2018年12月16日「王の結婚の譬え」

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1イエスは、また、たとえを用いて語られた。
2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章1節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

聖書の中で神の国とは、色々な比喩で説明されます。例えば、自分の畑に良い種を撒く農夫に譬えられたり、一粒のからし種、或いは、パン種に譬えられたり、良い真珠を探している一人の商人に譬えられたり、海に投げ降ろされた地引網に譬えられたり、色々な比喩で説明されています。本日の譬えでは、神の国は、(マタイに言わせれば天の国は)メシアの婚宴に譬えられています。聖書全体を見ましても、特に、神の国が婚宴に譬えられているという記事が繰り返し、反復されています。一般に結婚式と言えば、人生に一度の大切な儀式ですね。日にちや場所などを念入りに確定して、それらが決まったら、友人や親せき知人など、大切な方々に対して「ぜひ、お越しください」という、恭しい招待状を送ったりします。聖書にも同じようなことが書かれています。1-3節をご覧ください。

“天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。”

イスラエルにおいても、結婚式は大変重要な儀式として盛大に行われました。招待された客は7日間にも渡って飲み食いし、歌い、祝福の踊りを踊ったりしました。その間は、断食も免除されました。ユダヤ人にとって断食は毎週必ず定期的に行われていました。マタイ福音書9:15を見ると、婚宴の際、断食から解放された喜びについて少し書かれています。

“イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。”

ですから、婚宴に招待されることは、普通、名誉なことであって、これを拒絶することは大変失礼なことでした。普通の人の結婚式でさえこんな感じですから、ましてや、王子の結婚式となれば、断るなど考えられません。ところが、イエスさまの比喩を見ると、王子のための婚宴を催して、王が家来たちを送り、あらかじめ招待していた人々を呼びに行かせましたが、誰も来ようとしなかったと書いてあります。考えられないことが起こりました。ここで比喩の説明をさせていただきますと、王とは父なる神様を指しています。王子とは御子イエスキリストです。家来たちとは預言者たちです。旧約聖書では、あらかじめ何度も預言者たちを遣わしましたが、イスラエルはその呼びかけに応答しようとしなかったと書かれています。そこで、別の家来たちを使いに出して、次のように言わせました。4節をご覧ください。

“そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』”

ここで、鍵括弧の呼びかけの言葉をギリシャ語で見ると、文頭のところに「見よ」という言葉が挿入されていて、「見よ、私は自身の催す食事が用意された、雄牛と肥えた家畜は屠られた」という表現になっています。宴会をすべて王、自ら催してくださったということです。どんなに素晴らし食事が準備されているでしょうか。また、「見よ」という言葉によって、宴会がいよいよ、最高潮に達したということが分かります。この比喩の中には、神の救済の計画において、時が満ち、いよいよ御子がこの世に送られるという終末的な切迫した緊張感が漂っているということが読み取れます。御子が来て、暗闇に光が照らされるように、神の国が近づき、罪の赦しの喜ばしい福音が近づいたという状況において、イスラエルをせかし、急がせている状況です。ですから別の家来たちというのは、預言者たちではなく、洗礼者ヨハネや、そしてイエス様とイエスさまの弟子たちのことを指しています。そして“さあ、婚宴においでください。”と真心からの招きがなされているのです。ところがイスラエルの反応はと言いますと、彼らは、 “それを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ”ました。つまり、王子の婚宴よりも、自分たちの日常的な用事を優先し、あたかも招待など受けていないかのようにそれぞれが勝手なことをしてしまいました。王子の結婚式を完全に無視してします。さらに悪いことは、6節にありますように、その家来たちに乱暴を加え、殺してしまいました。これは洗礼者ヨハネとイエスさまの上に降りかかる受難を彷彿させるような内容です。王は怒って、軍隊を送り、人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまいました。

ここで一つ考えたいこととして、天国が「王の婚宴のようである」とは一体どういう意味かということです。聖書には教会がキリストの花嫁であると書かれています。しかしそうは言っても、なかなかイメージが涌いてきません。つまり、私たちが王の婚宴に与り、キリストの花嫁となり、神の家族に入れられ、イエス・キリストの父なる神がキリスト者の義理の父となり、私たち自身はイエスさまのものとされたということです。日本語に「結婚」という言葉に対して、「縁結び」という言葉がありますね。ですから、イエスさまと縁が結ばれた、契りが交わされた、改革派的には契約の中に入れられたということだと思います。エフェソ5:25では、キリストが教会と婚姻関係にあるということを、配偶者の教会に対し御自身をお与えになったと表現しています。聖書を御覧ください。

“夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。”

これは夫たちに対する勧めの言葉ですが、イエス様が教会にご自身をお与えになったように、妻を愛しなさいと言っています。結婚した夫婦において、夫は家族のために働き、妻と子供にすべてを犠牲にして与えようとしますね。その究極的模範がイエス様の教会に対する愛であるということです。反対に2コリント11:2では教会がどのようにイエス様のことを愛すればいいのか書かれています。御覧ください。これは、メシアと教会が結婚というより婚約関係にあるという状況を想定されています。

“あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。”

今、私たちが置かれている状態をメシアとの婚約状態であると言っています。キリスト者は、今、婚約させられているということです。本当の結婚式は、主の日、再臨の日、救いが完成する日だと思いますが、それはさておき、この婚約状態にあるとは、「夫に捧げられたもの」、既に「夫のもの」ということです。イエスさまも私たちにオールインしてくださり、私たちもイエスさまにオールインするということです。結婚とはそのような「縁結び」であるということです。次に8-9節をご覧ください。

“そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。”

町の大通りに出てというのは、町とは城壁で囲まれていまして、もう既に町自体は滅ぼされているのですが、ここの意味はニュアンス的には、「町から郊外へ出て行く出口」に立って、つまり「関所を出て」というような感じです。そこで、市民を招くというより、旅人たちを招くというイメージです。もちろんユダヤ人を絶対に招かないという意味ではありませんが、ユダヤ人でも異邦人でも、民族に関係なく誰でも招かれるということです。イエスさまの弟子たちによって、宣教が拡大する状況を思い浮かべてください。この招きにおいてポイントとなるのは「悪人であれ、善人であれ」、見かけ次第集められたという点です。ギリシャ語には「悪人」が善人より先に書かれていて、悪人にポイントが置かれています。つまり天国には遊女であろうと、徴税人であろうと、異邦人であろうと、誰であろうと、無条件で婚宴に招かれているということです。少し、ヤケになっているように見えますが、この御言葉の背景には、素晴らしい天国への招きを無視したユダヤ人を叱責し、彼らからその特権が剥奪され、イスラエルから異邦人へ教会が移っていったということを読み取ることが出来ます。ところが、話はここで終わりません。まだ続きます。11-13節をご覧ください。

“王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』”

婚宴もクライマックスを迎え、王は客を見ようとして全体を一望しました。ところが礼服を着ていない人が一人いたというのです。ここに書かれている厳粛な事実は、やがて来る主の日、つまりイエス様が再臨されて、裁きが行われる日、婚宴に集められた列席者の中から外へ締め出される人がいると言う事実です。神さまが招かれた人々が皆、宴会の席につけるかというと、そうではないということです。この御言葉を聞いて、私たちは「てっきり大丈夫だと思っていたのに、実際の所、ヤバイんじゃないですか」と問いたくなりますね。ということは、「今すぐ百貨店に行って、良い礼服を買って来い」ということなのでしょうか。そういうことではありませんね。私たちはこれまで救いにおいて、「礼服が必要だ」などと教えられたことは一度もありません。それでは、この礼服とは一体何だということになります。ヨハネの黙示録19:7-8をご覧ください。ここでは、礼服とは「義なる服」と書かれています。

“わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」”

「義なる服を着せられる」、とか、ガラテヤ書3章にある「キリストを帰せられる」という表現は、神様の約束であって、恵みにより信仰によって着せられるということです。私たちが義の衣を準備するということなら、これは、負いきれない大きな負担となってしまいます。当時、王の宴会に与るための礼服とは、王宮において王から支給されるものでした。創世記を見ますと(創41:14)、囚人であったヨセフは突然、王に召し出された時、「着物を着替えてファラオのもとに行くことが出来ました。」エステル記を見ますと(エス2:3)、王妃候補者として全国の美しい女性を召集した時も、「化粧のための品々」を支給した上で、美しく着飾らせて王に謁見しました。王の前に出る者は、備えのない囚人や普通の市民である場合、王から与えられる晴れ着を身に着けて出たのです。もし、招かれた人が各自で礼服を持参すべきだったとしたら、礼服を着ていない彼は「貧しくて礼服など持っていません」とか、「歩いていたらいきなり婚宴に招待されて、家に帰って着替える暇もありませんでした。」と、いくらでも弁解できるはずです。ところが、王から叱責された時、ただ黙っていただけでした。これは彼が故意に礼服を着ようとしなかったからです。ひょっとしたら、王から支給された「礼服」を着るのが、恥ずかしいとか、ダサいと思ったのかもしれません。さらに言えば、自分が準備した服の方が、センスがありかっこいいじゃないかと思ってしまったのかもしれません。私たちは決して、自分の義によって天国に入ることは出来ません。そうであるなら私たちの内に功績とか、何か自慢できるようなものなど何もないのです。私たちは、ただ、恵みによってイエス・キリストからご自身の命と、イエスキリストそのものを与えられました。だからこそ、キリストと縁が結ばれ、私たちも自身もキリストのものとされ、キリストに捧げられたのです。私たちは、この地上にあって、キリストと結合され一つとなり、神の律法を成就した者として、キリストの生涯を生きているのです。そこにはもう自我の入る余地などありません。ですから、私たちの人生とは自分一人で自由に歩んでいるように見えるかもしれませんが、実はキリストのご支配の中で、子ロバが雌ロバに頸木を掛けられてエルサレムに入城したように、私たちもキリストに頸木を掛けられて、二人三脚になって共に歩ませていただいているのです。二人三脚である以上、私たちはただイエスさまの御心を探り求めながら、パートナーであるイエスさまの息づかいに合わせるように、御言葉への従順と、小さなことに対する忠実さをもって人生を歩むべきです。私たちが、天に召され、メシアの婚宴の席において万が一、キリストの義の衣を差し出されたならば、間違っても、そこで、自分の義を主張したり、今まで抑圧されていた自我を爆発させて、衣の色にこだわってしまったり、裾の長さや襟の形などに強情を張ってはなりません。与えられた衣を喜んで受け入れ、素直に感謝して、義の衣を纏わなければなりません。この世にあっても私たちは、キリストが王として支配しておられますので、すべてのことに従順に、全てことに忠実に、感謝しつつ日々歩ませていただきましょう。

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