2025年07月06日「出会いから信仰の深みへ 더 깊은 믿음으로 인도하는 만남」

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出会いから信仰の深みへ 더 깊은 믿음으로 인도하는 만남

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章43節~51節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
1:44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
1:45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
1:46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
1:47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
1:48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
1:49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
1:51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 1章43節~51節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様との出会いは、私たちが信仰を持ち、新しく生まれ変わる一つのきっかけでありますが、イエス様のもたらしてくれる恵みと祝福は、決して出会いのインパクトだけに留まりません。イエス様に従っていく長いプロセスを通して、弟子たちは心の聖めと癒しが与えられ、恵み豊かな信仰の深みへと導かれるのであります。本日もヨハネの福音書を通して共に恵みに与りたいと願います。

【1】. 来て、見なさい

43節の冒頭に「その翌日」とあります。前回の説教では、第三日目と第四日目の出来事について見てまいりました。本日は第五日目ということになります。43~45節をご覧ください。

“その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」”

ヨルダン川向こうのベタニアにおられたイエス様は、ガリラヤ地方に行こうとしたその矢先にフィリポと出会いました。フィリポは、ベトサイダという町の出身であり、アンデレとペトロと同じ出身地です。ベトサイダとは「漁師の町」という意味ですが、地図で場所を確認してみましょう。巻末の地図6をご覧ください。最初にヨルダン川沿いのベタニアという町を確認できますでしょうか。死海の少し上辺りです。洗礼者ヨハネはここで洗礼を授けていました。最初の弟子たちとイエス様との出会いもこの場所であったとヨハネ福音書には書かれています。北の方に目を向けますと、ガリラヤ湖があり、カファルナウムという町の横にベトサイダという町を確認できますでしょうか。ここがフィリポやアンデレ、ペトロの出身地です。因みにナタナエルはガリラヤのカナの出身であります(21:2)。

第五日目、イエス様はフィリポに出会い「わたしに従いなさい」と言われました。Follow me!弟子になりなさい!という意味です。ここでイエス様とフィリポの出会いにおいて何があったのかは、はっきりとは書かれていませんが、フィリポはイエス様の召しに応答し弟子になるや否や、ナタナエルにイエス様のことを証ししました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と語っています。つまり、来るべきメシアに会ったと言っているのです。イスラエル全体が待ち望んでいたメシアに、ついに会うことができた、その喜びでフィリポは満たされているのです。ナザレの人というのは、イエス様がナザレで育ち、父ヨセフの仕事を受け継いでナザレ近辺で大工をしていたからです。しかし実際、イエス様がお生まれになったのは、ダビデの町ベツレヘムでした。聖書に詳しいナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と突き放すと、フィリポは「来て、見なさい」と言います。「来て、見なさい」、この言葉は、実は39節の「来なさい、そうすれば分かります」と同じ言葉です。39節で弟子たちの「どこにお泊りですか」という質問に対し、イエス様は「来なさい、そうすれば分かります」と答えましたが、ギリシア語聖書を見ると、「来て、そして見なさい」となっています。イエス様ご自身と出会えば分かる、とにかく来なさいということです。フィリポは、ナタナエルに理屈はいいから、とにかくイエス様に会ってみなさいと勧めているのです。現代に生きる私たちは、イエス様と直接お会いしたわけではありませんが、御言葉を通して、聖霊を通して、不思議に信仰が与えられました。ある日、聖書の御言葉が生き生きと心に伝わってくる、そんな体験をいたしました。これこそまさにイエス様との出会いの出来事なのです。この出会い出来事を通して、私たちはこれまでの価値観が変えられ、人生が180度変えられました。イエス様との出会いこそ、弟子とされることの重要なきっかけとなるのです。

