2025年05月04日「進んで犠牲を払う者 자원하여 십분의 일이 된 백성」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

進んで犠牲を払う者 자원하여 십분의 일이 된 백성

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 11章1節~36節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。
11:2民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。
11:3この州の頭たちでエルサレムに住んだ者は次のとおりである。ユダの町々にはイスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人、ソロモンの使用人の一族が、それぞれ自分の町に所有地を持って住み、
11:4-5エルサレムにはユダの一族とベニヤミンの一族の者が住んだ。ユダの一族ではアタヤとマアセヤ。アタヤの父はウジヤ、祖父はゼカルヤ、更にアマルヤ、シェファトヤ、ペレツの子らの一人マハラルエルとさかのぼる。マアセヤの父はバルク、祖父はコル・ホゼ、更にハザヤ、アダヤ、ヨヤリブ、シロ出身者の子ゼカルヤとさかのぼる。
11:6エルサレムに住んだペレツの一族は合計四百六十八人で、勇敢な人物であった。
11:7ベニヤミンの一族では、次の者がいた。まずサル。彼の父はメシュラム、祖父はヨエド、更にペダヤ、コラヤ、マアセヤ、イティエル、エシャヤとさかのぼる。
11:8次に、ガバイとサライら九百二十八人。
11:9ジクリの子ヨエルが彼らの監督であり、セヌアの子ユダが町の次官であった。
11:10祭司では、ヨヤリブの子エダヤ、ヤキン、
11:11神殿の主管セラヤ。セラヤの父はヒルキヤ、祖父はメシュラム、更にツァドク、メラヨト、アヒトブとさかのぼる。
11:12-13それに彼らの仲間で神殿の務めに携わる者八百二十二人、アダヤとその仲間で家長である者二百四十二人がいた。アダヤの父はエロハム、祖父はペラルヤ、更にアムツィ、ゼカルヤ、パシュフル、マルキヤとさかのぼる。それにアマシュサイがいた。アマシュサイの父はアザルエル、祖父はアフザイ、更にメシレモト、イメルとさかのぼる。
11:14彼らの仲間で勇敢な人物百二十八人もいた。ハゲドリムの子ザブディエルが彼らの監督であった。
11:15レビ人では、シェマヤ。彼の父はハシュブ、祖父はアズリカム、更にハシャブヤ、ブンニとさかのぼる。
11:16また、レビ人の頭で神殿の外部の務めに就いていたシャベタイとヨザバド、
11:17祈りにおける賛歌の先唱者マタンヤ。彼の父はミカ、祖父はザブディ、更にアサフとさかのぼる。そのほかに仲間の副主任バクブクヤ、そしてアブダ。彼の父はシャムア、祖父はガラル、更にエドトンと続く。
11:18聖なる町にいるレビ人の合計は二百八十四人であった。
11:19門衛では、アクブ、タルモンおよび門を警備する彼らの仲間百七十二人。
11:20他のイスラエルの人々、祭司、レビ人は、ユダのすべての町で、それぞれ自分の嗣業をもって住んだ。
11:21神殿の使用人はオフェルに住み、ツィハとギシュパが彼らの上役であった。
11:22エルサレムのレビ人の監督はウジであった。彼の父はバニ、祖父はハシャブヤ、更にマタンヤ、ミカとさかのぼる。彼は神殿の務めにおいて詠唱者の役を担うアサフの子らの一人であった。
11:23詠唱者に対しては王の命令があって、日ごとに果たすべきことが定められていた。
11:24ペタフヤが、民に関するあらゆる事柄について王を助ける役に就いていた。彼の父はメシェザブエル、メシェザブエルはユダの子であるゼラの子らの一人であった。
11:25村々とその耕地については、ユダの一族が住んだのは、キルヤト・アルバとその周辺の村落、ディボンとその周辺の村落、エカブツェエルとその村々、
11:26イエシュア、モラダ、ベト・ペレト、
11:27ハツァル・シュアル、ベエル・シェバとその周辺の村落、
11:28ツィクラグ、メコナとその周辺の村落、
11:29エン・リモン、ツォルア、ヤルムト、
11:30ザノアとアドラムおよびそれらの村々、ラキシュとその耕地、アゼカとその周辺の村落である。彼らはベエル・シェバからヒノムの谷までの地に定住した。
11:31ベニヤミンの一族が住んだのは、ゲバ、ミクマス、アヤ、ベテルとその周辺の村落、
11:32アナトト、ノブ、アナネヤ、
11:33ハツォル、ラマ、ギタイム、
11:34ハディド、ツェボイム、ネバラト、
11:35ロド、オノ、ハラシムの谷である。
11:36レビ人のうち、ユダにいたある部分は、ベニヤミンに移った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 11章1節~36節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の11章では、エルサレムの都の中に居住した人々について紹介されています。律法に生きることを誓い、捺印した人々は、十分の一の献げ物や、初物を捧げること以外にも、神の民の十分の一を、エルサレムの都に住まわせることに同意いたしました。城壁が完成された直後、エルサレムの都はまだ人は少なく家屋も十分ではない危険な場所であったと思われます。また、都では農業や牧畜を営むこともできません。人々は出来れば、自分たちに与えられている嗣業の土地に戻って、農業や牧畜を営みたいと思ったことでしょう。しかし彼らは、都での礼拝が守られるようにするため、十分の一の人々をエルサレムの都に居住させようとくじを引きました。本日の個所も、節の振り方が英語や韓国語の聖書と比べて、途中から二節ずつずれてきますので、ご注意ください。11:1~2をご覧ください。

