2025年10月19日「神と等しい方 하나님과 동등하신 분」

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神と等しい方 하나님과 동등하신 분

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章19節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
5:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
5:21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
5:22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
5:23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
5:24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
5:25はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
5:26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
5:27父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
5:28父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
5:29父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
5:30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章19節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、イエス様に殺意を抱くようになりました。彼らの目には、イエス様がご自分を神と等しい者としているように映ったのです。もし、イエス様が神の神性を簒奪しているなら確かに神聖冒涜だというその非難は正しいでしょう。イエス様の主張の意図はどこにあったのでしょうか。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. もっと大きな業

本日の冒頭の19節に「そこで、イエスは彼らに言われた」とありますが、「彼ら」とは、殺意を抱いたユダヤ人たちのことです。彼らに対しイエス様がご自身の主張、考えを述べていかれるのが本日の内容となっています。「はっきり言っておく」という言葉に注目してください。ギリシア語では「アーメン、アーメン、レゴ、ヒューミン」という言葉です。新改訳聖書では、「まことに、まことに、あなた方に言います」と翻訳されています。この言葉は本日の箇所で19節、24節、25節と三回も出てきていますが、これから語られることが特に大切な教えであることを示しています。19~20節をご覧ください。

“そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。”

ここでは、御父に対するイエス様の従順が語られています。イエス様は父なる神の神性を簒奪し、神の権威をむやみに使用しているのではありません。20節に「父は子を愛して」という言葉がありますように、父と子は愛によって一つなのです。ですからベトザタの池で行ったあの奇跡とは単にイエス様が自分からお独りでなされた業ということではなく、御父に示されたことを行ったに過ぎないと主張しているのです。もし安息日にベトザタの池で行ったあの奇跡が、イエス様の単独行動ではなく、父なる神の業でもあったなら、38年間病に苦しむ男に父なる神の御業が起こされたことを、なぜそのように問題視するのか、むしろ共に喜び、彼を祝福すべきではないのかと言っているのです。

イエス様は続けて言われました。「これらのことよりも大きな業を子にお示しになる」。「これらのこと」とは、イエス様による一連の奇跡のことを指していると思われますが、なによりも直前のベトザタの池で行った病人を起き上がらせた奇跡のことを指しているのでしょう。それではそれよりもっと大きな業とは一体何でしょうか。21~22節をご覧ください。

“すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。”

もっと大きな業とは、二つのことが語られていまして、一つは御子によって死者を復活させ、命をお与えになると言うこと、つまり死人の復活のことを言っています。もう一つは審判を御子に任せておられると言うことです。死人の復活については、一部の人々を除いて、大抵のユダヤ人たちが信じていました。しかし、それは父なる神のみが持つ権能として考えられていました。ところが、今イエス様は、父なる神が御自身に復活させる権能を委ねられたと主張しているのです。また、審判についても、同じく父なる神のみが持つ権能と考えられていました。結局、イエス様は、御自身が父なる神の代理人として遣わされていると主張している訳です。ユダヤ教において、この代理人という考え方は、私たちが考える代理人とは少し異なります。私たちが考える代理人とは、極限定された意味において、当人の代理として認められます。例えば捺印をするとか、何らかの書面に同意の意思表示を表す行為などです。ところが、ユダヤ教における代理人とは、代理人の人格そのものが当人として受け入れられました。従いまして、23節のお言葉がイエス様の言わんとしている結論であると思われますが、23節は保留にして先に進んで行きたいと思います。

【2】. 霊的死、霊的復活

イエス様の与える命、イエス様の下す審判とは、何も来世のことだけとは限りません。現世においても既に復活と審判が起こっていると語ります。24~26節をご覧ください。

“はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。”

イエス様はご自身の言葉を聞くことによって、死から命に移っていると言われました。死んでいる者が神の子の声を聞いて復活する、今やその時であると言われます。ここで語られている「死んでいる者」とは、霊的に死んでいる者という意味です。不思議な感じがしますがこのような表現は聖書の中でしばしば出てまいります。例えばエフェソ2:1をご覧ください。

“さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。”

