2018年12月16日「王の結婚の譬え 임금의 혼인 잔치에 대한 비유」

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王の結婚の譬え 임금의 혼인 잔치에 대한 비유

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章1節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。
2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章1節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

聖書の中で神の国とは、色々な比喩で説明されます。例えば、自分の畑に良い種を撒く農夫に譬えられたり、一粒のからし種、或いは、パン種に譬えられたり、良い真珠を探している一人の商人に譬えられたり、海に投げ降ろされた地引網に譬えられたり、色々な比喩で説明されています。本日の譬えでは、神の国は、(マタイに言わせれば天の国は)メシアの婚宴に譬えられています。聖書全体を見ましても、特に、神の国が婚宴に譬えられているという記事が繰り返し、反復されています。一般に結婚式と言えば、人生に一度の大切な儀式ですね。日にちや場所などを念入りに確定して、それらが決まったら、友人や親せき知人など、大切な方々に対して「ぜひ、お越しください」という、恭しい招待状を送ったりします。聖書にも同じようなことが書かれています。1-3節をご覧ください。

“天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。”

イスラエルにおいても、結婚式は大変重要な儀式として盛大に行われました。招待された客は7日間にも渡って飲み食いし、歌い、祝福の踊りを踊ったりしました。その間は、断食も免除されました。ユダヤ人にとって断食は毎週必ず定期的に行われていました。マタイ福音書9:15を見ると、婚宴の際、断食から解放された喜びについて少し書かれています。

“イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。”

ですから、婚宴に招待されることは、普通、名誉なことであって、これを拒絶することは大変失礼なことでした。普通の人の結婚式でさえこんな感じですから、ましてや、王子の結婚式となれば、断るなど考えられません。ところが、イエスさまの比喩を見ると、王子のための婚宴を催して、王が家来たちを送り、あらかじめ招待していた人々を呼びに行かせましたが、誰も来ようとしなかったと書いてあります。考えられないことが起こりました。ここで比喩の説明をさせていただきますと、王とは父なる神様を指しています。王子とは御子イエスキリストです。家来たちとは預言者たちです。旧約聖書では、あらかじめ何度も預言者たちを遣わしましたが、イスラエルはその呼びかけに応答しようとしなかったと書かれています。そこで、別の家来たちを使いに出して、次のように言わせました。4節をご覧ください。

“そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』”

ここで、鍵括弧の呼びかけの言葉をギリシャ語で見ると、文頭のところに「見よ」という言葉が挿入されていて、「見よ、私は自身の催す食事が用意された、雄牛と肥えた家畜は屠られた」という表現になっています。宴会をすべて王、自ら催してくださったということです。どんなに素晴らし食事が準備されているでしょうか。また、「見よ」という言葉によって、宴会がいよいよ、最高潮に達したということが分かります。この比喩の中には、神の救済の計画において、時が満ち、いよいよ御子がこの世に送られるという終末的な切迫した緊張感が漂っているということが読み取れます。御子が来て、暗闇に光が照らされるように、神の国が近づき、罪の赦しの喜ばしい福音が近づいたという状況において、イスラエルをせかし、急がせている状況です。ですから別の家来たちというのは、預言者たちではなく、洗礼者ヨハネや、そしてイエス様とイエスさまの弟子たちのことを指しています。そして“さあ、婚宴においでください。”と真心からの招きがなされているのです。ところがイスラエルの反応はと言いますと、彼らは、 “それを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ”ました。つまり、王子の婚宴よりも、自分たちの日常的な用事を優先し、あたかも招待など受けていないかのようにそれぞれが勝手なことをしてしまいました。王子の結婚式を完全に無視してします。さらに悪いことは、6節にありますように、その家来たちに乱暴を加え、殺してしまいました。これは洗礼者ヨハネとイエスさまの上に降りかかる受難を彷彿させるような内容です。王は怒って、軍隊を送り、人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまいました。

