2025年10月12日「今もなお働かれる神」

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5:9bその日は安息日であった。
5:10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章9節b~18節

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【序】

ベトザタの池で安息日に行った奇跡は、エルサレムの神殿当局に大きな波紋を投げかけました。ユダヤ人たちの目には甚だしい安息日違反として映ったのであります。この奇跡が引き金となって、5章10節から続くイエス様とユダヤ人たちとの間の、長時間に亘る議論に発展していくのであります。そしてその議論を通して、イエス様は御自身が誰であるのか、安息日の本来の意味とは何なのかについて説明されて行かれます。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 律法主義

10節をご覧ください。

“そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。”

38年という長い間を苦しみぬいてきたこの男がついに癒されました。これまで横たわっていた床からも解放され、自らの足で立って歩くことができるようになったのです。しかしそれを見ていたユダヤ人たちは、「元気になって良かったね。」「いやぁ、本当に良かった」というような配慮と労いの言葉はなく、「床を運ぶことは労働である。お前は安息日を汚している」と、非難いたしました。これは一体何なのでしょうか。

当時のユダヤ人にとって、神様の戒めを守ることは何よりも大切であり、特に安息日の遵守は重要とされていました。ですから、安息日を破るのは確かに良くないことと考えられますが、ここで問題となっているのは、イエス様が安息日に病人を癒されたということではなく、安息日に床を担がせて歩かせたということです。そのことが「運搬の労働」に当たるという理由で、この男を非難しているのです。通常、病の治療などに関することとか、特に命の危険をともなうような一刻を争う事柄であれば、たとえ安息日であっても、例外的に労働することが赦されていました。聖書にはペトロの姑の熱病が癒される記事がありますが、安息日の出来事であります。人々はその日、彼女の熱病が癒されることを願い、イエス様はそれに応えて奇跡を起こされたのですが、その時、誰も「安息日の律法違反だ」などと言う人はいませんでした。また、ルカ14:5には次のように書かれています。イエス様のお言葉です。

“そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」”

すぐに助けてあげない人なんて、いないということですね。当たり前のことです。ですから今回の場合でも、とりあえずこの男が癒されたことを喜び、安堵するのが、人の道ではないのかと思うのであります。それなのに、本日登場するユダヤたちはというと、一生涯に亘って病の中で苦しんで来た男の癒しについて、全く無関心であったということは、私たちの目に、いかにも滑稽で、奇妙に映るのであります。律法の教えの本質を見失い、表面だけを繕う言わば、律法主義に陥ってしまうならば、律法の愛の教えは、このように冷たく、理不尽で、滑稽な姿に変わってしまうということを示しているのだと思います。この点については、私たちも律法の教えの本質を見失うことがないように、心掛けなければならないと思わされます。

男は、自分の病気を癒してくださった方が誰であるかを知りませんでした。「安息日を違反している」という批判に対し、彼は11節で「わたしをいやしてくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えています。この答えは一見しますと、自分を癒してくださったお方に名誉を与えようとしているように見えますが、穿った見方をしますと、彼らの批判から自己弁護するために、律法違反の責任を、自分を癒してくださった方になすりつけているというふうに見ることもできます。責任転嫁しているのです。彼が果たしてイエス様を受け入れたのかどうか、聖書には書かれていないため、はっきりとは分かりませんが、イエス様に少しでも感謝する態度を取っていたのかと問うならば、少なくとも本日の箇所からは、そのような態度は持ち合わせていなかったと言えるのではないでしょうか。イエス様は再び神殿の境内で彼と出会ってくださいましたが、しかし彼は「あの時は本当にありがとうございました。ところで、ユダヤ人たちの動きで少し気になることがありましたので、ちょっとお伝えしたいことがあるのですが…」などとイエス様を配慮する素振りもなく、その代わりに、まっすぐにユダヤ人たちの方に向かって行ったのであります。14~15節をご覧ください。

“その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。”

