 이 세상에 복음을 전하는 그 아름다운 발이 되는 것입니다. 예수님의 동생들은 이 시점에서는 아직도 형이 메시아일 수 있다는 것을 믿지 않았습니다. 그러나 이 후 십자가와 부활의 사건을 통해 믿는 자로 여겨졌고, 그들 중 두 사람은 교회의 지도자가 되어 신약성서를 집필하기까지 했습니다. 야고보서와 유다서가 바로 그것입니다. 동생들은 하나님의 시간표에 따라 사는 자들로 여겨졌고, 대담함을 부여받아 역사를 관통하는 하나의 줄기에 참여하는 자가 되었습니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 예수님의 형제들이 믿음을 갖기까지 시간이 걸렸듯이 우리 가족 중에서도, 만약 아직 믿음을 갖지 못한 사람이 있더라도 우리는 관계를 소중히 여기며 포기하지 말고 간구하며 기도해야 합니다. 믿음을 갖게 될 때까지 저마다 때가 있기 때문입니다. 그리고 믿음을 가진 우리는 이 세상에 침몰되는 삶이 아니라, 혹은 이 세상과 하나되는 삶이 아니라 예수님을 받아 들이지 않는, 세상 사람들에게 빛으로서, 소금으로서, 항상 예수님을 증명하고 제사장로서 사람들을 위해 간구하는 자들이 됩시다. 그때 우리는 예수님처럼 하나님의 시간표에 따라 사는 자들로 여겨지고 성령의 도움 속에서 담대함이 주어지며 하나님의 일에 함께 참여해 나가는 자로 여겨지는 것입니다.

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