2025年05月18日「御言葉による改革 말씀에 의한 개혁」

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御言葉による改革 말씀에 의한 개혁

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 12章44節~13章31節

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12:44その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。
12:45祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。
12:46ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。
12:47ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。
13:1その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。
13:2かつて彼らは、パンと水をもってイスラエル人を迎えず、バラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからである。わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。
13:3人々はこの教えを聞くと、混血の者を皆、イスラエルから切り離した。
13:4これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていたが、
13:5かつて人々が穀物の献げ物と香と祭具、またレビ人と詠唱者と門衛のための、規定による十分の一の穀物と新しいぶどう酒と油、更に祭司のための礼物を納めることになっていたその大きな祭司室をトビヤのために流用した。
13:6その時わたしはエルサレムにいなかった。バビロンの王アルタクセルクセスの第三十二年にわたしは王のもとに行っていたからである。やがて王の許しを得て、
13:7エルサレムに帰り、エルヤシブがトビヤのために神殿の庭にある収納庫を流用して、そのために行った悪事を知った。
13:8わたしは非常に憤り、その祭司室からトビヤ家の器具類をすべて外に投げ出し、
13:9その祭司室を清め、そこに再び神殿の祭具と穀物の献げ物と香を納めることを命じた。
13:10またわたしは、レビ人に与えられるはずのものが与えられず、務めに就いていたレビ人と詠唱者が、それぞれ自分の耕地に逃げ帰っているのを知った。
13:11わたしは役人を責め、なぜ神殿を見捨てられたままにしておくのかと言った。わたしはレビ人と詠唱者を集め、務めに就かせた。
13:12こうしてユダの人々が皆、十分の一の穀物と新しいぶどう酒と油を貯蔵室に持って来た。
13:13わたしは、祭司シェレムヤ、書記官ツァドク、レビ人ペダヤに貯蔵室の管理を命じ、マタンヤの孫でザクルの子、ハナンを彼らの助手とした。彼らは忠実な人物とされており、仲間に分配する任務が彼らにゆだねられた。
13:14わたしの神よ、それゆえわたしを心に留め、神殿とその務めのために示した、わたしの真心を消し去らないでください。
13:15またそのころ、ユダで、人々が安息日に酒ぶねでぶどうを踏み、穀物の束をろばに負わせて運んでいるのを、わたしは見た。また、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、その他あらゆる種類の荷物も同じようにして、安息日にエルサレムに運び入れていた。そこで、彼らが食品を売っているその日に、わたしは彼らを戒めた。
13:16ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた。
13:17わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。
13:18あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」
13:19そこで、安息日の始まる前に、エルサレムの城門の辺りが暗くなってくると、わたしはその扉を閉じるように命じ、安息日が過ぎるまでそれを開けないように言いつけた。そしてわたしの部下をその門の前に立たせ、安息日には荷物が決して運び込まれないようにした。
13:20そのため、取り引きする人やあらゆるものを売る人が、エルサレムの外で夜を過ごすことも一度ならずあった。
13:21わたしは彼らを戒めて、「なぜ城壁の前で夜を過ごすのか。繰り返すならば、お前たちを処罰する」と言った。そのとき以来、彼らは安息日には来なくなった。
13:22またわたしはレビ人に、身を清めて門を守り、安息日を聖とするように命じた。わたしの神よ、このことについてもわたしを心に留め、あなたの大いなる慈しみによって、わたしを憐れんでください。
13:23またそのころ、ユダの人々がアシュドド人やアンモン人やモアブ人の女と結婚していることが、わたしに分かった。
13:24その子供たちの半数は、アシュドドの言葉あるいはそれぞれの民族の言葉を話し、ユダの言葉を知らなかった。
13:25わたしは彼らを責め、呪い、幾人かを打ち、その毛を引き抜き、神にかけて誓わせた。「お前たちの娘を彼らの息子の妻にしてはならない。彼らの娘をお前たちの息子の妻に、またはお前たちの妻にしてはならない。
13:26イスラエルの王ソロモンすらも、このようにして罪を犯したのではなかったか。数ある諸国の中でも彼のような王はおらず、神に愛され、神によってすべてのイスラエルの王に立てられた、その彼でさえ、異民族の妻たちによって罪に引き込まれてしまった。
13:27わたしたちの神に逆らって異民族の女と結婚するという、この大きな罪悪を犯したということを、お前たちについても聞かされなければならないのか。」
13:28大祭司エルヤシブの孫でヨヤダの子の一人が、ホロニ人サンバラトの娘婿となっていた。わたしは、彼を遠く追放した。
13:29わたしの神よ、祭司職を汚し、祭司とレビ人の契約を汚した者のことを覚えていてください。
13:30わたしはすべての異民族から彼らを清め、祭司とレビ人に守るべき務めを定め、それぞれその任務に就かせました。
13:31また定められた時に薪を奉納し、初物をささげるように定めました。わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 12章44節~13章31節

