2025年11月01日「ダビデへの油注ぎ 다윗의 기름 부음」

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ダビデへの油注ぎ 다윗의 기름 부음

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 16章1節~23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
14主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
15サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」
17サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」
18従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」
19サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」
20エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
21ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。
22サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
23神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 16章1節~23節

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序論

サウルはサムエルからはっきりと王位が廃位されたことを宣言されました。サウルが主の御言葉を拒絶したために、主もサウルを王位から退けたのです。この出来事は、サムエルを大変悲しませましたが、主はサムエルに対し「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」、「角に油を満たして出かけなさい。」とお命じになり、ついに神さまの御心に適った、ベツレヘムのエッサイの子に油を注ぎます。油注ぎとは、何かと申しますと王や祭司や預言者が任職する際、その職務に捧げられるという意味でなされました。聖別の意味合いがあります。つまり、この日、ダビデに油が注がれ、イスラエルに新しい王が誕生したのです。その光景を目撃していた長老たちには、まだ、主の聖なる油注ぎの意味が、はっきりとは理解されませんでしたが、この日を境にして「イスラエルに神によって選ばれた王」が、「神と完全に心の一致した王」が立てられたのです。本日は、ダビデの油注ぎが何を意味しているのかについて考えて行きたいと思います。

【1】. ベツレヘムでの会食

サムエルは最初、主の命令を聞いて躊躇しました。1~3節をご覧ください。

“主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」”

サムエルが躊躇した理由とは、サウルを恐れていたからです。たとえサウル王の廃位を直接宣言したとしても、その時点で政権交代が直ちに起こった訳ではなく、いまだサウルの王権が続いている訳です。サウルは新しく立てられる王にきっと猜疑心を燃やしていたに違いありません。もしかしたら、預言者サムエルの動きをサウルは逐一監視していた可能性もあります。そのような中で、油を注ぎ、新しい王を立てたということがサウルの耳に入れば、反逆罪に問われ、下手をすれば自分が殺されかねないのであります。サムエルは命がけの任務を遂行することになりました。

エッサイとは、ユダ族の家系でボアズとルツの孫に当たります。また、ベツレヘムとはエッサイが住んでいる町でありヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、何の変哲もないイスラエルの南部の町でした。サムエルは普段、北部エフライムのベテル、ギルガル、ミツパを巡回しながら生贄を捧げて礼拝を導いていました。ところが、今回、突然南部の片田舎であるベツレヘムに、雌牛をひいて現れたのです。ベツレヘムの長老たちはサムエルを歓迎するどころか、むしろ不安そうにびくびくしながらサムエルを迎えました。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」と言っています。もしかしたら、ベツレヘムにもサムエルとサウルの不仲説が届いていたのかもしれません。サムエル自身もこの任務に恐れを感じていましたが、長老たちも、突然の預言者の訪問によって、この町がいざこざに巻き込まれるのではないかと恐れていたのだと思います。この張り詰めた緊張感と重苦しい雰囲気の中で、サムエルは主からあらかじめ言われた通りに答えました。5節をご覧ください。

“「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。”

サムエルは、いけにえの会食に長老たちを招き、そしてエッサイとその息子たちに身を清めさせ、彼らもいけにえの会食に招きました。もちろん、主なる神がエッサイの息子たちの中で、誰を新しい王として立てようとしておられるのか、それをこの目で見極めるためです。サムエルはまず、長男のエリアブに目が留まりました。サウルとそっくりで立派な体格をしていました。彼こそ主の前に油注がれる者だと、心の中で密かに思いました。しかし、これは、サウルを選んだ時のように、外見の容姿や背の高さによって王を立てようとしていたに過ぎません。以前の選び方の繰り返しであります。この時、主はサムエルに言われました。7節です。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」このようにして、エリアブは退けられました。エリアブの後、息子たちが次々と、サムエルの前を通り、七人が通り過ぎましたが、そのたびに主は沈黙されました。ここで「7」という数字が出てきます。これは完全数を意味しています。ダビデはその「7」の中にも含まれていない仲間外れ的な存在であったということです。「あなたの息子はこれだけですか」とエッサイに尋ねると、「末っ子が残っていますが、今、羊の番をしています」という答えが返って来ました。するとサムエルは「人をやって彼を連れてくるように。その子がここに来ないうちは、食卓に着きません」と言いました。食卓は既に整っていましたが、八番目の息子が登場するまで、そのまま待ち続けることとなったのです。

