2025年11月09日「五つのパンと二匹の魚」

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五つのパンと二匹の魚

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章1節~15節

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6:1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6:2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6:3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6:4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6:5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6:7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6:8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6:10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6:11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6:12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6:13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6:14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6:15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章1節~15節

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【序】

イエス様がなされた奇跡の御業には、神の霊的真理が明らかにされています。ヨハネの福音書では「しるし」という言葉が用いられていますが、本日の五つのパンと二匹の魚の奇跡とは、昔、荒れ野でマナが降る奇跡が予表していたものが、イエス様において完全な形で与えられたということを指し示していると考えられます。今や、旧約聖書に預言されたモーセのような、あの預言者が来られたのであります。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 過越祭が近づく中で

本日の箇所で出てまいりました、五つのパンと二匹の魚の奇跡は、四つの福音書すべてに記録されています。イエス様の十字架と復活の出来事を除いて、四つの福音書が共通して記録している奇跡というのは、この五つのパンと二匹の魚の奇跡だけであります。このことは、最初にその奇跡を目撃したキリスト者たちにおいて、その出来事が彼らの心の中でどれほど衝撃的で、重要な位置を占めていたのかということを示しています。1~4節をご覧ください。

“その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。”

本日の6章の話の舞台はガリラヤです。前回の5章の話の舞台はユダヤのエルサレムでありました。この間、どれくらいの月日が経過したのかは分かりませんが、他の福音書を見ますと、洗礼者ヨハネが死刑された直後に、この五つのパンと二匹の魚の奇跡がなされたと書かれています。ティベリアス湖とは1節に説明されているようにガリラヤ湖のことであります。イエス様はガリラヤ湖の向こう岸に渡られると、大勢の群衆が湖の陸のへり伝いに沿って、後を追いかけて来ました。2節には、「病人たちになさったしるしを見たからである」と書かれていますが、「しるし」という言葉が複数形になっています。すなわち、群衆はイエス様の数々の癒しの奇跡をその目で見たため、それぞれ期待に胸を膨らませながらイエス様の後を追いかけて来たのであったということです。「向こう岸」とはどこなのか、ヨハネの福音書には具体的に書かれていませんが、他の福音書を見ますと、ベトサイダという場所で舟から降りられ、その付近の山に昇られたと書かれています(ルカ9:10)。ですからある注解書には、イエス様がここで弟子たちと登られた山とは、ゴラン高原の、ある小高い丘ではないかと書かれていました。山に登られ、イエス様が弟子たちと一緒にそこにお座りになると、大勢の群衆も集まって来たという状況です。時は過越祭が近づいていた頃でありました。過越祭とは、小羊を屠り、酵母を入れないパンと苦菜を一緒に食べ、子羊の血によって神の裁きが過ぎ越されたことをお祝いする祭りです。この時期は一年の中でも特に、解放の機運が高まり民族主義的な情熱が高揚する、そんな時期でもありました。

【2】. フィリポとアンデレを通して明らかにされる弟子たちの無知

さて、イエス様が目を上げると多くの群衆が熱狂的にご自身に従って来るのをご覧になりました。そこでフィリポに言われます。5節です。「この人たちを食べさせるには、どこでパンを買えばいいだろうか」このイエス様の質問について、私たちはきちんと調べなければなりません。ここでフィリポに対してなされたイエス様の質問は、「方法」について質問しているのでしょうか。或いは「場所」について質問しているのでしょうか。どちらだと思いますでしょうか。イエス様はここで、「どこでパンを買えばいいだろうか」と、場所について質問しています。「どこで買うのか」この視点が、本日の箇所で大変重要になってまいりますが、それについては後で説明させていただきます。先に進みまして、6節をご覧ください。

“こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。”

イエス様はこれほどの大群衆に対し、どこでパンを買って与えるのか、その解決策を既にご自身は持っておられました。しかし、あえて試練を与えるために質問をしているのです。フィリポはベトサイダ出身でしたから、この辺りの勝手についてよく知っていたのかもしれません。彼は頭の中でそろばんをはじきながら答えました。7節です。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」1デナリオンとは、一日働いた賃金に相当します。現代の金額で、仮に一日働いた分の賃金を一万円としますと、200万円ということになります。フィリポをこの大群衆を食べさせるほど、自分たちは豊かではないと言っているのです。続いて弟子の一人であるアンデレが答えました。8節です。“ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。”

アンデレもフィリポと同じように「こんなに大勢の人では、何の役にも立たない」と否定的に答えています。つまりフィリポもアンデレもこれほど多くの群衆を食べさせるには到底不可能であると言っているのです。6節には「フィリポを試みるため」と書かれていました。これは、フィリポの信仰をテストするためというような意味合いではありません。試みるという言葉は、テストするという意味ではなく試練を与えるという風にご理解ください。フィリポは落第点で、アンデレはかろうじて及第点だということではないということです。試練を通して、フィリポとアンデレの無知を明らかにし、これからなされるしるしによって彼らの目を開かせるためであると考えられます。従いまして、フィリピやアンデレの無知は、弟子たち全員の無知を代表していると解釈すべきです。イエス様はこれからなされるしるしによって眠っている弟子たちの霊の目を目覚めさせ、イエス・キリストに対する信仰の目が開かれるように仕向けているのです。

【3】. 地上の権勢を拒否されるイエス様

イエス様は少年が持っていた五つのパンと二匹の魚を用いて奇跡を起こされました。10~13節をご覧ください。

“イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。”