このように、生物学的には生きていても、霊的にはあなたがたは罪によって死んでいたとパウロは言っています。また皆さまが良くご存じの放蕩息子の譬えが、ルカ福音書の15章に出てきますが、放蕩息子は父の遺産から、自分に対する分け前を先にもらって、父の家から飛び出して行きました。異国の地で放蕩三昧の生活を送り、財産を全て使い果たしてしまいました。どん詰まりになって、いよいよ本心に立ちかえり、使用人としてでもいいから、父の家で雇ってもらおうと故郷に帰ってきますと、それを遠くから見つけた父親は大喜びで宴会の準備をいたしました。その時、父親はルカ15:24で、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」、喜び祝うのは当たり前だと語りました。この息子は、死んでいたのに生き返った。つまり霊的に死んでいたということです。聖書では、父なる神様との関係において交わりが断絶された状態にあることを、「霊的死」と表現いたします。人間は誰でもアダムの子孫として生まれて来ますので、原罪を持っており、霊的死の状態で生まれて来ます。しかし神様は罪人を憐れんでくださり、救いの道、命の道を開いてくださいました。御父が遣わしてくださった御子の言葉を聞いて信じる時に、死から命に移されるという出来事が起こるのです。いや、既に移っているのです。24節の最後の「移っている」という言葉は完了形になっていますから、信じる者は御子にあって霊的死から霊的命に既に移っているのであります。断絶されていた神との関係が回復され、神との交わりが始まっているのです。

【3】. 永遠の幸いと災いを決めるの

さて、現世における霊的命、霊的死について見てまいりましたが、それで全てかと言うとそうではありません。来世における永遠の幸いと、永遠の災いがあることが、次の箇所で語られています。27~29節をご覧ください。

“また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。”

父なる神は、人の子、即ちメシアに罪の赦しと審判の権能をお与えになりました。28節の「時が来ると、」とは、「メシアが再臨する時」を指しています。メシアが再臨する時、死者の復活が起こります。これは霊的な復活ではなく、身体の復活です。生物学的に死んで墓に葬られた人々が復活させられるのです。復活という時に、私たちは信仰に生きたキリスト者の復活だけを考えているかもしれませんが、聖書には信仰に生きた者も、キリストを拒絶した者も、全ての人間の身体が復活し、続いて最後の審判が始まると書かれています。この時、29節を見ますと、「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る」とありますが、これは少し気になる個所だと思います。これは、善い行いと悪い行いによってふるい分けがされるという意味ではありません。あくまで、ふるい分けの基準は信仰であります。それではなぜ、29節でこのような表現がなされているのでしょうか。善い行いと悪い行いというのは、救われる基準を意味しているのではなく、ただ信者たちを、彼らのしるしによって特徴づけ、不信者たちから分かりやすく区別するために、このような表現がなされているというふうに考えられます。信者であっても罪を犯します。信者であっても悪い行いはするでしょう。ただ、キリストの内にあるものは、聖霊によって生まれ変わることによって、「信仰による業」、「善い業」をしたいと思うようになり、霊的に死んでいた頃とは全く異なる生き方をするようになるのですが、そのことを言っているのです。皆さまの生活を振り返ってみてください。聖書を真剣に読み始めた前と、後では、価値観や生活そのものが以前とはガラっと変わったはずです。それは聖霊が働かれたからです。反対に、たとえ不信者であっても善い行いはするでしょう。ただ不信者の善い行いとは、「信仰による業」ではありません。ですから、どんなに人間の目には善いとされる業であったとしても、その業が信仰による業でない限り、つまりキリストを通して神に捧げられていない限り、その業は罪によって汚染されていて、決して神によって受け入れられるものではないのです。例えば、ある有名人が慈善活動のために多大な寄付金を捧げたとしても、子供たちのために大きなプレゼントを贈ったとしても、それが信仰による業でなければ、神に受け入れられないのです。ですから、善を行った者たちとして特徴付けられるのはキリスト者であり、彼らはキリストの十字架のゆえに罪に定められることがなく、裁かれることもなく、復活して、永遠の命を受けるのであります。一方で、悪を行った者たちとして特徴付けられるのは不信者たちであり、彼らは身体が復活させられ、裁判官であるイエス様の前に出頭させられ、その行いによって裁かれ、地獄(ゲヘナ)と言われる燃える火の中に入れられるのです。