ここで一つ考えたいこととして、天国が「王の婚宴のようである」とは一体どういう意味かということです。聖書には教会がキリストの花嫁であると書かれています。しかしそうは言っても、なかなかイメージが涌いてきません。つまり、私たちが王の婚宴に与り、キリストの花嫁となり、神の家族に入れられ、イエス・キリストの父なる神がキリスト者の義理の父となり、私たち自身はイエスさまのものとされたということです。日本語に「結婚」という言葉に対して、「縁結び」という言葉がありますね。ですから、イエスさまと縁が結ばれた、契りが交わされた、改革派的には契約の中に入れられたということだと思います。エフェソ5:25では、キリストが教会と婚姻関係にあるということを、配偶者の教会に対し御自身をお与えになったと表現しています。聖書を御覧ください。

“夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。”

これは夫たちに対する勧めの言葉ですが、イエス様が教会にご自身をお与えになったように、妻を愛しなさいと言っています。結婚した夫婦において、夫は家族のために働き、妻と子供にすべてを犠牲にして与えようとしますね。その究極的模範がイエス様の教会に対する愛であるということです。反対に2コリント11:2では教会がどのようにイエス様のことを愛すればいいのか書かれています。御覧ください。これは、メシアと教会が結婚というより婚約関係にあるという状況を想定されています。

“あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。”

今、私たちが置かれている状態をメシアとの婚約状態であると言っています。キリスト者は、今、婚約させられているということです。本当の結婚式は、主の日、再臨の日、救いが完成する日だと思いますが、それはさておき、この婚約状態にあるとは、「夫に捧げられたもの」、既に「夫のもの」ということです。イエスさまも私たちにオールインしてくださり、私たちもイエスさまにオールインするということです。結婚とはそのような「縁結び」であるということです。次に8-9節をご覧ください。

“そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。”

町の大通りに出てというのは、町とは城壁で囲まれていまして、もう既に町自体は滅ぼされているのですが、ここの意味はニュアンス的には、「町から郊外へ出て行く出口」に立って、つまり「関所を出て」というような感じです。そこで、市民を招くというより、旅人たちを招くというイメージです。もちろんユダヤ人を絶対に招かないという意味ではありませんが、ユダヤ人でも異邦人でも、民族に関係なく誰でも招かれるということです。イエスさまの弟子たちによって、宣教が拡大する状況を思い浮かべてください。この招きにおいてポイントとなるのは「悪人であれ、善人であれ」、見かけ次第集められたという点です。ギリシャ語には「悪人」が善人より先に書かれていて、悪人にポイントが置かれています。つまり天国には遊女であろうと、徴税人であろうと、異邦人であろうと、誰であろうと、無条件で婚宴に招かれているということです。少し、ヤケになっているように見えますが、この御言葉の背景には、素晴らしい天国への招きを無視したユダヤ人を叱責し、彼らからその特権が剥奪され、イスラエルから異邦人へ教会が移っていったということを読み取ることが出来ます。ところが、話はここで終わりません。まだ続きます。11-13節をご覧ください。

“王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』”

婚宴もクライマックスを迎え、王は客を見ようとして全体を一望しました。ところが礼服を着ていない人が一人いたというのです。ここに書かれている厳粛な事実は、やがて来る主の日、つまりイエス様が再臨されて、裁きが行われる日、婚宴に集められた列席者の中から外へ締め出される人がいると言う事実です。神さまが招かれた人々が皆、宴会の席につけるかというと、そうではないということです。この御言葉を聞いて、私たちは「てっきり大丈夫だと思っていたのに、実際の所、ヤバイんじゃないですか」と問いたくなりますね。ということは、「今すぐ百貨店に行って、良い礼服を買って来い」ということなのでしょうか。そういうことではありませんね。私たちはこれまで救いにおいて、「礼服が必要だ」などと教えられたことは一度もありません。それでは、この礼服とは一体何だということになります。ヨハネの黙示録19:7-8をご覧ください。ここでは、礼服とは「義なる服」と書かれています。

“わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」”

「義なる服を着せられる」、とか、ガラテヤ書3章にある「キリストを帰せられる」という表現は、神様の約束であって、恵みにより信仰によって着せられるということです。私たちが義の衣を準備するということなら、これは、負いきれない大きな負担となってしまいます。当時、王の宴会に与るための礼服とは、王宮において王から支給されるものでした。創世記を見ますと(創41:14)、囚人であったヨセフは突然、王に召し出された時、「着物を着替えてファラオのもとに行くことが出来ました。」エステル記を見ますと(エス2:3)、王妃候補者として全国の美しい女性を召集した時も、「化粧のための品々」を支給した上で、美しく着飾らせて王に謁見しました。王の前に出る者は、備えのない囚人や普通の市民である場合、王から与えられる晴れ着を身に着けて出たのです。もし、招かれた人が各自で礼服を持参すべきだったとしたら、礼服を着ていない彼は「貧しくて礼服など持っていません」とか、「歩いていたらいきなり婚宴に招待されて、家に帰って着替える暇もありませんでした。」と、いくらでも弁解できるはずです。ところが、王から叱責された時、ただ黙っていただけでした。これは彼が故意に礼服を着ようとしなかったからです。ひょっとしたら、王から支給された「礼服」を着るのが、恥ずかしいとか、ダサいと思ったのかもしれません。さらに言えば、自分が準備した服の方が、センスがありかっこいいじゃないかと思ってしまったのかもしれません。私たちは決して、自分の義によって天国に入ることは出来ません。そうであるなら私たちの内に功績とか、何か自慢できるようなものなど何もないのです。私たちは、ただ、恵みによってイエス・キリストからご自身の命と、イエスキリストそのものを与えられました。だからこそ、キリストと縁が結ばれ、私たちも自身もキリストのものとされ、キリストに捧げられたのです。私たちは、この地上にあって、キリストと結合され一つとなり、神の律法を成就した者として、キリストの生涯を生きているのです。そこにはもう自我の入る余地などありません。ですから、私たちの人生とは自分一人で自由に歩んでいるように見えるかもしれませんが、実はキリストのご支配の中で、子ロバが雌ロバに頸木を掛けられてエルサレムに入城したように、私たちもキリストに頸木を掛けられて、二人三脚になって共に歩ませていただいているのです。二人三脚である以上、私たちはただイエスさまの御心を探り求めながら、パートナーであるイエスさまの息づかいに合わせるように、御言葉への従順と、小さなことに対する忠実さをもって人生を歩むべきです。私たちが、天に召され、メシアの婚宴の席において万が一、キリストの義の衣を差し出されたならば、間違っても、そこで、自分の義を主張したり、今まで抑圧されていた自我を爆発させて、衣の色にこだわってしまったり、裾の長さや襟の形などに強情を張ってはなりません。与えられた衣を喜んで受け入れ、素直に感謝して、義の衣を纏わなければなりません。この世にあっても私たちは、キリストが王として支配しておられますので、すべてのことに従順に、全てことに忠実に、感謝しつつ日々歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

임금의 혼인 잔치에 대한 비유

2018년 12월16일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 22장 1절~14절

성경에서, 하나님의 나라는 여러 가지 비유로 설명됩니다. 예를 들어, 자기 밭에 좋은 씨를 뿌리는 농부에 비유되기도 하고, 한 알의 겨자씨나 누룩에 비유되기도 하며, 좋은 진주를 찾는 한 상인에게 비유되기도 하고, 바다에 던져진 그물에 비유되기도 하는 등 다양한 비유로 설명됩니다. 오늘의 비유에서는 하나님의 나라(마태복음에서는 하늘나라)가 메시아의 혼인 잔치에 비유됩니다. 성경 전체를 살펴보아도, 특히, 하나님의 나라가 혼인 잔치에 비유된 기록이 반복적으로 등장합니다. 일반적으로 결혼식은, 인생에 한 번뿐인 중요한 의식입니다. 날짜나 장소 등을 꼼꼼히 정하고, 그것들이 결정되면 친구나 친척 지인 등 소중한 분들에게「꼭 참석해주시기 바랍니다」라는 정중한 초대장을 보내기도 합니다. 성경에도 비슷한 내용이 기록되어 있습니다. 1-3절을 보십시오.

