2025年09月14日「神が求めるまことの礼拝 하나님이 원하시는 참된 예배」

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神が求めるまことの礼拝 하나님이 원하시는 참된 예배

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章16節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4:27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4:28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4:29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4:30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 4章16節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「水を飲ませてください」というイエス様の一言から、イエス様とサマリアの女との対話が始まりました。一見するとイエス様の風貌はこのあたりのサマリア人のようではなく、ユダヤ人の男であることが分かりました。そのユダヤ人の男がサマリア人の自分に話しかけて来たのです。女は、その風変わりな人物の語る言葉を、最初は真剣に受け止めていなかったように思われます。なぜなら「あなたはわたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と男をたしなめているからです。さらに「そのような不思議な水があるなら、ちょっと私にくださいますか。再びこの井戸に水を汲む必要がないように。」と言いました。まるで、これ以上、話にもならないことを言わないでくださいとでも言っているかのようです。しかし、次のイエス様の一言によって、女は態度を変えざるを得ませんでした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。このイエス様の一言は、女が内に抱えている全ての問題を見事に言い当てました。本日の箇所は、訳アリの女が、自分の罪と向き合うことによってイエス様の自己証言を受け入れ、神を知り、神を正しく礼拝する者に変えられる物語です。私たちも、今まさに礼拝を捧げていますが、何が神様の求めるまことの礼拝なのかについて考えながら、本日もヨハネの福音書を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 女の渇き

17~18節をご覧ください。

“女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」”

核心をついたイエス様の一言に対し、女は言い逃れようとしますが、イエス様は全てをお見通しでした。この女には、過去に五人の夫がいたということが明らかにされてしまったのです。どのような込み入った事情があったのか、ここには詳しくは書かれていませんが、恐らく男と結婚しては破局するということを五回も繰り返したのだと思われます。そして今の男とは、法的には結婚関係ではない、ただ同棲しているだけだというのです。今日の場合であれば、「まあ、人それぞれ自由ですから、そういう人もいるでしょう。」となるかもしれません。しかし、当時の状況では、異常です。五回も離婚した人など、当時どこを探しても見当たらなかったことでしょう。この女は、ただでさえ、別れた男から心に深い傷を受けたと思われますが、それに追い打ちをかけるかのように、周りの人々から、とんでもない女だということで後ろ指を指されていたに違いないのであります。陰口や誹謗中傷が絶えなかったことでしょう。そしていつの間にか自分自身も人々との交わりを避け、こんな真昼に井戸に水を汲みに来たのであります。この女はまさに自分の置かれている不幸な状況から救いを求めていました。自分の罪が招いてしまった悲惨な結果から贖われることを望んでいました。自分の力ではもうどうにもならないと、神の前に降参しつつ、このみじめさから、劣等感から回復されたい、出来ることなら人生をもう一度やり直したいと願っていたのであります。女は、神の祝福と神の賜物に心から渇いていたのでありました。考えてみますと、現在に生きる私たちも、弱く、欠けが多く、イエス・キリストに出会う前は、人間関係において失敗し、人生の挫折を経験し、心にたくさんの傷を負っていた者たちであったのではないかと思います。心の奥底に苦い想いや、誰にも知られたくない罪がくすぶっていて、もうどうでもいいと自暴自棄になったり、人々との交わりを避けてしまう、そんな人生を少なくとも私自身はかつて送っていました。女の心の中の叫びとは、まさにかつて私たちが持っていた心の叫びであり、女の渇きとは、まさに私たちの渇きであると言っていいのではないでしょうか。

【2】. まことの礼拝

女は、自分の罪を指摘されて、今、目の前に座っている人と真剣に向き合うようになりました。そして次のような質問をしました。19~20節をご覧ください。

“女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」”

なぜ、ここでいきなり、礼拝の場所について質問したのでしょうか。これは、女がこれ以上自分の秘密が暴露されるのを恐れて、話をそらすために、ごまかそうとして話題を突然切り替えたと、いくつかの注解書はそのように書かれていました。しかし、私にはどうもそのようには思えませんでした。自分の力ではもうどうにもならないことを悟っていた女の口から、思いがけず、根本的な深い悩みが、口から咄嗟に出て来てしまったのではないかと思います。つまり、女は、「私は神様に私の悩みを打ち明けたいのです。」「神様に私の事情を知っていただき、どうかこの私を憐れんでいただきたいのです。」そう言っているのだと思います。するとイエス様は次のように言われました。21~24節です。

“イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」”

端的に言いますと、イエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われています。そして、「あなたのまことの礼拝への飢え渇きは、今、満たされるようになる」と言われます。それでは、イエス様の言われる「まことの礼拝」とは一体何なのでしょうか。

まことの礼拝を理解する上で重要な手がかりとなるのが「神は霊である」という言葉です。これは被造物である人間は、決して神に近づくことは出来ないということを意味しています。神は近寄り難い光の中に住まわれ、誰一人見たことがなく、見ることができないお方であり、被造物を超越しておられるお方です。従って旧約聖書の中で、神が顕れたという記事がいくつかありますけれども、実際には、それらは本当に神がそこにいたということではなく、一つの予表を見たに過ぎなかったと言うことです。たとえ、ベテルにおいてヤコブに現れたり、シナイ山においてモーセに現れたり、荒れ野において雲の柱、火の柱として現れたりしても、たとえ、シナイ山において雷鳴と共に現れ、その後、契約の箱に臨在され、エルサレム神殿に神が住まわれると聖書に啓示されているとしても(詩132:13)、それらは神の臨在に対するしるしであり、神の臨在に対する保証に過ぎないのであります。つまり旧約聖書の啓示とは、必ずしも神ご自身の存在と完全に一致するわけではないということです。旧約聖書で与えられた啓示は、影にすぎず、神について、真理について、おぼろげに表されているに過ぎません。これと同じように、旧約聖書において、神の名「ヤハウェ」という名前が啓示されていますが、たとえ神が御自身の名によって御自身を顕したとしても、実際、いかなる名であろうと、神を正しく表現することは出来ません。そもそも被造物に把握される神の名など存在せず、彼は不思議であり、人間は決して彼の隠された根源を測ることができず、全能者の境界線や、全能者の極み、全能者のその本質を知ることはできないのであります。それでは、そのような目に見えない神を私たちは、どのように礼拝することができるのでしょうか。イエス様は「時が来る。今がその時である」と言われました。メシアであるイエス様の到来によって、旧約時代が成就され、新しい時代を迎えたという意味です。旧約の啓示とは臨時的なものであり、真理に導くための一時的な養育係に過ぎなかった。しかし新約時代の幕が開け、かつておぼろげに語られた福音が、今やイエス・キリストにおいてはっきりと顕されたのです。神を礼拝する者は、神の啓示そのものであられるイエス・キリストを信じて礼拝しなければならないと言われるのです。

22節の「霊と真理を持って礼拝する」という個所は、注解書によって意見が分かれるところですが、「霊」というのは聖霊のことを言っているのだと思います。イエス様を信じる時に、私たちは聖霊を注がれて、新しく生まれ変わります。その聖霊のことを意味しているのでしょう。「真理」というのは、偽りと対比される「真理」ということではなく、旧約の律法に定められた様々な規定と対比される「真理」のことを言っているのだと思います。例えば、旧約時代に礼拝を捧げようとすれば守らなければならないいくつかの戒めがありました。安息日規定というものがあります。土曜日である安息日は神様のために取り分けて、その日はいかなる労働もしてはならないと律法に定められています(出20:10)。或いは食物規定というものがありまして、清い家畜である牛や羊は食べても良いですが、豚のようなものは食べてはならないと定められています(レビ11章、申14章)。魚類についても、ヒレとウロコのある魚は食べても良いですが、エビ、カニ、イカ、タコ、うなぎのようなものは汚れているため食べてはならないと定められています(レビ11章、申14章)。旧約時代には、これらの戒めをきちんと守って礼拝しなければなりませんでした。しかし新約のまことの礼拝者は、このような律法の縛りから解放されるということです。「時が来る。今がその時である。」今や、アブラハムの血統であるイスラエル民族がそのままアブラハムの子孫ではありません。心に割礼を受けて、信仰によってキリストのものとされた者こそ、アブラハムの子孫なのだとイエス様は言われるのです。従いまして「霊と真理を持って礼拝する」というのは、実はイエス様を信じている私たち教会の礼拝のことを指しているということです。女はイエス様に言いました。25節です。

“わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。”

サマリア人はメシアを待望していました。しかし、モーセ五書のみを聖典としていたサマリア人にとって、メシアについて持っていた知識は限られていたものでありました。彼らのメシア像というものがどのようなものだったのかと言いますと、申命記に書かれている「モーセのような預言者」を待ち望んでいたと考えられています。申命記18:18をご覧ください。

“わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。”

このモーセのような預言者を、サマリア人は「回復者(ターヘーブ)」と呼んでいました。この回復者こそ、神に対する真の信仰と真の礼拝を回復させる使命を持っていると信じられていたようです。するとイエス様は女に「わたしがそれである」と言われました。ギリシア語ではエゴーエイミーと書かれています。「エゴーエイミー」とは、出エジプト記3:14で主なる神がモーセに教えられた御自身の名前であります。出3:14をご覧ください。

“神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”

神の御名、ヤハウェ『わたしはある』、ギリシア語ではエゴーエイミー「わたしがそれである」と、イエス様は女に御自身を明らかにされました。神の自己証言です。この言葉に、サマリアの女がどのように反応したのかは聖書には書かれていませんが、ただ28節を見ますと、水がめをそこに置いたまま町へ急いだということですから、また、戻ってくることを意図していたのかもしれません。とにかく急いでそこを発ったということが分かります。続いて29~30節をご覧ください。

“「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへ向かった。”

町へ急いだ女は、何と人々にイエス様のことを証し始めました。「私のしたことをすべて、言い当てた人がいます!」なぜ、あれほど人々の交わりを避けていた女が、ここでは、過去に自分がしでかした恥ずかしいことを、全てさらけ出すことができたのでしょうか。それは、罪から解放され、生ける命の水が、泉であられるイエス様から無尽蔵にあふれ流れ出るように、喜びで心が満たされたからではないでしょうか。神様がこんな自分であっても憐れんでいてくださったことをイエス様との出会いを通して確信したからではないでしょうか。この女は過去の罪を悔い改め、新しく生まれ変わったのであります。人間の魂の渇きは、この世のものでは、決して満たすことが出来ません。しかし神様を知り、神様と交わることによって、初めて魂の渇きが満たされるのです。神が求めるまことの礼拝とは、イエス様を通して神様を知り、悔い改めに導かれ、神様との交わりが回復されることを言うのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。神が求めるまことの礼拝とは、メシアの到来によって、旧約の律法に縛られた礼拝から解放されることを意味しました。神は霊であるため、ゲリジム山に住まわれるのでも、エルサレムの神殿に住まわれるのでもありません。イエス・キリストを信じる教会が、主の日ごとに共に捧げているこの礼拝こそ「霊と真理をもって」礼拝することなのであります。私たちの捧げる礼拝にこそ、主はご臨在してくださり、御自身の豊かさを持って、教会を満たしてくださるのです。そして、生ける水の源であられるイエス様は、今日も、訳アリの私たち一人ひとりの渇きを癒して下さり、永遠の命に至る喜びと潤いを与えてくださいます。ですから、私たちは週ごとの主日礼拝を心から大切にするようにいたしましょう。そしてイエス様を通して神様と交わる喜びを人々に分かち合い、イエス・キリストを大胆に家族・友人・知人に証しする者たちとならせていただきましょう。