【2】. 神のhidden card

ここで私たちは少し考えてみたいと思います。神様はなぜ最初から、「エッサイの家の八番目の末っ子にダビデという少年がいるから、彼に油を注ぎなさい」と言われなかったのでしょうか。なぜ、そうはされずに、七人の立派な兄たちを、まずサムエルの前に通し、そして八番目の息子の到着を待つようにされたのでしょうか。それは、サムエルも、そしてダビデの両親や家族さえ、想定していなかった者を主はお選びになるということを示されるためだと思われます。それでは主が選ばれたエッサイの八番目の息子とは、どのような人物だったのか、ここに出てくるのはわずかな情報に過ぎませんが、それでもダビデが皆から蔑まれていたということが分かります。例えば、今回、いけにえの会食に一人だけ声がかからなかったことが挙げられます。まだ幼なすぎるため、いけにえを捧げて、主の礼拝に出席することが許されなかった、そのように考えることもできますが、一人だけ羊の番をさせておくというのは、どうも理解できません。羊飼いという職業は、牧畜を愛するイスラエルの社会において、人々の心に深く根をおろした職業でありますが、実際、その仕事は、決して楽なものではなかったようです。忍耐と、労力と、羊一匹一匹を配慮し養う心が必要とされました。乾燥の厳しいパレスティナにおいて毎日、羊たちに水を与えなければならないですし、杖を持って獣や盗人から群れを守らなければなりません。夕方になれば、おりの中に導かなければなりませんでした。羊飼いたちの服装には、家畜の糞尿の匂いがしみ込んでいます。ですから裕福な人々は普通、雇人を用いて牧畜をさせました。この大変な仕事を少年ダビデに任せているのです。もう一つ挙げるなら、17章においてダビデがゴリアトと戦う場面が出てきますが、ここでも長兄のエリアブはダビデに対し、ものすごい過剰反応を示しています。ダビデは自分たちにお弁当を届けるためわざわざ来てくれたにも拘わらず、エリアブは「お前は何をしに来たんだ。お前の思い上がりと野心は分かっている」というような塩対応です。感謝する気持ちは微塵もありませんでした。兄たちはダビデの存在そのものを不快に思っていたのではと思わせるような態度です。もしかしたら、ダビデは少年時代に両親や家族から十分な愛を受けることができず、所謂ネグレクトされ、気の毒な幼少期を送って来たのかもしれないという仮説を立てることが出来るのです。詩編27編は、ダビデの詩ですが、10節には次のように書かれています。お読みしますのでそのままお聞きください。

“父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。”

もしこの仮説が正しいなら、ダビデは傷ついた心を、羊飼いをしながら、主に祈ることによって癒していただいていたのかもしれないのです。こうして、ものの数にも入れない、蔑まれた者を、神は油注がれました。神の「hidden card」として備えておられたのであります。実は、イエス様も神のhidden cardとしてベツレヘムでお生まれになり、ナザレで育ちました。イエス様は、洗礼者ヨハネのように祭司の子として生まれたのではなく、大工の子として生まれてきました。誰もが、ナザレから何か良いものが出るだろうかと考えていたくらいです。このように神の選びとは、人間の目には大変かけ離れているということを知ることが出来るのです。

【3】. 油注ぎ

しばらく待たされた後、ダビデがようやく家の中に連れて来られました。12~13節をご覧ください。

“エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。”

これまで無視され続けてきた八番目の末の子の名前が、13節になってようやく出てまいります。「ダビデ」という名前です。食卓に着いていた長老たちは、この時点では、油注ぎのその真意を理解していなかったのでしょう。というのは、油注ぎの儀式が行われた時、誰も「ダビデ王、万歳!」と、叫んだ人はいなかったからです。油注ぎの真意は、ダビデを初めとして誰にも明らかにされませんでした。しかし、神と預言者サムエルだけがその真意をはっきりと分かっていました。油注ぎとは、神的な奉献であり、神の霊によって武装することの象徴であります。このダビデこそ、イスラエルの真の王であり、長く待望されてきた者、永遠においてあらかじめ選ばれた者であり、イエス・キリストの影、イエス・キリストの予表なのです。油注ぎとは、イエス・キリストがこの世にお生まれになることによってもたらされる、イスラエルの救いを予表していたのでありました。