【1】. 進んで犠牲を払う者

“民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、十人のうち一人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの九人が他の町々にとどまるようにした。民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。”

52日間かけて城壁は完成されましたが、人々は少なく、家屋も十分ではありませんでした。祭司や指導者たちしか都の中には住んでいなかったのでしょう。ネヘミヤ記7:4をご覧ください。

“町は二方向に大きく広がっていたが、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてはいなかった。”

城壁が完成した直後、町は大きく広がっていましたけれども、その中に住む民は少数で、家屋は建てられてなかったとあります。神殿の中には、礼拝のための金・銀の祭具類や、什器などがありましたから、都を防備する必要があります。そこで、民はくじを引いて、自分たちの中から十人のうち一人がエルサレムに居住することを決意しました。「くじを引く」という行為は、現代の私たちの感覚ですと、たまたま偶然に決まったという感じがいたします。ところが、旧約の時代の人々にとっては、くじは神様の御心の反映であると考えられていました。昔、イスラエルがカナンに入植する際にもくじが引かれました。また、サウル王の断食の命令を破った犯人をあぶり出す際にも、くじが引かれました。調べてみましょう。1サム14:41~42をご覧ください。

“サウルはイスラエルの神、主に願った。「くじによってお示しください。」くじはヨナタンとサウルに当たり、兵士は免れた。サウルは言った。「わたしなのか、息子ヨナタンなのか、くじをひきなさい。」くじはヨナタンに当たった。”

このようにサウルの断食の命令を破ったのがヨナタンだと御心が示された訳ですけど、旧約の時代において、神様は、くじ引きを通して、或いはウリムとトンミムを通してご自身の御心を示され、時には啓示さえも与えてくださいました。ただし、現代に生きる、私たちにおいては、聖書の御言葉が与えられていますので、くじ引きを通して主の御心を伺う必要はありません。御言葉を通して既に御心がはっきりと示されているからです。そこのところを注意していただければと思いますが、くじの結果が明らかにされると、自ら進んで、エルサレムに家を構えることに決心した人々を、民は祝福しました。11:2において、「進んでエルサレムに住む人々を」とあります。「進んで」という言葉に注目してください。この言葉は、ヘブライ語のナーダブという言葉ですが、実はこの言葉は礼拝の専門用語で、神に「進んで(喜んで)捧げる」という意味であります。言い換えれば、「進んで献金する」という意味です。例えば1歴代29:17(聖書協会共同訳)をご覧ください。ダビデが息子ソロモン王の神殿建設の準備している場面ですが、ダビデ自身大きな献げ物をし、また、民も大きな献げ物を進んで捧げました。