1 예수께서 다시 비유로 대답하여 이르시되

2 천국은 마치 자기 아들을 위하여 혼인 잔치를 베푼 어떤 임금과 같으니

3 그 종들을 보내어 그 청한 사람들을 혼인 잔치에 오라 하였더니 오기를 싫어하거늘

그러므로 혼인 잔치에 초대받는 것은 일반적으로, 영광스러운 일이며, 이를 거절하는 것은 매우 실례되는 일이었습니다. 평범한 사람의 결혼식조차 이런 분위기인데, 하물며 왕자의 혼인 잔치라면, 거절하는 것은 상상조차 할 수 없었습니다. 그런데 예수님의 비유를 보면, 왕자를 위한 혼인 잔치를 베풀고, 왕이 신하들을 보내 미리 청했던 사람들을 불러오게 하였으나 아무도 오려 하지 않았다고 기록되어 있습니다. 상상할 수 없는 일이 일어났습니다. 여기서 비유의 설명을 드리자면, 임금은 아버지 하나님을 가리킵니다. 왕자는 하나님의 아들 예수 그리스도입니다. 종들은 선지자들입니다. 구약성경에서는 미리 여러 번 선지자들을 보내셨지만, 이스라엘은 그 부르심에 응답하려 하지 않았다고 기록되어 있습니다. 그래서 다른 종들을 보내어 이렇게 말하게 하셨습니다. 4절을 보십시오.

4 다시 다른 종들을 보내며 이르되 청한 사람들에게 이르기를 내가 오찬을 준비하되 나의 소와 살진 짐승을 잡고 모든 것을 갖추었으니 혼인 잔치에 오소서 하라 하였더니

이스라엘에서도 결혼식은 매우 중요한 의식으로 성대하게 거행되었습니다. 초대받은 손님들은, 7일 동안 먹고 마시며 노래하고 축복의 춤을 추었습니다. 그 기간 동안 금식도 면제되었습니다. 유대인들에게 금식은 매주 반드시 정기적으로 행해졌습니다. 마태복음 9:15을 보면, 혼인 잔치 때 금식에서 해방된 기쁨에 대해 조금 기록되어 있습니다.

마태복음 9장

15 예수께서 그들에게 이르시되 혼인집 손님들이 신랑과 함께 있을 동안에 슬퍼할 수 있느냐 그러나 신랑을 빼앗길 날이 이르리니 그 때에는 금식할 것이니라