少し余談になりますが、旧約聖書には、来るべきメシアが、イスラエルの王という立場で来られると預言されています。しかしイエス・キリストの、そのご生涯を見る時に、世の専制君主とはずいぶんかけ離れていますし、イスラエルを治めた王たちと比較しても、やはりイエス様の姿は、ずいぶんとかけ離れていました。王として来られたはずのイエス様は、人々からさげすまれ、自己犠牲的であり、羊飼いのようにご自身の羊一人一人に低く仕える王様でした。もし君主たちの中でたった一人、例外がいるとするなら、それはまさにダビデです。ダビデは両親や兄弟たちからさげすまれ、主に生贄を捧げる礼拝の出席も許されず、一人、羊の番をしていました。イエス様による王職とダビデによる王職は、この「羊飼いである王」という点において共通点があるのです。それは、まさに同胞を見下さない、謙遜な王として、主がお選びになった神の僕なのであります。ですから、ダビデ以降の歴代の王様たちは、ダビデが基準となって判断されるようになります。「ダビデのように歩んだ」のか、「ダビデの心とは異なって歩んだ」のか評価されるようになりました。ダビデ王はやがてこられるキリストの影に過ぎませんが、キリストのご支配は兵力と武器によらない王職であり、この世とはまったく異なる方式によって治める王職であります。それは、御言葉と聖霊を通して、恵みと真理によって、義と正しい裁き打ち立てる王職なのであります。

ダビデに主の霊が激しく降るようになる一方で、サウルからは主の霊が離れ、代わりに悪霊によって悩まされるようになりました。ここで注目したいことは、ダビデは、決して自分が王となることを目標としたり、何とか王宮に入れられるよう自ら画策したことはありませんでした。むしろ普段通りの羊飼いの生活を続けていました。ところが、偶然というべきか、神の導きというべきか、サウル王の音楽療法士として取り立てられ、王宮に迎え入れられることになったのです。17~18節をご覧ください。

“サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」”

サウルの従者は、サウルにダビデのことを勧めています。従者がなぜダビデのことを、そのように詳しく知っていたのか全く不思議ではありますが、とにかく、ダビデは単に楽器を上手に奏でるだけではなく、勇敢さと、武勇を兼ね備え、言葉にも分別があり、外見も良く、なによりも、主が共におられる人であるというふうに紹介されています。「主が共におられる」、この言葉は、今後サムエル記の中でリフレーンのように繰り返し出てくる言葉ですが、ダビデへの油注ぎとはまさに、主がどのような時にもダビデと共におられることのしるしだったのです。イエス・キリストにあって地上に神の国が到来したように、ダビデと共にある主によって、イスラエルに救いと平和がもたらされるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。ダビデの油注ぎとは、何なのか?それは、イエス・キリストが聖霊によってこの世にお生まれになったことを予表する出来事であり、或いは洗礼者ヨハネによって水の洗礼を受けて、聖霊が鳩のようにくだり、イエス様に聖霊が限りなく満たされたことを予表する出来事であったと言えるでしょう。イエス様は、人々の上に君臨し人々を支配するのではなく、ダビデのように羊飼いの王として人々に仕えるためにこの世に来られました。十字架でご自身の命をお与えになる王として来られたのです。それによって樹立された神の国は、現在、霊的においてのみ存在していますが、やがてキリストが再臨する終わりの日には、すべての不敬虔な者たちが公正に裁かれ、万物が更新され、新しいエルサレムとして、目に見える形で、完全に、神の国が現れることになるでしょう。その時、キリストに属する者たちはキリストと共に御座に座り、国を治めるようになります。旧約の聖徒たちが、ダビデを通して、ダビデの子、メシアを待望したように、新約に生きる私たちは、キリストの初臨を通して、神の国が完全な形として現れるキリストの再臨を待ち望む者として日々歩みを重ねて行く者とならせていただきましょう。