“わが神よ、あなたが人の心を試し、正しいことを好まれることを私は知っています。私はまっすぐな心で、このすべてのものを進んで献げました。また今、ここにいるあなたの民が進んで献げるのを、私は喜びのうちに見ていました。”

この17節にナーダブが二か所出てきます。ダビデが神様の前に祈っているわけです。ダビデ自身大きな献げ物をしましたが、民もダビデに続いて進んで献げ物をしたということをダビデは喜びのうちに見ていました。ダビデは、どんなに神の宮を作りたいと願っていたことでしょうか。しかしダビデ自身は、戦いに明け暮れる中、手を血で染めていたため、主なる神はダビデに神殿を建築することをお許しになりませんでした。その代わりに息子ソロモンを通して神殿が建築されるという約束を与えてくださいました。ですからソロモンが速やかに神殿建築に着手することが出来るように、ダビデとイスラエルの民はまっすぐな心で神様に用いていただけるよう金や銀を捧げたのであります。

今、エルサレムに居住することを決意した人々も、自らが十分の一の献げ物になることを、喜んで決意した人々でありました。この、十分の一の献げ物となった3,044人の人々の家の名簿とその内訳が、11:4節以降に書かれています。週報の抜粋のプリントに表が書かれていますので、参照してください。最初にペレツの子孫が468人。このペレツ族とは、族長であるユダの子供です。創世記には、族長のユダと、遊女に扮したタマルとの間に双子の赤ちゃんが与えられたと書かれていますが、ペレツとはその双子の赤ちゃんの一人です。出産の場面が大変印象的に描かれていまして、最初にゼラが手を出したのですが、すぐに手を引っ込めて、ゼラより先に割り込んで出てきたのが、このペレツでありました。従いましてペレツの子孫とは、ユダ族の子孫だということです。また、ここで双子のもう片方の、ゼラの子孫の名簿がないのが気になりますが、22(24)節を見ますと、ゼラの子孫を確認することができますので、一部の学者は、ゼラの子孫の名簿が抜け落ちた可能性があると指摘しています。6(7)~8(9)節はベニヤミン族が、928人です。続いて9(10)~12(14)節は祭司の家系についてです。祭司たちは822人で、彼らは神殿の務めに携わる者たちでした。さらに祭司の仲間であり、家長たちは242人、また彼らの仲間で勇敢な人たちは128人でした。続いて13(15)~17(19)節は、レビ族はレビ族ですけれども、祭司以外のレビ族になります。14節の「神殿の外部の務め」という言葉が、先ほど11節に出てきた「神殿の務め」という言葉と対照的になっています。つまり「神殿の務め」というのは、神殿祭儀の直接的な奉仕であり、一方で「神殿の外部の務め」とは、供え物や、十分の一の献げ物の管理であったり、或いは賛美を導いたりする奉仕者だったと考えられます。この「神殿の外部の務め」に従事する居住者は284人でした。因みに、ダビデの時代に賛美の導き手、賛美リーダーとして活躍した人物として、アサフ(歴代上15:19)とエドトン(歴代上16:41)がいました。アサフとエドトンの名前は、詩編の中にもしばしば出てまいります。今、彼らの子孫であるマタンヤが、ネヘミヤの時代においてもやはり賛美を導く者、先唱者としての奉仕を担っている訳です。祝福が子供たちに流れているのを見て取ることが出来ます。続いてレビ族の中の門衛は172人でした。すべて合わせますと、ユダ族、ベニヤミン族、祭司、レビ人の合計で3,044人になります。この名簿は、まさに率先して犠牲を払ってくれた人々の名簿であり、イスラエルの民にとって誇りと栄光に満ちた名簿でもありました。この十分の一の人々のことを、決して忘れないために、彼らは記憶に留め、そして聖書にその名が書き留められ、永遠の記憶とされたのであります。