여기서 22:4절의「내가 오찬을 준비하되..」라는 말의 헬라어를 보면, 문장 시작 부분에 「보라」라는 말이 삽입되어 있어 「보라, 내가 오찬을 준비하되 나의 소와 살진 짐승을 잡고 모든 것을 갖추었으니」라는 표현이 됩니다. 잔치를 모두 왕께서 친히 마련해 주신 것입니다. 얼마나 훌륭한 잔치가 준비되었을까요? 또한 「보라」라는 말로 인해, 잔치가 이제 막, 절정에 달했음을 알 수 있습니다. 이 비유 속에는 하나님의 구원 계획 가운데, 때가 차서 마침내 아들이 이 세상에 보내진다는, 종말론적 긴박감이 배어 있음을 읽을 수 있습니다. 아들이 오셔서 어둠에 빛이 비추듯, 하나님의 나라가 가까워지고 죄 사함의 기쁜 복음이 다가온 상황에서 이스라엘을 재촉하고 서두르게 하는 상황입니다. 그러므로 다른 종들이라는 것은, 선지자들이 아니라 세례 요한과 예수님, 그리고 예수님의 제자들을 가리킵니다. 그리고 「자, 혼인 잔치에 오십시오.」라는 진심 어린 초대가 이루어지고 있습니다. 그러나 이스라엘의 반응은 어땠을까요? 「그들이 돌아보지도 않고 한 사람은 자기 밭으로, 한 사람은 자기 사업하러 가고」즉, 왕자의 혼인 잔치보다 자신들의 일상적인 일을 우선시하며, 마치 초대조차 받지 않은 것처럼 각자 제멋대로 행동해 버렸습니다. 왕자의 결혼식을 완전히 무시해 버린 것입니다. 더 나쁜 것은 6절에 나와 있듯이, 그 종들에게 폭행을 가하고 죽여 버렸습니다. 이는 세례 요한과 예수님께 닥칠 고난을 연상시키는 내용입니다. 왕은 분노하여 군대를 보내 살인한 자들을 진멸하고 그 동네를 불살랐습니다.

여기서 한 가지 생각해 볼 점은, 천국이 「임금의 혼인 잔치와 같다」는 것이 대체 무슨 뜻인가 하는 것입니다. 성경에는, 교회가 그리스도의 신부라고 기록되어 있습니다. 하지만 그렇게 말해도 쉽게 이미지가 떠오르지 않습니다. 즉, 우리가 왕의 혼인 잔치에 참여하여 그리스도의 신부가 되고, 하나님의 가족으로 받아들여지며, 예수 그리스도의 아버지, 하나님이 그리스도인의 양부가 되시고, 우리 자신은 예수님의 소유가 되었다는 것입니다. 일본어에는 「결혼」이라는 말에 대해 「인연 맺기」라는 말이 있지요. 그러므로 예수님과 인연이 맺어지고, 언약이 체결되었으며, 개혁파적으로 말하면 언약 안에 들어갔다는 뜻이라고 생각합니다. 에베소서 5:25에서는 그리스도가 교회와 혼인 관계에 있다는 것을, 배우자인 교회에게 자신을 내어주셨다고 표현하고 있습니다. 성경을 보십시오.

에베소서 5장

25 남편들아 아내 사랑하기를 그리스도께서 교회를 사랑하시고 그 교회를 위하여 자신을 주심 같이 하라

이것은 남편들에게 주는 권면의 말씀이지만, 예수님께서 교회에 자신을 내어주신 것처럼 아내를 사랑하라고 말씀하십니다. 결혼한 부부에서 남편은 가족을 위해 일하며 아내와 자녀에게 모든 것을 희생하여 주려고 합니다. 그 궁극적인 모범이, 예수님의 교회에 대한 사랑이라는 것입니다. 반대로 고린도후서 11:2에서는, 교회가 어떻게 예수님을 사랑해야 하는지 기록되어 있습니다. 보십시오. 이는 메시아와 교회가 결혼이라기보다 약혼 관계에 있다는 상황을 가정하고 있습니다.

고린도후서 11장

2 내가 하나님의 열심으로 너희를 위하여 열심을 내노니 내가 너희를 정결한 처녀로 한 남편인 그리스도께 드리려고 중매함이로다 그러나 나는

지금 우리가 처한 상태를 메시아와의 약혼 상태라고 말하고 있습니다. 그리스도인은 지금 약혼 상태에 있다는 것입니다. 진정한 결혼식은 주님의 날, 재림의 날, 구원이 완성되는 날이라고 생각하지만, 그건 제쳐두고, 이 약혼 상태에 있다는 것은 「남편에게 드려진 것」, 이미 「남편의 것」이라는 뜻입니다. 예수님도 우리에게 올인해 주시고, 우리도 예수님께 올인한다는 것입니다. 결혼이란 바로 그런 「인연 맺음」이라는 것입니다. 다음으로 8-9절을 보십시오.