このような恐ろしい結末を迎える究極的な原因が信仰を持っているのか、持っていないのかにあると言うことですが、それではその信仰とは何なのかということになります。神を信じる信仰とは何なのでしょうか。それは、御子イエス・キリストを信じ、受け入れることであります。イエス様こそ神と等しいお方であり、見えない神の、見える啓示であるからです。先ほどスキップした23節をお読みしましょう。

“すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。”

御子が復活と裁きの権能を持ってこの世に遣わされた理由とは、父を敬う者が子を敬うようになるためであり、父を信じる者が子を信じるようになるためです。つまり、この地上において神の御言葉であるイエス・キリストと、どのような関係を持つのか、これがまさに永遠の幸いと災いを決める決定的な要素なのであります。時々、イエス・キリストを敬わずに父なる神のみを敬う、イエス・キリストを信じないけど、父なる神は信じているという信仰の態度を見ることがあります。旧約聖書を信じているユダヤ教や、イスラム教の立場がまさにそれに当たります。しかし、ユダヤ教やイスラム教でなくても、例えば、「我々はヤハウェなる神を信じ、イエス・キリストとは神から遣わされた使者であったり、天使に過ぎない」と主張する団体があります。三位一体を信じない教派です。或いは、三位一体を信じていても、イエス様ご自身が制定された「洗礼と聖餐式の礼典を必ずしも行わなくてもいいではないか、必ずしも教会という組織を形成しなくてもいいではないか、我々は神を信じている」と主張する団体もあります。このような、御子を敬わない態度とは、実はそのまま御父を敬わない態度であり、終わりの日に裁判官であるイエス様の前で問われる態度となってくるのであります。CSルイスというクリスチャン作家がいますが、彼は次のように語っています。

“イエス・キリストの言葉がもし神ではなく、ある人間の発言であったなら、それは単に歴史上、類を見ないうぬぼれと、狂気じみた表現としか見做せないだろう。…この方は、過去においても、現在においても変わらない神の子であるのか、それとも愚かで狂った人間なのか、あなたは選択しなければならない。あなたは、この人の愚かな言葉を無視することができる。彼につばを吐き、悪魔呼ばわりし、抹殺することもできる。しかし、彼の足元にひれ伏し、主であり、神であると告白することもできる。”

排他的に聞こえるかもしれませんが、人類は神の啓示であるイエス・キリスト以外によっては、真の神を見出すことは出来ないのであります。宗教に対して否定的に聞こえるかもしれませんが、イエス・キリストは罪人と神の間の唯一の仲保者なのでありそれ以外に救いはないのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。御自身を神と等しいと主張されたイエス様は、神の権能を簒奪しているのではなく、御父と愛によって一つであり共に働いておられるということを見てまいりました。従いまして、私たちの現世における霊的な命と霊的な死の問題だけではなく、来世における永遠の幸いと災いを決定づけるのは、このイエス様とどのような関係を持つのかにかかっているということを見てまいりました。神様を信じる信仰とは、イエス様を信じて受け入れることです。私たちはもう一度、自分自身とイエス様との関係を振り返ってみたいと思います。私は日々の営みの中でキリストを頭として、キリストに従順しているのか。むしろ、自分が王となって、キリストの権威を簒奪してはいないだろうか。私たちは御前に遜り、小さなことに忠実になり、キリストを頭として、主の御心を祈り求めていく、そのような教会を形成していき、そのような信仰を次世代に継承していく者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님과 동등하신 분

2025년 10월 19일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 5장 19~30절

서론

「내 아버지께서 이제까지 일하시니 나도 일한다」라는 주 예수님의 이 말씀을 들은 유대인들은, 예수님께 살의를 품게 되었습니다. 그들의 눈에는, 예수님께서 자신을 하나님과 동등으로 삼으심으로 보였던 것입니다. 만약, 예수님이 하나님의 신성을 찬탈하고 계신다면 확실히 신성모독이라는 그 비난은 옳을 것입니다. 예수님의 주장의 의도는 어디에 있었을까요. 오늘도 요한복음을 통해서 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 합니다.