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【序】

本日でネヘミヤ記は最終回となります。前回の12章において、喜びのうちに城壁の奉献式が行われ、エズラ・ネヘミヤ記は劇的なフィナーレを迎えました。本日の個所は言ってみれば、付録であり、エピローグに相当する部分であります。編集者はなぜ、エズラ・ネヘミヤ記を12章43節で閉じるのではなく、このような付録を追加したのでしょうか。それは、罪人である私たちが、神の御言葉に留まり、そして神の恵みの内に留まり続けることがいかに難しいことなのかを読者に伝えようとしているからだと思いました。本日もネヘミヤ記の御言葉を通して、共に恵みに与りたいと願います。

【1】. 本来あるべき理想の姿

12:44の冒頭に「その日」という言葉が出てきます。そして、13:1にも全く同じ様に「その日」という言葉が出てきます。これは、奉献式が行われたまさにその日を指しているのか、或いは、奉献式が捧げられた頃を漠然と指しているのか、はっきりとはしませんが、いずれにしても、奉献式の余韻がまだ冷めやまぬ頃と考えられます。

祭司とレビ人は、神への務めを守り、礼物と初物と十分の一の献げ物を保管する収納庫は、いつも豊かに満たされていました。そしてそれが、祭司やレビ人など神殿に仕える人々に分配されていました。人々は祭司やレビ人の働きを喜んでいました。また、律法によれば、アンモン人とモアブ人は神の会衆に加わってはならないとありますので(申23:4)、御言葉に従って、混宗婚をしている民をイスラエルの共同体から切り離しました。この12:44~13:3までの段落は、民が神の御言葉に従順し、神の恵みと祝福を豊かに享受している状況が描かれています。これは、即ち、イスラエルの本来あるべき理想の姿であると言えるでしょう。そして同時にその姿とは、ネヘミヤ記10章にありますように、奉献式の直前に彼らが神の御前に誓約した内容でもありました。10:31~33と、40節をご覧ください。

“わたしたちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘をわたしたちの息子の嫁にしない。わたしたちは、この地の民が安息日に商品をはじめ、いかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日と他の聖なる日には買わない。わたしたちは、七年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する。わたしたちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。”

“イスラエルの人々とレビ人各人が穀物と新しいぶどう酒と油の礼物を納めるのはその祭司室であるからで、そこは、聖所用の祭具類があり、任務をもつ祭司、門衛、詠唱者がいるところである。わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません。”

このように誓約の最後には、「わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません。」という言葉が添えられています。ところが、13:4以降においてまるで士師記でも読んでいるかのような感覚を覚えます。世俗化し、無秩序化していくイスラエルの姿がそこに描かれています。13:4の冒頭に「これに先立って」「これより以前」とございますが、実際には、13:4以降の背景は城壁と門が完成された後、つまり奉献式の後の出来事だと考えられます。もっと言えば、13:6~7を見ると、具体的に時代背景が明らかにされていますので調べてみましょう。

“その時わたしはエルサレムにいなかった。バビロンの王アルタクセルクセスの第三十二年にわたしは王のもとに行っていたからである。やがて王の許しを得て、エルサレムに帰り、エルヤシブがトビヤのために神殿の庭にある収納庫を流用して、そのために行った悪事を知った。”

時は、アルタクセルクセス王の第32年。城壁が奉献されたのが第20年ですから、奉献式から既に12年の歳月が流れていたということです。この時、ネヘミヤはエルサレムには不在で、バビロンに居住していたアルタクセルクセス王に仕えていました。もともとネヘミヤは王の献酌官として、秘書のような役割を果たしていましたので、アルタクセルクセス王から厚い信頼を寄せられていました。ですから13:4冒頭の「これに先立って」という言葉は、過去のことを言っているのではないということが分かります。ある神学者は「それをものともせず」、「それにも拘わらず」という言葉に置き換えるのが適当であると主張します。城壁が奉献されてから、回復された理想の姿をものともせず、ネヘミヤがエルサレムに不在になるや否や、堕落が始まっていったのであります。

