2025年11月16日「朽ちない食べ物のために働きなさい」

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朽ちない食べ物のために働きなさい

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章16節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
6:17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
6:18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
6:19二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
6:20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
6:22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章16節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様を王と担ぎあげようとした群衆に対し、それを拒絶するかのようにイエス様は一人山へ退かれました。イエス様は王として天から遣わされたのではなかったのでしょうか。イエス様は確かに王であられました。しかしイエス様の王としての権勢(権能)は、この世の権勢ではなく、天における権勢であります。この世の権勢は時間と共に、朽ちて、滅びていきます。どんなに歴史に名を残すような偉大な王であっても、いずれ新しい王が立てられ、新しい支配と新しい秩序が導入されることでしょう。しかし、イエス様の権勢とは、あらゆる名にまさる権勢であり、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス様の御名にひざまずくような、王の王、主の主としての権勢なのであります。時間と空間の制限の中で生きている私たちにとって、目に見える、実際的なものこそ、本物であると考えがちですが、目に見える、実際的なものは、やがて朽ち果てていき、いずれ存在しなくなります。ところが、今は私たちの目にはっきりとは見えませんが、天上のものであるイエス様の王としての権勢こそ、朽ちることのない、永遠に存在するものであります。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. わたしはある

熱狂的な群衆の渦の中から、イエス様は一人山へ退かれた後、弟子たちは夕方になったため、湖の向こう岸であるカファルナウムに再び戻ることにいたしました。他の福音書を見ますと、この時、イエス様ご自身がそのように強いられたため(マタ14:22、マコ6:45)、弟子たちだけで舟に乗って出発したと書かれています。巻末の地図6をご覧ください。ガリラヤ湖の北岸にカファルナウムとベトサイダを確認することが出来るでしょうか。カファルナウムには、ペトロの家があり、そこはイエス様と弟子たちの宣教の拠点でありました。最初、このカファルナウムからベトサイダへ舟で渡り、「五つのパンと二匹の魚の奇跡」を行いました。今再び、ベトサイダからカファルナウムに戻ろうとしている訳です。既に暗くなっていましたが、弟子たちは熟練した漁師でもありましたので、構わず出発したのでしょう。ところが海が荒れ始め、25ないし30スタディオン、すなわち5キロほど漕ぎ出すと、突然、嵐に見舞われました。ガリラヤ湖は普段は穏やかな海ですが、海抜が大変低いため、時折、突風が吹き下ろし、天気が急変し、嵐になる海としても知られています。弟子たちが大波に悩まされているとき、イエス様が海の上を歩いて来られました。弟子たちは最初、幽霊だと思ったのでしょう。水の上を近づいてくる人影を見て恐れました。するとイエス様は言われました。20節です。「わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」という言葉は、ギリシア語では「エゴーエイミー」、ヘブライ語では「エフイェ」、英語では「I am」という言葉でありまして、出エジプト記3章に由来している言葉です。出エジプト記3章を見ますと、モーセが奴隷状態にあったイスラエルを解放するため、神から遣わされた解放者として召されますが、モーセは神様からの召命を渋っていました。出3:13~14をご覧ください。

“モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”

同胞たちが、その神のお名前を尋ねたらどう答えたらいいでしょうかと質問すると、神様はモーセに、その名は「わたしはある」、ヘブライ語で「エフイェ」だと語られました。「エフイェ」つまりヤハウェです。従いまして、嵐の中でイエス様が弟子たちに言われた「わたしだ」というお言葉は、弟子たちに「わたしはある」という神のお名前と重なって響いてきたに違いないのであります。すなわち、海の大波を踏み砕かれる私こそ、旧約聖書の神ヤハウェであると主張しているのです。弟子たちがイエス様を舟に迎え入れようとすると、舟は間もなく目指す地に到着しました。この表現も大変不思議な感じが致します。あたかもイエス様を舟に迎え入れると、弟子たちは今までの奮闘が嘘であったかのように、舟は間もなく目的地に到着したのであります。