(1) 그 보다 더 큰 일

오늘 본문의 첫 부분인 19절에 「예수께서 그들에게 이르시되」라고 기록되어 있습니다. 「그들」이란, 살의를 품은 유대인들의 가리킵니다. 그들에게 대해 예수님께서 자신의 주장, 생각을 말씀하시는 것이 오늘의 내용입니다. 「진실로 진실로 너희에게 이르노니」라는 표현에 주목해주십시오. 헬라어로는 「아멘, 아멘, 레고, 휘민」이라는 단어입니다. 이 말은 오늘 본문에서 19절, 24절, 25절에 걸쳐 세 번이나 나오는데, 이는 지금부터 말씀하실 내용이 특히 중요한 가르침임을 나타냅니다. 19~20절을 보시기 바랍니다.

19 그러므로 예수께서 그들에게 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 아들이 아버지께서 하시는 일을 보지 않고는 아무 것도 스스로 할 수 없나니 아버지께서 행하시는 그것을 아들도 그와 같이 행하느니라

20 아버지께서 아들을 사랑하사 자기가 행하시는 것을 다 아들에게 보이시고 또 그 보다 더 큰 일을 보이사 너희로 놀랍게 여기게 하시리라

여기서는, 아버지에 대한 예수님의 순종이 말씀되어지고 있습니다. 예수님은 아버지되신 하나님의 신성을 찬탈하거나, 하나님의 권위를 함부로 사용하시고 계신것이 아닙니다. 20절에「아버지께서 아들을 사랑하사」라는 말씀이 있듯이, 아버지와 아들은 사랑으로 하나입니다. 그러므로 베데스다 연못에서 행하신 그 기적은 단순히 예수님께서 스스로 혼자서 행하신 일이 아니라, 아버지께서 보여 주신 것을 행하신 것에 지나지 않는다고 주장하고 있는 것입니다. 만약 안식일에 베데스다 연못에서 행하신 그 기적이, 예수님의 단독행동이 아니라, 아버지되신 하나님의 일이었다면, 38년간 병으로 고통받던 남자에게 아버지되신 하나님의 역사가 일어났음을, 왜 그렇게 문제를 삼는 것이냐, 오히려 함께 기뻐하고, 그를 축복해줘야 하는 것이 아니냐고 말씀하시는 것입니다.

예수님은 계속해서「다 아들에게 보이시고 또 그 보다 더 큰 일을 보이사」라고 말씀하십니다. 「그 보다」란, 예수님께서 행하신 일련의 기적들을 가리키는 것으로 보이지만, 무엇보다 바로 직전에 베데스다 연못에서 행하신 병자를 일으키신 기적을 가리키는 것이겠지요. 그렇다면 「더 큰 일」이란 대체 무엇을 가리키고 있는 것일까요.? 21~22절을 보기기 바랍니다.

21 아버지께서 죽은 자들을 일으켜 살리심 같이 아들도 자기가 원하는 자들을 살리느니라

22 아버지께서 아무도 심판하지 아니하시고 심판을 다 아들에게 맡기셨으니

그 보다 더 큰 일이란, 두가지로 말해지고 있는데, 하나는 아들을 통해 죽은 자를 살리시고, 생명을 주신다는 것, 즉 죽은 자의 부활을 말하는 것입니다. 다른 하나는 심판을 아들에게 맡기셨다는 것입니다. 죽은 자의 부활에 대해서는, 일부 사람들을 제외하고 대부분의 유대인들이 믿고 있었습니다. 그러나 그것은 아버지되신 하나님만이 가지신 권능으로 여겨졌습니다. 그런데, 예수님은, 아버지되신 하나님이 자신에게 부활시키는 권능을 위힘하셨다고 주장하고 계시는 것입니다. 또 심판에 대해서도, 마찬가지로 아버지 하나님만이 가지신 권능으로 여겨졌습니다. 결국, 예수님은 자신이 아버지되신 하나님의 대리인으로서 보내심을 받았다고 주장하고 계시는 것입니다. 유대교에서, 이 대리인이라고 하는 개념은, 우리가 생각하고 있는 대리인과는 조금 다릅니다. 우리가 생각하는 대리인이란, 극히 제한된 의미에서 당사자의 대리인으로 인정되었습니다. 예를 들어 날인하거나, 어떤 문서에 동의 의사를 표시하는 행위 등입니다. 그러나 유대교에서의 대리인은 대리인의 인격 그 자체가 당사자로 받아들여졌습니다. 따라서, 23절의 말씀이 예수님께서 말씀하시려는 결론이라고 생각되지만, 23절은 잠시 보류하고 앞으로 나아가고자 합니다.

