2018年12月30日「神のものは神に返しなさい 하나님의 것은 하나님께 바치라」

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神のものは神に返しなさい 하나님의 것은 하나님께 바치라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章15節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章15節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

過ぎ越しの祭の最中、イエス様の最後の一週間である受難週を送っています。ファリサイ人の目的はイエス様を逮捕して殺すことですが、群衆を恐れて中々実行できないでいました。21章23節から権威に関する質問が始まり、本日の箇所はローマに収める人頭税に関する質問です。イエス様が答えられた有名な御言葉である、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」この御言葉が実際の私たちの信仰生活と現実の問題にあってどのような知恵を与えてくださるのか本日は見ていきたいと思いますが、この箇所でよく指摘されることは、イエス様の教えが決して、聖い世界と、或いは霊的世界と、世俗の現実世界を区別してダブルスタンダードによって生きていきなさいということではないということです。つまり、教会の問題など、信仰に関することと、実際に私たちがこの世において直面する問題において、「教会に属する私」と「世に生活している私」という二つの立場から、ダブルスタンダードで生きていきなさいという教えではないということです。なぜなら、被造世界はすべて、神さまによって創造されたのですから、私たちの神は私たちの考える聖なるものの神である、私たちが考える世俗的な、現実世界においてもやはり神であるはずだからです。この人頭税の問題は現在に生きる私たちにとっても大変重要な問題ですが、当時のユダヤ人にとっても大変デリケートな問題でした。15~16節の途中までご覧ください。

“それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。”

ファリサイ派の人々は、自分たちの弟子たちをイエス様のもとに送りこんだと書かれています。ニューフェイスを送ったということですね。自分たちの顔をもうばれてしまっているので、弟子たちを送り警戒されないようにということです。この箇所を読んで、私たちが、あれっと思うのは、ヘロデ党と全く相いれないファリサイ派が、一緒になってイエス様のところに送られたということ点です。ヘロデ党とファリサイは、敵対関係にあって、水と油のような間柄でした。ヘロデアンティパスは、当時ガリラヤとペレヤ地方の領主としてローマ皇帝から抜擢された指導者でした。このヘロデとは、洗礼者ヨハネを処刑した人物です。イエス様はヘロデのことを指して「あの、狐」と語っています。ヘロデはカイサルによって領主に抜擢してもらったので、当然ヘロデはローマの協力者としてローマの犬のように立ち振る舞うことになります。ですからヘロデ派の人々とは、ユダヤ人の同胞から見ると、裏切者のように映るのです。一方で、ファリサイ派とは、ユダヤの民衆から大変支持を得ていました。なぜなら、彼らは日々律法を研究し、その律法を実践しようとして(ただ、行いによって義とされようとする間違った考え方をもっていましたが)いたからです。ファリサイ派の考えによると、ユダヤの土地というのは、聖書に書かれているように、神の所有する土地ですから、その土地に対し税金をかけたり、或いは成人一人ひとり人頭税が課せられること、これは許しがたいことだったのです。税の問題をめぐり、ユダヤ人は大きな葛藤を覚えていたのでありました。さらに人頭税というのは、実はデナリオンで納めなさいということになっていました。デナリオンとはローマの貨幣ですが、そのコインにはティベリウス・カイサル(二代目ローマ皇帝)の肖像が刻まれていました。そしてコインの縁に文字が書かれています。「アウグストゥスの子ティベリウス」、つまり、アウグストゥスは神の子とされていたので、さらに、その子がティベリウスであるというのです。ですからデナリオンを収めることが、第一に律法に触れるのです。どのような神の像も作ってはならないと、十戒の第二戒にありますが、その違反になります。第二にティベリウス・カイサルを神として認めるという問題です。納税するたびにファリサイ人や熱心当の人々は試みにあったのです。

このような中で質問がなされます。22:16の続きから17節をご覧ください。

“「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」”

