2025年07月20日「イエスの言われる神殿 예수께서 말씀하시는 성전」

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イエスの言われる神殿 예수께서 말씀하시는 성전

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 2章13節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 2章13節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ガリラヤのカフェルナウムでしばらく過ごされたイエス様は、ユダヤの最大の祭りである過越し祭が近づいたためエルサレムに上っていくことにしました。律法ではユダヤ人の成人男子はすべて、この過越し祭を守るようにと定められていますから、エルサレムは多くの人々でごった返していたと思われます。

【1】. 宮清め

13節冒頭の言葉に注目してください。「ユダヤ人の過越し祭が近づいたので」とあります。勿論、著者であるヨハネもユダヤ人でありますが、ヨハネが「ユダヤ人」という言葉を使用する時、常にそれは教会を迫害するユダヤ当局者たちが念頭に置かれていて、イエス様に敵対する勢力を表しています。ですから、「ユダヤ人の過越し祭」という言葉には、その過越し祭は、もはや教会では祝われない過去のものとなった、もはや教会とは関係ない古いしきたりとなったということが暗に伝わってくるのであります。その理由は、後ほどまた説明いたしますが、新しい過越し祭が、新しい秩序がイエス・キリストによって導入されたからであります。

イエス様は神殿の境内に入られました。当時のエルサレム神殿は、改修工事がなされている最中であり、ソロモンの第一神殿に比べると大変複雑な構造になっていました。神殿の境内には、第一に祭司しか入ることが許されない「祭司の庭」があります。その外側にユダヤ人の男性が入ることが許されている「男子の庭」があり、その外側にユダヤ人の女性が入ることが許されている「女子の庭」がありました。さらにその外側に異邦人が入ることが許されている「異邦人の庭」という場所があり、恐らくここで、生贄として捧げるための家畜が売られていたと思われます。神殿で家畜を販売するのは、合法とされていました。多くの人々が遠くからやって来るのに、各自が供え物の動物を、傷をつけないようにエルサレムまで運んでくることは困難ですから、傷のない検査済みの動物を、決められた場所で手に入れることができた訳です。本来は、牛とか羊を献げるべきですが、経済的に余裕がなければ、代わりに鳩を献げることも認められていました。また、ローマの貨幣にはローマ皇帝の像が刻まれているため、それをそのまま神殿税として納めるわけにはいきません。ローマの貨幣をユダヤの銀のシェケルに両替する両替人も、異邦人の庭に備え付けられていました。これらの家畜を販売する商人たち、両替人たちは、いずれも祭司の身内だったり、祭司の親族たちだったと考えられますが、彼らの存在は、巡礼者が礼拝をきちんと献げられるようにするために、必要不可欠であったと言えるでしょう。そんな彼らを、イエス様はご覧になって、怒りを爆発させたのであります。15~16節をご覧ください。

“イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」”

この出来事は、一般的に「宮清め」と呼ばれています。私たちが持っているイエス様のイメージとは、かけ離れた姿がここに描かれています。初めてこの個所を読まれる方には、イエス様が力に訴えて、本当にこのようなことをなされたのだろうか?何かの間違いではないのか?と思われるかもしれません。イエス様は、後にも先にも見せたことのないような激しい怒りを、この時、露わにされたのです。イエス様にもこんな一面があったというのは大変驚きですが、これほどまで感情的になられた理由とは一体何だったのでしょうか。

その理由は、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」というイエス様の一言に尽きるのではと思われます。イエス様は神殿を「父の家」として表現しています。神を父と表現していることに注目して下さい。聖書は、御子に対する御父との関係と、イスラエルに対する御父との関係を、本質的に区別しています。つまり、ここが大変重要なポイントになりますが、聖書の中で「父」という呼び名は、イスラエルと信者たちの神様を示すのではなく、専ら御子に対する御父との関係を示す言葉であるということです。マタイ11:25~27をご覧ください。

“そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。”