季節は春ですから、その場所には草が青々と茂っていました。地面に伏して食事を取るのに、程よい感じだったと思われます。男だけで5千人いたということですから、女・子供を合わせると一万人以上はいたでしょう。いざ食事の準備は整いましたが、一万人を食べさせる肝心の食糧はどこにあるのでしょうか。弟子たちと人々の視線は、自ずとイエス様に集まっていたと思われます。そんな中、イエス様はパンを取り感謝の祈りを唱えてから、座っている人々にパンを分け与えられました。魚も同じように、欲しいだけ分け与えられました。イエス様は奇跡を起こされ、人々は食べて満たされたのです。食べて満腹になった人々は、互いに言い合いました。14節です。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」。預言者という言葉には定冠詞がついていますので、「世に来るべき、あの預言者である」と言っていることになります。「あの預言者」とは誰のことを指しているのでしょうか。そうです。申命記に預言されたモーセのような預言者のことです。申命記18:15をご覧ください。

“あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。”

イスラエルの民はモーセのような預言者を、すなわち来るべきメシアを待ち望んでいました。イエス様こそ、そのメシアであると思い、イエス様を捉え、王に祭り上げようとしたのです。過越祭が近づいていたため、民族主義的な情熱の高まりが、そのことに拍車をかけたのかもしれません。彼らの動機について調べてみるなら、自分たちが食べて満足したからということです。「ごっつあんです。毎日、食べられたらいいな。」そんな動機から、イエス様をメシアにしようとしたのです。群衆が望んでいるメシアとは、空腹を満たしてくださり、日々の生活の苦しみから解放してくださる、自分たちの食のためのメシアでありました。そのような政治的なメシアを望んでいたのです。ところがイエス様はそんな群衆の期待を断ち切り、一人でまた山に退かれて行かれました。私は、あなた方の期待する政治的なメシアではないと主張されているのです。

ここで、私たちは、先ほどのイエス様の質問に振り返ってみたいと思います。イエス様は、「どこでパンを買えばいいだろうか」と質問されました。実はこの「どこで」という言葉は、ヨハネの福音書に一貫しているテーマでもあると言うことが出来ます。例えば、ヨハネ2章において水をぶどう酒に変える奇跡が記録されていますが、この福音書の著者は、次のように語っています。2:9をご覧ください。

“世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった…”

この極上のぶどう酒が果たしてどこから来たのかが著者ヨハネによって問われています。世話役が知っていたのはこの水が、清めのための水がめから来ていたことは知っていましたが、神によってぶどう酒に変えられたことは知る由もありませんでした。「どこから」この言葉には、人間の側の無知が暴かれているのであります。続いてサンヘドリンの議員であるニコデモが夜、イエス様を訪問した時のことです。イエス様はニコデモに次のように言われました。3:8をご覧ください。

“風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。…”

皆様もご存じのように、ギリシャ語で風とは「プニューマ」であり、霊とか、息とも訳される言葉です。従いまして「霊は思いのままに吹くけれども、人には、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と語っているのです。ここでもどこからという言葉が、イエス様によって問われています。神から送られる聖霊は、目には見えません。それがどこから来るのか誰も知らないのです。続いてシカルの井戸において、サマリアの女が、イエス様に質問した個所です。4:11をご覧ください。

“女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。”

サマリアの女は、その生きた水を一体どこから汲まれるのでしょうかと質問しています。神から生ける水が与えられ、神から永遠の命が与えられますが、人はそれを見ることが出来ません。この三つの聖句に共通している「どこから」という問いに対して、明らかにされていることは、人間の側において、「どこから」という問いの答えを提示することはできないと言うことです。人間の霊的無知が「どこから」という問いに対し一貫して現れているのです。ですから、イエス様が弟子たちに「どこでパンを買えばいいだろうか」という質問は、弟子たちの霊的な事柄に対する無知を露わにさせるためであり、そして弟子たちのイエス様に対する信仰の目を開かせるためであったと考えられるのです。ヨハネ6:31~32には、結論的な内容が書かれていますので、開いてみましょう。

“わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。”

イエス様はここで、あなた方が食べて満たされたパンではなく、神からの見えない「まことのパン」によってあなた方を満たしてあげよう。目に見えない神が、人となって現れた私こそ、天からのまことのパンなのだとおしゃっているのです。

群衆を初め、弟子たちさえも、イエス様の言われる「まことのパン」について理解することは出来ませんでした。しかし、弟子たちの無知を露わにした「どこでパンを買えばいいだろうか」というイエス様の質問は、弟子たちの心の中に記憶として残り続けたのであります。そして、イエス様が十字架によって死なれ、復活されたことによって始めて、あの時のイエス様の質問の意図と、イザヤ書の預言の御言葉が結び合わされ、弟子たちに理解されたのだと思います。イザヤ55章1~3節をご覧ください。

“渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。”

イエス・キリストは、人々を肉的に満腹させる政治的メシアではありませんが、まことのパンを与えてくださる神ご自身であられ、イエス様を信じ、イエス様のもとへ来るなら、金を払うことなく、代価を払うことなく、まことのパンを受け取り、ぶどう酒と乳と良い食べ物を受け取ることが出来るのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。私たちは、イエス様を通して与えられる天からの恵みに対して全く無知な者たちであります。しかし、神様はモーセの時代にはマンナを通して、イエス様の時代には、五つのパンと二匹の魚を通して、天からの恵みがどのようなものであるのかを、示してくださいました。イエス様を信じるなら、生きた水が溢れ出すようになり、穀物やぶどう酒や乳で満たされ、その豊かさを楽しむ者とされるのです。イエス様だけが真理であり、イエス様だけが困難で厳しい現実の中で生きるための答えであり、イエス様だけが、命に至る道なのであります。

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