いかにも、恭しい態度で近づきながら、イエス様がいつも弟子たちのざっくばらんとして質問に対して、イエス様はいつも優しくお答えくださっているように、自分たちを熱心な求道者として受け入れてほしい。さらに自分たちの質問に答えさせることでした。しかし彼らの本音は、真理に対するうえ渇きからでは全くありませんでした。イエス様に教えを頂こうという動機ではなく、イエス様の言葉尻を捕えようとしていたのです。ローマに税金を納めるべきか、納めないべきか、大胆に答えちゃってくださいという感じです。もし、イエス様がローマに妥協してローマを払うべきだというなら、一気に民衆の支持を失うに違いありません。反対にイエス様が正義感に燃えて税金を払うのは律法違反だと言うなら、まさに思う壺です。ローマに訴える口実を探しているのです。イエス様はそれらのことを見破り、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか、」と言われました。そしてデナリ銀貨持ってこさせて言いました。「これは誰の肖像と銘か。」彼らは「皇帝のものです。」と言います。するとイエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。これを聞いたものたちは、イエス様の御言葉に大変驚き逃げるようにその場を立ち去ったと書かれています。しかし私たちには、今一、ここで語られた御言葉の意味が伝わってきません。この御言葉の一つの手がかりは、イエス様は税金を納めるという言葉を使わないで、借りたものは、元に返しなさいという表現を使われます。「ローマからの借り物はローマに返し、神さまからの借り物は神様にお返ししなさい」と言っているのです。パウロ書簡を見ますともう少しこの辺のところが明確に現れている箇所がございますので調べてみましょう。ロマ書13:1~7節までです。

“人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。”

簡単に言いますとパウロはローマ皇帝の権威を神から由来している、神さまからの借り物であると言っているのです。さらにこの世のもの、すべてのものは、この被造物を造られた神さまのものであると言います。ですからローマに税金を納めることは、皇帝のものは皇帝に返すことに違いありませんが、それは私たちが神さまの御前に善を行うことであり、引いては神を敬うことになると言っているのです。よく考えたらですね、イスラエルの人もローマ帝国から恩恵を受けているのであります。ローマ造った大通りを自由に行き来することによって、福音はローマに速やかに宣べ伝えられました。そして、いくら、ローマが憎いからといっても、ローマ帝国から平和ですとか公共の益を受けているのです。したがって税金を納めることは、借り物を返すようにそれは当然の義務ですよということです。そして注目すべきことは、パウロがこのローマ書を書かれた時の皇帝が誰だったのかというと、5代目のネロ皇帝であったということです。大変キリスト者を迫害し恐ろしいことを行った皇帝でした。そのような皇帝であっても、神によって建てられているとみなし、善を行うことを勧めているのです。皇帝という立場は神様の御手の中で、神さまの許しの中で初めて皇帝になれるのであって、このような上に建てられた人を通してキリスト者を訓練し、キリスト者に鞭を与える道具として立てられているということです。ですから、上に立てられている権威に、私たちは従順しそのことを通して神さまに従順すること、それが神様に栄光をお返しすることになるということです。

結論的に言うと、私たちは外圧によって神さまに対する私たちの誠実な心、礼拝する心を脅かされるということはないということです。私たちが仮にローマの頸木つながれていたり、奴隷状態にあったとしても私たちは、その立場的な理由によって神さまにお仕えすることはできませんということにはならないのです。私たちをまず自由にしてから、神さまにお仕えする者にならせてくださいということではないということです。どのような外圧あっても、神さまにお仕えすることができる、神さまに従順に歩むことができるということです。ですからこの、現実世界と霊的世界において確かに区別はあります。世俗的なものと、聖なるもの、これには区別がありますけれども、それを完全に対立させるのではなくて、実は神さまが全てを治めておられ、聖なるものの中にも世俗的なものがいすわる場所もあるということです。

例えば、逆のことを考えてみれば明らかになるのではないかと思います。私たちは一般の企業に勤めるのではなくて、クリスチャン企業に勤めよう。一般の小中高等学校で学ぶのではなくて、ミッションスクールで学ぼうといったときに、それでは、それで完全に聖くなることができるのでしょうか。そのことを持って私たちが神さまに完全にお仕えすることになるのかという点を考えてみる時に、やはりそれは「NO」であるということです。いくら社長がクリスチャンであったとしても、社長がノンクリスチャンであったとしても神に仕えるという面において違いはないということです。ですから、あたかもローマ皇帝を神さまと同じ次元で考えてしまい、神さまとローマ皇帝を対立するものと考えてはならないということです。「ローマのものはローマに返しなさい。皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい」と言った時に、神さまは実はすべての者を所有されているということです。全てがそもそも、神さまのものですよということです。私たちはヨブ記を読むときに、サタンが神さまの会議に出席して、そしてサタンがヨブに危害を加えることを申し出ていますが、そこでいくらサタンであってもヨブに危害を加えることに神の許可が必要であるということを思い起こすことができます。ヨブ記1:6-7節と12節をご覧ください。