【2】. 三つの改革

さて、13:4からは、具体的なネヘミヤが不在の時に発生した問題について書かれています。第一に神殿の秩序の乱れについてです。祭司エルヤシブはトビヤと縁のある者でありましたが、この祭司エルヤシブに神殿の祭司室が任されていました。本来なら、そこに規定された穀物の献げ物や、レビ人と詠唱者と門衛のための、十分の一の穀物と新しいぶどう酒と油と礼物を納めることになっていました。ところが、ネヘミヤが不在になるとその部屋は、献げ物の収納庫として用いられるのではなく、アンモン人トビヤによって用いられるようになっていました。トビヤとサンバラトと言えば、城壁の再建工事の早い段階から反対してきた人物です。一体、なぜそのようなことが起こったのでしょうか。献げ物によっては部屋が満たされず、そのような目的のために部屋を無駄に空けておくよりは、むしろトビヤに使っていただいて、その見返りや、何らかの有益をトビヤから受け取る方が良いと考えたのかもしれません。エルサレムに戻ってきたネヘミヤがそのことを知ると、ブチギれて、その部屋からトビヤ家の所有物を一切合切外に投げ出し、部屋を清めるよう命じました。また、レビ人たちに与えられるはずのものがきちんと与えられていなかったため、神殿において務めに就いていたレビ人と詠唱者は、それぞれ自分の耕地に逃げ帰ってしまったということをネヘミヤは知りました。この時ネヘミヤはレビ人と詠唱者を責めるのではなく、指導者である役人を責めています。11節をご覧ください。

“わたしは役人を責め、なぜ神殿を見捨てられたままにしておくのかと言った。わたしはレビ人と詠唱者を集め、務めに就かせた。”

ここから分かることは、群れに対し責任を負っている指導者がいかに重要であるかということが分かります。指導者である役人が、人間的な考えや、軽はずみな妥協を優先するなら、世俗化を招いたり、共同体の秩序が崩壊していくがあるのです。そのことは、現代の私たち教会においても同じだと思います。人間とは、徹底的に自己中心的であり、キリスト者といえども気を緩めれば直ちに御言葉から離れ「自己主張」をし始めます。本来あるべき理想の姿とはかけ離れた状態に陥ってしまうのです。これは私自身への適用でもありますが、指導者には神様の栄光が与えられていると同時に、重大な責任も与えられていて、もし、御言葉から離れるなら、神様から厳しい叱責が与えられることを忘れないようにしたいと思います。ネヘミヤは改革を実行し、その後神様に祈りを捧げました。14節の「わたしの真心を消し去らないでください」という言葉の真心とは、「誠実な業」という意味です。ですからこの部分は「私の誠実な業を消し去らないでください」となります。ネヘミヤは自分の考えを実行している訳ではなく、単に御言葉に忠実に仕えている者に過ぎないということが、この祈りから分かるのです。

改革はこれだけにとどまりませんでした。15節の冒頭をご覧ください。「またそのころ」という言葉で始まっていますが、第二に、安息日がきちんと守られていないという問題が発覚しました。安息日に仕事をする人がいたり、或いは安息日に異邦人が門を通って、都の中にずかずかと入ってきて商売しているのです。実際、ユダヤ人はこのことに対し違和感を覚えるどころか、むしろ有難く受け入れていたのかもしれません。しかし、ネヘミヤはどうしたでしょうか。17~18節をご覧ください。

“わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。”

ネヘミヤは、今度は貴族を叱責し、安息日が始まる直前に、門の扉を閉じるように命じ、安息日に荷物が決して運び込まれないようにしました。すると行商人は、安息日の夜、城壁の外で夜を過ごすという事態が発生しましたが、そんな彼らに対し「なぜ城壁の前で夜を過ごすのか。繰り返すならば、お前たちを処罰する」と言って厳しく戒めると、ようやく行商人は来なくなりました。ネヘミヤは第二の改革を実行し、再び22節で、神様に祈っています。「私の神よ、このことについても私を心に留め、あなたの大いなる慈しみによって、わたしを憐れんでください。」

