2025年12月07日「つまずきと信仰告白 걸림과 신앙고백」

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つまずきと信仰告白 걸림과 신앙고백

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章60節~71節

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聖句のアイコン聖書の言葉

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
70すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章60節~71節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

私たちは主の日ごとにヨハネによる福音書を読み進めています。本日はヨハネ福音書6章の締めくくりの場面となります。この6章の結末は私たち読者の心を大変暗くさせます。イエス様の弟子たちが教会から離れていく「つまずき」のことが書かれているからです。考えてみますと、6章の冒頭には「五千人に食べ物を与える」という小見出しがありまして、五つのパンと二匹の魚によって男だけで五千人を養った奇跡が書かれていました。女、子供を含めるなら一万人は下らなかったことでしょう。しかしイエス様が、御言葉を語り始めると、群衆どころか、弟子たちさえつぶやき始めたというのです。弟子というのは、イエス様と寝食を共にした者たちのことです。最も初期の頃からイエス様にお仕えした弟子たちが十二弟子でありますが、比較的最近、弟子とされた者たちもイエス様の回りにいました。その弟子たちの多くが、イエス様から離れ去ってしまったのです。これは一体どういうことなのでしょうか。本日もヨハネの福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 父からお許しがなければ…

60節を見ますと、弟子たちの多くがつぶやいたと書かれています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。「実にひどい」という言葉は、ギリシア語を見ますと、一つの単語でありますが、「固い」という言葉です。つまり、固くて呑み込めない、難しいという意味です。それはそうだと思われます。イエス様は少し前の55~56節において、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という非常に霊的なメッセージを語られました。これは、新約聖書を知っている私たちがようやく理解できる事柄です。十字架と復活の後に、弟子たちによって新約聖書が生み出されますが、その新約聖書を読んで初めて、イエス・キリストを天からの贈り物として受け取り、イエス・キリストと結ばれることによって私たちに命が与えられるということを理解することができるのです。イエス様は、そのように言わんとされたのですが、当時、旧約聖書しか知らなかった人々にとっては、イエス様のお言葉は、大変難解であり、人々の常識をはるかに超えた内容でした。ですから、イエス様の語られるお言葉を、すぐには理解できない人々が出てくるのは、これは当然だと考えられるのです。

ですが、理解することは必ずしも信仰に先んじることではないと思います。皆さまは聖書66巻の御言葉を全て完全に理解してから、イエス様を信じたのでしょうか。恐らく、教会に集っている私たちの多くは、見て、理解して、信じたのではなく、見えなくとも、理解できなくとも、信じて洗礼を受けた、或いは信仰告白をしたという方々がほとんどではないでしょうか。実際、私たちは、理解して信じているのではなく、信じて理解しているのであります。自分が理解できるものでなければ、信じることは出来ないという態度は、もしかしたら自分中心的な考え方であり、実は傲慢な態度なのかもしれません。続いて61~62節をご覧ください。

“イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。”

これは、言い換えますとこうなります。「もし、神の御子が受肉して、この世に来られたということが、そんなに固く難解な言葉であるなら、私が復活して、天に挙げられるのを見るなら、その時どんな反応をするだろうか?」ということであります。イエス様の天に挙げられる昇天の記事は、ルカによる福音書と使徒言行録にしか記録されていませんが、その個所を見ますと、昇天の出来事を直接目撃した弟子たちの人数は限られていて、十一人の使徒たちとその仲間たちだけでありました。ヨハネ福音書が執筆された1世紀末ごろにおいて、恐らく、イエス・キリストが復活されたこと、そしてその後天に挙げられたこと、この事実をなかなか人々に信じてもらえなかったという背景があったのだと思われます。「天に挙げられる」ということは、それほど私たちの常識を超えた、あり得ない出来事だったのです。これは、もはや、理解して信じろというのは、ほとんど不可能なことであります。続いて63節をご覧ください。

“命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。”

「霊」というのは、ご聖霊のことを指しています。ですから63節の意味は、「イエス様は聖霊を通して神の御言葉を語られる」ということです。と言いますのも、イエス様が公生涯を始められる際に、聖霊を限りなくお受けになられたからです。ヨハネ福音書3:34をご覧ください。