ここでは、御子が父を啓示した者だけが(御子が父を明らかにした者だけが)、初めて父を知ることができると書かれています。父の懐にいたロゴスであられる御子が、私たちに御父を表してくれるのであり、御子の他には誰も御父を知る者がないからです。「父なる神」とは、本来的意味において、イエス様の父であって、御父は独り子なる御子を永遠において愛しておられるのです。ですから、ぶっちゃけて言うと、万一御子がいなければ、イスラエルは御父と何の関係もないということです。ぶっちゃけて言うと、御子がいなければ、教会は御父と何の関係もないということになるのです。

それでは、その父の家である神殿とは何でしょうか。神殿とは父なる神が住んでおられる所という意味ではありませんが、神殿は神様が臨在してくださり、民と交わってくださる場所です。神殿の役割は、民が神様と出会う場所、民が神様を知る場所であり、神殿において、神と人が一つにされるのです。ところが、大祭司を中心とするユダヤ当局者たちは、神殿で捧げられる礼拝を体裁だけ整えて、世俗化させ、表面化させてしまいました。ただ犠牲をささげて神殿税を払えば、罪が赦される。ただ年に三度エルサレムに巡礼すれば、祝福される。そのような神様との真の交わりのない、表面的な礼拝には、神の臨在はなく、神の怒りだけが注がれるのです。この度の宮清めにおけるイエス様の激しい怒りとは、実は御父の怒りでもあったということではないでしょうか。この現場を目撃した弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という旧約聖書の御言葉を思い出しました。これは詩編69:9-10(新改訳69:8-9)からの引用です。ご覧ください。

“兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。”

ここで詩編の著者は、親族たちから、兄弟姉妹たちから、仲間外れにされている状況です。御父の神殿に対する自分自身の熱情があまりにも大きいために、人々からのけ者にされ、嘲られ、いじめられていると告白してるのです。弟子たちの目には、この詩編の著者とイエス様が重なって見えてきました。弟子たちの間に、このようなラビに従っていてこの先果たして大丈夫だろうかと不安がよぎったことでしょう。

【2】. 三日で起こす

さて、宮清めをされるイエス様に対し、ユダヤ人たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と反論しました。ユダヤ人たちからは、もしかしたら俺たちに何か非があったのではないかと謙遜に考える姿勢はみじんも見られませんでした。自分たちの行いを倫理的に反省するというのではなく、むしろ、自分たちのしていることはユダヤ当局の権威に照らして絶対的に正しいと主張しているのです。その権威の頂点には大祭司が君臨しているのは言うまでもありません。そして「大祭司様の権威を否定するからには、それに優る権威を、しるしや奇跡によって示してみろ!」と、イエス様に対して言っているのです。すると、イエス様は次のように答えられました。19~21節をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。”

46年というのは、ヘロデ大王が神殿改修工事を始めてからその時に至るまでにかかった時間です。そしてそのヘロデ大王も、既にずいぶん前に亡くなっているにも拘わらず(BC.4年)、いまだ改修工事は未完成であるということをイエス様は百も承知でした。そのことを知った上でイエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われたのです。ユダヤ人たちは、これを文字通り受け取り、あきれかえったのでしょう。こいつは頭でもおかしくなったのかと言わんばかりです。

イエス様は確かに、大変不可解なことを言われました。しかし、21節で著者ヨハネが解説しているように、イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことを指していたのです。また、「三日で建て直してみせる」と翻訳されている言葉は、ギリシア語を直訳しますと、「三日で起こす」となっています。つまり「復活させる」「起こす」という言葉が使われています。従いまして、19節でイエス様が語られた言葉は、御自身が十字架にかけられ殺されて、三日目に復活するということが暗示されているのです。このイエス様の不可解な言葉は、最初、弟子たちをはじめ誰一人理解することはできませんでした。しかし、実際、イエス様が死者の中から三日目に復活されたとき、弟子たちは復活の光の中で宮清めの出来事を思い出し、イエス様の語られた真意を悟ったのであります。その悟った中身とは何だったのでしょうか。イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことでありました。「体」とは、ギリシア語で「ソーマ」という言葉が使われていまして、私たちが持つ「体」と全く同じものです。それはイエス様が受肉された体であり、そして復活された体であります。そのイエス様の「体」そのものが神殿であると主張しているのです。