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하나님이 원하시는 참된 예배

2025년 9월 14일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 4장 16~30절

서론

「물을 좀 달라」라는 예수님의 한 마디로, 예수님과 사마리아 여자 사이의 대화가 시작되었습니다. 언뜻 보기에 예수님의 풍모는 이 근처 사마리아 사람들과는 달랐고, 유대인 남자임을 알 수 있었습니다. 그 유대인 님자가 사마리아인인 자신에게 말을 걸어온 것이었습니다. 여자는 그 색다른 인물이 하는 말을 처음에는 진지하게 받아들이지 않았던 것 같습니다. 왜냐하면「당신이 우리 조상 야곱보다 더 크니이까」라며 남자를 나무랐기 때문입니다. 더 나아가「그런 물을 내게 주사 목마르지도 않고 또 여기 물 길으러 오지도 않게 하옵소서」라고 말했습니다. 마치, 더 이상 말도 안 되는 소리는 하지 말라는 듯이 말입니다. 그러나 다음 예수님의 한 마디에, 여자는 태도를 바꿀 수밖에 없었습니다. 「가서 네 남편을 불러 오라」 이 예수님의 한 마디는, 여자가 마음속에 품고 있던 모든 문제를 정확히 꿰뚫어 말한 것이었습니다. 오늘 본문은, 사연이 있는 여자가, 자신의 죄와 마주함으로써 예수님의 자기 증언을 받아들이고, 하나님을 알게 되며, 하나님을 바르게 예배하는 사람으로 변화되는 이야기입니다. 우리도, 지금 예배를 드리고 있지만, 무엇이 하나님께서 원하시는 참된 예배인지 생각하며, 오늘도 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜를 나누고자 합니다.

(1) 여자의 목마름

17~18절을 보시기 바랍니다.

17 여자가 대답하여 이르되 나는 남편이 없나이다 예수께서 이르시되 네가 남편이 없다 하는 말이 옳도다

18 너에게 남편 다섯이 있었고 지금 있는 자도 네 남편이 아니니 네 말이 참되도다

예수님의 핵심을 찌르는 한 마디에, 여자는 변명하려 하지만, 예수님은 모든 것을 꿰뚫어 보셨습니다. 이 여자에게는, 과거에 다섯 명의 남편이 있었다는 사실이 드러나고 말았습니다. 어떤 복잡한 사정이 있었는지는, 여기에는 자세히 기록되어 있지 않지만, 아마도 남자와 결혼했다가 파국을 맞은 일을 다섯 번이나 반복했을 것입니다. 그리고 지금의 남자와는 법적으로는 결혼 관계가 아니라, 단지 동거하고 있을 뿐이라고 합니다. 오늘날의 상황이라면, “뭐, 사람마다 자유니까, 그런 사람도 있겠지요.”라고 할지도 모릅니다. 그러나 당시 상황에서는 비정상적이었습니다. 다섯 번이나 이혼한 사람 같은 건, 당시 어디를 찾아봐도 찾아볼 수 없었을 것입니다. 이 여자는, 그렇지 않아도, 이미 헤어진 남자에게 마음 깊은 상처를 받았을 텐데, 그 위에 쐐기를 박듯, 주변 사람들로부터 터무니없는 여자라며 뒷손가락질을 받았을 것입니다. 험담과 비방 중상이 끊이지 않았을 것입니다. 그러다 어느새 자신도 사람들과의 교제를 피하게 되었고, 이렇게 한낮에 우물에 물을 길으러 온 것입니다. 이 여자는 바로 자신이 처한 불행한 상황에서 구원을 간절히 바라고 있었습니다. 자신의 죄가 초래한 비참한 결과로부터 속량되기를 원했던 것입니다. 자신의 힘으로는 더 이상 어찌할 수 없다고, 하나님 앞에 항복하며, 이 비참함에서, 열등감에서 회복되기를, 가능하다면 인생을 다시 한번 시작하고 싶어 했습니다. 여인은, 하나님의 축복과 하나님의 선물에 마음속 깊이 목말라 하고 있었습니다. 생각해 보면, 현재를 살아가는 우리도 약하고, 부족한 점이 많으며, 예수 그리스도를 만나기 전에는, 인간관계에서 실패하고, 인생의 좌절을 경험하며, 마음에 수많은 상처를 안고 있던 사람들이 아니었을까요? 마음 깊은 곳에 쓰라린 기억이나, 누구에게도 알리고 싶지 않은 죄에 짓눌려 있고, 이제 아무래도 좋다고 자포자기하거나, 사람들과의 교제를 피하게 되는, 그런 삶을, 적어도 저 자신은 한때 살았습니다. 여자의 마음속 외침은, 바로 우리가 한때 가졌던 마음의 외침이며, 여자의 목마름은 바로 우리의 목마름이라고 해도 과언이 아닐 것입니다.