改革は、まだ続きます。23節の冒頭をご覧ください。「またそのころ」という言葉で始まっていますが、第三に、ユダの人々がアシュドド人やアンモン人やモアブ人の女と結婚しているという問題が発覚しました。混宗婚の問題が指摘されています。混宗婚の何が問題なのかというと、それによって、神の御言葉への信頼は弱められ、律法を大切にしようとする価値観が相対化されるということです。次世代の子どもたちは、自分たちユダヤの言葉を話すことさえできず、アシュドドの言葉や、それぞれの民族の言葉を話すようになっていました。ネヘミヤは混宗婚をした当人たちを叱責します。25節をご覧ください。

“わたしは彼らを責め、呪い、幾人かを打ち、その毛を引き抜き、神にかけて誓わせた。「お前たちの娘を彼らの息子の妻にしてはならない。彼らの娘をお前たちの息子の妻に、またはお前たちの妻にしてはならない。”

ここでネヘミヤはエズラの時のように、彼らに離婚をさせるようなことはしませんでしたが、その代わりに厳しい処罰を与えました。幾人かを殴り、その毛を引き抜いたとあります。毛を抜くという言葉には、髭を抜くという意味も含まれていまして(イザ50:6)、ユダヤ人にとって髭は誇りでありましたから、大変侮辱させられたということです。婚宗婚とは、髭が抜かれるほどの不名誉なことである、そのことを彼らに理解させたかったのでしょう。また、婚宗婚は、大祭司の家系をも脅かしていました。大祭司エルヤシブの孫で、ヨヤダの子の一人がサンバラトの娘婿となっていたのです。ネヘミヤはそのことを知ると、ヨヤダの子と妻を遠く追放するように措置を取りました。恐らくサマリアの妻の実家へ追い出したのだと思われます。ネヘミヤは第三の改革を実行し、再び31節で「私の神よ、私を御心に留め、お恵みください」と祈りを捧げました。以上見てきましたように、ネヘミヤはエルサレムに戻って、三つの改革を推し進めたのでありました。

【3】. 教会のしるし

孤軍奮闘しながら進めていったネヘミヤの改革は、一見すると、ネヘミヤが目的のためには手段を選ばない、強引なリーダーのように見えるかもしれません。しかし、改革の実行の度に捧げられたネヘミヤの祈りを通して、ネヘミヤが御言葉中心に全てのことを考え、神様を愛し、神様に依り頼んでいたということが分かってきます。ネヘミヤの改革は、決して自分の考えから出たものではなく、すべて聖書の御言葉に規定されたものであったのです。

本日の個所は、人間がいかに罪深く、いかに神様のことを忘れやすい存在なのか、12:44~13:3に書かれていた本来あるべきこの理想の状態に留まり続けるということが、いかに難しいことなのかということが語られています。そして、もし、御言葉から離れ、自己主張ばかりするなら、そこは教会ではなく、サタンの集会にもなり得ると新約聖書では警告しています(黙示3:9)。そのため、宗教改革者たちは人間の全的堕落を認め、自分たちが罪に傾きやすく、弱い存在であることを認めました。その上で宗教改革者たちは「教会は日々改革されなければならない」と語りました。「教会は日々改革されなければならない」私たち改革派教会の由来であります。これは、どういう意味かと申しますと、御言葉に照らして、常に理想の状態になるよう修正ないし、改革し続けなければならないという意味です。立っていると思っていたら、すぐに倒れてしまう、そのような自分の弱さにがっかりしたり、自己憐憫するのではなく、倒れても再び神様に戻って、本来の場所に軌道修正すること、これが日々改革され続けるという意味です。そして、宗教改革者たちは教会のしるしとして、以下の三つの項目を掲げました。教会のしるしとは、第一に聖書の御言葉が解き明かされること、第二にイエス・キリストが直接制定された礼典が執り行われること、第三に戒規が正しく行われることです。これがきちんとなされていなければ、いくらイエス様を信じているからと言っても、教会ではないというのです。第一と第二はわかりますが、第三に戒規が挙げられていることに注目してください。指導者は、共同体が御言葉に留まるようにするため、また共同体の秩序と純潔を守るために、時にはネヘミヤのように厳しく叱責することも重要になってくるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。ネヘミヤ記の最終章を通して、私たちは人間の自己中心的な罪深さ、弱さを確認いたしました。神の御前で誓約した、本来あるべき理想の姿に留まり続けることは難しいことであります。だからこそ、私たちは御言葉に土台を置いて、御言葉に徹底的に規定された教会として建て上げられているのかどうか、常に自分たちを客観的に見つめることが大切なのだと思います。「教会は日々改革されなければならない」というスローガンのもと、倒れても、御言葉を信じて、神様に戻って、何度でも軌道修正する私たちとならせていただきましょう。