“神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。”

公生涯を始められる時に、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その時、聖霊が限りなく注がれました。イエス様は聖霊を通して神の御言葉を語られるのです。神の御言葉は2,000年の時を経た現在においてもなお、私たちに語りかけてくださいます。どのように語りかけてくださるのでしょうか。それはお手元の聖書に、神の御言葉が記されていますが、その御言葉と共に働く聖霊が、私たちに語りかけてくださるのです。神の御言葉とは、救いを与える力であり、命であり、暗闇を照らす光であり、人の心の最も深いところを切り分けることのできる両刃の剣でありますが、それは聖霊が御言葉と共に働くために、そのようなことが起こるのです。ですから、私たちは、いくら聖書を読んでも、いくら会堂で牧師のメッセージを聞いても、もし私たちの中で聖霊が働かれないなら、もし聖霊が御業を起こしてくださらなければ、信仰をもって御言葉を受け入れることが出来ませんし、命を与えられることはないのです。続いて65~66節をご覧ください。

“そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。”

『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』とイエス様は確かに言われました。何度も言いますけれども、福音は全ての人々に無差別に語られますが、救われる人は、神の選びによるのです。聖霊がその人に働かれ、初めて、人は悔い改めに導かれ、信仰が与えられ、永遠の命が与えられるのです。

【2】. つまずきと信仰告白

さて、弟子たちの多くが離れ去ったとありますが、彼らはなぜ離れ去ったのでしょうか。6章の冒頭をもう一度思い起こしてみましょう。彼らは五つのパンと二匹の魚の奇跡によって、夢見心地でイエス様に従って来ました。この方こそ私たちの待ち望んでいたイスラエルの王である。この方に王になっていただければ、ローマ帝国の支配はぶっ飛ばされて、我々の時代がやって来る!この想いで、人々はガリラヤ湖の向こう岸から、こちら側のカファルナウムまでついて来たのでありました。人々は永遠の命ではなく、今、空腹が満たされ、将来設計においても安心と保障が与えられることに最も大きな関心を持っていたのです。ところが、イエス様は、彼らの期待をぶち壊すかのように「肉は何の役にも立たない。」と語られました。彼らはイエス様のお言葉を理解することが出来なかったし、理解したくもなかったのでしょう。なぜなら、彼らはただ自分たちのお腹が満たされることだけを望み、ただ、政治的なメシアだけを望んでいたからです。

このように主の教えとは、決してこの世の価値観に迎合するものではないということがわかります。ですからイエス様のメッセージというのは、聞けば聞くほど、人々を二つのグループに分けるという現象が起こってくるのです。二つのグループとは、より深く御言葉を悟ろうとする誠実な探求者たちと、もう一方で聞いた教えが気に入らず、イエス様を拒絶する者たちであります。このことは現代においても当てはまるのではないでしょうか。私たちが真実に福音を語ろうとする時、二つのグループに分けられるという現象が起こり、つまずきが起こって教会を去っていく人が現われる事が避けられないのであります。イエス様は多くの人々が離れ去って行くのをご覧になり、十二弟子に言われました。67節です。「あなたがたも離れて行きたいか」ギリシア語を見ますと、この言葉は、否定形の答えを期待する聞き方になっています。「まさか、あなたがたまで去っていきたいとは思ってはいないでしょ?」「そんなことないでしょ!あなた方は大丈夫だよね!」というニュアンスです。とは言っても、イエス様だって全き人間でもありますから、一抹の不安があったのだと思います。このような緊迫した場面で、ペトロは弟子たちを代表し、次のように告白しました。68~69節をご覧ください。

“シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」”

ペトロは、イエス様の期待に応え「とんでもございません。私たちは去って行きません。主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか」ときっぱり言ってくれました。この言葉を聞いて、イエス様はほっと胸をなでおろしたに違いありません。また、ペトロは「あなたこそ神の聖者です」と言っています。「神の聖者」という呼称は、聖書の中であまり聞きなれない言葉ですが、旧約聖書にヤハウェになる神に対して「イスラエルの聖なる方」という呼称があります。ペトロはその言葉を引用したのかもしれません。イザヤ書12:6をご覧ください。

“シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。”

イエス様の「私はある」(エゴーエイミ)というお言葉に応答するかのようにして、ペトロは「あなたはイスラエルの聖なる方であると信じます」と信仰告白をしていると考えられるのです。この時、ペトロはイエス様の語られる全ての御言葉を完全に理解した上で、それに基づいた主張をしたということではなく、自らの信仰を表明したに過ぎません。なぜなら、この後、エルサレムでイエス様が十字架刑に捕らえられる時、ペトロを初め、十二弟子全員がイエス様から離れ、散り散りにされるからです。信仰とは神の目に尊いものでありますが、同時に信仰とは大変揺らぎやすいものなのです。ペトロの告白の直後に、イエス様は次のように言われました。70~71節をご覧ください。

“すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。”

イエス様は、十二人の一人が悪魔に捕らえられることを知っておられました。後にその一人とはイスカリオテのユダであることが判明いたします。それでは、イエス様はこの時点で、神の全知全能の力によってイスカリオテのユダが自分を裏切ることを知っておられたのでしょうか。これは難しい問題であって、神学的に意見が分かれるところです。イエス様は神であられるのだから、予知の力によって、ユダが裏切ることを予め知っていたと主張する人もいれば、一方でイエス様は肉を取られた全き人間であるため、この時点でユダが裏切ることはわからなかったが、ただ信仰によって十二人の一人が裏切ることを知っておられたと主張する人もいます。詩編などに次のような御言葉があるからです。41:10 をご覧ください。

“わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。”

改革派教会は、後者の立場に立っています。つまり、イエス様は神の御子であられますが、肉をお取りになられた時に、神の全知全能の力を制限されてこの世に来られたと解釈いたします。と言いますのは、たとえば、イエス様はゲラサ人に取ついた悪霊に対して「名は何と言うのか?(マコ5:9)」と聞かれていますし、出血の止まらない女が後ろからイエス様の服に触った時、「私の服に触れたのは誰か?(マコ5:30)」と訪ねられました。ですからイエス様は神の予知の力によって「その中の一人は悪魔だ」と言われたのではなく、信仰によって「その中の一人は悪魔だ」と言われたと考えられるのです。そして、このことが意味することは、イエス様は、この世に来られた時、私たちと同じように、堕落したこの世の常識や、サタンの試みに、信仰によって戦われたということです。御自身の公生涯を通して、罪の勢力と戦い、苦闘と誘惑を通して、信仰の勝利を打ち立ててくださいました。それによってアダムが獲得することができなかった全ての有益をイエス様が代表となって獲得してくださったのです。そのようにしてご自身に属する全ての民に救いがもたらされたのです。人として来られたこと、このことは私たち罪人の救いにどうしても欠かせない要素であり、人の子としてイエス様はそれを成就してくださったのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様はこの世に来られた時、肉を取られ、罪は除いて、私たちと同じように全ての弱さをお持ちになられました。そのような中、ただ御父と堅く結ばれるために信仰によって歩まれ、苦闘と誘惑を通して勝利を打ち立ててくださいました。たとえ天の教えが、世の常識に迎合するものではないことを分かっていながら、もっと言うと、それがつまずきを起こすことを分かっていながら、それでも群衆から支持を得ようと安易な道を選ぶのではなく、純粋に福音を語り、弟子たちが信仰告白に至るように導かれました。私たち教会の福音宣教もこれと同じです。イエス様の進まれたその足跡に従い、信仰によって神の御言葉を告げ知らせる教会として、私たちは共に集い、共に礼拝を捧げ、信仰を告白する群れとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