“6ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。7主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。”

“12主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。”

このように、ヨブの命は取らないのですが、ヨブに危害を加えることは、認められている、サタンは私たちに危害を加えることはあっても、神さまの許しなしには決して危害を加えることはできないということです。神さまがすべてをご支配しておられるということです。神さまの統治とは、常に祝福されて、常に喜びと豊かさに満ち溢れたものではないかもしれません。そしてまさにその点が私たちにとっても悩ましい点であるのです。私たちは神を信じた後に、これで神の家族に入れられ、神の秩序に入れられ、神さまからの祝福を期待しつつ、神を畏れ生活していくことができるんだー!と思ってしまいます。ところが、実際問題この世で生きていく上でどうしてもお金が必要になってきます。私たちキリスト者がいくら夜を徹して涙をながしなら祈ったからといって、すぐにお金が天から降ってくるわけではありません。私たちが信仰を持ったからといって、即座に人生の問題が解決し、私たちの願い通りに全てのことが運ばれる、ということでもないのです。ヨブでさえなぜ、自分の身にこのような災いが立て続けに起こるのか理解できませんでした。ヨセフの場合も同じです。なぜ自分が牢獄の中で囚人として過ごさなければならないのか。ある日突然、エジプトの首相に抜擢され、当時世界に大飢饉が起こった時に、適切に対処してカナンから自分の民族を、つまりヨセフを売り飛ばした兄たちを救済しエジプトに移住させたときに、初めて神の永遠の摂理の一部を理解することができたのです。ですから、私たちが現在置かれている場所において善を行いキリストの愛を実践することによって、神に仕えていく私たちとならせていただきましょう。お祈りします。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 것은 하나님께 바치라

2018년 12월30일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 22장 15절~22절

유월절 축제 기간 중, 예수님의 공생애의 마지막 일주일인, 고난 주간을 보내고 있습니다. 바리새인들의 목적은 예수님을 체포하여 죽이는 것이었지만, 민중을 두려워하여 쉽게 실행하지 못하고 있었습니다. 21장 23절부터 권위에 관한 질문이 시작되며, 오늘 본문은 로마에 바치는 인두세에 관한 질문입니다. 예수님께서 대답하신 유명한 말씀인「가이사의 것은 가이사에게, 하나님의 것은 하나님께」라고 하신, 이 말씀이 실제 우리의 신앙생활과 현실 문제 속에서, 어떤 지혜를 주시는지, 오늘 살펴보고자 합니다. 이 구절에서 자주 지적되는 것은, 예수님의 가르침이, 결코 거룩한 세계나 영적 세계와, 세속적 현실 세계를 구분하여 이중 기준으로 살아가라는 것이 아니라는 점입니다. 즉, 교회 문제 등 신앙과 관련된 일과 우리가 이 세상에서 실제로 마주하는 문제에 있어서, 「교회에 속한 나」와 「세상에서 생활하는 나」라는 두 가지 입장에서 이중 잣대로 살아가라는 가르침이 아니라는 것입니다. 왜냐하면 피조 세계는, 모두 하나님에 의해 창조되었기 때문에, 우리의 하나님은 우리가 생각하는 거룩한 것의 하나님이시며, 우리가 생각하는 세속적이고 현실적인 세계에서도 여전히 하나님이시기 때문입니다. 이 인두세 문제는, 현재를 사는 우리에게도 매우 중요한 문제이지만, 당시 유대인들에게도 매우 민감한 문제였습니다. 15~16절 중간까지 살펴보십시오.