8 이에 종들에게 이르되 혼인 잔치는 준비되었으나 청한 사람들은 합당하지 아니하니

9 네거리 길에 가서 사람을 만나는 대로 혼인 잔치에 청하여 오라 한대

동네의 네거리 길에 가라는 것은, 동네가 이 성벽으로 둘러싸여 있고 이미 동네 자체는 파괴되었지만, 여기서 의미하는 바는, 뉘앙스상「마을에서 교외로 나가는 출구」에 서서, 즉 「관문을 나서서」라는 느낌입니다. 따라서 시민을 부른다는 것보다 여행자들을 부른다는 이미지입니다. 물론 유대인을 절대 부르지 않는다는 뜻은 아니지만, 유대인이든 이방인이든 민족과 관계없이 누구나 초대된다는 것입니다. 예수님의 제자들에 의해 선교가 확대되는 상황을 떠올려 보십시오. 이 초대에 있어서 핵심은 「악한 자나 선한 자나」 만나는 대로 청하라는 점입니다. 그리스어 원문에는「악한 자」가, 선한 자보다 먼저 기록되어 있어 악한 자에게 초점이 맞춰져 있습니다. 즉 천국에는 창녀든, 세리든, 이방인이든, 누구든 무조건 혼인 잔치에 초대받고 있다는 것입니다. 조금, 자포자기한 것처럼 보이지만, 이 말씀의 배경에는 놀라운 천국 초대를 무시한 유대인들을 꾸짖고, 그들에게서 그 특권이 박탈되어 이스라엘에서 이방인으로 교회가 옮겨갔다는 점을 읽어낼 수 있습니다. 그러나 이야기는 여기서 끝나지 않습니다. 아직 계속됩니다. 11-13절을 보십시오.

11 임금이 손님들을 보러 들어올 새 거기서 예복을 입지 않은 한 사람을 보고

12 이르되 친구여 어찌하여 예복을 입지 않고 여기 들어왔느냐 하니 그가 아무 말도 못하거늘

13 임금이 사환들에게 말하되 그 손발을 묶어 바깥 어두운 데에 내던지라 거기서 슬피 울며 이를 갈게 되리라 하니라

혼인 잔치가 절정에 이르자 임금은 손님들을 보러 들어왔습니다. 그런데 예복을 입지 않은 한 사람이 있었다고 합니다. 여기에 기록된 엄숙한 사실은, 곧 다가올 주님의 날, 즉 예수님께서 재림하셔서 심판이 이루어지는 날, 혼인 잔치에 모인 참석자들 가운데 밖으로 쫓겨나는 사람이 있다는 사실입니다. 하나님께서 부르신 사람들이 모두 잔치 자리에 앉을 수 있는가 하면, 그렇지 않다는 것입니다. 이 말씀을 듣고 우리는 「분명히 괜찮을 거라 생각했는데, 사실은 위험한 게 아닌가요?」라고 묻고 싶어집니다. 그렇다면 「지금 당장 백화점에 가서 좋은 예복을 사 오라」는 뜻일까요? 그렇지 않습니다. 우리는 지금까지 구원 안에서 「예복이 필요하다」는 가르침을 단 한 번도 받은 적이 없습니다. 그렇다면 이 예복은 대체 무엇일까요? 요한계시록 19:7-8을 보십시오. 여기서 예복은 「성도들의 옳은 행실」이라고 기록되어 있습니다.

