2025年11月30日「イエスの血と肉にあずかる」

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イエスの血と肉にあずかる

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章41節~59節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48わたしは命のパンである。
6:49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6:52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6:53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6:58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
6:59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章41節~59節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

その日、主イエスと話し合っていたカファルナウムの多くの群衆は、自分たちの耳を疑いました。群衆はイエスの家族をよく知っていたにもかかわらず、彼は自分が神の子であると主張したからであります。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と、群衆はつぶやき始めました。このつぶやきは、モーセによってエジプトから解放されたイスラエルの民が、荒れ野においてモーセに不平を言った姿と重なってきます。本日は「イエスの血と肉にあずかる」とは果たして何を意味しているのかということを念頭に置きつつ、ヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. イエス様の福音宣教と有効召命

41節の冒頭にユダヤ人という言葉が出てきます。ユダヤ人とは本来エルサレムとその周辺の地方の人々を指す言葉であります。ですからここでは、正確に言えば、ガリラヤ人と書くべきところですが、ヨハネの福音書では、たとえガリラヤ地方に住んでいようと、どこに住んでいようと、イエス様を拒絶するイスラエルの民をまとめて「ユダヤ人」と呼んでいるのであります。つまりヨハネの福音書において「ユダヤ人」とは、イエス様を信じない民の総称を言っているのです。すると、イエス様は彼らに次の様に言われました。43~45節をご覧ください。

“「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。”

前回、37節においても、イエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」と言われましたが、どうやら言葉を換えて言い直しているようです。御父が引き寄せてくださらなければ、だれも主イエスのもとに来ることはできません。イエス様を受け入れるタイミングは、人それぞれ定められた時があると思いますが、御父によって選ばれている者は必ず、抗うことのできない全能の御力によって、イエス様のもとに導かれるのです。それはあたかも親猫が子猫の首根っこをくわえて引っ越しするかのように、時が満ちるならば、首根っこをくわえられてイエス様のもとに導かれるのです。そしてイエス様のもとに導かれた者たちは、新しく生まれ変わり、永遠の命によって養われ、終わりに日に復活させられるのです。因みに44節と45節は、ウェストミンスター小教理問答、問31「有効召命」の証拠聖句として挙げられていますので、小教理問答の問31を確認してみましょう。

問31有効召命とは何ですか。

答  有効召命とは、神の御霊の業であって、それによって御霊は、わたしたちに自分の罪と悲惨を自覚させ、わたしたちの知性をキリストを知る知識で照らし、わたしたちの意志を新たにしてくださいます。こうして御霊は、福音においてわたしたちに無償で提供されているイエス・キリストを、受け入れるように説得し、それができるようにしてくださいます。

神様による召しとは、たとえ私たちがまだ罪にどっぷりつかっている時でも、聖霊によって私たちに罪と悲惨を自覚させ、キリストを知る知識で照らしてくださいます。ですから、まだイエス様を信じられない人々にとって、「わたしは命のパンである」というイエス様のお言葉は、招きの言葉にもなっていたのだと思います。神の福音はこのように誰にでも無差別に語られます。その無差別の招きとは、必ずしも、直接的な聖書の御言葉によってではないかもしれません。御言葉以外で間接的に福音が語られることもあります。例えば、アンパンマンのアニメを通してであったり、宅急便のロゴマークを通してであったりです。アンパンマンは自分の顔を人々に分け与えていますね。アンパンのモデルはイエス・キリストだと言われています。また、クロネコヤマトの創業者はキリスト者であったため、あのロゴマークが生まれたと言われています。このようにあらゆる方法で福音が宣言され、招きの言葉が語られているのですが、御父が引き寄せてくださる者だけが、有効的に召され、イエス様のもとに来ることができるのであります。続いて48~50節をご覧ください。

【2】. イエスの血と肉にあずかる

“わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。”

ここでは、昔、イスラエルの民が荒れ野で食べた「マンナ」とイエス・キリストという「命のパン」が比較されています。ここで誤解してはならないことは、本来マンナとは、霊的な食物であり、キリストの霊的な象徴でもありました。1コリント10:1~4を調べてみましょう。パウロは次のように言っています。

“兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。”

この個所を見ますと「皆、同じ霊的な食物を食べ」とありますね。マンナのことです。ですから本日の箇所で「マンナを食べたが、死んでしまった」という表現は、マンナを物質的な糧としてでしか見ることができなかった、限定された先祖たちのことが引き合いに出されているのです。要するにマンナを不信仰な心で食べた先祖たちのことです。ところが、今や、マンナが象徴的に指し示す実体が現われました。天から降ってきたパンであるイエス様を、今や信仰によって見なければなりません。51節をご覧ください。

“わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。”

イエス様は再三言われています。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と。これは、神の御子が肉をお取りになり、この世に人として来られた受肉の出来事を指していると思われます。また「食べる」とは、信じるということを意味しているのだと思います。ですから「天から降って来たパンを食べる」とは、「受肉した神の御子を信じる」ということになります。イエス様がこの世に来られた目的は、皆さまもよく御存知のように、救い主として恵みの契約を成就されるためでありました。すなわち、人となられ十字架刑に処せれることにより、罪人の罪の代価を代わりに担われ、一方で御父への、全き服従を通して、律法を完成させることでありました。神が肉をお取りになって人となり、罪人の隣人となってくださり、仲保者として贖いを成し遂げてくださったのです。