【2】.天に宝を積む

聖別された都に集まって礼拝を捧げたネヘミヤの時代の民のように、私たち教会も、主日ごとに、この世から聖別されたこの礼拝堂に集まり、共々に礼拝を捧げています。礼拝を捧げる中で、私たちはただ、集まって御言葉に耳を傾けるだけではなく、礼拝を礼拝ならしめるために、そして教会がキリストの体とならしめるために、一つ一つの奉仕がどうしてもなくてはならないものとなってきます。私たちせんげん台教会では、教会カレンダーを毎月お配りしています。その中に今月の奉仕当番を確認することができます。司式者、奏楽者、献金当番、洗面所清掃、礼拝受付などの名前が入っています。これ以外にも実際には、目には見えない様々な奉仕がございます。もしかしたら「牧師が一番若いので、牧師が一人ですればいい」ですとか、「牧師と伝道所委員が奉仕をすればいい。そのために立てられているのではないか」と考える人もいるかもしれません。確かにそのようにすることは可能かもしれませんが、そのような考え方は健全な考え方ではありませんし、霊的な意味で神様に喜ばれるものではありません。

もちろん立てられている伝道所委員は、皆さまが見えないところで多くの奉仕をしております。また、牧師である私も、御言葉の奉仕以外にも多くの事務作業を担っています。ですが、それ以外にも教会に連なるお一人お一人の兄弟姉妹が、各々何らかの形で犠牲を払い、神のために、そして教会のために、仕えていくことが大変重要となってくるのです。言うまでもなく教会の奉仕とは、霊的なものですから、誰でもすることができるというものではありません。例えば、いくら多くの財産を持っている人であったとしても、いくら優れた知性の持ち主であり、この世で信頼されている人であったとしても、無条件に奉仕を任せるという訳にはいきません。信仰を一つとし、教会の枝として、同じ礼典に与る兄弟姉妹に限られます。主の日に心を一つにして共々に礼拝を捧げ、祈りにおいて互いに心を一つにして祈り合うことのできる兄弟姉妹に限られます。主にある兄弟姉妹であり、一つの聖霊を飲ませていただいているならば、私たちは、進んで主のため、教会のために奉仕に参加するべきでありましょう。信仰によって捧げられた一つひとつ奉仕は、天に覚えられていて、やがて私たちがイエス様の御前に立つ時、大きな賞賛と報いとして払い戻されることになるのであります。マタイによる福音書25:31~40をご覧ください。

“人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』”

聖なるエルサレムの都とは、将来、旧約のイスラエルの民と、そして新約の教会が入れられる天の都、神の国を予表するものであります。そこでは礼拝が献げられているのであります。人の子が再臨する時、羊として世の人々から区別された教会に、天に積まれていた宝が払い戻されるということが、今お読みしたマタイ福音書のこの個所に書かれています。その時、「主よ、私たちが、いつ、そのようなことをしたでしょうか。」と自分自身でも忘れてしまった、些細な奉仕が、神の国では何倍の祝福、何倍の報いとなって帰ってくるのです。

私たちは、誰も年齢を重ねて行きますね。働けなくなる老後のために今から、貯蓄をしたり、投資をしたりします。老後のために備えをすることは重要ですが、私たちは永遠の命のためにも貯蓄をし、投資をしなければなりません。自ら進んで主に仕え、教会に仕えることは、天に宝を積むことになります。ですから、主と教会に仕えるために、私たちは進んで奉仕する者とならせていただきましょう。また、それ以外にも突然、何か奉仕を依頼されたり、或いは月報の原稿の執筆や、聖書のお話のキャストや、賛美チームの奉仕などを依頼されましたら、簡単に断るのではなく、無理する必要はありませんが、神と教会のために進んで犠牲を払う気持ちで、従順する者とならせていただきましょう。主と教会に仕えること、これに勝る栄誉と祝福はありません。皆さまの尊い奉仕は、神の国に覚えられていて、やがて神の国に入れられる時、自分でも気づかなかった報いに与ることになるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。城壁は完成され、ようやく神の御計画された神殿の全体像が、聖なる都の全体像が現れてきました。しかし、そこには、家は少なく、人が少ししか住んでいませんでした。私たちがいずれ住むことになる天の都には、立派な家がたくさん備えられていますね。私たちがいずれ住むことになる天の都は、数えることのできない多くの人々で満たされています。その先駆けとなったのが本日見てまいりました、ネヘミヤ記11章の十分の一の人々の物語であります。彼らの進んで犠牲を払ったその信仰を引き継いで、私たちも天に宝を積む信仰の営みを重ねて行く者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