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말씀에 의한 개혁

2025년5월 18일 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 12장 44~13장 31절

서론

오늘로 느헤미야서는 마지막 회를 맞이합니다. 지난 12장에서 성벽 봉헌식이 기쁨가운데 거행되면서 에스라・느헤미야서는 극적인 피날레를 맞이했습니다. 오늘의 부분은 말하자면 부록이자 에필로그에 해당하는 부분입니다. 편집자는 왜 에스라・느헤미야서를 12장 43절로 끝맺지 않고 이런 부록을 추가했을까요? 그것은 죄인인 우리가 하나님의 말씀에 머물러 있고, 하나님의 은혜 안에 머물러 있는 것이 얼마나 어려운 일인지를 독자에게 전하기 위함이라고 생각했습니다. 오늘도 느헤미야 말씀을 통해 함께 은혜를 받기를 소망합니다.

(1) 본래의 이상적인 모습

12:44절의 첫머리에 「그 날」이라는 단어가 나옵니다. 그리고 13:1 에도 똑같이「그 날」이라는 단어가 나옵니다. 이는 봉헌식이 거행된 바로 그 날을 가리키는 것인지, 아니면 봉헌식이 드려진 때를 막연하게 가리키는 것인지 명확하지 않지만, 어느 쪽이든 봉헌식의 여운이 아직 가시지 않은 때로 생각됩니다.

제사장과 레위인의 하나님을 섬기는 사역을 지키고 제사장과 레위인에게 돌릴 것, 거제물과 처음 익은 것과 십일조를 보관하는 곳간은 항상 풍성하게 채워져 있었습니다. 그리고 그것이 제사장과 레위인 등 성전을 섬기는 사람들에게 분배되었습니다. 사람들은 제사장과 레위인의 사역을 즐거워했습니다. 또한 율법에 따르면 암몬 사람과 모압 사람은 하나님의 회중에 속하지 못한다고 했기 때문에(신 23:4), 말슴에 따라 혼종혼하는 백성을 이스라엘 공동체에서 분리시켰습니다. 이 12:44~13:3까지의 단락은, 백성들이 하나님의 말씀에 순종하여 하나님의 은혜와 축복을 풍성하게 누리는 상황을 묘사하고 있습니다. 이는 곧 이스라엘이 마땅이 머물러야 할 이상적인 모습이라고 할 수 있습니다. 그리고 동시에 그 모습은 느헤미야서 10장에 나오는 것처럼 봉헌식 직전에 그들이 하나님 앞에 서원한 내용이기도 합니다. 10:30~32와 39절을 보시기 바랍니다.

30 우리의 딸들을 이 땅 백성에게 주지 아니하고 우리의 아들들을 위하여 그들의 딸들을 데려오지 아니하며

31 혹시 이 땅 백성이 안식일에 물품이나 온갖 곡물을 가져다가 팔려고 할지라도 우리가 안식일이나 성일에는 그들에게서 사지 않겠고 일곱째 해마다 땅을 쉬게 하고 모든 빛을 탕감하리라 하였고

32 우리가 또 스스로 규례를 정하기를 해마다 각기 세겔의 삼분의 일을 수납하여 하나님의 전을 위하여 쓰게 하되

39 곧 이스라엘 자손과 레위 자손이 거제로 드린 곡식과 새 포도주와 기름을 가져다가 성소의 그릇들을 두는 골방 곧 섬기는 제사장들과 문지기들과 노래하는 자들이 있는 골방에 둘 것이라 그리하여 우리가 우리 하나님의 전을 버려 두지 아니하리라

이렇게 서약의 마지막에는「우리가 우리 하나님의 전을 버려 두지 아니하리라」라는 말이 덧붙여져 있습니다. 그런데 13:4 이후부터는 마치 사사기를 읽는 듯한 느낌이 듭니다. 13:4의 첫머리에 「이전에」라는 표현이 있지만, 실제로 13:4 이후의 배경은 성벽과 성문이 완성된 후, 즉 봉헌식 이후의 사건이라고 볼 수 있습니다. 더 나아가 13:6~7을 보면 구체적으로 시대적 배경이 밝혀져 있으니 살펴보겠습니다.