一体、神殿とイエス様の体との間にどんな関係があるのでしょうか。先ほど、神殿とは、神と人が出会う場所であり、人が神を知る場所であると申し上げました。神殿とは、神と民の交わりがなされる場所であり、この神殿において、神と民が一つにされるのです。神の御子は、父と本質を一つにしておられます。神そのものであられます。そのお方が私たちと同じ体を持たれたために、全き神でありながら、全き人としての性質を持たれるようになりました。これを神学的に二性一人格と言います。これが御子の受肉の神秘的な出来事であります。このイエス様の中で、私たちは神と出会い、御父を知り、神との交わりが与えられ、御父と一つにされるのです。その意味において、イエス様の体とは、真の神殿なのであります。ヤコブが夢で見た天と地をつなぐ階段も、イエス様御自身であり、イエス様は、神の側と罪びとの側を接続させる蝶番のような役割を担っているのであります。

このように見ていきますと、本日の個所は、先週見ました水をぶどう酒に変えたガリラヤのカナの婚礼のしるしと重なってくることが分かります。水をぶどう酒に変えたしるしとは、イエス様の十字架と復活によって新しい秩序がもたらされたということを意味していました。これまでの律法と先祖の言い伝えに規定されたイスラエルの営みが、イエス様の到来によって、キリストにある神の国へ招かれているとお話ししましたが、本日の個所もそれと全く同じです。過越し祭が指し示しているイエス様の犠牲祭事によって、贖いの御業がなされ、三日目に復活なさったために、エルサレム神殿ではなく、「イエス様の体」という真の神殿がもたらされたのです。古い営みから、即ち過越し祭を守り、神殿において神との交わりが保たれていたそのような営みから、イエス・キリストによって新しくされ、イエス様の体において罪の赦しが与えられ、イエス様の体において神との交わりが回復され、真の礼拝が回復され、イエス様の体において神の家族とされる道が開かれたのであります。要するに新約時代において、私たちが捧げている礼拝とは、イエス・キリストの死と復活にその根拠を持っているということです。これは非常に重要な真理だと思います。この真理に堅く立つことにより、教会は律法からの解放がなされていきました。ユダヤ教からの解放がなされていきました。過越し祭をもうこれ以上、守ることはなくなったのであります。過越し祭だけではありません。イエス様の死と復活に礼拝の根拠が置かれているという原点に立ち返って、律法に規定されているその他の祭儀規定や、安息日規定、食物規定などから、キリスト教会は少しずつでありますが解放されていったのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。私たちは主の日ごとに礼拝を捧げております。しかし、そこで、私たちは罪の償いとしての生贄を何も捧げてはいません。献金は依然として捧げているではないかと思われるかもしれませんが、献金とは罪赦された者としての感謝の献げ物であって、罪の赦しを得るための献げ物ではありません。もはやキリスト教会において、罪の赦しを得るための生贄を献げる必要はなくなったのであります。それは、イエス・キリストの体が私たちの罪を贖う生贄として、十字架上で捧げられ三日目に復活されたからであります。真の礼拝を回復するために、イエス様が来てくださったこと、そしてイエス様にあって私たちは神様のことを、父なる神と呼びかけて祈りを捧げられるようになったこと、このことに心から感謝を捧げましょう。そして、私たちはイエス様のことをもっと知ろうとする努力を惜しまない者とならせていただき、私たちもイエス様に負けない熱心さを持って、イエス様が復活された記念日である主日礼拝を捧げていく者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

예수께서 말씀하시는 성전

2025년 7월 20일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 2장 13~22절

서론

갈릴리 가버나움에서 한동안 지내신 예수님은, 유대 최대의 절기인 유월절이 다가오자 예루살렘으로 올라가기로 하셨습니다. 율법에서는 유대인 성인 남자는 모두, 이 유월절을 지키도록 규정하고 있기 때문에 예루살렘은 많은 사람들로 북적거렸을 것으로 보입니다.