(2) 영적 죽음, 영적 부활

예수님께서 주시는 생명, 예수님께서 내리시는 심판은, 결코 내세만의 일이 아닙니다. 현세에 있어서도 이미 부활과 심판이 일어나고 있다고 말씀하십니다. 24~26절을 보시기 바랍니다.

24 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 내 말을 듣고 또 나 보내신 이를 믿는 자는 영생을 얻었고 심판에 이르지 아니하나니 사망에서 생명으로 옮겼느니라

25 진실로 진실로 너희에게 이르노니 죽은 자들이 하나님의 아들의 음성을 들을 때가 오나니 곧 이 때라 듣는 자는 살아나리라

26 아버지께서 자기 속에 생명이 있음 같이 아들에게도 생명을 주어 그 속에 있게 하셨고

예수님은 자신의 말씀을 들음으로써, 죽음에서 생명으로 옮겨졌다고 말씀하셨습니다. 죽은 자들이 하나님의 아들의 음성을 들을 때가 오나니 곧 이 때라고 말씀하십니다. 여기서「죽은 자들」이란, 영적으로 죽은 자를 의미합니다. 이상하게 느껴질 수 있지만 이러한 표현은 성경 속에서 자주 등장합니다. 예를 들어 엡 2:1절을 보십시오.

에베소서 2장

1 그는 허물과 죄로 죽었던 너희를 살리셨도다

이처럼, 생물학적으로는 살아 있어도, 영적으로는 너희가 죄로 인해 죽어 있었다고 바울은 말합니다. 또한 여러분이 잘 아시는 방탕한 아들의 비유가 눅 15장에 나오는데, 방탕한 아들은 아버지의 유산에서, 자신이 상속받을 몫을 미리 받아, 아버지의 집을 떠났습니다. 이국 땅에서 허랑방탕한 생활을 하면서, 재산을 전부 낭비해 버렸습니다. 막다른 골목에 다다르자, 마침내 아버지에게로 돌아가, 품꾼의 하나로 봐 달라고 하려고 돌아가니, 이를 멀리서 본 아버지는 그를 보고 즐거워하며 잔치를 준비했습니다. 그때, 아버지는 눅 15:24절에서「이 내 아들은 죽었다가 다시 살아났으며 내가 잃었다가 다시 얻었노라」라며 즐거워하고 기뻐하는 것이 마땅하다라고 했습니다. 이 아들은 죽었다가 살아났습니다. 즉 영적으로 죽어 있었다는 뜻입니다. 성경에는, 아버지되신 하나님과의 관계에 있어서 교제가 단절된 상태에 있는 것을, 「영적 죽음」이라고 표현합니다. 인간은 누구라도 아담의 자손으로 태어나기 때문에, 원죄를 가지고 있고, 영적 죽음의 상태로 태어납니다. 그러나 하나님께서는 죄인을 불쌍히 여겨주시고, 구원의 길, 생명의 길을 열어 주셨습니다. 아버지가 보내신 아들의 말씀을 듣고 믿을 때, 죽음에서 생명으로 옮겨지는 사건이 일어납니다. 아니, 이미 옮겨져 있습니다. 요5:24절의 마지막의 「옮겼느니라」는 말은 완료형이므로, 믿는 자는 아들로 인해, 영적 죽음에서 영적 생명으로 이미 옮겨져 있는 것입니다. 단절되었던 하나님과의 교제가 회복되고, 하나님과의 교제가 시작되고 있는 것입니다.

(3) 영원한 복과 재앙을 결정하는 것

자, 현세에서의 영적 생명과 영적 죽음에 대해 살펴보았지만, 이것이 전부라고 할 수는 없습니다. 내세에서의 영원한 복과 영원한 재앙이 있다는 것이 다음 구절에서 말해지고 있습니다. 27~29절을 보십시오.