15 이에 바리새인들이 가서 어떻게 하면 예수를 말의 올무에 걸리게 할까 상의하고

16 자기 제자들을 헤롯 당원들과 함께 예수께 보내어 말하되 …

바리새인들은 자기 제자들을 예수님께 보냈다고 기록되어 있습니다. 새로운 얼굴을 보냈다는 뜻이죠. 자신들의 정체가 이미 드러났기 때문에, 제자들을 보내 경계를 받지 않으려는 것이었습니다. 이 구절을 읽으며 우리가 의아해하는 점은, 헤롯 당을 상대하지 않는 바리새인들이 헤롯 당원들과 함께 하여 자기 제자들을 보냈다는 점입니다. 헤롯당과 바리새인은, 적대 관계에 있어 물과 기름 같은 사이였습니다. 헤롯 안티파스는 당시 갈릴리와 베레아 지방의 영주로 로마 황제에게 발탁된 지도자였습니다. 이 헤롯은 세례 요한을 처형한 인물입니다. 예수님은 헤롯을 가리켜「저 여우」라고 말씀하셨습니다. 헤롯은, 카이사르에 의해 영주로 발탁받았기에, 당연히 헤롯은, 로마의 협력자로서 로마의 개처럼 행동하게 됩니다. 따라서 헤롯 당 사람들은 유대인 동포들에게는 배신자로 비춰졌습니다. 한편, 바리새인들은 유대인 대중으로부터 큰 지지를 받고 있었습니다. 왜냐하면 그들은 매일 율법을 연구하고 그 율법을 실천하려 했기 때문입니다(다만 행위로 의롭다 함을 받으려는 잘못된 생각을 가지고 있었지만). 바리새인들의 생각에 따르면, 유대 땅은 성경에 기록된 대로 하나님의 소유된 땅이므로, 그 땅에 세금을 부과하거나, 혹은 성인 한 사람 한 사람에게 인두세가 부과되는 것은, 용납할 수 없는 일이었습니다. 세금 문제를 두고 유대인들은 큰 갈등을 겪고 있었습니다. 더욱이 인두세는 사실, 데나리온으로 내야 했습니다. 데나리온은 로마의 화폐인데, 그 동전에는 티베리우스 카이사르(로마 제2대 황제)의 초상이 새겨져 있었습니다. 그리고 동전 가장자리에는 글자가 쓰여 있습니다. 「아우구스투스의 아들 티베리우스」, 즉 아우구스투스는 신의 아들로 여겨졌기에, 더욱이 그 아들이 티베리우스라는 것입니다. 그러므로 데나리온을 내는 것이 첫째로 율법에 어긋납니다. 어떤 신의 형상도 만들지 말라는 십계명의 두 번째 계명에 위배되기 때문입니다. 둘째로 티베리우스 카이사르를 신으로 인정하는 문제가 있습니다. 세금을 낼 때마다 바리새인들과 열심당 사람들은 시험에 들었습니다.

이러한 가운데 질문이 제기 됩니다. 22:16절 후반부터 17절을 보시기 바랍니다.

16 … 선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 진리로 하나님의 도를 가르치시며 아무도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 아니하심이니이다

17 그러면 당신의 생각에는 어떠한지 우리에게 이르소서 가이사에게 세금을 바치는 것이 옳으니이까 옳지 아니하니이까 하니

예수님께서 예수님께서 항상 제자들의 솔직한 질문에 부드럽게 답해 주셨듯이, 자신들을 열심이 있는 구도자로 받아들여 주시길 바라는 듯, 공손한 태도로 다가갔습니다. 더 나아가 자신들의 질문에 답하게 하려는 것이었습니다. 그러나 그들의 속마음은, 진리에 대한 갈증에서 비롯된 것이 전혀 아니었습니다. 예수님께 가르침을 받으려는 동기가 아니라, 예수님을 말의 올무에 걸리게 하려고 했던 것입니다. 로마에 세금을 내야 하는지, 내지 말아야 하는지, 대담하게 대답해 달라는 식이었습니다. 만약 예수님께서 로마에 타협하여 로마에 세금을 내야 한다고 말씀하신다면, 단번에 민중의 지지를 잃을 것이 분명했습니다. 반대로 예수님께서 정의감에 불타 세금을 내는 것은 율법 위반이라고 말씀하신다면, 바로 그들이 바라는 바였습니다. 로마에 고소할 구실을 찾고 있었던 것입니다. 예수님은 그 모든 것을 꿰뚫어 보시고「외식하는 자들아 어찌하여 나를 시험하느냐」라고 말씀하셨습니다. 그리고 세금 낼 돈을 보이라 하시고「이 형상과 이 글이 누구의 것이냐」라고 말씀하셨습니다. 그들이 「가이사의 것이니이다」라고 말하자 예수님께서 「가이사의 것은 가이사에게, 하나님의 것은 하나님께 바치라」라고 말씀하셨습니다. 이를 들은 자들은 예수님의 말씀에 놀라 그 자리를 떠났다고 기록되어 있습니다. 그러나 우리에게는 아직 여기서 말씀하신 뜻이 제대로 전해지지 않습니다. 이 말씀의 한 가지 실마리는 예수님께서 세금을 내라는 표현을 쓰지 않으시고, 빌린 것은 원래 주인에게 갚으라는 표현을 쓰신다는 점입니다. 「로마에게서 빌린 것은 로마에게, 하나님께 빌린 것은 하나님께 갚으라」고 말씀하시는 것입니다. 바울 서신을 보면 이 부분이 좀 더 명확히 드러나는 구절이 있으니 살펴보겠습니다. 로마서 13장 1절부터 7절까지입니다.