14節の「もっと悪いこと」とは、最後の審判のことを指していると考えられます。つまりイエス様を受け入れないために永遠の命を受け取ることなく、死後、裁判官であられるイエス様の前に立たされ、罪に定められ、永遠の滅びに至るかもしれない、と警告しているのです。この警告は、同時に招きの言葉でもありました。彼の人生において、信じられないような神の恵みが施された訳ですから、速やかに罪を悔い改めるべきである、イエス様御自身にある、命の水を受け取りなさいと招かれているのです。しかし彼は、イエス様の招きに応答することはなく、むしろイエス様のことをユダヤ人たちに通報しました。この男もエルサレムのユダヤ人たちと同じように、律法を形式的に捉えていて、律法の愛の教えから遠くかけ離れていたと言わざるを得ないのであります。

【2】. 今もなお働かれる神

さて、私たちはここで少し立ち止まり、なぜイエス様はわざわざ祭の日の、しかも安息日に「床を担ぎなさい」と命じられたのか考えてみたいと思います。イエス様だって、ユダヤ人ですから、律法に関する先祖の言い伝えをよく知っていたはずです。安息日に「床を担いで歩きなさい」と命じるなら、大変な問題になることは分かっていたことでしょう。なぜ、人々を困惑させるようなことをあえて言われたのでしょうか。イエス様は、決して、行き当たりばったりで、奇跡を施したら、想定外の問題を引き起こしてしまったということではないはずですから、意図的に「何か」を示そうとして、あえて、自分が殺される危険に置かれることを承知の上で、病の男にそのように命じられたと考えられます。それではその、「何か」とは、何だったのでしょうか。それは、安息日というのは、メシアによってもたらされる贖いと関係があること、そして、神様は、そのために今もなお働かれていることを、お示しになるためであったと考えられます。17~18節をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。”

イエス様はユダヤ人に対し、安息日に関する先祖の言い伝えを破るだけでなく、神をご自分の父とお呼びし、御自身を神と等しい者とされました。火に油を注ぐようなことを言われたわけです。

私たちはそもそも安息日を守るとは何なのかということを、もう一度ここで整理したいと思います。安息日に関する先祖の言い伝えとは、聖書の教えではありません。例えば900メートル以上歩いてはならないとか、火や電気を使ってはならないとかがありますが、これらはラビたちが勝手に作ったものです。安息日の戒めが聖書に書かれている箇所は、皆さまもご存じのように十戒の第四戒に記されています。十戒が定められているのは、出エジプト記と申命記ですから、それぞれ調べてみましょう。出エジプト記20:8~11をご覧ください。

“安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。”

「神様が天と地と海とそこにあるすべてのものを造られたため、七日目は、いかなる仕事もしてはならない」とあります。つまり、当時、安息日とは「神様が私たちの創造主であるということを覚え、感謝する日であった」、と言い換えることができるでしょう。七日目の土曜日は安息日として主の中で憩いなさい。神様を礼拝し、神様の創造の御業を覚えなさいということであります。もう一箇所、申命記5:13~15をご覧ください。

“六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。”

ここでは、奴隷であったイスラエルを贖ってくださった神様を覚えて、七日目の土曜日は安息日として主の中で憩いなさい、あなた方の奴隷も安息日には休ませなさい、と書かれています。創造と、神様の贖い、この二つのことを覚えて安息日を聖別しなさい。その日、自分たちのための労働を一切しないということは、創造主であり、贖い主である神様を褒めたたえることだと言っているのです。ですから、安息日を守ることは、罪の奴隷であったユダヤ人にとって、神との契約のしるしであったと言えるでしょう。この二つの安息日の精神は今日、新約に生きる私たちも引き継がれています。私たち教会は、土曜日の安息日を守っている訳ではありませんが、週の初めの日曜日を主の中で憩う日として聖別し、神の創造と、神の贖いを感謝し、恵みの契約の中に入れられていることを喜んで、神様を礼拝するのであります。