【2】. イエス様とナタナエル

さて47節以降には、イエス様とナタナエルとの出会いについて記述されています。ナタナエルという弟子は、他の共観福音書には出てきません。その代わり他の共観福音書ではフィリポと対になってバルトロマイが出てきます。一方、ヨハネ福音書にはバルトロマイが出てきません。ですから、ナタナエルとバルトロマイは同一人物として考えられています。恐らくバルトロマイとは、本人の名前ではなく「トロマイの息子」という意味で、父親の名前で呼ばれていたのではないのかと考えられます。ペトロも「バルヨハン(ヨハネの子)」と呼ばれることがありました。このナタナエルをイエス様はご覧になり、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。これは、ナタナエルがとりわけ立派な信仰深いイスラエル人だったということでは、決してないと思います。イエス様が何を意図して言われたのかは、一旦保留にするとして、とにかくイエス様の言葉の中に、ナタナエルの心に突き刺ささる何かがあったということなのでしょう。ナタナエルはドキッとして、イエス様に尋ねました。48~49節をご覧ください。

“ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」”

ナタナエルは、初めてお会いするイエス様に対し、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と聞きました。すると、なんとイエス様は「あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。因みにいちじくとは、平和のシンボルであり、イスラエルを代表する木であります(列王上5:5)。また、「いちじくの木の下に座る」とは、聖書の御言葉を黙想するということを表す婉曲的な表現でもあったようです。ナタナエルは日頃から、旧約聖書をよく読み、研究し、来るべきメシアを待ち望んでいたのでしょう。そのようなナタナエルのことをイエス様は、出会う前から、既に見つめておられていたと言うのです。ここには、イエス様の神的な洞察力が示されています。ナタナエルは大変びっくりしたことでしょう。そして「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白をしました。素晴らしい告白ですが、ここで不謹慎に聞こえるかもしれませんが、イエス様の態度はナタナエルの「あなたは神の子です」「あなたはイスラエルの王です」という告白を本気には受け入れていないように見えます。1:50節をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」”

もっと偉大なことをあなたは見るだろう。その時、初めてあなたの信仰は真の信仰となるだろう、このようにイエス様は言われるのです。51節には天使のくだりが出てきますので、イエス様は創世記に出てくるヤコブのことを念頭に置いて語っているようです。ヤコブという人物は策略によって兄エサウから長子権を略奪した人物です。その後、カナンのベエル・シェバから干されてハランの叔父の下に送られました。創世記27:34~35をご覧ください。

“エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」”

ここで「策略」という言葉が出てきますが、実はこの言葉は、イエス様がナタナエルに言われた「この人には偽りがない」の「偽り(δόλος)」と同じ言葉であります。続いて創世記28:10~12をご覧ください。

“ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。”

ヤコブは、ハランのラバン叔父さんの所へ向かう途中でありました。ヤコブの心には父親を偽り、兄エサウを偽ったという自責の念が少なからずあったに違いありません。心は沈んでいたことでしょう。浮浪者のように旅するヤコブは、とある場所に来た時、そこで一夜を過ごすことにしました。石を一つ取りそれを枕にして、そこに横たわって夢を見ました。すると、先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びていて、神の御使いたちがそこを上ったり下ったりしているのを見ました。それは本当に素晴らしい光景でした。夢から覚めると、ヤコブは言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」。ヤコブはこの場所は寂しい場所だと思い込んでいましたが、主が共におられることを知り、大変勇気づけられ、励まされたのであります。この後ヤコブは、ラバン叔父さんの下で、なんと20年という長い期間、奴隷のように仕えることになりますが、そこでも主がヤコブと共にいてくださり、不思議な奇跡を体験し、苦難の中で、神様から忍耐する力と希望を与えられました。そして、ラバン叔父さんの下での苦難の20年を通して、神の御手がヤコブに働き、ヤコブの自我は砕かれていったのであります。そこでヤコブが学んだことは、神の祝福とは、取引をして、自分の力で勝ち取るものではなく、神様が恵みによって一方的に与えてくださるものだということです。ヤコブの内に新しい心と信仰が形成され、品性が練り清められ、以前の策略家ヤコブとは、まったく別人になったのであります。兄エサウに仕える思いと、自分の家族や妻や僕たちに仕える謙遜さが与えられていきました。偽りの心、策略の心がヤコブから少しずつ抜き取られていきました。先ほど、ナタナエルについて、彼が特に立派な信仰深いイスラエル人ということではないと申し上げましたが、おそらくナタナエルもヤコブと同じような葛藤を抱えていたのではないかと思います。これは、私の黙想ですが、ナタナエルもヤコブのような問題を抱え、社会生活に行き詰まりを覚え、このままではダメだと不安になり、一生懸命に御言葉を読みながら、悶々とした日々を送っていたのではないでしょうか。そんなナタナエルに対し、イエス様は、新しく生まれ変わったナタナエルの未来の姿を見通して「この人には偽りがない」。そのように励ましの言葉を与えてくださったのです。さらに「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」という約束さえも与えてくださったのです。