27 또 인자됨으로 말미암아 심판하는 권한을 주셨느니라

28 이를 놀랍게 여기지 말라 무덤 속에 있는 자가 다 그의 음성을 들을 때가 오나니

29 선한 일을 행한 자는 생명의 부활로, 악한 일을 행한 자는 심판의 부활로 나오리라

아버지되시는 하나님은 인자, 즉 메시아에게 죄 사함과 심판의 권능을 주셨습니다. 28절의 「때가 오나니」란, 「메시아가 재림하실 때」를 가리킵니다. 메시아가 재림 하실 때, 죽은 자들의 부활이 일어납니다. 이것은 영적인 부활이 아니라 육체의 부활입니다. 생물학적으로 죽어 무덤에 묻힌 사람들이 부활하게 됩니다. 부활이라는 말에, 우리들은 믿음으로 살았던 그리스도인의 부활만을 생각할지 모리지만, 성경에는 믿음 가운데 살았던 자도, 그리스도를 거부했던 자도, 모든 인간의 신체가 부활하고, 이어서 마지막 심판이 시작된다고 기록되어 있습니다. 이때 29절을 보면,「선한 일을 행한 자는 생명의 부활로, 악한 일을 행한 자는 심판의 부활로 나오리라」라고 하는데, 이것은 조금 마음에 걸리는 부분이라고 생각합니다. 이는 선한 일을 행함과 악한 일을 행함으로 가려짐을 받은다는 의미가 아닙니다. 어디까지나 가려짐의 기준은 믿음입니다. 그런데 왜 29절에 이러한 표현이 쓰였을까요. 선한 일과 악한 일은 구원받는 기준을 의미하는 것이 아니라, 단지 믿는자들을 그들의 표징으로 특징짓고, 불신자들로부터 쉽게 구분하기 위해 이런 표현이 쓰인 것으로 생각됩니다. 믿는 자라도 죄를 짓습니다. 믿는 자라도 악한 행위를 할 것입니다. 다만 그리스도 안에 있는 자는 성령으로 거듭남으로써 「믿음으로 말미암은 행위」,「선한 행위」를 하고 싶어 하며, 영적으로 죽었던 때와는 전혀 다른 삶을 살게 된다는 것을 말하는 것입니다. 여러분의 삶을 돌아보십시오. 성경을 진지하게 읽기 시작하기 전과 후에는 가치관이나 삶 자체가 이전과는 완전히 달라졌을 것입니다. 그것은 성령께서 역사하셨기 때문입니다. 반대로, 비신자라도 선한 일을 행할 수 있습니다. 다만 비신자의 선한 행위는 「믿음으로 말미암은 행위」가 아닙니다. 그렇기 때문에, 아무리 인간의 눈에는 선한 행위로 보여도, 그 행위가 믿음으로 말미암은 행위가 아니라면, 즉 그리스도를 통해 하나님께 드려지지 않았다면, 그 행위는 죄로 오염되어 결코 하나님께 받아들여지지 않습니다. 예를 들어, 어떤 유명인이 자선 활동을 위해 막대한 기부금을 냈다고 해도, 어려운 환경의 아이들을 위해 큰 선물을 주었다고 해도, 그것이 믿음으로 인한 행위가 아니라면, 하나님께 받아들여지지 않습니다. 그러므로 선한 일을 행한 자들로 특징지어지는 것은 그리스도인이며, 그들은 그리스도의 십자가로 말미암아 죄로 정죄받지 않고, 심판받지도 않으며, 부활하여 영생을 받게 됩니다. 반면, 악한 일을 행한 자들로 특징지어지는 것은 불신자들입니다. 그들은 육체가 부활하여 재판관이신 예수님 앞에 서게 되며 그들의 행위에 따라 심판을 받고 지옥(게헨나)이라 불리는 불타는 불 속에 던져지게 됩니다.

이러한 끔찍한 결말을 맞이하는 궁극적인 원인이 믿음을 가졌는지, 가지지 않았는지에 있다고 합니다만, 그렇다면 그 믿음이란 무엇인가하는 것입니다. 하나님을 믿는 믿음이란 무엇일까요? 그것은 바로 하나님의 아들 예수 그리스도를 믿고, 받아들이는 것입니다. 예수님이시야말로 하나님과 동등하신 분이시며, 보이지 않는 하나님의 계시이기 때문입니다. 아까 건너뛴 23절을 함께 읽어보겠습니다.