(2) 참된 예배

여자는 자신의 죄를 지적받고, 지금 눈앞에 앉아 있는 사람과 진지하게 마주하게 되었습니다. 그리고 다음과 같은 질문을 했습니다. 19~20절을 보십시오.

19 여자가 이르되 주여 내가 보니 선지자로소이다

20 우리 조상들은 이 산에서 예배하였는데 당신들의 말은 예배할 곳이 예루살렘에 있다 하더이다

왜 여기서 갑자기, 예배 장소에 대해 질문했을까요? 이것은, 여자가 더 이상 자신의 비밀이 드러나는 것을 두려워하여 화제를 돌리려고, 얼버무리려 갑자기 주제를 바꾼 것이라고 몇몇 주석서에는 그렇게 쓰여 있었습니다. 그러나 저는, 도무지 그렇게 생각되지 않았습니다. 자신의 힘으로는 더 이상 어찌할 수 없다는 것을 깨달은 여자의 입에서, 뜻밖에도 근본적인 깊은 고민이, 입에서 순간 튀어나온 것이 아닐까 생각합니다. 즉, 여자는 “저는 하나님께 제 고민을 털어놓고 싶습니다.” “하나님께서 제 사정을 아시고, 제발 이 저를 불쌍히 여겨 주셨으면 합니다.”라고 말하고 있는 것 같습니다. 그러자 예수님께서 이렇게 말씀하셨습니다. 21~24절입니다.

21 예수께서 이르시되 여자여 내 말을 믿으라 이 산에서도 말고 너희가 아버지께 예배할 때가 이르리라

22 너희는 알지 못하는 것을 예배하고 우리는 아는 것을 예배하노니 이는 구원이 유대인에게서 남이라

23 아버지께 참되게 예배하는 자들은 영과 진리로 예배할 때가 오나니 곧 이 때라 아버지께서는 자기에게 이렇게 예배하는 자들을 찾으시느니라

24 하나님은 영이시니 예배하는 자가 영과 진리로 예배할지니라

간단히 말하자면, 예수님은 「여자여 내 말을 믿으라」고 말씀하십니다. 그리고 「네 참된 예배에 대한 갈망은 지금 채워질 것이다」라고 말씀하십니다. 그렇다면 예수님께서 말씀하시는 「참된 예배」란 대체 무엇일까요?

참된 예배를 이해하는데 중요한 실마리가 되는 것이 「하나님은 영이시니」라는 말씀입니다. 이는 피조물인 인간은, 결코 하나님께 가까이 갈 수 없다는 것을 의미합니다. 하나님은 가까이하기 어려운 빛 가운데 거하시며, 아무도 본 적이 없고 볼 수도 없는 분이시며, 피조물을 초월하신 분이십니다. 따라서 구약성경에서, 하나님이 나타나셨다는 기록이 몇 군데 있지만, 실제로는 그곳에 하나님이 실제로 계셨다는 것이 아니라 하나의 예표(預表)를 보았을 뿐이라고 합니다. 예를 들어, 벧엘에서 야곱에게 나타나시거나, 시내 산에서 모세에게 나타나시거나, 광야에서 구름 기둥과 불 기둥으로 나타나셨을지라도, 예를 들어, 시내 산에서 천둥과 함께 나타나신 후, 언약궤에 임재하시고 예루살렘 성전에 하나님이 거하신다고 성경에 계시되어 있다 하더라도 (시 132:13), 그것들은 하나님의 임재에 대한 표징이며, 하나님의 임재에 대한 보증에 지나지 않습니다. 즉 구약성경의 계시는, 반드시 하나님 자신의 존재와 완전히 일치하는 것은 아니라는 것입니다. 구약성경에서 주어진 계시는 그림자에 불과하며, 하나님에 대해, 진리에 대해 희미하게 나타낼 뿐입니다. 이와 마찬가지로 구약성경에서 하나님의 이름「야훼」가 계시되었지만, 설령 하나님이 자신의 이름으로 자신을 드러내셨다 하더라도, 실제로 어떤 이름이든 하나님을 올바르게 표현할 수는 없습니다. 애초에 피조물이 파악할 수 있는 하나님의 이름은 존재하지 않으며, 그는 기묘하시며, 인간은 결코 그의 숨겨진 근원을 헤아릴 수 없고, 전능자의 경계선이나, 전능자의 극치, 전능자의 그 본질을 알 수 없습니다. 그렇다면, 그런 보이지 않는 하나님을 우리는, 어떻게 예배할 수 있을까요? 예수님은「영과 진리로 예배할 때가 오나니 곧 이 때라」라고 말씀하셨습니다. 메시아이신 예수님의 오심으로 인해, 구약 시대가 성취되고 새 시대를 맞이했다는 뜻입니다. 구약의 계시는 임시적인 것이며, 진리로 인도하기 위한 일시적인 양육자에 불과했습니다. 그러나 신약 시대의 막이 열리고, 예전에 희미하게 전해진 복음이, 이제 예수 그리스도 안에서 분명히 드러난 것입니다. 하나님을 예배하는 자는, 하나님의 계시, 그 자체이신 예수 그리스도를 믿고 예배해야 한다고 말씀하시는 것입니다.