자원하여 십분의 일이 된 백성

2025년5월 4일 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 11장 1~36절

서론

오늘 11장에는 예루살렘 성 안에 거주한 사람들에 대한 내용이 소개되어 있습니다. 율법에 따라 살기로 맹세하고 인봉한 사람들은 십일조와 맏물을 드리는 것 외에도 하나님의 백성의 십분의 일을 예루살렘 성읍에 살게 하기로 동의했습니다. 성벽이 완성된 직후, 예루살렘 도성은 아직 주민이 적고 가옥은 미처 건축하지 못한 위험한 곳이었을 것으로 보입니다. 또한 도성에서는 농업이나 목축을 할 수 없었습니다. 사람들은 가급적이면 자신에게 주어진 기업의 땅으로 돌아가서 농업과 목축을 하고 싶었을 것입니다. 그러나 그들은 도성에서 예배를 지키기 위해, 제비를 뽑아 십분의 일을 예루살렘 성읍에 거주하게 했습니다. 오늘 본문도 영어나 한글 성경에 비해 구절의 배열이 중간부터 두 구절씩 어긋나니 주의하시기 바랍니다. 11:1~2를 참고하시기 바랍니다.

(1) 자원하는 모든 자

1백성의 지도자들은 예루살렘에 거주하였고 그 남은 백성은 제비 뽑아 십분의 일은 거룩한 성 에루살렘에서 거주하게 하고 그 십분의 구는 다른 성읍에 거주하게 하였으며

2예루살렘에 거주하기를 자원하는 모든 자를 위하여 백성들이 복을 빌었느니라

52일에 걸쳐서 성벽은 완성되었지만, 주민은 적고 집도 충분하지 않았습니다. 제사장과 지도자들만 성 안에 살았을 것입니다. 느헤미야 7:4를 참고하시기 바랍니다.

그 성읍은 광대하고 그 주민은 적으며 가옥은 미처 건축하지 못하였음이니라

성벽이 완성된 직후, 성읍은 광대했지만, 그 안에 주민은 소수에 불과했고, 집은 미처 건축하지 못했다고 합니다. 성전 안에는 예배를 위한 금은 제구류와 집기 등이 있었기 때문에 성읍을 방어할 필요가 있었습니다. 그래서 백성들은 제비를 뽑아 열 명 중 한 명이 예루살렘에 거주하기로 결정했습니다.「제비 뽑기」라는 행위는 현대인의 감각으로 보면 우연히 결정된 것 같은 느낌이 듭니다. 하지만 구약시대 사람들에게는 제비는 하나님의 뜻이 반영된 것으로 여겨졌습니다. 옛날 이스라엘이 가나안에 정착할 때도 제비를 뽑았습니다. 또한 사울 왕의 금식 명령을 어긴 범인을 색출할 때도 제비를 뽑았습니다. 삼상 14:41~42를 참고하시기 바랍니다.

41 이에 사울이 이스라엘의 하나님 여호와께 아뢰되 원하건대 실상을 보이소서 하였더니 요나단과 사울이 뽑히고 백성은 면한지라

42 사울이 이르되 나와 내 아들 요나단 사이에 뽑으라 하였더니 요나단이 뽑히니라

이렇게 사울의 금식 명령을 어긴 사람이 요나단이라고 하나님의 뜻을 보여주신 것인데, 구약 시대에는 하나님께서 제비 뽑기를 통해서, 혹은 우림과 둠림을 통해서 하나님의 뜻을 보여주셨고, 때로는 계시까지 주셨습니다. 그러나 현대를 살아가는 우리에게는 성경 말씀이 주어졌기 때문에 제비 뽑기를 통해 주님의 뜻을 물을 필요가 없습니다. 말씀을 통해 이미 그분의 뜻이 분명하게 나타나 있기 때문입니다. 이 부분을 주목해 주시면 좋겠습니다. 제비 뽑기 결과가 밝혀지자 스스로 자원하여 예루살렘에 거처를 정하기로 자원한 사람들에게 백성들이 복을 빌어 주었습니다. 11:2에 보면「예루살렘에 거주하기를 자원하는 모든 자」라고 되어 있습니다. 「자원하는」이라는 단어에 주목해 보시기 바랍니다. 이 단어는 히브리어 「나다브」라는 단어인데, 사실 이 단어는 예배의 전문용어로 하나님께 「자원하여(즐거이) 바치다」라는 뜻입니다. 즉, 「자원해서 헌금하다」라는 뜻입니다. 예를 들어 역대기상 29:17을 보시기 바랍니다. 다윗의 아들 솔로몬 왕의 성전 건축을 준비하는 장면인데, 다윗 자신도 큰 헌금을 드리고 백성들도 자원해서 큰 헌금을 드렸습니다.