걸림과 신앙고백

2025년 12월 70일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 6장 60~71절

서론

우리는 주의 날마다 요한복음서를 읽어 나가고 있습니다. 오늘은 요한복음 6장의 마무리 장면이 됩니다. 이 6장의 결말은 우리 독자의 마음을 매우 어둡게 합니다. 예수님의 제자들이 교회에서 떠나가는「걸림」에 관한 내용이 기록되어 있기 때문입니다. 생각해 보면, 6장 시작 부분에는 「오천 명을 먹이시다」라는 소제목이 있었고, 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리로 남자만 오천 명을 먹이신 기적이 기록되어 있었습니다. 여자와 아이까지 포함하면 만 명은 넘었을 것입니다. 그러나 예수님께서 말씀을 시작하시자, 무리는 물론, 제자들조차 수군대기 시작했다는 것입니다. 제자란 예수님과 잠자고 먹는 것을 함께한 자들을 말합니다. 가장 초창기부터 예수님께 섬긴 제자들이 열두 제자이지만, 비교적 최근에 제자로 삼으신 자들도 예수님 곁에 있었습니다. 그 제자들 중 많은 이가 예수님을 떠나 버렸습니다. 이것은 대체 무슨 일일까요? 오늘도 요한복음서를 통해 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 합니다.

(1) 내 아버지께서 오게 하여 주지 아니하시면

60~61절을 보면「제자 중 여럿이 듣고 이 말씀은 어렵도다 누가 들을 수 있느냐」라고 말하며 수군거렸다고 기록되어 있습니다. 「이 말씀은 어렵도다 누가 들을 수 있느냐」 「어렵다」라는 말은 헬라어 원문을 보면, 하나의 단어인데, 「단단하다」는 뜻입니다. 즉, 단단해서 삼키기 어렵고 이해하기 힘들다는 의미입니다. 그럴 만하다고 생각됩니다. 예수님께서는 조금 앞선 55~56절에서「내 살은 참된 양식이요 내 피는 참된 음료로다 내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 내 안에 거하고 나도 그의 안에 거하나니」라는 매우 영적인 메시지를 말씀하셨습니다. 이는 신약성경을 아는 우리가 겨우 이해할 수 있는 일입니다. 십자가와 부활 후에 제자들에 의해 신약성경이 탄생하지만, 그 신약성경을 읽고서야 비로소 예수 그리스도를, 하늘에서 온 선물로 받아들이고, 예수 그리스도와 연합함으로써 우리에게 생명이 주어진다는 것을 이해할 수 있습니다. 예수님께서는 그렇게 말씀하시려 하셨지만, 당시 구약성경만 알고 있던 사람들에게는 예수님의 말씀이 매우 난해하고 사람들의 상식을 훨씬 뛰어넘는 내용이었습니다. 그러므로 예수님께서 하시는 말씀을 당장 이해하지 못하는 사람들이 나오는 것은 당연하다고 생각됩니다.

그러나 이해하는 것이 반드시 믿음보다 먼저 오는 것은 아니라고 생각합니다. 여러분은 성경 66권의 말씀을 모두 완전히 이해한 후에 예수님을 믿으셨습니까? 아마도 교회에 모인 우리 대부분은 보고 이해하고 믿은 것이 아니라, 보이지 않더라도, 이해할 수 없더라도 믿고 세례를 받았거나 신앙고백을 한 분들이 대부분이 아닐까요? 실제로 우리는 이해하고 믿는 것이 아니라 믿고 이해하는 것입니다. 자신이 이해할 수 있는 것이 아니면 믿을 수 없다는 태도는 어쩌면 자기 중심적인 생각이며, 사실은 교만한 태도일지도 모릅니다. 이어서 61~62절을 보십시오.