ところで51節以降、「パン」という言葉が「肉」という言葉に置き換えられています。このことは、本日の箇所で大変重要なポイントだと思います。肉とはイエスさまが受肉された神秘を念頭に置いているのでしょう。もし、イエス様が人として来なければ、私たちの罪の代価を担うことは出来ませんでした。もし、人として来なければ、即ち弱さがない天的な存在として、律法を成就したとしても何の意味もありませんでした。人の子として成就されたことに意味があるのです。もし、人として来なければ、私たちの救いは成し遂げられなかったのです。救い主は、まさに「人の子」として、私たちと同じ「肉」を取って来てくださいました。私たちの救いとは、信仰によって、このイエス様を受け入れ、イエス様の功労に参与することであり、イエス様と共に生きることであります。天から降って来られた方の、そのような霊的な側面を見なければなりませんでしたが、カファルナウムの群衆は、そのことが分からず議論をし始めました。52~53節をご覧ください。

“それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。”

人肉を食えとでも言うのか、とんでもないことだ!ということで大騒ぎになった訳です。それを受けてイエス様は、「はっきり言っておく」と前置きをして語り始めました。「はっきり言っておく」という言葉は、6章だけでも既に4度目になります。今回も重要なことが語られていますが、その語られた内容は、かえって群衆を混乱させ、手がつけられなくなってしまいました。「人の子、即ち、メシアの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とは、十字架に掛かられる主イエスを信じなければ、あなたたちの内に命はないという意味です。しかしイエス様は、単に「私を信じなさい」とは言わないで、「人の子の肉を食べ、その血を飲みなさい」と言われた、その理由は一体何なのでしょうか。このような言い回しは、初代教会が世の人々から、人食いの風習がある野蛮人だと誤解された要因でもありました。なぜイエス様はあえて、このような言い回しをしたのでしょうか。

ここで聖餐式のことをイエス様は語られていると主張する人がいます。確かに本日の箇所で、そのように解釈することもできますが、必ずしも私たちが月に一度行っている聖餐式の儀式に限定されるものではなく、私たちが普段、信仰によって与えられる、キリストとの交わりについても同様に語っているのだと思います。キリストとの人格的な交わりとは何か?それは御父によってイエス様に引き寄せられた結果でありますが、そもそもキリストとの交わりとは、神秘的にイエス様に結合されて生じたものであります。56節をご覧ください。

“わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。”

「わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもその人の内にいる」とありますが、ここで「~の内にある」と訳されている言葉は、ギリシア語でメノーという言葉でありまして、「留まる」という意味です。このメノーという言葉は15章において、「ぶどうの木と枝の譬え」が出てまいりますがその個所にも出てきます。ヨハネ15:5をご覧ください。

“わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。”

「つながる」と訳されている言葉がメノーという言葉です。御父によってイエス様に引き寄せられる者は、イエス様と相互に「メノー」する関係が与えられ、イエス様と神秘的結合が与えられるのです。その結合は、どのような仕方かと言いますと、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいるという仕方の結合であります。しかし、だからと言って、イエス様が今現在、この世に偏在されるということではありません。イエス様は十字架に掛けられ、復活されて、40日後に天に昇られ、神の右に着座されました。復活されたイエス様は、現在、天におられます。その天におられるイエス様と私たちが一体どのように結合されるのかと言いますと、聖霊によって、結合されるのであります。聖霊によって私たちは、主イエスの中に留まり、主イエスも私たちの中に留まってくださるのです。このキリストとの神秘的結合は聖餐式を通して初めて生じるのではない理由とは、既に、イエス・キリストは御言葉において私たちの魂のパンであられるからであります。ただそれにも拘わらず、聖餐式の中でより鮮明に、キリストとの神秘的結合が確認できるのは、パンとぶどう酒に与ることによって、単にイエス様が獲得された有益に参与するだけではなく、聖霊によってキリストの肉を食べ、血を飲み、イエス様の人性に参与することができるからであります。

宗教改革の時に聖餐式をめぐり様々な議論がなされました。カルヴァンは、聖餐式の時に、キリストの現存が確かにそこにあると主張しました。しかしその現存の仕方は、カトリック教会(化体説)や、ルター派教会(共在説)が主張するように、聖餐式におけるパンとぶどう酒において、キリストの実体がそこにあるという仕方ではなく、聖霊を通して、私たちは天の御座にまで引き上げられ、聖霊を通して神の右におられるキリストと霊的に結合されると主張しました。つまりキリストの現存の仕方がカトリック教会やルター派とは少し異なるということです。もしキリストの実体が、肉体的に、地域的に現存するなら、聖別されたパンとぶどう酒も礼拝の対象となってしまいます。しかしキリストの実体は、天に上げられているのです。

聖餐式は、キリストとの豊かな交わりの場であります。それは単なる記念の食事でなければ、単なる信仰告白の場でもありません。聖餐式は、御言葉と同じように神の恵みの手段であり、イエス様との人格的な交わりを強めるものであり、これによって教会は養われるのであります。それによってもたされるキリストとの交わりとは、はるかに深く、永遠に続く交わりであります。すなわちそれは、キリストとの神秘的結合であり、ぶどうの木と枝、頭と体、花婿とその花嫁、土台とその上に建造される建物といった比喩によってのみ、その豊かさが私たちに多少なりとも明らかにされるものであります。私たちの地上におけるキリストとの霊的な交わりは、キリストの再臨の日、復活に与った時に、永遠の交わりへと変えられるのでありますが、まさにその時のキリストとの神秘的結合の豊かさの、その前味を味わうようにされているのであり、聖餐式を通して神秘的結合が刻印されているのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。私たちの肉体が主食であるパンに依存し、日々養われているように、私たちの魂は肉を取られ、人となられたイエス・キリストに依存し、日々養われています。キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むこと、それは十字架に掛けられた救い主イエス様を信じることでありますが、同時にそれは、イエス・キリストとの神秘的結合の豊かさを味わい、やがての日に与えられる主イエスとの永遠の交わりを垣間見るものなのであります。

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