23절의 「영과 진리로 예배한다」는 구절은, 주석서에 따라 의견이 분분한 부분이지만, 「영」은 성령을 가리키는 것 같습니다. 예수님을 믿을 때, 우리는 성령의 부으심을 받아, 새롭게 태어납니다. 바로 그 성령을 의미하는 것이겠지요. 「진리」란 거짓과 대비되는 「진리」가 아니라, 구약 율법에 정해진 여러 규정과 대비되는「'진리」를 말하는 것 같습니다. 예를 들어, 구약 시대에 예배를 드리기 위해서는 지켜야 할 몇 가지 계명이 있었습니다. 안식일 규정이 있습니다. 토요일인 안식일은 하나님을 위해 따로 구별하여 그날에는 어떤 노동도 해서는 안 된다고 율법에 정해져 있습니다(출 20:10). 또는 음식 규정이라는 것이 있어서, 깨끗한 가축인 소나 양은 먹어도 좋지만, 돼지 같은 것은 먹어서는 안 된다고 정해져 있습니다(레 11장, 신 14장). 어류에 대해서도, 지느러미와 비늘이 있는 물고기는 먹어도 좋지만, 새우, 게, 오징어, 문어, 장어 같은 것은 부정한 것이므로 먹어서는 안 된다고 정해져 있습니다(레위기 11장, 신명기 14장). 구약 시대에는, 이러한 계명을 제대로 지켜 예배해야 했습니다. 그러나 신약의 참된 예배자는, 이러한 율법의 속박에서 해방된다는 것입니다. 「영과 진리로 예배할 때가 오나니 곧 이 때라」이제, 아브라함의 혈통인 이스라엘 민족이, 그대로 아브라함의 자손이 아닙니다. 마음에 할례를 받고, 믿음으로 그리스도의 것이 된 자야말로, 아브라함의 자손이라고 예수님께서 말씀하십니다. 따라서 「영과 진리로 예배한다」는 것은, 사실 예수님을 믿는 우리 교회의 예배를 가리키는 것입니다. 여자가 예수님께 말했습니다. 25절입니다.

25 여자가 이르되 메시야 곧 그리스도라 하는 이가 오실 줄을 내가 아노니 그가 오시면 모든 것을 우리에게 알려 주시리이다

사마리아인들은 메시아를 간절히 기다리고 있었습니다. 그러나 오직 모세 오경만을 성서로 삼았던 사마리아인들에게 있어서, 메시아에 대한 지식은 제한된 것이었습니다. 그들의 메시아상이 어떠했는지 말하자면, 신명기에 기록된 「모세와 같은 선지자」를 기다리고 있었다고 여겨집니다. 신명기 18:18을 보십시오.