【3】. 信仰の深みへ

偉大なことを見ることになるという約束は、51節にその内容が具体的に書かれています。1:51節をご覧ください。

“更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」”

どうもイエス様のお言葉は捉えどころがなく、何だか不思議な感じがいたしますが、けれども、まず言えることは、この約束がナタナエル個人に与えられたものではなく、「あなた方は見る」という言葉に言い換えられていますので、教会に対する約束であるということが分かります。そして「神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」という状況は、まさにヤコブが見た夢でありますが、イエス様は、ヤコブが夢の中で見た天と地をつなぐ階段を、ご自身に見立てて語っておられるのです。天と地をつなぐ「イエス・キリスト」という階段によって、天使たちがご自分に上に昇り降りする祝福を、あなた方は見ることになるだろう、そう仰っているのです。四つの福音書には、しばしば天使が現れていますが、特に贖いの御業の重要な局面において天使が登場しています。[ご降誕の時(ルカ2:10など)、サタンに試みられた時(マタ4:11)、十字架の受難の時(ルカ22:43)、復活(マタ28章)、昇天の時(使徒1:10)]ですから、天使たちが人の子の上に昇り降りするという表現は、つまるところ「あなた方は十字架と復活の御業を通して、初めて神の子に対する信仰に導かれる!初めてこのイスラエルの王のすごみに気づかされる!」そのようにイエス様は仰っているのだと思います。私たちはイエス様を信じて洗礼を受けました。信仰生活がスタートしました。しかしその時点で、イエス様のことをどれくらい知っていたでしょうか。私自身のことを振り返ってみても、受洗当時、イエス様のことをまだ何もわかっていなかったというのが率直な気持ちであります。私たちはイエス様と出会い、イエス様に従っていく信仰生活に導かれますが、その信仰生活のプロセスの中で自らが犯してきた過去の罪の大きさを少しずつ悟っていきます。そして、それらの罪の大きさを悟る以上に、イエス様の十字架によってそれらが完全に清められ、赦されたという恵みをはっきりと悟るのです。このことこそ、イエス様が弟子たちに約束された「もっと偉大なこと」の中身なのではないでしょうか。弟子たちはイエス様に従って行く中で、十字架と復活の御業をはっきりと見せられ、そして自らの罪の赦しの確信が与えられる中で、神の子でありイスラエルの王メシアに対する信仰がさらに堅くされていったのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様がナタナエルと教会に対して約束してくださった「偉大なこと」とは、イエス様の十字架と復活によってもたらされた祝福であります。弟子たちは、イエス様との出会いによって信仰の歩みへと導かれました。このイエス様との出会いそのものも確かに大切でありますが、それ以上に大切なことは、イエス様に従っていくプロセスであります。イエス様に従って行く中で、私たちは自分自身をはっきりと知らされ、これまで気づかなかった自らの罪に対して目が開かれ、それと同時に赦しの恵みという光の中を歩みながら、イエス様のことをより深く知る者とされるのであります。神の光に照らされて、自分自身の罪をはっきり知れば知るほど、キリストの十字架の恵みを悟ることが出来るのです。神様は、ヤコブのように弱く癖のある人物を、イスラエル十二部族を生み出す土台としてくださったように、私たちの人生にも介入してくださり、偉大な業を起こしてくださり、恵みと癒しを与えてくださることによって信仰の深みへと導いてくださるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

더 깊은 믿음으로 인도하는 만남

2025년 7월 6일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 1장 43~51절

서론

예수님과의 만남은, 우리가 믿음을 갖고 거듭나는 하나의 계기가 되지만, 예수님이 주시는 은혜와 축복은, 결코 만남의 충격에만 머물지 않습니다. 예수님을 따르는, 긴 여정을 통해 제자들에게는 마음의 성화와 치유가 주어지고, 은혜가 넘치는 더 깊은 믿음으로 인도받게 됩니다. 오늘도 요한복음을 통해 함께 은혜를 받기를 소망합니다.