そうであるなら、安息日とは神様が疲れたから定められたということではなく、人間のために定められたということが分かります(マルコ2:27)。安息日は人間のために与えられたのです。創世記2章2節には、確かに神が「第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。」と書かれていますが、神にとって「休まれた」という言葉は、人間のように働きを止めるということを意味しているのではなく、一段落ついた創造の御業を、喜びをもって、善しとされたということを示しているのであります。つまり、神様は安息日に「喜ばれた」ということです。イエス様は「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われました。神様は休むことなく、常に働いておられるのです。

ところで、私たちは自然法則を超越した奇跡だけを神の御業と考えがちですが、自然法則それ自体を創造された神様にとって、「自然的」ですとか、「超自然的」という言葉は全く意味を成しません。神様は天地万物を創造して以来、今日に至るまで、創造と摂理の御業によって働いておられます。つまりどういうことかと申しますと、例えば、地球が太陽の周りを自転しながら公転していますね。皆さまもよくご存じの自然法則です。この自然法則の絶妙なバランスは、地球上のあらゆる生命を保持するための、奇跡的なバランスであると科学者は証言します。「考えすぎだ。それは、偶然に過ぎない」と言う人もいますが、本当にそうでしょうか。自然界が見せる幽玄なその姿は、神御自身について確かに語っているのだと思います。天は神の栄光を語り、大空はその御手の業を告げる(詩編19:1)。神の声は海の上にあり、その声は雷鳴を轟かせ、杉の木を打ち砕く(詩編29:3-5)。光は神がまとう衣であり(ダニエル7:9、マタイ17:2)、天は神の幕屋であり(詩編19:5、2コリント5:1)、雲は神が乗られる馬車(マタイ24:30)であり、神の息吹は、被造物を創造し、更新します(詩編33:6、ヨハネ20:22)。神様は義人にも悪人にも雨を降らせてくださり、太陽の光を照らしてくださり、雨と日照り、豊作と凶作をもたらされるのです。これらすべてのことは、私たちに偶然に起きるのではなく、父なる神の御手から来るのであります。神様は、今もなお摂理を持って自然法則を支配され、保持し、人類の歴史を導いておられます。もし、神様がその働きを止めるなら、地球の公転の軌道は脱線し、自転の速度が一定に保たれることもなくなるでしょう。物を構成している分子や電子の結合は切断され、崩壊するかもしれません。従いまして、ベトザタの池で超自然的な奇跡をなされたのと同じように、日々、私たちを取り巻いている自然の営みや、歴史そのものも、実は超自然的であり、奇跡的であり、神の御手の働きであると言うことが出来るのです。そのことを考えるなら、38年間、病の中にいて癒された者だけでなく、全ての人々に神様は今日も働いて、恵みを注いでいてくださっているということが分かってくるのです。今日、私たちは神様の恵みに感謝し、自らを悔い改め、恵みに応答するように招かれています。そして安息日とは、まさに私たちが今もなお働かれている神の中に憩う日であり、神の創造の御業と、贖いの御業を喜ぶ日なのであります。安息日とは、恵みの契約の中に私たちを入れてくださった事を感謝し、共々に集まって礼拝を捧げる日なのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様は祭りの日のしかも安息日に、奇跡を行い、床を担いで歩きなさいと命じられました。それは、安息日の本来の意味を明らかにするためであります。安息日とは、神の創造の御業、神の贖いの御業を喜ぶ日であります。言い換えれば、愛なる神様が、罪を犯し堕落した人間に御手を伸ばしてくださり、再び人間を生かそうとする、その神の御業を味わう日であります。全ての人がこの救いに招かれていますので、私たちは御前に悔い改め、今もなお働かれ、恵みを注いでくださっている神様に、感謝の応答をして行く者たちとならせていただきましょう。特に週の初めの日の主日礼拝を私たちは聖別し、この日、主と共に喜ぶ日として礼拝を捧げる者たちとならせていただきましょう。

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