로마서 13장

1 각 사람은 위에 있는 권세들에게 복종하라 권세는 하나님으로부터 나지 않음이 없나니 모든 권세는 다 하나님께서 정하신 바라

2 그러므로 권세를 거스르는 자는 하나님의 명을 거스름이니 거스르는 자들은 심판을 자취하리라

3 다스리는 자들은 선한 일에 대하여 두려움이 되지 않고 악한 일에 대하여 되나니 네가 권세를 두려워하지 아니하려느냐 선을 행하라 그리하면 그에게 칭찬을 받으리라

4 그는 하나님의 사역자가 되어 네게 선을 베푸는 자니라 그러나 네가 악을 행하거든 두려워하라 그가 공연히 칼을 가지지 아니하였으니 곧 하나님의 사역자가 되어 악을 행하는 자에게 진노하심을 따라 보응하는 자니라

5 그러므로 복종하지 아니할 수 없으니 진노 때문에 할 것이 아니라 양심을 따라 할 것이라

6 너희가 조세를 바치는 것도 이로 말미암음이라 그들이 하나님의 일꾼이 되어 바로 이 일에 항상 힘쓰느니라

7 모든 자에게 줄 것을 주되 조세를 받을 자에게 조세를 바치고 관세를 받을 자에게 관세를 바치고 두려워할 자를 두려워하며 존경할 자를 존경하라

간단히 말하자면, 바울은 로마 황제의 권위가 하나님에게서 비롯된, 하나님께로부터 빌린 것이라고 말하고 있습니다. 더 나아가 이 세상의 모든 것, 모든 피조물은 이 창조물을 만드신 하나님의 것이라고 말합니다. 그러므로 로마에 세금을 내는 것은, 황제의 것은 황제에게 돌려주는 것이 분명하지만, 그것은 우리가 하나님 앞에서 선을 행하는 것이며, 나아가 하나님을 경외하는 것이 된다고 말하고 있는 것입니다. 잘 생각해 보면, 이스라엘 사람들도 로마 제국으로부터 혜택을 받고 있습니다. 로마가 만든 큰 길을 자유롭게 오가면서 복음이 로마에 신속히 전파되었습니다. 그리고 아무리 로마가 미워도, 로마 제국으로부터 평화나 공공의 이익을 누리고 있습니다. 따라서 세금을 내는 것은, 빌린 것을 갚는 것처럼 당연한 의무라는 것입니다. 그리고 주목할 점은, 바울이 이 로마서를 쓸 당시의 황제가 누구였는가 하면, 5대 네로 황제였다는 것입니다. 그는 그리스도인들을 잔혹하게 박해하고 끔찍한 일을 저지른 황제였습니다. 그런 황제라 할지라도 하나님께서 세우신 분으로 여기고 선을 행하라고 권하고 있는 것입니다. 황제라는 지위는 하나님의 손 안에, 하나님의 허락 안에서 비로소 황제가 될 수 있는 것이며, 이와 같이 위에 세워진 사람을 통해, 그리스도인을 훈련시키고, 그리스도인에게 채찍질하는 도구로 세워져 있다는 것입니다. 그러므로 위에 세워진 권위에 우리는 순종하고, 이를 통해 하나님께 순종하는 것, 그것이 하나님께 영광을 돌리는 것입니다.

결론적으로 말하자면, 우리는 외부의 압박으로 인해 하나님에 대한 우리의 진실한 마음, 예배하는 마음이 위협받는 일은 없다는 것입니다. 우리가 설령 로마의 목줄에 묶여 있거나 노예 상태에 있었다 하더라도, 우리는 그 지위적인 이유로 인해 하나님을 섬길 수 없다는 결론에 이르지 않습니다. 우리를 먼저 자유롭게 하신 후에야 비로소 하나님을 섬기는 자가 되게 해 달라는 것이 아닙니다. 어떤 외부의 압박이 있더라도, 하나님을 섬길 수 있고, 하나님께 순종하며 걸어갈 수 있다는 것입니다. 그러므로 이 현실 세계와 영적 세계 사이에는 분명히 구분이 있습니다. 세속적인 것과 거룩한 것, 여기에는 구분이 있지만, 그것을 완전히 대립시키는 것이 아니라, 사실 하나님께서 모든 것을 다스리시고 계시며, 거룩한 것 안에도 세속적인 것이 자리 잡을 수 있는 곳이 있다는 것입니다.