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다윗의 기름 부음

2025년 11월 1일 설교 카와에 토모아키 목사

사무엘상 16장 1~23절

서론

사울은 사무엘에게서 왕위가 폐위되었음을 분명히 선포받았습니다. 사울이 주님의 말씀을 거절했기 때문에, 주님도 사울을 왕위에서 물러나게 하셨습니다. 이 사건은 사무엘을 매우 슬프게 했지만, 주님께서는 사무엘에게 「네가 그를 위하여 언제까지 슬퍼하겠느냐」, 「뿔에 기름을 채워 가지고 가라」고 명하셨습니다. 그리고 마침내 하나님의 뜻에 맞는 베들레헴의 이새의 아들에게 기름을 부으셨습니다. 기름 부음이란 무엇이냐 하면, 왕이나 제사장이나 예언자가 임명될 때 그 직무에 헌신한다는 의미로 행해졌습니다. 거룩하게 구별한다는 의미가 있습니다. 즉, 이날 다윗에게 기름이 부어지고 이스라엘에 새로운 왕이 탄생한 것입니다. 그 광경을 목격했던 장로들에게는 아직 주님의 거룩한 기름 부음의 의미가 분명히 이해되지 않았지만, 이날을 기점으로 「이스라엘에 하나님께서 택하신 왕」, 「하나님과 완전히 마음이 일치한 왕」이 세워진 것입니다. 오늘은 다윗의 기름 부음이 무엇을 의미하는지에 대해 생각해보고자 합니다.

(1) 베들레헴에서의 제사 후의 식사 자리

사무엘은 처음에 주님의 명령을 듣고 망설였습니다. 1~3절을 보십시오.

1 여호와께서 사무엘에게 이르시되 내가 이미 사울을 버려 이스라엘 왕이 되지 못하게 하였거늘 네가 그를 위하여 언제까지 슬퍼하겠느냐 너는 뿔에 기름을 채워 가지고 가라 내가 너를 베들레헴 사람 이새에게로 보내리니 이는 내가 그의 아들 중에서 한 왕을 보았느니라 하시는지라

2 사무엘이 이르되 내가 어찌 갈 수 있으리이까 사울이 들으면 나를 죽이리이다 하니 여호와께서 이르시되 너는 암송아지를 끌고 가서 말하기를 내가 여호와께 제사를 드리러 왔다 하고

3 이새를 제사에 청하라 내가 네게 행할 일을 가르치리니 내가 네게 알게 하는 자에게 나를 위하여 기름을 부을지니라

사무엘이 망설인 이유는, 사울을 두려워했기 때문입니다. 설령 사울 왕의 폐위를 직접 선언했다하더라도, 그 시점에서 정권 교체가 즉시 일어났던 것은 아니며, 여전히 사울의 왕권이 계속되고 있었던 것입니다. 사울은 새로 세워질 왕에게 분명히 의심을 품고 있었을 것입니다. 어쩌면 예언자 사무엘의 움직임을, 사울이 일일이 감시하고 있었을 가능성도 있습니다. 그런 와중에, 기름을 부어 새 왕을 세웠다는 소식이 사울의 귀에 들어가면, 반역죄로 고발당해 잘못하면 자신이 죽임을 당할 수도 있었습니다. 사무엘은 목숨을 건 임무를 수행하게 된 것입니다.

이새는, 유다 지파의 가문으로 보아스와 룻의 손자에 해당합니다. 또한 베들레헴은 이새가 살고 있는 마을로 히브리어로 「떡집」이라는 뜻이지만, 별다른 특징 없는 이스라엘 남부의 마을이었습니다. 사무엘은 평소 북부 에브라임의 벧엘, 길갈, 미스바를 순회하면 제물을 드리고 제사를 인도하고 있었습니다. 그런데 이번에 갑자기 남부의 한적한 시골인 베들레헴에 암소를 끌고 나타난 것입니다. 베들레헴의 장로들은 사무엘을 환영하기는 커녕 오히려 불안해하며 벌벌 떨며 그를 맞이했습니다. 「평강을 위하여 오시나이까」라고 말하고 있습니다. 아마도 베들레헴에도 사무엘과 사울의 불화설이 전해졌던 것 같습니다. 사무엘 자신도 이 임무에 두려움을 느끼고 있었지만, 장로들도 갑작스러운 선지자의 방문으로 이 마을이 분쟁에 휘말릴까 두려워했던 것 같습니다. 이 팽팽한 긴장감과 무거운 분위기 속에서 사무엘은 주님께서 미리 말씀하신 대로 대답했습니다. 5절을 보시기 바랍니다.