나의 하나님이여 주께서 마음을 감찰하시고 정직을 기뻐하시는 줄을 내가 아나이다 내가 정직한 마음으로 이 모든 것을 즐거이 드렸사오며 이제 내가 또 여기 있는 주의 백성이 주께 자원하여 드리는 것을 보오니 심히 기쁘도소이다

이 17절에「나다브」가 두 군데 나옵니다. 다윗이 하나님 앞에 기도하는 이유입니다. 다윗 자신도 큰 헌금을 드렸지만, 백성들도 다윗을 따라 자원하여 헌금을 드렸다는 것을 다윗은 기뻐하며 바라보고 있었습니다. 다윗은 얼마나 하나님의 성전을 짓고 싶었을까요? 그러나 다윗 자신은 전쟁으로 인해 손에 피를 묻힌 상태였기 때문에 주 하나님께서는 다윗이 성전을 짓는 것을 허락하지 않으셨습니다. 대신 아들 솔로몬을 통해 성전이 건축될 것이라는 약속을 주셨습니다. 그래서 솔로몬이 속히 성전 건축에 착수할 수 있도록 다윗과 이스라엘 백성들은 곧은 마음으로 금과 은을 바쳐 하나님께 쓰임받도록 했습니다.

이제 예루살렘에 거주하기로 결심한 사람들도 스스로 십일조가 되기로 자원하여 결단한 사람들이었습니다. 이 십일조가 된 3,004명의 집안 명단과 그 내역이 11:4에 이후에 기록되어 있습니다. 주보 발췌본 인쇄물에 표가 나와 있으니 참고하시기 바랍니다. 먼저 베레스 자손 468명입니다. 이 베레스 족속은 족장 유다의 자녀들입니다. 창세기에는 족장 유다와 창녀로 분장한 다말 사이에 쌍둥이 아기가 태어났다고 기록되어 있는데, 베레스는 그 쌍둥이 아기 중 한 명입니다. 출산 장면이 매우 인상적으로 묘사되어 있는데, 세라가 먼저 손을 내밀었으나 그 손을 도로 들이며 나온 것이 바로 이 베레스였다고 합니다. 따라서 베레스의 후손이란 유다 족속의 후손이라는 뜻입니다. 또 여기서 쌍둥이의 다른 한 쪽인 세라의 후손 명단이 없는 것이 궁금한데 24절을 보면 세라의 후손을 확인할 수 있기 때문에 일부 학자들은 세라의 후손 명단이 빠졌을 가능성이 있다고 지적합니다.

