2025年10月26日「言を受け入れなかった民」

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言を受け入れなかった民

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章31節~47節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
5:32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
5:33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
5:34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
5:35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
5:36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
5:37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
5:38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
5:39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
5:40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
5:41わたしは、人からの誉れは受けない。
5:42しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
5:43わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
5:44互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
5:45わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
5:46あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
5:47しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章31節~47節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

10月31日は宗教改革記念日です。先ほど讃美した讃美歌267番は、マルティン・ルターが作詞・作曲した曲です。この讃美歌には、神様だけに依り頼んだルターの信仰が満ち溢れています。ルターはカトリック教会から異端者とされました。いつ捕らえられ、教会から処刑されてもおかしくない状況でした。不安と恐怖の中で、神様はルターをあるお城の中に匿ってくださり、そしてルター不在の中でも世の中では宗教改革は着実に進展していきました。ルターの死後10年後、1,555年にアウグスブルク宗教和議が結ばれました。この宗教和議によって初めて、カトリック勢力圏においてプロテスタント教会が公に認められることになりました。私たち改革派教会も、まさにこの時に認められたプロテスタント教会にルーツを持っています。今週は特に宗教改革者たちに思いを寄せつつ、感謝しながら一週間を過ごしたいと願います。

さて、本日の箇所は、神の御子イエス・キリストを信じなかったユダヤ人たちへの審判が書かれています。審判と言っても、キリストの再臨の後に行われる外的で、究極的な、最後の審判ではありません。その最後の審判をあらかじめ予表するような、内在的審判、警告的で予表的な審判であると言っていいでしょう。しかし、その様子はまるで、実際の裁判の席で、罪人が裁判長の前に立たされているような光景であります。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 三つの証言

31~32節をご覧ください。

“もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。”

イエス様は、ユダヤ人たちがキリストに対し不信仰の罪を犯していることを、三つの証言を通して説明されます。訴えに対して他の人の証言を立てることは、当時のユダヤ社会において常識でありました(申19:15)。これは今日の日本でも同じですね。自分について、自らが証言することはできない訳です。それでは自分以外の三つの証言とは具体的に何かと言いますと、第一に洗礼者ヨハネの証しであり、第二に御自身の業による証しであり、第三に聖書を通して語られる父なる神の証しであります。最初に、ヨハネの証しについて考えてみましょう。ユダヤ人たちは洗礼者ヨハネのことをある程度、評価していました。そして、洗礼者ヨハネのことをもっと調べるために人を送りました。そのヨハネが1:29~30を見ると、イエス様を指差して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」とはっきりキリストを証ししたのであります。当時、預言者として目されており、ユダヤ社会に大きな影響を与えていた洗礼者ヨハネの証しをユダヤ人たちは素直に受け入れ、キリストを信じるべきでありました。35節には過去形で「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と書かれていますので、もう既に洗礼者ヨハネは監獄に捕らえられた後か、ヘロデによって斬首された後だったと考えられます。今となってはもう、ヨハネの証言を得ることはできません。けれでもイエス様は「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と言われます。人間の証し以上に強力な証しがあると言われるのです。その証しとは、何でしょうか。36 節をご覧ください。

“しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。”

第二の証しとして、イエス様の行っている業そのものがキリストについて証しするものであるということです。「業」という言葉は、複数形になっていて、ギリシア語ではエルガ(ἔργα)、英語ではworks、つまり「働き」となっています。それでは、イエス様の働きとは一体何でしょうか。私たちがまず想像しますのは、病の癒しや悪霊を追い出すなどの奇跡であり、ヨハネによる福音書に言わせれば、「しるし」のことではないかと考えてしまいます。神様にしか起こすことができないような超自然的な奇跡です。しかし、イエス様が「しるし」ではなく「業」と語っているのは、奇跡に限定しているわけではないということなのでしょう。万物を創造し、自然法則それ自体を創造されたイエス様にとって自然法則にのっとっているか、自然法則を超えているのかということは、全く意味を成しません。自然法則それ自体が、絶妙で芸術的な神の奇跡的な摂理の中で運行されているからです。自然的なのか、超自然的なのかということよりも、それが、父がお与えになった働きであるのかどうかということが問題とされています。従いまして、病の癒しや悪霊を追い出すことは勿論、父がお与えになった業の中に含まれますが、ガリラヤで弟子とする働き、ユダヤやガリラヤやサマリアにおいて福音を宣教する働き、神殿の境内やシナゴーグで御言葉を語る働きまで、全て含まれてくるのです。イエス様は5:30節において、自分からは何もすることができない。自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うのであるとはっきりと言われました。また7章16節では次のようにも語られています。ご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。”

このようにイエス様の一つ一つの業を見る時に、その全ての働きがイエス様をこの世にお遣わしになった父なる神から、出ていることを気づかされるのであります。ユダヤ人たちはイエス様の一つ一つの業を通して父なる御神を賛美すべきでありました。しかし彼らは自分たちの既得権益が揺さぶられていると感じ、むしろ妬みと殺意に燃えるようになったのであります。続いて第三の証しです。37~40節をご覧ください。

“また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。”

第三の証しとして、父なる神が聖書の御言葉を通して、キリストについて証しするものだということです。人類の始祖であるアダムが堕落してしまったために、人は直接、父なる神の御声を聞くことも、交わりをすることもできなくなってしまいました。そのため神様は聖書を与えてくださり、聖書を通して、つまり旧約聖書を通して、父なる神が人に語りかけてくださるようにしてくださったのです。そしてその語りかけとは、まさにキリストを証しするということであります。もちろん当時のユダヤ人たちも聖書を大切にしていました。モーセ五書については幼い頃から暗記させられるほどであります。聖書を研究すること、聖書をよく調べること、それ自体は大切なことですが、聖書の、文字それ自体に命があると考えることは間違っています。なぜなら、聖書の文字それ自体に命があるのではなく、聖書が指し示し、聖書が証ししているキリストにこそ命があるからです。聖書とはイエス様について証言する書物であり、命に至るための外的な手段に過ぎないのです。それ自体に命があるのではないのです。ウェストミンスター小教理問答88には、そのことが分かりやすく要約されています。問88をご覧ください。