요한계시록 19장

7 우리가 즐거워하고 크게 기뻐하며 그에게 영광을 돌리세 어린 양의 혼인 기약이 이르렀고 그의 아내가 자신을 준비하였으므로

8 그에게 빛나고 깨끗한 세마포 옷을 입도록 허락하셨으니 이 세마포 옷은 성도들의 옳은 행실이로다 하더라

「의의 옷을 입히신다」거나 갈라디아서 3장에 나오는 「그리스도로 옷 입었느니라」라는 표현은 하나님의 약속이며, 은혜로, 믿음으로 입혀진다는 뜻입니다. 우리가 의의 옷을 준비한다는 것이라면, 이는 감당하기 어려운 큰 부담이 되어 버립니다. 당시 왕의 연회에 참여하기 위한 예복은, 왕궁에서 왕이 지급하는 것이었습니다. 창세기를 보면(창 41:14), 죄수였던 요셉이 갑자기 왕에게 부르심을 받았을 때, 「그의 옷을 갈아 입고 바로에게 들어가니」 에스더서를 보면(에2:3), 왕비 후보자로 전국의 아름다운 여인들을 모았을 때도, 「그 몸을 정결하게 하는 물품」을 지급한 뒤 아름답게 단장시켜 왕에게 뵈었습니다. 왕 앞에 나아가는 자는, 준비가 없는 죄수나 평범한 시민인 경우, 왕이 주는 예복을 입고 나갔습니다. 만약 초대받은 사람이 각자 예복을 지참해야 했다면, 예복을 입지 않은 그는 「가난해서 예복 같은 건 없습니다」라거나, 「걸어가다가 갑자기 혼인 잔치에 초대되어 집에 돌아가 갈아입을 시간도 없었습니다」라고 얼마든지 변명할 수 있었을 것입니다. 그런데 임금에게 꾸지람을 들었을 때, 그는 그저 침묵했을 뿐이었습니다. 이는, 그가 고의로 예복을 입으려 하지 않았기 때문입니다. 어쩌면 임금이 지급한 「예복」을 입는 것이 부끄럽거나, 촌스럽다고 생각했을지도 모릅니다. 더 나아가 자신이 준비한 옷이 더 세련되고 멋지다고 생각했을 수도 있습니다. 우리는 결코 자신의 의로 천국에 들어갈 수 없습니다. 그렇다면 우리 안에는, 공로나 자랑할 만한 것이 아무것도 없습니다. 오직 은혜로 예수 그리스도께서 자신의 생명과 예수 그리스도 그 자체를 우리에게 주셨습니다. 그래서 우리는 그리스도와 인연을 맺고, 우리 자신도 그리스도의 것이 되어 그분께 바쳐졌습니다. 우리는 이 땅에서 그리스도와 연합되어, 하나가 되어 하나님의 율법을 성취한 자로서 그리스도의 삶을 살고 있습니다. 거기에는 더 이상 자아가 들어갈 여지가 없습니다. 그러므로 우리의 인생은, 혼자서 자유롭게 걸어가는 것처럼 보일지 모르지만, 사실은 그리스도의 통치 아래에서, 새끼 나귀가 암나귀에게 목줄을 매여 예루살렘에 입성했던 것처럼, 우리도 그리스도께 목줄을 매여, 두 사람이 이인삼각의 한 팀이 되어 함께 걸어가게 하신 것입니다. 둘이서 한 걸음씩 나아가는 이상, 우리는 오직 예수님의 뜻을 찾고 구하며, 동반자이신 예수님의 숨결에 맞추듯, 말씀에 대한 순종과 작은 일에 대한 충실함으로 인생을 걸어가야 합니다. 우리가 하늘의 부르심을 받아, 메시아의 혼인 잔치의 자리에, 만일 그리스도의 의의 옷을 받게 된다면, 결코 그곳에서 자신의 의를 주장하거나 지금까지 억눌려 있던 자아를 폭발시켜 옷의 색깔에 집착하거나, 옷자락의 길이, 옷깃 모양 등에 고집을 부려서는 안 됩니다. 주어진 옷을 기쁘게 받아들이고 순순히 감사하며 의의 옷을 입어야 합니다. 이 세상에서도, 그리스도께서 왕으로 다스리시고 계시므로 우리는, 모든 일에 순종하며 모든 일에 충성하며, 감사하며 나아갑시다.

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