7~9절의 베냐민 족속이 928명입니다. 이어 10~14절은 제사장의 가계에 대한 내용입니다. 제사장들은 822명이었는데, 그들은 성전 사역에 종사하는 자들이었습니다. 그리고 제사장의 동료인 족장들은 242명, 그리고 그들의 동료인 용사들은 128명이었습니다. 이어 15~19절에는 레위 족속이지만, 제사장 이외의 레위 족속이 나오는데, 16절의 「하나님의 전 바깥 일」이라는 단어가 12절의 「전에서 일하는」이라는 단어와 대조됩니다. 즉, 「전에서 일하는」이라는 것은, 성전 제사의 직접적인 봉사를 의미하고, 한편,「전 바깥 일」은 제물인 헌물 관리, 혹은 찬양을 인도하는 봉사자라고 볼 수 있습니다. 이 「전 바깥 일」에 종사하는 거주자는 284명이었습니다. 참고로 다윗 시대에 찬양 인도자, 찬양 리더로 활약한 인물로는 아삽(역대상 15:19)과 여두둔(역대상 16:41)이 있었습니다. 아삽과 여두둔의 이름은 시편에도 자주 등장합니다. 지금 그들의 후손인 맛다냐가 느헤미야 시대에도 여전히 찬양을 인도하는 자, 선창자로서의 봉사를 감당하고 있는 것입니다. 축복이 자녀들에게 흘러가는 것을 볼 수 있습니다. 이어 레위 족속 중 문지기는 172명이었습니다. 모두 합치면 유다 족속, 베냐민 족속, 제사장, 레위인 총 3,044명이 됩니다. 이 명단은 바로 솔선수범하여 희생한 사람들의 명단이며, 이스라엘 백성의 자부심과 영광으로 가득 찬 명단이었습니다. 이 십분의 일을 결코 잊지 않기 위해 그들은 기억에 남겼고, 성경에 그 이름이 기록되어 영원한 기억으로 남겨졌습니다.

(2) 하늘에 보물을 쌓아두라

거룩하게 구별된 성읍에 모여 예배를 드린 느헤미야 시대의 백성들처럼 우리 교회도 주일마다 세상으로부터 구별된 이 예배당에 모여 함께 예배를 드리고 있습니다. 예배를 드리는 가운데 우리는 단지 모여서 말씀을 듣는 것뿐만 아니라, 참된 예배를 드리기 위해서 그리고 교회가 참된 그리스도의 몸이 되기 위해 하나하나의 섬김이 꼭 필요한 것이 되어갑니다. 우리 센겐다이교회에서는 매달 교회 달력을 배부하고 있습니다. 그 안에 이번 달의 봉사 당번을 확인할 수 있습니다. 사회자, 연주자, 헌금 당번, 화장실 청소, 예배당 안내위원 등, 봉사 당번 이름이 적혀 있습니다. 이 외에도 실제로는 눈에 보이지 않는 다양한 봉사가 있습니다. 혹시 “목사가 제일 젊으니까 목사 혼자 하면 된다”라든지, “목사와 전도소위원이 봉사를 하면 된다”라고 생각하실 수도 있습니다. 그래서 세워진 것이 아니냐고 생각하는 분들도 있을 수 있습니다. 물론 그렇게 할 수는 있겠지만, 그런 생각은 건전한 생각도 아니고, 영적인 의미에서 하나님이 기뻐하시는 것도 아닙니다.

물론 세워진 전도소위원들은 여러분들이 보지 못하는 곳에서 많은 봉사를 하고 있습니다. 또한 담임목사인 저도 말씀사역 외에도 많은 사무적인 일들을 감당하고 있습니다. 하지만 그 외에도 교회에 속한 한 분 한 분의 형제자매가 각자 어떤 형태로든 희생하며 하나님을 위해, 그리고 교회를 위해 봉사하는 것이 매우 중요합니다. 말할 필요도 없이 교회의 봉사는 영적인 것이기 때문에 아무나 할 수 있는 것이 아닙니다. 예를 들어, 아무리 많은 재산을 가진 사람이라 할지라도, 아무리 뛰어난 지성을 가진 사람이라 할지라도, 세상에서 신뢰받는 사람이라 할지라도 무조건 봉사를 맡길 수는 없습니다. 믿음이 하나이고, 교회의 한 지체로 같은 성례에 참여하는 형제자매로 한정됩니다. 주의 날에 마음을 합하여 함께 예배를 드리고, 기도에 있어서도 서로 마음을 합하여 기도할 수 있는 형제자매에 한해서만 가능합니다. 주 안에 있는 형제자매이고, 한 성령을 받은 형제자매라면, 우리는 자원하여 주님을 위해, 교회를 위해 봉사에 참여해야 합니다. 믿음으로 드려진 하나하나의 섬김은, 하늘에 기억되고, 언젠가 우리가 얘수님 앞에 설 때 큰 칭찬과 상급으로 갚아주실 것이기 때문입니다. 마태복음 25:31~40을 참고하시기 바랍니다.