예를 들어, 반대의 경우를 생각해 보면 분명해질 것 같습니다. 우리가 일반 기업에 다니지 않고 기독교 기업에 다니고자 할 때나, 일반 초중고등학교에서 배우지 않고 미션 스쿨에서 배우자고 할 때, 그렇다면 그것으로 완전히 거룩해질 수 있을까요? 그 일로 우리가 하나님께 완전히 섬기게 되는지 생각해 볼 때, 역시 그것은「'아니오」라는 것입니다. 사장이 크리스천이든, 비신자이든, 하나님을 섬긴다는 측면에서는 차이가 없다는 것입니다. 그러므로 마치 로마 황제를, 하나님과 같은 차원으로 생각하거나, 하나님과 로마 황제를 대립하는 존재로 여겨서는 안 된다는 것입니다. 「가이사의 것은 가이사에게, 하나님의 것은 하나님께 바치라」라고 말씀하실 때, 하나님께서는 사실 모든 이를 소유하고 계신다는 것입니다. 모든 것이 원래부터 하나님께 속한 것임을 의미합니다. 우리는 욥기를 읽을 때, 사탄이 하나님의 회의에 참석하여 욥에게 해를 입히겠다고 제안하는 장면을 보게 됩니다. 여기서 아무리 사탄이라 할지라도 욥에게 해를 입히는 일에 하나님의 허락이 필요했음을 떠올릴 수 있습니다. 욥기 1장 6-7절과 12절을 보십시오.

옵기 1장

6 하루는 하나님의 아들들이 와서 여호와 앞에 섰고 사탄도 그들 가운데에 온지라

7 여호와께서 사탄에게 이르시되 네가 어디서 왔느냐 사탄이 여호와께 대답하여 이르되 땅을 두루 돌아 여기저기 다녀왔나이다

12 여호와께서 사탄에게 이르시되 내가 그의 소유물을 다 네 손에 맡기노라 다만 그의 몸에는 네 손을 대지 말지니라 사탄이 곧 여호와 앞에서 물러가니라

이처럼 욥의 몸에는 손을 댈 수 없지만, 욥에게 해를 가하는 것은 허용되어 있습니다. 사탄은 우리에게 해를 가할 수는 있지만, 하나님의 허락 없이는 결코 해를 가할 수 없다는 것입니다. 하나님께서 모든 것을 다스리신다는 뜻입니다. 하나님의 통치는 항상 축복받고, 항상 기쁨과 풍요로 가득 찬 것은 아닐 수도 있습니다. 그리고 바로 그 점이 우리에게도 고민스러운 부분입니다. 우리는 하나님을 믿은 후, 「이제 하나님의 가족이 되고 하나님의 질서에 들어가 하나님이 주실 복을 기대하며 하나님을 경외하며 살아갈 수 있겠구나!」라고 생각하게 됩니다. 그러나 현실적으로 이 세상에서 살아가려면 반드시 돈이 필요해집니다. 우리 그리스도인들이, 아무리 밤을 새워 눈물을 흘리며 기도했다고 해서, 곧바로 돈이 하늘에서 떨어지는 것은 아닙니다. 우리가 믿음을 가졌다고 해서, 즉시 인생의 문제가 해결되고 우리의 소원대로 모든 일이 이루어지는 것도 아닙니다. 욥조차도 왜 자신에게 이런 재앙이 연이어 일어나는지 이해하지 못했습니다. 요셉의 경우도 마찬가지입니다. 왜 자신이 감옥에서 죄수로 지내야 하는지. 어느 날 갑자기 이집트의 총리로 발탁되어, 당시 세계에 큰 기근이 닥쳤을 때 적절히 대처하여 가나안에서 자신의 민족, 즉 요셉을 팔아넘긴 형제들을 구제하고 이집트로 이주시켰을 때, 비로소 하나님의 영원한 섭리의 일부를 이해할 수 있었습니다. 그러므로 우리도, 현재 처한 자리에서 선을 행하고 그리스도의 사랑을 실천함으로써 하나님을 섬기는 자가 되도록 합시다. 기도합니다.

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