(1) 성전 정화

13절 첫머리에 나오는 말씀에 주목해 보시기 바랍니다.「유대인의 유월절이 가까운지라」라고 되어 있습니다. 물론, 저자 요한도 유대인이지만, 요한이 「유대인」이라는 단어를 사용할 때는 항상 교회를 핍박하는 유대인 당국자들을 염두에 두고 있으며, 예수님을 적대하는 세력임을 알 수 있습니다. 따라서 「유대인의 유월절」이라는 말에는 그 유월절이 더 이상 교회에서 지키지 않는 과거의 것, 더 이상 교회와 상관없는 옛 관습이 되었다는 의미가 함축적으로 담겨 있습니다. 그 이유는 나중에 다시 설명하겠지만, 새로운 유월절, 새로운 질서가 예수 그리스도에 의해 도입되었기 때문입니다.

예수님은 성전 경내에 들어오셨습니다. 당시 예루살렘 성전은 보수 공사가 한창 진행 중이었고, 솔로몬의 제 1성전에 비해 매우 복잡한 구조로 되어 있었습니다. 성전 경내에는 우선 제사장만 들어갈 수 있는 「제사장의 뜰」이 있습니다. 그 바깥쪽에는 유대인 남성이 들어갈 수 있는 「남자의 뜰」이 있고, 그 바깥쪽에는 유대인 여성이 들어갈 수 있는 「여자의 뜰」이 있었습니다. 그리고 그 바깥쪽에는 이방인이 들어갈 수 있는 「이방인의 뜰」이라는 곳이 있었는데, 아마도 이곳에서 제물로 바칠 가축을 팔았던 것으로 추정됩니다. 성전에서 가축을 파는 것은 합법적인 행위였습니다. 많은 사람들이 멀리서 오는데, 각자 제물로 바칠 동물을 상처가 나지 않게 예루살렘까지 가져오는 것이 어려웠기 때문에, 정해진 장소에서 상처가 없다는 검사가 끝난 동물을 구할 수 있었던 것입니다. 원래는 소냐 양을 바쳐야 하지만, 경제적으로 여유가 없으면 비둘기를 대신 바치는 것도 허용되었습니다. 또한 로마 화폐에는 로마 황제의 동상이 새겨져 있기 때문에 그것을 그대로 성전세로 납부할 수는 없었습니다. 로마 화폐를 유대 은 세겔로 환전하는 환전소도 이방인의 마당에 설치되어 있었습니다. 이 가축을 파는 상인들과 환전상들은 모두 제사장의 친척들이었을 것으로 추정되는데, 이들의 존재는 순례자들이 제대로 예배를 드릴 수 있도록 하기 위해 꼭 필요한 존재였다고 할 수 있습니다. 그런 그들을 보시고 예수님은 분노를 터뜨리신 것입니다. 15~16절을 보시기 바랍니다.

15 노끈으로 채찍을 만드사 양이나 소를 다 성전에서 내쫓으시고 돈 바꾸는 사람들의 돈을 쏟으시며 상을 엎으시고

16 비둘기 파는 사람들에게 이르시되 이것을 여기서 가져가라 내 아버지의 집으로 장사하는 집을 만들지 말라 하시니

이 사건은, 일번적으로「성전 정화」라고 불려집니다. 우리가 가지고 있는 예수님에 대한 이미지와는 사뭇 다른 모습이 여기에 그려져 있습니다. 이 부분을 처음 읽으시는 분들은 예수님이 힘을 사용하여 정말로 이런 일을 하신 것일까? 뭔가 잘못 된 것은 아닐까? 라고 생각할 수도 있습니다. 예수님은, 이후에도 이전에도 한번도 보여주지 않았던 격력한 분노를 이때 드러내신 것입니다. 예수님께 이런 면이 있었다는 것은 매우 놀라운 일이지만, 도대체 이토록 감정적으로 변하신 이유는 무엇일까요?