신명기 18장

18 내가 그들의 형제 중에서 너와 같은 선지자 하나를 그들을 위하여 일으키고 내 말을 그 입에 두리니 내가 그에게 명령하는 것을 그가 무리에게 다 말하리라

이 모세같은 선지자를, 사마리아 사람들은「회복자(타헤브)」라고 불렀습니다. 이 회복자가 바로, 하나님에 대한 참된 믿음과 참된 예배를 회복시키는 사명을 지녔다고 믿었던 것 같습니다. 그러자 예수님께서 여자에게 「내가 그라」라고 말씀하셨습니다. 헬라어로는 「에고 에이미」라고 기록되어 있습니다. 「에고 에이미」는 출애굽기 3:14에서 주 하나님께서 모세에게 알려주신 자신의 이름입니다. 출애굽기 3:14을 보십시오.

출애굽기 3장

14 하나님이 모세에게 이르시되 나는 스스로 있는 자이니라 또 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 스스로 있는 자가 나를 너희에게 보내셨다 하라

하나님의 이름, 야훼 「나는 스스로 있다」, 헬라어로는 에고 에이미 「내가 그라」라고 예수님께서 여자에게 자신을 드러내셨습니다. 하나님의 자기 증언입니다. 이 말씀에, 사마리아 여자가 어떻게 반응했는지는 성경에 기록되어 있지 않지만, 단지 28절을 보면 물동이를 그곳에 버려 두고 동네로 돌아갔다고 하니, 다시 돌아올 의도였을지도 모릅니다. 어쨌든 급히 그곳을 떠났다는 것을 알 수 있습니다. 이어서 29~30절을 보십시오.

29 내가 행한 모든 일을 내게 말한 사람을 와서 보라 이는 그리스도가 아니냐 하니

30 그들이 동네에서 나와 예수께로 오더라

동네로 급히 돌아간 여자는, 사람들에게 예수님에 대해 증언하기 시작했습니다. 「내가 행한 모든 일을 내게 말한 사람을 와서 보라」 왜, 그토록 사람들과의 교제를 피해 다니던 여인이, 여기서는, 과거 자신이 저지른 부끄러운 일들을, 모두 드러낼 수 있었을까요? 그것은 죄에서 해방되어, 생명의 물이시며 샘이신, 예수님으로부터 끝없이 넘쳐흐르는 기쁨으로 마음이 가득 찼기 때문이 아닐까요. 하나님께서 이런 자신이라도 불쌍히 여기셨음을 예수님과의 만남을 통해 확신했기 때문이 아닐까요. 이 여자는 과거의 죄를 회개하고 새롭게 태어난 것입니다. 인간의 영혼의 목마름은, 이 세상의 것으로는, 결코 채울 수 없습니다. 그러나 하나님을 알고 하나님과 교제함으로써 비로소 영혼의 목마름이 채워지는 것입니다. 하나님이 원하시는 참된 예배란, 예수님을 통해 하나님을 알고, 회개로 인도되며, 하나님과의 교제가 회복되는 것을 말하는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 하나님이 요구하시는 참된 예배란, 메시아의 오심으로 인해, 구약의 율법에 얽매인 예배에서 해방되는 것을 의미했습니다. 하나님은 영이시므로, 그리심 산에 거하시는 것도 예루살렘 성전에 거하시는 것도 아닙니다. 예수 그리스도를 믿는 교회가 주의 날마다 함께 드리는 이 예배야말로 「영과 진리」로 예배하는 것입니다. 우리가 드리는 예배에야말로, 주님께서 임재하시며, 자신의 풍성함으로 교회를 채워 주십니다. 그리고 생수의 근원이신 예수님은, 오늘도 각양각색 사연이 있는 우리 한 사람 한 사람의 목마름을 치유해 주시고, 영생에 이르는 기쁨과 생기를 주십니다. 그러므로 우리는 매주 주일 예배를 진심으로 소중히 여기도록 합시다. 그리고 예수님을 통해 하나님과 교제하는 기쁨을 사람들과 나누며, 예수 그리스도를 담대히 가족과 친구, 지인들에게 증거하는 자들이 되도록 합시다.

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