이는 모든 사람으로 아버지를 공경하는 것 같이 아들을 공경하게 하려 하심이라 아들을 공경하지 아니하는 자는 그를 보내신 아버지도 공경하지 아니하느니라

아들이 부활과 심판의 권능을 가지고 이 세상에 보내심을 받은 이유는, 아버지를 공경하는 것 같이 아들을 공경하게 하려 하심입니다. 즉, 이 땅에서 하나님의 말씀이신 예수 그리스도와 어떠한 관계를 맺는가, 이것이 바로 영원한 복과 재앙을 결정하는 결정적인 요소인 것입니다. 때로는 예수 그리스도를 공경하지 않고 오직 하나님 아버지만 공경하는, 예수 그리스도를 믿지는 않지만, 아버지되시는 하나님은 믿는다라고 하는 믿음의 태도를 볼 수가 있습니다. 구약성경만을 믿고 있는 유대교나, 이슬람교의 입장이 바로 이에 해당합니다. 그러나, 유대교나 이슬람교가 아니더라도, 예를 들어 “우리는 여호와 하나님을 믿고, 예수 그리스도는 하나님께서 보내신 사자이거나 천사에 불과하다”라고 주장하는 단체가 있습니다. 삼위일체를 믿지 않는 교파입니다. 혹은 삼위일체를 믿더라도 예수님 자신이 제정하신 “세례와 성찬식의 성례를 반드시 행하지 않아도 되지 않겠는가, 반드시 교회라는 조직을 형성하지 않아도 되지 않겠는가, 우리는 하나님을 믿는다”라고 주장하는 단체도 있습니다. 이러한, 아들을 공경하지 않는 태도는, 사실은, 아버지를 공경하지 않는 태도이며, 마지막 날 재판관이신 예수님 앞에서 심문받을 태도가 되어 버리는 것입니다. CS루이스라는 기독교 작가가 있습니다. 그는 이렇게 말했습니다.

「이 말들이 만일 하나님이 아닌 어떤 사람이 한 말이라면, 단지 역사상 필적할 바 없는 어리석음과 자만심의 표현으로밖에 간주할 수 없을 것이다. .... 당신은 선택을 해야만 한다. 이 사람은 과거에도 지금도 변함없이 하나님의 아들이든가 아니면 미친 사람 혹은 그보다 더 못한 어떤 것이든가 둘 중 하나이다. 당신은 이 사람의 어리석은 말을 묵살할 수 있다. 그에게 침을 뱉고 또 그를 마귀로 몰아 죽일 수도 있다. 하지만 그의 발 아래 엎드려 주님이시며 하나님이시라고 부를 수도 있다.」

배타적으로 들릴지 모르나, 인류는 하나님의 계시이신 예수 그리스도 외에는 참 하나님을 찾을 수 없습니다. 종교에 대해 부정적으로 들릴지 모르나, 예수 그리스도는 죄인과 하나님 사이의 유일의 중보자이시며 그 외에는 구원이 없습니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 자기를 하나님과 동등하다고 주장하신 예수님은, 하나님의 권능을 찬탈하신 것이 아니라, 아버지와 사랑으로 하나이시며 함께 일하고 계심을 살펴보았습니다. 따라서 우리의 현세에서의 영적 생명과 영적인 죽음의 문제뿐만 아니라, 내세에서의 영원한 행복과 재앙을 결정짓는 것은 이 예수님과 어떤 관계를 맺느냐에 달려 있음을 살펴보았습니다. 하나님을 믿는 믿음이란, 예수님을 믿고 받아들이는 것입니다. 우리들은 다시 한번, 자신과 예수님과의 관계를 돌아보고자 합니다. 나는 일상 속에서 그리스도를 머리로 삼고 그분께 순종하고 있는가? 오히려 자신이 왕이 되어, 그리스도의 권위를 찬탈하고 있지는 않은가? 우리는 주님 앞에 낮아져 작은 일에 충실하며 그리스도를 머리로 삼고 주님의 뜻을 기도하며 구하는, 그런 믿음을 다음 세대에 물려주는 자들이 되도록 합시다.

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