61 예수께서 스스로 제자들이 이 말씀에 대하여 수군거리는 줄 아시고 이르시되 이 말이 너희에게 걸림이 되느냐

62 그러면 너희는 인자가 이전에 있던 곳으로 올라가는 것을 본다면 어떻게 되겠느냐

이것은 달리 말하면 이렇게 됩니다.「만약 하나님의 아들이 육신을 입고 이 세상에 오셨다는 것이 그렇게 어렵고 난해한 말이라면, 내가 부활하여 하늘로 올리워지는 것을 본다면 그때 어떤 반응을 보이겠느냐」라는 것입니다. 예수님의 하늘로 올리심에 관한 승천 기록은 누가복음과 사도행전에만 기록되어 있지만, 그 구절을 보면 승천 사건을 직접 목격한 제자들의 수는 제한되어 있었고, 열한 사도들과 그 동료들뿐이었습니다. 요한복음서가 집필된 1세기 말 무렵에는 아마도 예수 그리스도께서 부활하셨다는 사실과 그 후 하늘로 올리우셨다는 사실을 사람들이 쉽게 믿지 못했던 배경이 있었던 것으로 보입니다. 「하늘로 올리우심」이라는 것은 그만큼 우리의 상식을 초월한, 있을 수 없는 사건이었습니다. 이는 더 이상 이해하고 믿으라고 하는 것이 거의 불가능한 일이었습니다. 이어서 63절을 보십시오.

63 살리는 것은 살리는 것은 영이니 육은 무익하니라 내가 너희에게 이른 말은 영이요 생명이라

「영」이라는 것은 성령님을 가리킵니다. 그러므로 63절의 의미는「예수님께서 성령을 통해 하나님의 말씀을 말씀하신다」는 것입니다. 이는 예수님께서 공생애를 시작하실 때 성령을 무한히 받으셨기 때문입니다. 요한복음 3:34을 보십시오.

요한복음3장

34 하나님이 보내신 이는 하나님의 말씀을 하나니 이는 하나님이 성령을 한량 없이 주심이니라

공생애를 시작하실 때 세례자 요한에게 세례를 받으셨고, 그때 성령이 무한히 부어졌습니다. 예수님은 성령을 통해 하나님의 말씀을 말씀하십니다. 하나님의 말씀은 2,000년의 세월이 지난 지금에도 여전히 우리에게 말씀해 주십니다. 어떻게 말씀해 주시는 것일까요? 그것은 여러분 손에 있는 성경에 하나님의 말씀이 기록되어 있지만, 그 말씀과 함께 일하시는 성령이 우리에게 말씀해 주시는 것입니다. 하나님의 말씀은 구원을 주는 능력이며, 생명이며, 어둠을 비추는 빛이며, 사람의 마음 가장 깊은 곳을 가르는 「양날의 검」입니다. 그러나 그것은 성령이 말씀과 함께 일하시기 때문에 그런 일이 일어나는 것입니다. 그러므로 우리는 아무리 성경을 읽어도, 아무리 교회에서 목사의 메시지를 들어도, 우리 안에 성령이 역사하지 않으신다면, 성령이 그 일을 일으키지 않으신다면, 믿음으로 말씀을 받아들일 수 없으며 생명을 주시는 일도 없습니다. 이어서 65~66절을 보십시오.

65 또 이르시되 그러므로 전에 너희에게 말하기를 내 아버지께서 오게 하여 주지 아니하시면 누구든지 내게 올 수 없다 하였노라 하시니라

66 그 때부터 그의 제자 중에서 많은 사람이 떠나가고 다시 그와 함께 다니지 아니하더라

「아버지께서 허락하지 않으시면 아무도 내게 올 수 없다」고 예수님께서 분명히 말씀하셨습니다. 여러 번 말씀드리지만, 복음은 모든 사람에게 차별 없이 전파되지만, 구원받는 사람은 하나님의 선택에 달려 있습니다. 성령께서 그 사람 안에서 역사하셔야 비로소 사람은 회개로 인도되고, 믿음이 주어지며, 영생이 주어지는 것입니다.

(2) 걸림과 신앙고백

자, 제자들 중 많은 이가 떠나갔다고 합니다. 그들은 왜 떠났을까요? 6장의 시작 부분을 다시 떠올려 봅시다. 그들은 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리로 이루어진 기적을 보고, 꿈꾸는 듯한 마음으로 예수님을 따라왔습니다. 이분이 바로 우리가 기다리던 이스라엘의 왕이시다. 이분이 왕이 되신다면, 로마 제국의 지배는 날아가 버리고 우리의 시대가 올 것이다! 이런 생각으로 사람들은 갈릴리 호수 건너편에서 이쪽 가버나움까지 따라왔던 것입니다. 사람들은 영원한 생명이 아니라 지금 당장 배고픔이 채워지고, 미래 설계에서도 안심과 보장이 주어지는 것에 가장 큰 관심을 가지고 있었던 것입니다. 그런데 예수님께서는 그들의 기대를 산산조각 내듯 「육체는 아무 소용이 없다」고 말씀하셨습니다. 그들은 예수님의 말씀을 이해할 수 없었을 뿐만 아니라, 이해하려 하지도 않았을 것입니다. 왜냐하면 그들은 단지 자신들의 배가 채워지는 것만을 바랐고, 단지 정치적인 메시아만을 원했기 때문입니다.