5 이르되 평강을 위함이니라 내가 여호와께 제사하러 왔으니 스스로 성결하게 하고 와서 나와 함께 제사하자 하고 이새와 그의 아들들을 성결하게 하고 제사에 청하니라

사무엘은 제사에 장로들을 초대하고, 이새와 그의 아들들에게 몸을 성결하게 하도록 한 뒤 그들도 제사에 초대했습니다. 물론 주 하나님께서 이새의 아들들 중에서 누구를 새 왕으로 세우려 하시는지 직접 눈으로 확인하기 위해서였습니다. 사물엘은 먼저, 맏아들 엘리압에게 눈길이 갔습니다. 사울과 꼭 닮은 훌륭한 체격이었습니다. 그가 바로 주님 앞에 기름 부음 받을 자라 마음속으로 은밀히 생각했습니다. 그러나 이는 사울을 선택했을 때처럼 외모나 키로 왕을 세우려 했던 것에 불과했습니다. 이전의 선택 방식을 반복한 것이었습니다. 이때 주님께 사무엘에게 말씀하셨습니다. 7절입니다.「여호와께서 사무엘에게 이르시되 그의 용모와 키를 보지 말라 내가 이미 그를 버렸노라 내가 보는 것은 사람과 같지 아니하니 사람은 외모를 보거니와 나 여호와는 중심을 보느니라 하시더라」이렇게 하여 엘리압은 버림받았습니다. 엘리압 뒤에 아들들이 차례로 사무엘 앞을 지나갔고, 일곱 명이 지나갔지만 그때마다 여호와께서는 침묵하셨습니다. 여기서 「7」이란 숫자가 나옵니다. 이는 완전수를 의미합니다. 다윗은 그 「7」안에도 포함되지 않은 소외된 존재였다는 것입니다. 「네 아들들이 다 여기 있느냐」하고 이새에게 묻자, 「아직 막내가 남았는 그는 양을 지키나이다」라는 대답이 돌아왔습니다. 그러자 사무엘은, 「사람을 보내어 그를 데려오라 그가 여기 오기까지는 우리가 식사 자리에 앉지 아니하겠노라」라고 말했습니다. 식탁은 이미 차려져 있었지만, 여덟 번째 아들이 등장할 때까지 그대로 기다리기로 한 것입니다

(2) 하나님의 hidden card

여기서 우리는 잠시 생각해보고자 합니다. 하나님께서는 왜 처음부터「이새의 집 여덟째 막내인 다윗이라는 소년이 있으니 그에게 기름을 부으라」고 말씀하시지 않으셨을까요? 왜 그렇게 하지 않으시고 일곱 명의 훌륭한 형들을 먼저 사무엘 앞으로 지나가게 하시고, 여덟째 아들의 도착을 기다리도록 하셨을까요? 그것은 사무엘도, 그리고 다윗의 부모나 가족조차 예상하지 못했던 이를, 주님께서 선택하신다는 것을 보여주시기 위함이라고 생각됩니다. 그렇다면 주님게서 선택하신 이새의 여덟 번째 아들은 어떤 인물이었을까요? 여기에 나오는 정보는 극히 일부에 불과하지만, 그럼에도 다윗이 모두에게 멸시받고 있었다는 사실을 알 수 있습니다. 예를 들어, 이번에 제사 후의 식사 자리에 혼자만 초대받지 못했다는 점이 그 예입니다. 아직 너무 어리기 때문에 제물을 드리고 주님의 제사에 참석하는 것이 허락되지 않았다고 생각할 수도 있지만, 오직 한 사람만 양을 지키게 했다는 것은 도저히 이해할 수 없습니다. 양치기라는 직업은 목축을 사랑하는 이스라엘 사회에서 사람들의 마음에 깊이 뿌리내린 직업이었지만, 실제로 그 일은 결코 쉬운 것이 아니었던 것 같습니다. 인내와 노력, 그리고 양 한 마리 한 마리를 돌보고 기르는 마음이 필요했습니다. 가뭄이 심한 팔레스타인에서는 매일 양들에게 물을 줘야 했고, 지팡이를 들고 맹수와 도둑으로부터 무리를 지켜야 했습니다. 저녁이 되면 우리 안으로 인도해야 했습니다. 양치기들의 옷에는 가축의 배설물 냄새가 배어 있었습니다. 그래서 부유한 사람들은 보통 고용인 써서 목축을 시켰습니다. 이 힘든 일을 소년 다윗에게 맡기고 있는 것입니다. 또 하나 꼽자면, 17장에서 다윗이 골리앗과 싸우는 장면이 나오는데, 여기서도 맏형 엘리압은 다윗에게 노를 발하며, 엄청난 과잉 반응을 보입니다. 다윗이 자신들에게 도시락을 전해주려고 일부러 왔음에도 불구하고, 엘리압은, 「네가 어찌하여 이리로 내려왔느냐 들에 있는 양들을 누구에게 맡겼느냐 나는 네 교만과 네 마음의 완악함을 아노니 네가 전쟁을 구경하러 왔도다」식의 냉담한 반응입니다. 감사하는 마음은, 조금도 없었습니다. 형들은 다윗의 존재 자체를 불쾌하게 여겼던 게 아닌가 하는 태도입니다. 어쩌면 다윗은, 소년 시절 부모나 가족으로부터 충분한 사랑을 받지 못하고, 소위 방임당하며 불쌍한 유년기를 보냈을지도 모른다는 가설을 세울 수 있습니다. 시편 27편은 다윗의 시이지만, 10절에는 이렇게 기록되어 있습니다. 읽어드리겠으니 그대로 들어주십시오.