(1) 와서 보라

43절 첫머리에「이튿날」이라고 되어 있습니다. 지난 설교에서 셋째 날과 넷째 날의 사건에 대해 살펴봤습니다. 오늘은 다섯 째 날에 해당합니다. 43~45절을 보시겠습니다.

43 이튿날 예수께서 갈릴리로 나가려 하시다가 빌립을 만나 이르시되 나를 따르라 하시니

44 빌립은 안드레와 베드로와 한 동네 벳새다 사람이라

45 빌립이 나다나엘을 찾아 이르되 모세가 율법에 기록하였고 여러 선지자가 기록한 그이를 우리가 만났으니 요셉의 아들 나사렛 예수라

요단강 건너편 베다니에 계셨던 예수님은, 갈릴리 지방으로 가려고 하실 때 마침, 빌립을 만나셨습니다. 빌립은 벳새다라는 마을 출신으로, 안드레, 베드로와 같은 마을 출신이었습니다. 벳새다는「어부의 집」이라는 뜻인데, 지도를 통해 위치를 확인해 봅시다. 성경책(일본어성경) 뒤에 첨부되어 있는 지도 6을 참고하세요. 먼저 요단강 강변에 있는 베다니라는 마을을 확인하실 수 있으세요? 사해의 조금 위쪽입니다. 세례 요한은 이곳에서 세례를 베풀었습니다. 요한복음에는 첫 제자들과 예수님과의 만남도 이곳에서 이루어졌다고 기록되어 있습니다. 북쪽으로 눈을 돌리면 갈릴리 호수가 있고, 가버나움이라는 마을 옆에 벳새다라는 마을이 보이시나요? 이곳이 빌립과 안드레, 베드로의 고향입니다. 참고로 나다나엘은 갈릴리 가나 출신입니다(21:2절).

다섯째 날, 예수님은 빌립을 만나시고「나를 따르라」라고 말씀하셨습니다. 「Follow me!, 제자가 되라!」는 뜻입니다. 여기서 예수님과 빌립의 만남에서 어떤 일이 있었는지는 분명하게 기록되어 있지 않지만, 빌립은 예수님의 부르심에 즉각 응답하고 제자가 되자마자 나다나엘에게 예수님을 증거했습니다.「모세가 율법책에 기록하였고 여러 선지자가 기록한 그이를 우리가 만났으니 요셉의 아들 나사렛 예수라」라고 말했습니다. 즉, 장차 오실 메시아를 만났다는 것입니다. 이스라엘 전체가 기다리던 메시아를 드디어 만나게 되었다는 기쁨으로 빌립은 충만해져 있습니다. 나사렛 사람이라는 것은, 예수님께서 나사렛에서 자라셨고, 아버지 요셉의 일을 이어받아 나사렛 근처에서 목수 일을 하셨기 때문입니다. 하지만 실제로 예수님이 태어나신 곳은 다윗의 마을, 베들레헴입니다. 성경을 잘 아는 나다나엘이 「나사렛에서 무슨 선한 것이 날 수 있느냐」라고 묻자, 빌립은 「와서 보라」라고 말합니다. 「와서 보라」, 이 단어는, 사실은 39절의 「와서 보라」라는 말씀과 같은 단어입니다. 38절의 제자들의 「어디 계시오니이까」라는 질문에 대해서, 예수님은 「와서 보라」라고 말씀하셨습니다. 헬라어 성경을 보면, 「와서 그리고 보라」라고 되어 있습니다. 예수님 자신을 만나면 알 수 있으니, 일단 오라는 뜻입니다. 빌립은 나다나엘에게 이론은 상관없으니 일단 예수님을 만나보라고 권유하고 있는 것입니다. 현대를 사는 우리는 예수님을 직접 만난 것은 아니지만, 말씀을 통해, 성령을 통해 신기하게도 믿음이 주어졌습니다. 어느 날, 성경 말씀이 생생하게 마음에 와 닿는, 그런 경험을 했습니다. 이것이 바로 예수님과의 만남의 사건입니다. 이 만남의 사건을 통해, 우리는 지금까지의 가치관이 바뀌었고, 인생이 180도 바뀌었습니다. 예수님과의 만남이야말로, 제자가 되는 중요한 계기가 되는 것입니다.