이처럼 주님의 가르침은 결코 이 세상의 가치관에 영합하는 것이 아님을 알 수 있습니다. 그러므로 예수님의 메시지는 들으면 들을수록, 사람들을 두 그룹으로 나누는 현상이 일어납니다. 두 그룹이란, 말씀을 더 깊이 깨닫고자 하는 성실한 탐구자들과, 다른 한편은, 들은 가르침이 마음에 들지 않아 예수님을 거부하는 자들입니다. 이 일은 현대에도 해당되지 않을까요? 우리가 진실로 복음을 전하려 할 때, 두 그룹으로 나뉘는 현상이 일어나고, 걸림이 되어 교회를 떠나는 사람이 나타나는 것은 피할 수 없는 일입니다. 예수님은 많은 사람들이 떠나가는 것을 보시고 열두 제자에게 말씀하셨습니다. 67절입니다.「너희도 가려느냐」 헬라어 원문을 보면, 이 말은 부정적인 대답을 기대하는 질문 형식입니다. 「설마 너희들까지 떠나고 싶어 하지는 않겠지」 「그럴 리 없잖아! 너희들은 괜찮겠지! 」라는 뉘앙스입니다. 그렇다고 해도 예수님도 완전한 인간이셨기에, 한 줄기 불안이 있었을 것입니다. 이러한 긴박한 상황에서 베드로는 제자들을 대표하여 다음과 같이 고백했습니다. 68~69절을 보십시오.

68 시몬 베드로가 대답하되 주여 영생의 말씀이 주께 있사오니 우리가 누구에게로 가오리이까

69 우리가 주는 하나님의 거룩하신 자이신 줄 믿고 알았사옵나이다

베드로는 예수님의 기대에 부응하여「주여 영생의 말씀이 주께 있사오니 우리가 누구에게로 가오리이까」라고 단호하게 말했습니다. 이 말을 듣고 예수님은 안도의 한숨을 내쉬셨을 것입니다. 또한 베드로는 「주는 하나님의 거룩하신 자이신 줄 믿고 알았사옵나이다」라고 말했습니다. 「하나님의 거룩하신 분」이라는 호칭은 성경에서 흔히 듣는 말은 아니지만, 구약성경에는 야훼가 되시는 하나님을 향해 「이스라엘의 거룩하신 분」이라는 호칭이 있습니다. 베드로가 그 말씀을 인용했을지도 모릅니다. 이사야서 12:6을 보십시오.

이사야 12장

6 시온의 주민아 소리 높여 부르라 이스라엘의 거룩하신 이가 너희 중에서 크심이니라 할 것이니라

예수님의 「내니 (에고 에이미) 」라는 말씀에 응답하듯, 베드로는 「당신은 이스라엘의 거룩하신 분이십니다」라고 신앙 고백을 하고 있다고 생각됩니다. 이때 베드로는 예수님께서 하신 모든 말씀을 완전히 이해한 후, 그에 근거한 주장을 한 것이 아니라, 단지 자신의 믿음을 표명한 것에 불과합니다. 왜냐하면 이후 예루살렘에서 예수님께서 십자가 형에 처해지실 때, 베드로를 비롯한 열두 제자 모두가 예수님을 떠나 흩어지게 되었기 때문입니다. 믿음은 하나님의 눈에 귀한 것이지만, 동시에 믿음은 매우 흔들리기 쉬운 것입니다. 베드로의 고백 직후에 예수님께서는 이렇게 말씀하셨습니다. 70-71절을 보십시오.