6 그 때에는 내가 예루살렘에 있지 아니하였느니라 바벨론 왕 아닥사스다 삼십이년에 내가 왕에게 나아갔다가 며칠 후에 왕에게 말미를 청하고

7 예루살렘에 이르러서야 엘리아십이 도비야를 위하여 하나님의 전 뜰에 방을 만든 악한 일을 안지라

때는 아닥사스다 왕 32년, 성벽이 봉헌된 것이 제 20년이니 봉헌식으로부터 이미 12년의 세월이 흘렀다는 뜻입니다. 이때 느헤미야는 예루살렘에 있지 않고 바벨론에 거주하고 있던 아닥사스다 왕을 섬기고 있었습니다. 원래 느헤미야는 왕의 술 맡은 관원으로서 비서 같은 역할을 했기 때문에 아닥사스다 왕의 두터운 신임을 받고 있었습니다. 그래서 13:4의 첫 머리에 나오는「이전에」라는 말은 과거의 일을 말하는 것이 아님을 알 수 있습니다. 어떤 신학자는 「그럼에도 불구하고」라는 말로 대체하는 것이 적절하다고 주장합니다. 성벽이 봉헌된 후 회복된 이상적 모습을 뒤로 하고 느헤미야가 예루살렘에 부재하자마자 타락이 시작되었다는 것입니다.

(2) 세 가지 개혁

자, 13:4부터는 구체적인 느헤미야의 부재 중에 발생한 문제들에 대해 기록되어 있습니다. 첫 번째는 성전 질서 문란에 대한 내용입니다. 제사장 엘리아십은 도비야와 친분이 있는 사람이었는데, 이 제사장 엘리아십에게 성전 제사장실이 맡겨져 있었습니다. 원래는 그곳에, 규정된 곡식 제물과 레위인과 노래하는 자와 문지기를 위한 십일조와 새 포도주와 기름과 예물을 거두어 두게 되어 있었습니다. 그러나 느헤미야가 부재중일 때 그 방은 헌물 창고로 사용되지 않고 암몬 사람 도비야가 사용하게 되었습니다. 도비야와 산발랏은 성벽 재건 공사 초기부터 반대했던 인물입니다. 도대체 왜 그런 일이 벌어진 것일까요? 헌물로는 충분히 방이 채워지지 않아 그런 용도로 쓸데없이 방을 비워두는 것보다는 차라리 도비야에게 사용하게 하고 그 대가로 도비야로부터 어떤 이익을 받는 것이 낫다고 생각했을지도 모릅니다. 예루살렘으로 돌아온 느헤미야는 이 사실을 알게 되자 화가 폭팔하여, 그 방에서 도비야 가문의 소유물을 모두 밖으로 내버리고 방을 깨끗이 치우라고 명령합니다. 또한 레위인들에게 주어져야 할 것이 제대로 주어지지 않아 성전에서 봉사하던 레위인과 노래하는 자들이 각자 자기 경작지로 도망쳐 돌아갔다는 사실을 느헤미야는 알게 되었습니다. 이때 느헤미야는 레위인과 노래하는 자들을 꾸짖는 것이 아니라 지도자인 민장들을 꾸짖습니다. 11절을 보시겠습니다.