그 이유는「내 아버지의 집으로 장사하는 집을 만들지 말라」는 예수님의 한 마디로 요약할 수 있을 것 같습니다. 예수님은 성전을 「내 아버지의 집」으로 표현하셨습니다. 하나님을 아버지로 표현하신 것에 주목해 보시기 바랍니다. 성경은 독생자에 대한 아버지의 관계와 이스라엘에 대한 아버지와의 관계를 본질적으로 구분하고 있습니다. 즉, 여기서 매우 중요한 포인트가 있는데, 성경에서 「아버지」라는 호칭은 이스라엘과 신자들의 하나님을 가리키는 것이 아니라, 오로지 독생자에 대한 아버지와의 관계를 가리키는 것입니다. 마태복음 11:25~27절을 보시기 바랍니다.

마태복음 11장

25 그 때에 예수께서 대답하여 이르시되 천지의 주재이신 아버지여 이것을 지혜롭고 슬기 있는 자들에게는 숨기시고 어린 아이들에게는 나타내심을 감사하나이다

26 옳소이다 이렇게 된 것이 아버지의 뜻이니이다

27 내 아버지께서 모든 것을 내게 주셨으니 아버지 외에는 아들을 아는 자가 없고 또 아들의 소원대로 계시를 받는 자 외에는 아버지를 아는 자자 없느니라

여기서는 독생자가 아버지를 계시한 자만이, 비로소 아버지를 알 수 있다고 기록되어 있습니다. 아버지의 품에 계셨던 로고스이신 독생자가, 우리에게 아버지를 나타내 주시고, 독생자 외에는 아버지를 알 수 있는 사람이 없기 때문입니다.「하나님 아버지」란, 본질적인 의미에서 예수님의 아버지이시며, 아버지는 독생자 아들을 영원히 사랑하고 계십니다. 그렇기 때문에, 솔직히 말해서, 만일 독생자 아들이 없다면 이스라엘은 아버지와 아무런 관계가 없다는 것입니다. 솔직하게 말하자면, 독생자가 없다면 교회는 아버지와 아무런 관계가 없다는 뜻입니다.

그렇다면 그 아버지의 집인 성전은 무엇일까요? 성전은 아버지 하나님이 거하시는 처소라는 의미는 아니지만, 성전은 하나님이 임재하셔서 백성들과 교제하시는 곳입니다. 성전의 역할은, 백성이 하나님을 만나는 장소, 백성이 하나님을 아는 처소이며, 성전에서 하나님과 사람이 하나가 되는 것입니다. 그런데 대제사장을 중심으로 한 유대 당국자들은, 성전에서 드려지는 예배를 겉모양만 가다듬고 세속화 시켰으며, 형식적으로 만들었습니다. 성전세를 내면 죄가 사해지고, 일 년에 세 번 예루살렘에 성지순례만 오면 축복을 받는다는, 그런 하나님과의 진정한 교제가 없는 피상적인 예배에는 하나님의 임재는 없고, 하나님의 진노만 쏟아질 뿐입니다. 이 성전 정화에 대한 예수님의 격렬한 분노는, 사실 아버지의 분노이기도 했던 것이 아닐까요. 이 현장을 목격한 제자들은 「주의 전을 사모하는 열심이 나를 삼키리라」라는 구약성경의 말씀을 떠올렸습니다. 시편 69:9~10에서 인용한 말씀입니다. 함께 보시기 바랍니다.

시편 69편

8 내가 나의 형제게는 객이 되고 나의 어머니의 자녀에게는 낯선 사람이 되었나이다

9 주의 집을 위하는 열성이 나를 삼키고 주를 비방하는 비방이 내게 미쳤나이다

여기서 시편 저자는 친척들로부터, 형제자매들로부터 따돌림을 당하고 있는 상황입니다. 성부 하나님의 성전에 대한 자신의 열정이 너무 커서 사람들로부터 조롱과 괴롭힘을 당하고 있다고 고백하고 있는 것입니다. 제자들의 눈에는 이 시편의 저자와 예수님이 겹쳐 보이기 시작했습니다. 제자들 사이에서는, 이런 랍비를 따라다니며 앞으로 잘 지낼 수 있을까 하는 불안감이 엄습했을 것입니다.