(2) 예수님과 나다나엘

이제 47절 이후부터는, 예수님과 나다나엘의 만남에 대한 이야기가 나옵니다. 나다나엘이라는 제자는 다른 공관복음서에는 나오지 않습니다. 대신 다른 공관복음서에는 빌립과 짝을 이루는 바돌로매가 등장합니다. 반면 요한복음에는 바돌로매가 등장하지 않습니다. 그래서 나다나엘과 바돌로매는 동일 인물로 여겨지고 있습니다. 아마도 바돌로매란, 본명이 아니라「돌로매의 아들」이라는 뜻으로 아버지의 이름으로 불렸던 것이 아닌가 생각됩니다. 베드로도 「바요나(요한의 아들)」라고 불린 적이 있습니다. 예수님은 이 나다나엘을 보시고 「보라 이는 참으로 이스라엘 사람이라 그 속에 간사한 것이 없도다」라고 말씀하셨습니다. 이것은 나다나엘이 특별히 훌륭한 신앙심이 깊은 이스라엘 사람이라는 뜻은 결코 아니라고 생각합니다. 예수님이 무슨 의도로 말씀하셨는지는 일단 유보하고, 어쨌든 예수님의 말씀 속에 나다나엘의 마음을 찌르는 무언가가 있었다는 뜻일 것입니다. 나다나엘은 깜짝 놀라 예수님께 물었습니다. 48~49절을 보시기 바랍니다.

48 나다나엘이 이르되 어떻게 나를 아시나이까 예수께서 대답하여 이르시되 빌립이 너를 부르기 전에 네가 무화과나무 아래에 있을 때에 보았노라

49나다나엘이 대답하되 랍비여 당신은 하나님의 아들이시요 당신은 이스라엘의 임금이로소이다

나다나엘은 처음 만난 예수님께 「어떻게 나를 아시나이까」라고 물었습니다. 그러자 무려 예수님께서는 「빌립이 너를 부르기 전에 네가 무화과나무 아래에 있을 때에 보았노라」라고 말씀하셨습니다. 참고로 무화과나무는 평화의 상징이자 이스라엘을 대표하는 나무입니다(열왕기상 4:25절). 또한 「무화과나무 아래에 있다」는 것은 성경 말씀을 묵상하는 것을 뜻하는 완곡한 표현이기도 한 것 같습니다. 나다나엘은 평소에 구약성경을 잘 읽고 연구하며 오실 메시야를 기다렸을 것입니다. 그런 나다나엘을 예수님께서는 만남이 있기 전부터 이미 눈여겨보고 계셨다고 합니다. 여기에 예수님의 신적 통찰력이 엿보입니다. 나다나엘은 매우 놀랐을 것입니다. 그리고 「랍비여 당신은 하나님의 아들이시요 당신은 이스라엘의 임금이로소이다」라고 신앙고백을 했습니다. 훌륭한 고백이지만, 여기서 불경스럽게 들릴지도 모르겠습니다만, 예수님의 태도는 나다나엘의 「당신은 하나님의 아들이시요 이스라엘의 임금이로소이다」라는 고백을 진지하게 받아들이시지 않는 것처럼 보입니다. 1:50절을 보시겠습니다.

50 예수께서 대답하여 이르시되 내가 너를 무화과나무 아래에서 보았다 하므로 믿느냐 이보다 더 큰 일을 보리라

「이보다 더 큰 일을 보게 될 것이다. 그 때 비로서 너의 믿음은 진실한 믿음이 될 것이다」라고 예수님은 말씀하시는 것입니다. 51절에는 하나님의 사자들이 오르락 내리락 하는 것이 나오는 것으로 보아 창세기에 나오는 야곱을 염두에 두고 말씀하시는 것 같습니다. 야곱이라는 인물은 간사한 계략으로 형 에서로부터 장자권을 빼앗은 인물입니다. 그 후 가나안 브엘세바에서 쫓겨나듯 삼촌 하란의 밑으로 보내졌습니다. 창세기 27:34~35절을 참고하시기 바랍니다.