11 내가 모든 민장들을 꾸짖어 이르기를 하나님의 전이 어찌하여 버린 바 되었느냐 하고 곧 레위 사람을 불러 모아 다시 제자리에 세웠더니

여기에서 알 수 있는 것은, 무리를 책임지는 지도자가 얼마나 중요한지 알 수 있습니다. 지도자인 관료가 인간적인 생각이나 가벼운 타협을 우선시한다면 세속화를 초래하거나 공동체의 질서가 무너질 수 있다는 것입니다. 그 점은 현대의 우리 교회에서도 마찬가지라고 생각합니다. 인간은 철저하게 자기중심적이며, 그리스도인이라 할지라도 조금만 방심하면 바로 말씀에서 벗어나 「자기주장」을 하기 시작합니다. 본래의 이상적 모습과는 거리가 먼 상태에 빠지게 되는 것입니다. 이것은 저 자신에게도 적용되지만, 지도자에게는 하나님의 영광이 주어지는 동시에 막중한 책임이 주어져 있고, 만약 말씀에서 멀어지면 하나님의 엄중한 책망을 받을 수 있다는 것을 잊으면 안된다고 생각합니다. 느헤미야는 개혁을 실행한 후, 하나님께 기도를 드렸습니다. 14절의「내가 행한 선한 일을 도말하지 마옵소서」라는 말의 진심은, 「성실한 일」이라는 뜻입니다. 따라서 이 부분은 「나의 성실한 일을 지워버리지 말아 주십시오」가 됩니다. 느헤미야는 자신의 생각을 실행하는 것이 아니라 그저 말씀을 충실하게 섬기는 자에 불과하다는 것을 이 기도를 통해 알 수 있습니다.

개혁은 여기서 그치지 않았습니다. 15절의 첫머리를 보십시오.「그 때에」라는 말로 시작하는데, 두 번째로 안식일을 제대로 지키지 않는 문제가 발견되었습니다. 안식일에 일을 하는 사람이 있거나, 혹은 안식일에 이방인들이 성문을 통해 성안으로 들어와서 장사하는 것입니다. 사실 유대인들은 이에 대해 위화감을 느끼기보다는 오히려 감사하게 받아들였을지도 모릅니다. 그런데 느헤미야는 어떻게 생각했을까요, 17~18절을 보시기 바랍니다.

17 내가 유다의 모든 귀인들을 꾸짖어 그들에게 이르기를 너희가 어찌 이 악을 행하여 안식일을 범하느냐

18 너희 조상들이 이같이 행하지 아니하였느냐 그래서 우리 하나님이 이 모든 재앙을 우리와 이 성읍에 내리신 것이 아니냐 그럼에도 불구하고 너희가 안식일을 범하여 진노가 이스라엘에게 더욱 심하게 임하도록 하는도다 하고

느헤미야는 이번에는 귀인들을 꾸짖으며 안식일이 시작되기 직전에 성문 문을 닫으라고 명령하여 안식일에 짐이 절대 반입되지 않도록 했습니다. 그러자 행상인들은 안식일 밤에 성벽 밖에서 밤을 보내는 사태가 발생했는데, 이에 대해 「너희가 어찌하여 성 밑에서 자느냐 다시 이같이 하면 내가 잡으리라」고 엄중히 경고하자 마침내 행상인들은 더 이상 오지 않게 되었습니다. 두 번째 개혁을 실행한 느헤미야는 다시 22절에서 하나님께「내 하나님이여 나를 위하여 이 일도 기억하시옵고 주의 크신 은혜대로 나를 아끼시옵소서」라고 기도합니다.

개혁은 계속됩니다. 23절의 첫 부분을 보십시오.「그 때에」라는 말로 시작하는데, 세 번째로 유다 사람들이 아스돗 사람이나 암몬 사람이나 모압 여자와 결혼하고 있는 문제가 발각되었습니다. 혼종혼의 문제가 지적되고 있습니다. 이방인과의 혼인의 문제점은 무엇일까요. 그로 인해 하나님의 말씀에 대한 신뢰가 약화되고, 율법을 소중히 여기는 가치관이 상대화된다는 것입니다. 다음 세대의 자녀들은 자신들의 유대어조차도 말하지 못하고, 아스돗어나 각 민족의 언어를 사용하게 됩니다. 느헤미야는 혼종혼을 한 당사자들을 책망합니다. 25절을 보시기 바랍니다.

25 내가 그들을 책망하고 저주하며 그들 중 몇 사람을 때리고 그들의 머리털을 뽑고 이르되 너희는 너희 딸들을 그들의 아들들에게 주지 말고 너희 아들들이나 너희를 위하여 그들의 딸을 데려오지 아니하겠다고 하나님을 가리켜 맹세하라 하고