【2】. しるしが指し示すもの

さて、群衆は弟子たちが舟に乗って向こう岸に渡ったことに気づきました。そこには、一艘の小舟しかなかったこと、その一艘の小舟に弟子たちが乗って漕ぎ出し、イエス様は一緒には乗り込まれなかったということが分かっていました。すると、そこに他の小舟が、数そう岸辺に近づいて来たため、群衆はまさに「渡りに船」といわんばかりに、それらの小舟に乗って、イエス様に先回りし、カファルナウムに行くことにしました。この時、小舟の輸送能力を考えますと、五千人の男全員が移動したわけではないものの、その一部が移動したと考えられます。25節で、イエス様を見つけた人々は「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねています。「ラビ」という言葉は、「先生」という意味ですね。この何気ない言葉には、イエス様の神秘性が含蓄されているようです。と言いますのは、確かにあの時、一艘の小舟しかなく、そしてその小舟には弟子たちしか乗っていなかったはずでした。群衆は、後から来た数そうの小舟を利用してイエス様に先回りしてカファルナウムに到着したと思ったのです。てっきりイエス様はまだ、ベトサイダの丘に残っていると思っていたのに、一体どのように、カファルナウムに来られたのでしょうか。不思議です。何はともあれ、捜していたイエス様に再びお会いできて、人々は安堵しました。するとイエス様は、彼らに次のようにお答えになりました。26~27節をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」”

「はっきり言っておく」という言葉は5:19にも出て来ました。「アーメン、アーメン、レゴ、ヒューミン」とギリシア語ではなっていて、新改訳聖書では、「まことに、まことに、あなた方に言います」と翻訳されています。イエス様はこれから大切なことを語りますと言われているのです。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」これは、一体どういう意味でしょうか。五つのパンと二匹の魚によって、大勢の群衆を食べさせた奇跡を、著者ヨハネは「しるし」として表現していました。今、確かに群衆はイエス様を追いかけていますが、それはしるしを見たからではなく、奇跡によって満腹したからだと言っているのです。つまり群衆がイエス様を王に担ぎ上げようとしているのは、自分勝手な願いを王様に投影しようとしているに過ぎない、あなた方は自分勝手に偶像を作り上げているのだと言われるのです。それでは、しるしを見るとは、どういう意味なのでしょうか。「しるし」とは、英語でサインという意味ですから、そのしるしが指し示すものがある訳で、その指し示しているものをあなた方は見ていないと言っているのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡が指し示しているものとは一体何なのでしょうか。

イエス様はさらに続けます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」「人の子」とは、イエス様が、ご自身のことを指して使う言葉でありますが、その意味はキリスト(すなわちメシア)という意味です(マタ16:13~16)。「永遠の命に至る食べ物」とは、何でしょうか。それはメシアが与えてくださる食べ物だと言っています。父である神がメシアを認証してくださったから、メシアがあなた方に永遠の命に至る食べ物を与えることができるのだと言っています。要約するなら、しるしが指し示しているものとは、イエス様こそ、朽ちないパンであり、とこしえの命のパンであるということではないでしょうか。これは、サマリアの女に語った内容とも一致しています。サマリアの女はイエス様に、「なぜユダヤ人のあなたが、サマリア人の私に水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねたところ、イエス様は「もし私を知っていたら、むしろあなたの方から生ける水を私から貰ったことでしょう」と言われました。つまり、御自身こそ、渇くことのない生ける水であり、御自身こそ朽ちることのない命のパンであると語っておられるのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡とは、そのことを指し示しているのです。イエス様のお言葉に対し、群衆は次のように質問しました。28節です。

“神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか”

この質問は少し唐突のように聞こえるかもしれません。しかし、「業」という言葉を「働き」という言葉に言い換えれば、ストンと腑に落ちるのではと思います。イエス様は永遠の命に至る食べ物のために働きなさいと言われました。人々はこれを戒めの一つとして理解し、その戒めを守るためには何をしたら良いのかと質問しているのです。当時ユダヤ人たちが大切に守っていた先祖の言い伝えというものがありますが、これは、聖書に書かれている律法を破らないために、律法の周りに垣根を設け、その垣根を破らないことによって、神の律法を犯さないようにするという役割を担っていました。例えば、律法には安息日に働いてはならないと書かれています。その律法を守るために、安息日は、900メートル以上歩いてはならないだとか、物を運んではならない、火を使ってはならないなどという細かい規定が「先祖の言い伝え」として設けられたのであります。28節の群衆の質問は、これと全く同じ発想だということです。