시편 27

10 내 부모는 나를 버렸으나 여호와는 나를 영접하시리이다

만약, 이 가설이 맞다면, 다윗은 상처받은 마음을 양치기를 하면서 주님께 기도함으로써 치유받았을지도 모릅니다. 이렇게 해서, 아무것도 아닌, 멸시받은 자에게 하나님은 기름을 부으셨습니다. 하나님의 「hidden card」로 준비해 두셨던 것입니다. 사실 예수님도 하나님의 「hidden card」로 베들레헴에서 태어나 나사렛에서 자라셨습니다. 예수님은 세례 요한처럼 제사장의 아들로 태어나신 것이 아니라 목수의 아들로 태어나셨습니다. 모두가 나사렛에서 무슨 선한 것이 나올까 생각할 정도였습니다. 이처럼 하나님의 선택은 인간의 눈에는 매우 동떨어져 있음을 알 수 있습니다.

(3) 기름부음

잠시 기다린 후, 다윗이 마침내 도착했습니다. 12~13절을 보시기 바랍니다.

12 이에 사람을 보내어 그를 데려오매 그의 빛이 붉고 눈이 빼어나고 얼굴이 아름답더라 여호와께서 이르시되 이가 그니 일어나 기름을 부으라 하시는지라

13 사무엘이 기름 뿔병을 가져다가 그의 형제 중에서 그에게 부었더니 이 날 이후로 다윗이 여호와의 영에게 크게 감동되니라 사무엘이 떠나서 라마로 가니라

지금까지 계속 무시당해 온 여덟 번째 막내 아들의 이름이 13절에서야 비로서 등장합니다.「다윗」이라는 이름입니다. 식탁에 앉아 있던 장로들은 이 시점에서 기름 부음의 참된 뜻을 이해하지 못했던 것 같습니다. 기름 부음 의식이 행해졌을 때, 아무도 「다윗 왕 만세!」라고 외친 사람이 없었기 때문입니다. 기름 부음의 참된 뜻은 다윗을 비롯한 누구에게도 분명히 드러나지 않았습니다. 그러나 하나님과 선지자 사무엘만이 그 참된 뜻을 분명히 알고 계셨습니다. 기름 부음은 신성한 봉헌이며, 하나님의 영으로 무장하는 것을 상징합니다. 이 다윗이야말로 이스라엘의 참된 왕이며, 오랫동안 기다려 온 자, 영원가운데 미리 택하신 자이며, 예수 그리스도의 그림자, 예수 그리스도의 예표입니다. 기름 부음은 예수 그리스도께서 이 세상에 오심으로 이루어질 이스라엘의 구원을 예표하고 있었던 것입니다.

잠시 여담이 되겠지만, 구약성경에는, 오실 메시야가, 이스라엘의 왕이라는 지위로 오실 것이라고 예언되어 있습니다. 그러나 예수 그리스도의 그 생애를 살펴보면, 세상의 전제군주와는 상당히 거리가 멀었고, 이스라엘을 다스린 왕들과 비교해도 예수님의 모습은 여전히 크게 달랐습니다. 왕으로 오셨어야 할 예수님은 사람들에게 멸시받으시고, 자기희생적이며, 자신을 낮추시어 양 한 마리 한 마리를 섬기시는 왕이셨습니다. 만약 군주들 가운데 단 한 사람, 예외가 있다면 그것은 바로 다윗입니다. 다윗은 부모와 형제들에게 멸시받았고, 주님께 제물을 드리는 제사 참석도 허락받지 못해, 혼자 양을 지키고 있었습니다. 예수님의 왕권과 다윗의 왕권은, 이「목자 같은 왕」이라는 점에서 공통점이 있습니다. 그것은 바로 동족을 멸시하지 않는, 겸손한 왕으로서 주님께서 택하신 하나님의 종이라는 것입니다. 그러므로 다윗 이후의 역대 왕들은 다윗을 기준으로 평가받게 됩니다.「다윗의 길을 걸었는가」아니면 「다윗의 마음과 달리 걸었는가」로 평가받게 된 것입니다. 다윗 왕은 곧 오실 그리스도의 그림자에 불과하지만, 그리스도의 통치는 병력과 무기에 의하지 않는 왕권이며, 이 세상과는 전혀 다른 방식으로 다스리는 왕권입니다. 그것은 말씀과 성령을 통해, 은혜와 진리로, 의와 바른 심판을 세우는 왕권입니다.