여기서 느헤미야는 에스라 때처럼 이혼을 시키지는 않고, 대신 가혹한 처벌을 내렸습니다. 몇 사람을 때리고 머리털을 뽑았다고 합니다. 털을 뽑는다는 말에는 수염을 뽑는다는 의미도 포함되어 있어서(사 50:6), 유대인에게 수염은 자부심이었기 때문에 매우 모욕감을 느꼈을 것입니다. 혼종혼이란 수염이 뽑힐 만큼 불명예스러운 일이라는 것을 그들에게 이해시키고 싶었던 것 같습니다. 또한 혼종혼은 대제사장의 가문도 위협하고 있었습니다. 대제사장 엘리아십의 손자이자 요야다의 아들 중 한 명이 산발랏의 사위가 된 것입니다. 이 사실을 알게 된 느헤미야는 요야다의 자식과 아내를 멀리 추방하는 조치를 취했습니다. 아마도 사마리아에 있는 아내의 친정으로 쫓아낸 것으로 추정됩니다. 세 번째 개혁을 실행한 느헤미야는 31절에서 「내 하나님이여 나를 기억하사 복을 주옵소서」라고 다시 한 번 기도합니다. 이상에서 살펴본 것처럼, 느헤미야는 예루살렘으로 돌아와 세가지 개혁을 추진한 것입니다.

(3) 교회의 표지

고군분투하며 추진한 느헤미야의 개혁은 언뜻 보면 목적을 위해서는 수단과 방법을 가리지 않는 강압적인 리더로 보일 수 있습니다. 그러나 개혁을 실행할 때마다 드려진 느헤미야의 기도를 통해 느헤미야가 모든 것을 말씀 중심으로 생각하고, 하나님을 사랑하고, 하나님을 의지하며 간구했음을 알 수 있습니다. 느헤미야의 개혁은 결코 자신의 생각에서 나온 것이 아니라, 모두 성경 말씀에 규정된 것이었습니다.

오늘 본문은 인간이 얼마나 죄의 본성이 깊고, 하나님을 잊어버리기 쉬운 존재인지, 12:44~13:3에 기록된 본래의 이상적 상태에 계속 머무는 것이 얼마나 어려운 일인지에 대해 말씀하고 있습니다. 그리고 말씀에서 벗어나 자기 주장만 한다면 그곳은 교회가 아니라 사탄의 회당이 될 수 있다고 신약성경은 경고하고 있습니다(계3:9). 그래서 종교개혁자들은 인간의 전적 타락을 인정하고, 자신들이 죄에 빠지기 쉽고 나약한 존재임을 인정했습니다. 그런 다음에, 종교개혁자들은 「교회는 날마다 개혁되어야 한다」고 말했습니다. 이「교회는 날마다 개혁되어야 한다」는 것이 우리 개혁파 교회의 유래입니다. 이것은 무슨 뜻이냐 하면, 말씀에 비추어 항상 이상적인 상태가 되도록 수정하여 개혁을 계속해야 한다는 뜻입니다. 서 있다고 생각했다가 금방 넘어지는, 그런 자신의 연약함에 실망하거나 자기 연민에 빠지는 것이 아니라, 넘어져도 다시 하나님께로 돌아가 본래의 자리로 궤도를 수정하는 것, 이것이 바로 날마다 개혁을 계속한다는 의미입니다. 그리고 종교개혁자들은 교회의 표지로 다음 세 가지 항목을 제시했습니다. 교회의 표지는 첫째, 성경 말씀의 바른 증거, 둘째, 예수 그리스도께서 직접 제정하신 성례전의 올바른 집행, 셋째, 권징의 신실한 실행입니다. 이것이 제대로 이루어지지 않으면 아무리 예수님을 믿는다고 해도 교회가 아니라는 것입니다. 첫 번째와 두 번째는 알겠는데, 세 번째로 권징이 언급된 것에 주목해 보시기 바랍니다. 지도자는 공동체가 말씀에 머물도록 하기 위해, 그리고 공동체의 질서와 순결을 지키기 위해 때로는 느헤미야처럼 엄하게 꾸짖는 것도 중요하다는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 느헤미야서의 마지막 장을 통해, 우리는 인간의 자기중심적인 깊은 죄성과 연약함을 확인했습니다. 하나님 앞에서 서약한, 본래의 이상적 모습에 계속 머물러 있기란 쉽지 않은 일입니다. 그렇기 때문에 우리는 말씀에 기초를 두고, 말씀에 철저하게 규정된 교회로 세워지고 있는지 항상 객관적으로 자신들을 돌아보는 것이 중요하다고 생각합니다. 「교회는 날마다 개혁되어야 한다」는 슬로건 아래, 넘어져도 말씀을 믿고, 하나님께로 돌아와, 몇 번이고 궤도를 수정하는 우리들이 되도록 합시다.

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