【3】. 信仰とは生涯をかけた大事業である

それに対し、イエス様は次のように答えられます。29節です。ここには大変重要なことが示唆されています。“イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」”

ここでも「業」という言葉が出てきますが、そもそもこの言葉が出てくるようになったのは、イエス様がご自身で語った「働きなさい」という言葉に端を発しています。ここでイエス様が明らかにしていることは、信じること、信仰というのが、行いから区別されないと言うことであります。言い換えれば、いくら口先で信じる信じると言っても、行いが伴っていないのであれば、それは信仰ではないということです。信仰とはその人の「良き業」に裏打ちされたものであるということを語っているのだと思います。信仰とは業であり、信仰とは、悔い改めた人の行いが、それまでとは抜本的に変えられる、聖化の手段であると言うことができるでしょう。しかし、同時にもう一点、明らかにしていることは、その働き、業というものが、人間の働きではなく、神の働き、神の業であるということであります。ここが重要です。信じるということは、いわば、その人が生涯をかけた大事業であり、私たちが生涯賭けてイエス・キリストに自らを捧げ続けていく事でありますが、その大事業は決して自分の力でやれるものではなく、神が私たちの人生に起こし給うところの神の恵みの業であると語っているのです。

イエス様のお言葉を通して、私たちは「信仰」という概念をもう一度考えさせられるのではないでしょうか。信仰とは何か?口先だけの言葉が信仰ではなく、行いが伴うものである。これは頭では理解できるかもしれませんが、それなら、誰であれ、イエス様に完全に信頼しきることは、大変難しいことではないだろうかという問題が出てまいります。人は誰でも、信仰生活のアップダウンがあり、調子のいい時と悪い時があるからです。過去を振り返ってみるなら、主日礼拝をきちんと守れた時期もあれば、そうでない時期もあるのではないでしょうか。今後、私たちがどのような試練に見舞われても、キリスト教を背教することなく、イエス様を信じ抜く自信があると言い切れる人は、実際、一人もいないのではないでしょうか。ところが、その生涯をかけた私たちの大事業である信仰というものを、神様がご自身の業として責任もって成し遂げてくださると、イエス様は言われるのです。たとえ人生の中で暴風雨が起こり、大波に悩まされ、信仰を失いかねない状況に置かれたとしても、イエス様は、荒れ狂う大波を踏み砕き「わたしだ。恐れることはない」と言って、近づいて来てくださるのです。信仰という大事業が私たちの業ではなく、神の業であるなら、自分の信仰は果たして、大丈夫だろうか、本当に天国に行けるだろうかと思い悩む必要はなくなり、それと同時に、律法の遵守を通して、命と平安を何とかゲットしようとする試みを完全に放棄することができるようになるのです。神様の憐みを信じ、律法から自由になり、イエス・キリストの中で私たちのために成就された義と聖さに依り頼むときに、感謝が満ちあふれるようになり、その時、強制されてではなく、自発的に愛の業に促され、信仰が良き業へと帰結されるのであります。信仰とは行いが伴うものでありますが、神の恵みによってなされる神の業なのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。永遠の命に至る食べ物のために働きなさいとイエス様は言われました。つまり、イエス・キリストを信じなさいと言うことであります。「働きなさい」という言葉が示しているように、イエス・キリストを信じる信仰というものは、口先だけの言葉ではなく、良き業が伴うものであり、それはまさに生涯をかけた大事業であります。これは決して簡単なことではありませんが、その大事業とは、実は私たちの業ではなく、神様ご自身が責任もって成就してくださる業なのであります。私たちはぶどう園で働く労働者であり、農夫であるイエス様に信頼し、全てを委ねて、歩んで行く時に、たとえ嵐に見舞われることがあっても、不思議ととこしえの港である目的地へと到着するのであります。イエス様はそのような絶対的な権勢を持っておられるお方なのであります。

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