(2) 사흘 동안에 일으키리라

그런데 성전을 성화시키는 예수님께, 유대인들은「네가 이런 일을 행하니 무슨 표적을 우리에게 보이겠느냐」고 반문합니다. 유대인들에게서는, 혹시 우리에게 무슨 잘못이 있는 것은 아닐까 하는 겸손한 자세는 찾아볼 수 없었습니다. 자신들의 행위를 윤리적으로 반성하는 것이 아니라, 오히려 유대 당국의 권위에 비추어 자신들이 하는 일이 절대적으로 옳다고 주장하고 있는 것입니다. 그 권위의 정점에 대제사장이 군림하고 있음은 두말할 나위도 없습니다. 그리고 「대제사장의 권위를 부정하거든 그보다 우월한 권위를 표적과 기적으로 보이라!」고 예수님께 말합니다. 그러자 예수님은 다음과 같이 대답하십니다. 19~21절을 보시기 바랍니다.

19 예수께서 대답하여 이르시되 너희가 이 성전을 헐라 내가 사흘 동안에 일으키리라

20 유대인들이 이르되 이 성전은 사십육 년 동안에 지었거늘 네가 삼 일 동안에 일으키겠느냐 하더라

21 그러나 예수는 성전된 자기 육체를 가리켜 말씀하신 것이라

「사십육 년 동안에」라는 것은, 헤롯 대왕이 성전 보수 공사를 시작한 후 그 때까지 걸린 시간입니다. 그리고 그 헤롯 대왕도 이미 오래 전에 죽었음에도 불구하고(BC.4년), 아직까지 보수 공사가 미완성이라는 것을 예수님은 잘 알고 계셨습니다. 그 사실을 아신 예수님은「이 성전을 헐라 내가 사흘 동안에 일으키리라」라고 말씀하신 것입니다. 유대인들은 이를 문자 그대로 받아들이고 경악을 금치 못했을 겁니다. 이놈이 미쳤나 싶을 정도였을 것입니다.

예수님께서는 참으로, 이해할 수 없는 말씀을 하신 것은 사실입니다. 그러나 21절에서 저자 요한이 설명하듯이, 예수님계서 말씀하신 성전이란, 자기 육체를 가리키신 것입니다. 또한 「사흘 동안에 일으키리라」라는 말은 즉, 「부활시키다」,「일으키다」라는 단어가 사용되고 있습니다. 따라서 19절에서 예수님께서 말씀하신 말씀은, 예수님 자신이 십자가에 못 박혀 죽으시고 사흘 만에 부활하신다는 것을 암시하고 있는 것입니다. 이 난해한 예수님의 말씀은 처음에는 제자들을 비롯해 그 누구도 이해할 수 없었습니다. 그러나 실제로 예수님이 죽은 자 가운데서 사흘 만에 부활하셨을 때, 제자들은 부활의 빛 속에서 성전 정화 사건을 떠올리며 예수님의 말씀의 진의를 깨닫게 됩니다. 그 깨달은 내용은 무엇이었을까요? 예수님이 말씀하신 성전은 바로 자기 육체를 가리키신 것이었습니다. 「육체」는 헬라어로 「소마」라는 단어가 사용되었는데, 우리가 가지고 있는 「육체」와 똑같은 것입니다. 그것은 예수님께서 성육신하신 몸이고, 그리고 부활하신 몸입니다. 그 예수님의 「육체」자체가 성전이라고 주장하시고 있는 것입니다.