다윗에게 주의 영이 강하게 임하는 한편, 사울에게는 주의 영이 떠나고 대신 악령에 의해 괴로움을 받게 되었습니다. 여기서 주목할 점은 다윗이 결코 자신이 왕이 되는 것을 목표로 삼거나 어떻게든 왕궁에 들어갈 수 있도록 스스로 꾀한 적이 없었다는 것입니다. 오히려 평소와 다름없는 양치기 생활을 계속하고 있었습니다. 그런데 우연이라고 해야 할지, 하나님의 인도라고 해야 할지, 사울 왕의 음악 치료사로 발탁되어 왕궁에 맞아들여지게 된 것입니다. 17~18절을 보십시오.

17 사울이 신하에게 이르되 나를 위하여 잘 타는 사람을 구하여 내게로 데려오라 하니

18 소년 중 한 사람이 대답하여 이르되 내가 베들레헴 사람 이새의 아들을 본즉 수금을 탈 줄 알고 용기와 무용과 구변이 있는 준수한 자라 여호와께서 그와 함께 계시더이다 하더라

사울의 종은 사울에게 다윗을 추천하고 있습니다. 종이 어떻게 다윗에 대해 그렇게 자세히 알고 있었는지 정말 희안하지만, 어쨌든 다윗은 단순히 수금을 잘 탈 줄 알 뿐만 아니라 용기와 무용과, 말에도 분별이 있으며, 외모도 준수하고, 무엇보다도 주님께서 함께 계시는 사람이라고 소개되고 있습니다. 「여호와께서 그와 함께 계시다」라는, 이 말은 앞으로 사무엘기 속에서 반복되는 핵심 구절이 되지만, 다윗에게 기름 부음은 바로 주님께서 어떤 때에도 다윗과 함께 하신다는 표징이었습니다. 예수 그리스도 안에서 지상에 하나님의 나라가 도래한 것처럼, 다윗과 함께 하시는 주님으로 말미암아 이스라엘에 구원과 평화가 임하게 되는 것입니다.

결론

오늘 내용을 정리합니다. 다윗의 기름 부음은 무엇인가? 그것은 예수 그리스도께서 성령에 의해 이 세상에 태어나시는 것을 예표하는 사건이며, 혹은 세례 요한에게 물 세례를 받으시고 성령이 비둘기처럼 내려와 예수님께 성령이 무한히 충만하셨음을 예표하는 사건이었다고 할 수 있습니다. 예수님은 사람들 위에 군림하여 사람들을 지배하기 위해 오신 것이 아니라, 다윗처럼 목자의 왕으로서, 사람들을 섬기시기 위해 이 세상에 오셨습니다. 십자가에서 자신의 생명을 내어주시는 왕으로 오신 것입니다. 그로 인해 세워진 하나님의 나라는 현재 영적으로만 존재하지만, 머지않아 그리스도께서 재림하시는 마지막 날에는 모든 불경건한 자들이 공평히 심판을 받고 만물이 새롭게 되어, 눈에 보이는 형태로, 새 예루살렘으로서, 완전히 하나님의 나라가 나타날 것입니다. 그때 그리스도께 속한 자들은 그리스도와 함께 보좌에 앉아 나라를 다스리게 될 것입니다. 구약의 성도들이 다윗을 통해 다윗의 자손, 메시아를 기다렸듯이, 신약에 사는 우리도 그리스도의 초림을 통해, 하나님의 나라가 완전한 모습으로 나타날 그리스도의 재림을 기다리는 자로서 매일의 삶을 살아가도록 합시다.

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