창세기 27장

34 에서가 그의 아버지의 말을 듣고 소리 내어 울며 아버지에게 이르되 내 아버지여 내게 축복하소서 내게도 그리하소서

35 이삭이 이르되 네 아우가 와서 속여 네 복을 빼앗았도다

여기서「속여」라는 단어가 나오는데, 사실 이 단어는 예수님께서 나다나엘에게 「그 속에 간사한 것이 없도다」라고 말씀하신 「간사(δόλος)」와 같은 단어입니다. 이어서 창세기 28:10~12절을 보세요.

창세기28장

10 야곱이 브엘세바에서 떠나 하란으로 향하여 가더니

11 한 곳에 이르러는 해가 진지라 거기서 유숙하려고 그 곳의 한 돌을 가져다가 베게로 삼고 거기 누워 자더니

12 꿈에 본즉 사닥다리가 땅 위에 서 있는데 그 꼭대기가 하늘에 닿았고 또 본즉 하나님의 사자들이 그 위에서 오르락내리락 하고

야곱은, 하란에 있는 라반 외삼촌을 만나러 가는 길이었습니다. 야곱의 마음에는 아버지를 속이고 형 에서를 속였다는 자책감이 적지 않았을 것입니다. 마음은 침울했을 것입니다. 떠돌이처럼 여행하던 야곱은, 한 곳에 이르렀을 때 그곳에서 하룻밤을 보내기로 합니다. 한 돌을 가져다가 베개로 삼고, 그곳에 누워 자더니 꿈을 꾸었습니다. 그러자 그 꼭대기가 하늘에 닿은 사닥다리가 땅 위에 서 있는데, 하나님의 사자들이 그 위를 오르락내리락 하는 것을 보았습니다. 정말 놀라운 광경이었습니다. 꿈에서 깨어난 야곱은「여호와께서 과연 여기 계시거늘 내가 알지 못하였도다」라고 말했습니다. 야곱은 이곳이 외로운 곳이라고 생각했는데, 주님이 함께 계심을 알고 큰 용기와 힘을 얻게 된 것입니다. 이후 야곱은, 라반 외삼촌 밑에서 무려 20년이라는 긴 기간 동안 노예처럼 일하게 되는데, 그곳에서도 주님은 야곱과 함께 하시며 놀라운 기적을 체험하게 하시고 고난 가운데 인내할 수 있는 힘과 소망을 주셨습니다. 그리고 라반 삼촌 밑에서 20년 동안 고난의 세월을 통해 하나님의 손길이 야곱에게 역사하셨고, 야곱의 자아는 깨어져 갔습니다. 여기서 야곱이 배운 것은, 하나님의 축복은 거래해서 내 힘으로 쟁취하는 것이 아니라, 하나님께서 은혜로 일방적으로 주시는 것이라는 것입니다. 야곱의 내면에 새로운 마음과 믿음이 형성되고 인격이 연단되어 이전의 계략가 야곱과는 전혀 다른 사람이 된 것입니다. 형 에서를 섬기는 마음과 자신의 가족과 아내와 종들을 섬기는 겸손함이 주어졌습니다. 거짓된 마음, 남을 속이고자 하는 마음이 야곱에게서 조금씩 빠져나갔습니다. 앞서, 나다나엘에 대해 그가 특별히 훌륭한 믿음의 이스라엘 사람은 아니라고 말씀드렸는데, 아마 나다나엘도 야곱과 비슷한 갈등을 겪었을 것이라고 생각합니다. 이것은 제 개인적인 생각입니다만, 나다나엘도 야곱과 같은 문제를 안고 사회생활에 막막함을 느끼고, 이대로는 안 되겠다는 불안감에 말씀을 열심히 읽으며 고뇌의 나날을 보내지 않았을까 싶습니다. 그런 나다나엘에게, 예수님은 거듭난 나다나엘의 미래 모습을 내다 보시고 「그 속에 간사한 것이 없도다」라고 격려의 말씀을 주신 것이라고 생각합니다. 더 나아가 「이보다 더 큰 일을 보리라」라는 약속까지 주셨습니다.

(3) 더 깊은 믿음으로

「이보다 더 큰 일을 보리라」는 약속은, 51절에 구체적으로 기록되어 있습니다. 1:51절을 보십시오.