70 예수께서 대답하시되 내가 너희 열둘을 택하지 아니하였느냐 그러나 너희 중의 한 사람은 마귀니라 하시니

71 이 말씀은 가롯 시몬의 아들 유다를 가리키심이라 그는 열둘 중의 하나로 예수를 팔 자러라

예수님께서는 열두 제자 중 한 명이 마귀에게 사로잡힐 것을 알고 계셨습니다. 후에 그 한 명이 가룟 유다임이 밝혀집니다. 그렇다면 예수님께서는 이 시점에서 하나님의 전지전능하신 능력으로 가룟 유다가 자신을 배반할 것을 알고 계셨을까요? 이는 어려운 문제이며, 신학적으로 의견이 분분한 부분입니다. 예수님은 하나님이시므로 예지력으로 유다가 배반할 것을 미리 아셨다고 주장하는 사람도 있는 반면, 한편 예수님은 육신을 취하신 완전한 인간이시므로 이 시점에서 유다가 배반할 것임을 알지 못하셨으나, 단지 믿음으로 열두 제자 중 한 명이 배반할 것임을 아셨다고 주장하는 사람도 있습니다. 시편 등에 다음과 같은 말씀이 있기 때문입니다. 시편 41:9절을 보시기 바랍니다.

시편 41편

9 네가 신뢰하여 내 떡을 나눠 먹던 나의 가까운 친구도 나를 대적하여 그의 발꿈치를 들었나이다

개혁파 교회는 후자의 입장을 취하고 있습니다. 즉, 예수님은 하나님의 아들이시지만, 육신을 취하실 때, 하나님의 전지전능한 능력을 제한하시고 이 세상에 오셨다고 해석합니다. 예를 들어, 예수님은 거라사인에게 들린 악령에게「네 이름이 무엇이냐 (막 5:9)」라고 물으셨고, 피가 멈추지 않는 여인이 뒤에서 예수님의 옷자락을 만졌을 때 「누가 내 옷에 손을 대었느냐 (막 5:30) 」라고 물으셨습니다. 따라서 예수님께서 하나님의 예지력으로 「너희 중 한 사람은 마귀니라」라고 말씀하신 것이 아니라, 믿음으로 「너희 중 한 사람은 마귀니라」라고 말씀하신 것으로 생각됩니다. 그리고 이 일이 의미하는 바는, 예수님께서 이 세상에 오셨을 때 우리와 마찬가지로 타락한 이 세상의 상식이나 사탄의 시험에 믿음으로 맞서 싸우셨다는 것입니다. 그분은 자신의 공생애를 통해 죄의 세력과 싸우시고, 고투(苦闘)와 유혹을 겪으시며 믿음의 승리를 이루셨습니다. 그로 인해 아담이 얻지 못했던 모든 유익을 예수님께서 대표가 되어 얻어 주셨습니다. 그렇게 하여 그분께 속한 모든 백성에게 구원이 주어졌습니다. 사람으로 오신 것, 이 일은 우리 죄인의 구원에 반드시 필요한 요소이며, 인자(人子)로서 예수님께서 그것을 이루셨습니다.

결론

오늘 내용을 정리합니다. 예수님은 이 세상에 오셨을 때 육신을 취하시고 죄는 없으시지만 우리와 같은 모든 연약함을 지니셨습니다. 그런 가운데 오직 아버지와 굳게 연결되기 위해 믿음으로 걸어가시며 고난과 유혹을 통해 승리를 이루셨습니다. 비록 하늘의 가르침이 세상의 상식에 맞지 않는다는 것을 알면서도, 더 나아가 그것이 걸림이 된다는 것을 아시면서도, 그럼에도 군중의 지지를 얻으려고 쉬운 길을 택하지 않으시고 순수하게 복음을 전하시며 제자들이 신앙 고백에 이르도록 인도하셨습니다. 우리 교회의 복음 선교도 이와 같습니다. 예수님께서 걸어가신 그 발자취를 따라, 믿음으로 하나님의 말씀을 전하는 교회로서, 우리는 함께 모여 함께 예배를 드리며, 믿음을 고백하는 무리가 되도록 합시다.

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