問88:キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的手段は何ですか。

答え:キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的で通常の手段は、キリストの諸規定、特に、御言葉と聖礼典と祈りです。これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。

ユダヤ人たちは聖書のそのものに命があると考えて、文字に形式的に捕らわれてしまいましたが、命そのもの、贖いの恵みそのものは、イエス・キリストにあるのであり、御言葉や聖礼典や祈りなどの外的手段を通して、キリストにある命が私たちに注がれるのです。

【2】. あなたたちを訴えるのは、モーセである

それでは、なぜユダヤ人たちには聖書が証ししているキリストに気づくことが出来なかったのでしょうか。それは、彼らが信頼し誇っている対象が、実は神様ではなく、自分自身であったということが明らかにされて行きます。考えてみてください。洗礼者ヨハネやモーセは人からの誉れや賞賛を受けようとはしませんでした。神を信じ、神を愛する人は、人々からの誉れより神からの誉れを大切にし、神中心の人生観、有神論的人生観になるのです。ところがユダヤ人たちは、「互いに相手からの誉れを受け」たり、「もし、ほかの人が自分の名によって来れば」、その人を受け入れるというような、他人の目を意識した人間中心的な人生観を持っていました。このような神様を抜きにした世界観においては、唯一の神からの誉れではなく、人々の名声だとか評判を追及するようになってしまうのは火を見るより明らかです。従って今、この審判の席でイエス様がユダヤ人たちを訴えているのではなく、ユダヤ人たちを訴えているのは、あなた方が信頼を寄せているモーセであるとイエス様は語るのです。45~46節をご覧ください。

“わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。”

ユダヤ人にとってモーセという存在は、特別な存在でありました。神の僕、神の代理人と見なされ、モーセの執り成しの祈りは天において依然として効果があり、モーセはユダヤ人全体の保証人として尊敬されていました。奴隷であったユダヤ人たちを贖ってくれたあのモーセが、自分たちを告訴すると言うのです。これはどんなにショッキングな言葉だったでしょうか。イエス様は、「モーセは、わたしについて書いている」と言われましたが、これはモーセ五書のことを指しています。創・出・レビ・民・申命記、まとめて「律法」とも呼ばれたりしますが、当時のユダヤ人たちは旧約聖書の最初に出てくるこの五つの書物を、モーセが書いたものと見なしていました。もし、ユダヤ人たちがモーセ五書を信じ、神様を信じたのであれば、イエス様を信じたはずです。なぜなら、モーセは、イエス・キリストについて書いているからだと言うのです。結局のところユダヤ人たちは、神でもなく、モーセでもなく、自分自身を信じ、自分自身の功を、自分自身の功労を人々に誇っていたのです。

このようにして、ユダヤ人たちは、イエス様による内在的、予表的な審判によって罪に定められてしまいました。ヨハネ3:18において、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」という御言葉がありましたが、イエス様の到来によって、信じない者に対する審判が既に始まっていることを本日の箇所は明らかにしているのだと思います。イエス様を信じるキリスト者には、神の御前における義とされた喜びと平安が臨むようになり、一方で、イエス様を信じない者たちには、少しずつ心が暗くなり、以前にもまして真理の言葉に耳を貸そうとしなくなり、あらゆる悪い行いに屈服していくようになるのです。信仰と不信仰はこの地上において、既にその実と報いをもたらしているのです。イエス様は、十字架に掛けられる前の一週間の間に、イチジクの木の譬えを通してユダヤ人たちが拒んだ神の救いは、異邦人が所有するようになるだろうとはっきり宣言されました。ユダヤ人たちがキリストにある救いを拒んだため、ぶどう園は収穫を納める別の農夫に貸し与えられ(マタ21:41)、四つ辻の道端にいるものは、誰でも婚礼の祝宴に招待されるようになったと言われます(マタ22:9)。その結果、異邦人である私たちにもイエス・キリストの福音が届くようにされたのであります。ローマの手紙11:11~12と19~22をご覧ください。

“では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。”

“すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。”

【結論】

本日の箇所は、選びの民ユダヤ人たちにとって大変厳しいイエス様の審判が記されていました。ユダヤ人たちは、神の選びの民という自負心があり、モーセを通して神様から律法を与えられていることに優越感を持っていました。それにも拘わらず彼らは神を愛し、神に仕えるのではなく、神不在の宗教観、世界観を作り上げ、自分自身を誇っていたために、キリストによって裁きが宣告されたのであります。新約時代に生きる私たち教会は、旧約聖書よりさらにキリストの福音を鮮明に証しする新約聖書が与えられているわけですから、万一、新約の教会がイエス・キリストを拒み、自分自身を誇るというようなことが起これば、ユダヤ人たちに宣告された審判より、もっとひどい審判が宣告されるに違いありません。私たちは選びの民ユダヤ人たちが神の摂理の中で、一時的に退けられたのは、異邦人にも救いが及ぶためであり、神の慈しみであったことを今一度思い起こしたいと思います。そして私たちは神の厳しさと慈しみの前に、恐れを持ちつつ歩む者とならせていただき、そして人々の名声や評判を追及する者ではなく、神からの誉れを求める者たちとして日々歩ませていただきましょう。

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