또 이르시되 진실로 진실로 너희에게 이르로니 하늘이 열리고 하나님의 사자들이 인자 위에 오르락 내리락 하는 것을 보리라 하시니라

아무래도 예수님의 말씀은 애매모호하고 뭔가 이상한 느낌이 들지만, 우선 말씀드릴 수 있는 것은, 이 약속이 나다나엘 개인에게 주신 것이 아니라「너희에게 이르로니.. 보리라」라는 말로 바꾸어져 있기 때문에 교회에 대한 약속이라는 것을 알 수 있습니다. 그리고 「하나님의 사자들이 인자 위에 오르락 내리락 하는」상황은 바로 야곱이 꾼 꿈의 내용인데, 예수님은 야곱이 꿈에서 본, 하늘과 땅을 잇는 사닥다리를, 자신에 빗대어 말씀하고 계십니다. 하늘과 땅을 잇는 「예수 그리스도」라는 사닥다리를 통해 사자들이 자기 위로 오르락 내리락하는 축복을 너희가 보게 될 것이라고 말씀하신 것입니다. 사복음서에는 천사가 자주 등장하는데, 특히 구속사역의 중요한 국면에서 천사가 등장합니다. [수태고지 때 (누가복음2:10 등), 사탄에게 시험 받으실 때 (마태복음4:11), 십자가의 수난 때 (누가복음22:43), 부활 (마태복음28장), 승천 하실 때 (사도행전1:10)]그래서 천사들이 인자 위에 오르락 내리락한다는 표현은 결국,「너희는 십자가와 부활의 사역을 통해 비로소 하나님의 아들에 대한 믿음으로 인도된다! 비로서 이 이스라엘 왕의 위대함을 깨닫게 된다」는 것입니다. 그렇게 예수님은 말씀하시는 것 같습니다. 우리는 예수님을 믿고 세례를 받았습니다. 믿음생활이 시작되었습니다. 하지만 그 시점에서, 우리는 예수님에 대해서 얼마나 알고 있었을까요? 제 자신을 돌아보아도 세례 당시에는 예수님에 대해 아직 아무것도 몰랐다는 것이 솔직한 심정입니다. 우리는 예수님을 만나고 예수님을 따르는 신앙생활로 인도되지만, 그 신앙생활의 여정 가운데, 과거에 지은 자신의 죄의 크기를 조금씩 깨닫게 됩니다. 그리고 그 죄의 크기를 깨닫는 것 이상으로, 예수님의 십자가로 인해 그 죄가 완전히 정결케 되고 용서받았다는 은혜를 분명하게 깨닫게 됩니다. 이것이 바로, 예수님께서 제자들에게 약속하신 「더 큰 일」의 내용이 아닐까요? 제자들은 예수님을 따라가는 가운데, 십자가와 부활의 사역을 분명하게 보게 되고, 그렇게 자신의 죄 사함의 확신을 얻는 가운데, 하나님의 아들이자 이스라엘의 왕이신 메시야에 대한 믿음이 더욱 굳건해져 갑니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 예수님께서 나다나엘과 교회에 약속하신 「더 큰 일」은 예수님의 십자가와 부활로 인한 축복입니다. 제자들은, 예수님과의 만남을 통해 믿음의 길로 인도받았습니다. 이 예수님과의 만남 자체도 물론 중요하지만, 그보다 더 중요한 것은 예수님을 따라가는 여정입니다. 예수님을 따라가는 삶 가운데에서, 우리는 자신을 분명히 알게 되고, 그동안 깨닫지 못했던 자신의 죄에 대해 눈을 뜨게 되며, 동시에 용서의 은혜라고 하는, 빛 가운데 걸어가면서, 예수님을 더 깊이 아는 자로 거듭나게 되는 것입니다. 하나님의 빛에 비추어져, 자신의 죄를 분명히 알면 알수록, 그리스도의 십자가의 은혜를 깨달을 수 있습니다. 하나님께서는 야곱과 같이 연약하고 교활한 인물을, 이스라엘 열두 지파를 낳는 밑거름으로 삼으신 것처럼, 우리의 삶에도 개입하셔서 큰 역사를 일으키시고, 은혜와 치유를 베풀어 주셔서 더 깊은 믿음으로 인도해 주시는 것입니다.

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