31 인자가 자기 영광으로 모든 천사와 함께 올 때에 자기 영광의 보좌에 앉으리니

32 모든 민족을 그 앞에 모으고 각각 구분하기를 목자가 양과 염소를 구분하는 것 같이 하여

33 양은 그 오른편에 염소는 왼편에 두리라

34 그 때에 임금이 그 오른편에 있는 자들에게 이르시되 내 아버지께 복 받을 자들이여 나아와 창세로부터 너희를 위하여 예비된 나라를 상속받으라

35 내가 주릴 때에 너희가 먹을 것을 주었고 목마를 때에 마시게 하였고 나그네 되었을 때에 영접하였고

36 헐벗었을 때에 옷을 입혔고 병들었을 때에 돌보았고 옥에 갇혔을 때에 와서 보았느니라

37 이에 의인들이 대답하여 이르되 주여 우리가 어느 때에 주께서 주리신 것을 보고 음식을 대접하였으며 목마르신 것을 보고 마시게 하였나이까

38 어느 때에 나그네 되신 것을 보고 영접하였으며 헐벗으신 것을 보고 옷 입혔나이까

39 어느 때에 병드신 것이나 옥에 갇히신 것을 보고 가서 뵈었나이까 하리니

40 임금이 대답하여 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 너희가 여기 내 형제 중에 지극히 작은 자 하나에게 한 것이 곧 내게 한 것이니라 하시고

거룩한 예루살렘 성은 장차 구약의 이스라엘 백성과 신약의 교회가 들어갈 하늘의 도성, 하나님의 나라를 예표하는 것입니다. 그곳에서 예배가 드려지고 있는 것입니다. 인자가 재림하실 때, 양으로서 세상 사람들과 구별된 교회에, 하늘에 쌓아둔 보물을 돌려 받는다는 것이, 방금 읽은 마태복음의 이 구절에 기록되어 있습니다. 그 때 “주님, 우리가 언제 그런 일을 한 적이 있었습니까?”라고 자신조차도 잊어버린 사소한 섬김이 하나님 나라에서는 몇 배의 축복, 몇 배의 보상이 되어 돌아오는 것입니다.

우리는 누구나 나이를 먹어가고 있네요. 일할 수 없는 노후를 위해 지금부터 저축을 하기도 하고 투자를 하기도 합니다. 노후를 위해 준비하는 것도 중요하지만, 우리는 영생을 위해서도 저축하고 투자해야 합니다. 스스로 자원하여 주님을 섬기고, 교회를 섬기는 것은 하늘에 보물을 쌓는 것입니다. 그러므로 주님과 교회를 섬기기 위해, 우리는 자원하여 섬기는 자가 되도록 합시다. 또한 그 외에도 갑자기 어떤 봉사를 요청받거나, 혹은 센겐다이교회 월보 원고 집필, 성경 이야기 성우 출연, 찬양팀 봉사 등을 요청받았을 때, 간단히 거절하지 말고, 무리할 필요는 없지만, 하나님과 교회를 위해 자원하여, 희생하는 마음으로 순종하는 자가 되도록 합시다. 주님과 교회를 섬기는 일, 이보다 더 큰 영광과 축복은 없습니다. 여러분의 귀한 섬김은, 하나님 나라에 기억되어지고, 언젠가 하나님 나라에 들어갈 때 자신도 몰랐던 보상을 받게 될 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 성벽이 완성되어, 드디어 하나님이 계획하신 성전의 전체 모습, 거룩한 도성의 전체 모습이 드러났습니다. 그러나 그곳에는 가옥은 미처 건축하지 못했으며 소수의 주민 밖에 살지 않았습니다. 우리가 언젠가 살게 될 하늘의 도성에는, 멋진 집이 많이 준비되어 있습니다. 우리들이 언젠가 살게 될 하늘의 성읍에는, 헤아릴 수 없을 만큼 많은 사람들로 채워져 있습니다. 그 선구가 된 것이, 바로 오늘 살펴본 느헤미야 11장의 십분의 일이 된 백성의 이야기입니다. 그들의 자원하여 희생을 치른, 그 믿음을 이어받아, 우리도 하늘에 보물을 쌓는 믿음의 영위를 쌓아가는 자들이 되도록 합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す