도대체 성전과 예수님의 육체는 어떤 관계가 있을까요? 앞서 성전은 하나님과 사람이 만나는 처소이며, 사람이 하나님을 아는 처소라고 말씀드렸습니다. 성전은 하나님과 백성의 교제가 이루어지는 처소이며, 이 성전에서 하나님과 백성이 하나가 되는 것입니다. 하나님의 독생자는 아버지와 본질이 하나이십니다. 하나님 자신입니다. 그분이 우리와 같은 육체를 가지셨기 때문에 온전한 하나님이시면서도 온전한 사람으로서의 성품을 가지게 되었습니다. 이를 신학적으로 양성일체라고 합니다. 이것이 독생자의 성육신의 신비한 사건입니다. 이 예수님 안에서, 우리는 하나님을 만나고, 아버지를 알고, 하님과의 교제가 주어지고, 아버지와 하나가 되는 것입니다. 그런 의미에서 예수님의 육체는, 진정한 성전인 것입니다. 야곱이 꿈에 본 하늘과 땅을 잇는 사닥다리도 예수님 자신이며, 예수님은, 하나님 편과 죄인 편을 연결하는 경첩과 같은 역할을 담당하고 계십니다.

이렇게 보면, 오늘 본문은 지난주에 보았던 물을 포도주로 바꾸신 갈릴리 가나의 혼인잔치의 표적과 겹쳐지는 것을 알 수 있습니다. 물을 포도주로 바꾸는 표적은, 예수님의 십자가와 부활로 인해 새로운 질서가 도래했음을 의미했습니다. 지금까지 율법과 조상들의 전승에 규정된 이스라엘의 행위가 예수님의 오심으로 인해, 그리스도 안에 있는 하나님 나라로 초대받았다고 말씀드렸는데, 오늘 본문도 마찬가지입니다. 유월절이 가리키는 예수님의 희생제사를 통해 구속의 역사가 이루어졌고, 사흘 만에 부활하심으로 예루살렘 성전이 아닌「예수님의 육체」라는 참된 성전을 가져왔다는 것입니다. 옛 행위, 즉 유월절을 지키고 성전에서 하나님과의 교제가 유지되던 그런 행위에서 예수 그리스도로 말미암아 새로워지고, 예수님의 몸에서 죄사함이 주어지고, 예수님의 몸에서 하나님과의 교제가 회복되어 참된 예배가 회복되고, 예수님의 몸에서 하나님의 가족이 되는 길이 열린 것입니다. 요컨대 신약 시대에 우리가 드리는 예배는, 예수 그리스도의 죽음과 부활에 그 근거를 두고 있다는 것입니다. 이것은 매우 중요한 진리라고 생각합니다. 이 진리에 굳게 서는 것으로 교회는 율법으로부터의 해방이 이루어졌습니다. 유대교로부터의 해방이 이루어졌습니다. 유월절을 더 이상 지키지 않게 된 것입니다. 유월절만이 아닙니다. 예수님의 죽음과 부활에 예배의 근거가 있다는 원점으로 돌아가서 율법에 규정된 다른 제사 규정이나 안식일 규정, 음식 규정 등으로부터 기독교 교회는 조금씩이지만 해방되어 갔습니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 우리는 주의 날마다 예배를 드리고 있습니다. 그러나 거기서 우리는 죄의 속죄로서의 제물을 아무것도 드리지 않고 있습니다. 헌금은 여전히 드리고 있지 않느냐고 생각할 수 있지만, 헌금은 죄 사함을 받은 자로서의 감사의 헌금이지, 죄 사함을 받기 위한 헌금이 아닙니다. 더 이상 기독교 교회에서, 죄 사람을 얻기 위해 제물을 바칠 필요가 없어진 것입니다. 그것은 예수 그리스도의 몸이 우리의 죄를 대속하는 제물로 십자가에서 드려지고 사흘 만에 부활하셨기 때문입니다. 참된 예배를 회복하기 위해 예수님이 오신 것, 그리고 예수님으로 인해 우리는 하나님을, 아버지 하나님이라고 부르며 기도할 수 있게 된 것, 이 사실에 진심으로 감사합시다. 그리고 우리는 예수님을 더 알고자 하는 노력을 아끼지 않는 자들이 되고, 우리도 예수님 못지않은 열심을 가지고 예수님이 부활하신 기념일인, 주일 예배를 드리는 자들이 되도록 합시다.

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