2025年04月13日「律法に生きることを誓った人々 율법에 따라 살기로 맹세한 사람들」

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律法に生きることを誓った人々 율법에 따라 살기로 맹세한 사람들

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 10章1節~40節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:1これらすべてを顧みて、わたしたちはここに誓約して、書き留め、わたしたちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。
10:2捺印した者は、ハカルヤの子で総督のネヘミヤ、それにツィドキヤ、
10:3セラヤ、アザルヤ、イルメヤ、
10:4パシュフル、アマルヤ、マルキヤ、
10:5ハトシュ、シェバンヤ、マルク、
10:6ハリム、メレモト、オバドヤ、
10:7ダニエル、ギネトン、バルク、
10:8ダニエル、ギネトン、バルク、
10:9マアズヤ、ビルガイ、シェマヤ。以上は祭司である。
10:10レビ人では、アザンヤの子イエシュア、ヘナダドの一族のビヌイ、カドミエル、
10:11およびその兄弟たちである、シェバンヤ、ホディヤ、ケリタ、ペラヤ、ハナン、
10:12ミカ、レホブ、ハシャブヤ、
10:13ザクル、シェレブヤ、シェバンヤ、
10:14ホディヤ、バニ、ベニヌ。
10:15民の頭では、パルオシュ、パハト・モアブ、エラム、ザト、バニ、
10:16ブンニ、アズガド、ベバイ、
10:17アドニヤ、ビグワイ、アディン、
10:18アテル、ヒズキヤ、アズル、
10:19ホディヤ、ハシュム、ベツァイ、
10:20ハリフ、アナトト、ネバイ、
10:21マグピアシュ、メシュラム、ヘジル、
10:22メシェザブエル、ツァドク、ヤドア、
10:23ペラトヤ、ハナン、アナヤ、
10:24ホシェア、ハナンヤ、ハシュブ、
10:25ハロヘシュ、ピルハ、ショベク、
10:26レフム、ハシャブナ、マアセヤ、
10:27アヒヤ、ハナン、アナン、
10:28マルク、ハリム、バアナ。
10:29そのほかの民、祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿の使用人、この地の民と関係を断って神の律法のもとに集まったすべての者も、妻、息子、娘、また理解できる年齢に達したすべての者と共に、
10:30そのまことに貴い兄弟たちに協力するものであり、神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約するものである。
10:31わたしたちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘をわたしたちの息子の嫁にしない。
10:32わたしたちは、この地の民が安息日に商品をはじめ、いかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日と他の聖なる日には買わない。わたしたちは、七年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する。
10:33わたしたちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。
10:34それは供え物のパンのため、日ごとの穀物の献げ物のため、日ごとの焼き尽くす献げ物のため、安息日、新月祭、祝祭日のため、奉納物のため、イスラエルの罪を贖う贖罪の献げ物のため、すなわち神殿におけるすべての務めのためである。
10:35わたしたち祭司、レビ人および民は、薪の奉納についてくじを引いた。律法に書き記されているように、毎年定められた時に、神なる主の祭壇の上で燃やし、各家族が順番に薪をわたしたちの神殿に納めるためである。
10:36わたしたちは、地の産物の初物とすべての果実の初物を、毎年主の神殿にささげ、
10:37わたしたちの息子の長男も、わたしたちの家畜の初子も、律法に書き記されているところに従ってささげる。わたしたちの牛と羊の初子は神殿に携え、神殿の中で仕える祭司のためにささげる。
10:38最初の小麦粉、礼物、あらゆる種類の果実、新しいぶどう酒および油を祭司のために神殿の祭司室に納める。地の産物の十分の一はレビ人のために納める。このレビ人は、わたしたちが働くすべての町でその十分の一を受け取る。
10:39レビ人がその十分の一を受け取るときには、アロンの子である祭司がレビ人に付き添っていなければならない。レビ人はその十分の一の更に十分の一を、わたしたちの神殿のためにその収納庫の祭司室に持って行かなければならない。
10:40イスラエルの人々とレビ人各人が穀物と新しいぶどう酒と油の礼物を納めるのはその祭司室であるからで、そこは、聖所用の祭具類があり、任務をもつ祭司、門衛、詠唱者がいるところである。わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 10章1節~40節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の個所は、律法に生きることを誓った人々が描かれています。節の振り方が新共同訳と、英語や韓国語の聖書と一節ずれていますからご注意ください。ネヘミヤを始めとして、捺印を押した人々の一族や個人名が記されています。この誓いに加わった者たちは、一部の指導者や祭司にとどまりませんでした。10:29~30を見ますと、律法を理解できる年齢に達した者はすべて、誓いに加わったと書かれています。物心ついた共同体の人々全員がこの誓いに加わったということです。最初に10:29~30節を調べてみようと思いますが、新共同訳が少し分かりにくいですので、新改訳2017の28~29節をご覧ください。

“このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌い手、宮のしもべたち、また、諸国の民と関係を断って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々と歩調を合わせつつ、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のような、のろいの誓いに加わった。”

私たちは、彼らのこの誓いを通して共同体全体の強い決意を読み取ることができます。神様への恵みの応答として、彼らは律法をないがしろにせず、律法に歩み、その定めと掟を守り行うことを神の御前に誓っているのです。

【1】. 誓約し捺印した

印を押すという行為は、もともとイスラエルの文化ではなく、ペルシアの文化であったと考えられています。これは自ら誓った内容に対し右にも左にもぶれることなく、守り抜きますという意思表示であると考えられますが、イスラエルの人々は、普通、このようなシチュエーションでは契約を結びました。アブラハムが、子孫の繁栄とカナンの地を取得するという約束をいただいて神様と契約を締結したように、或いは出エジプトをしたイスラエルの民がシナイ山で律法をいただいて、契約を締結したように、イスラエルの民は契約を結びました。ヘブライ語で「契約を結ぶ」とは、「カラト ベリート」と表現します。「カラト」が切るという意味で、「ベリート」が契約という意味ですから、直訳すると「契約を切る」となります。契約を切るという言葉が、なぜ、契約を結ぶという意味になったのかと言えば、それは古くからの風習に、契約の際、家畜が左右に裂かれ、契約当事者がその間を通るというのがあって、そのような手続きを経て契約が交わされました。万一、どちらか一方がその約束事を破ったなら、その者はこの家畜のように裂かれてもよいという呪いを意味していました。ですから、元来イスラエルの民にとって、契約を結ぶという行為は、呪いの条項付きの宗教儀式であり、命がけのものであったということになります。本日、10:1において、民が誓約し、捺印を押したことが、契約を結ぶこととほぼ同じ意味だと考えられるのは、10:1の「誓約した」と訳されているヘブライ語を見ますと、「カラト アマナ」となっていて、「ベリート」:の代わりに「アマナ(真実、堅固さ)」が、置き換えられているだけであると理解できるからです。アマナとはアーメンの同義語でして、真実、堅固さという意味です。契約という言葉が、真実、堅固さ(アマナ)に置き換えられているだけだということです。また、新共同訳では省略されていますが、先ほど見ました30節(英語の聖書、新改訳では29節)の後半において、呪いの条項が現れています。「のろいの誓いに加わった」とありますね。彼らは神の前に誓いを立て、呪い付きの命がけの誓約を行ったのでありました。そのような大きな決意をもって、神の限りない恵みの応答として、彼らは律法に向き合ったということです。

【2】. 律法の適用

それでは、具体的に律法をどのように解釈し、自分たちに適用したのでしょうか。4つのポイントを適用しています。第一に、異邦人との結婚の禁止です。31節をご覧ください。

“わたしたちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘をわたしたちの息子の嫁にしない。”

異邦人との混宗婚の禁止は、エズラ記9章において学んできました。異邦人との結婚それ自体を禁じているというより、異教の民の、その固有の宗教に従って行くことの禁止でありました。おそらく、イスラエルにおいて、混宗婚の問題は大変深刻であり、依然として問題が根強く残っていたと思われます。と言いますのも、この後に13章においても事件が起こり、祭司がアンモン人の指導者トビヤと親しい関係にあって、神殿の一部がこのトビヤのためにあてがわれていたということが発覚されるからです。私たちは、神とこの世の二人の主人に同時に仕えることはできません。日々の信仰生活の中で、神様に仕えるのか、この世に仕えるのか、究極的な選択に迫られるのです。混宗婚の禁止とは、この世の価値観に対し、境界線を引くということであります。第二に、安息日規定の順守です。32節をご覧ください。

“わたしたちは、この地の民が安息日に商品をはじめ、いかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日と他の聖なる日には買わない。わたしたちは、七年ごとに耕作を休み、あらゆる負債を免除する。”

出エジプト記に書かれている律法には、安息日には基本的に働いてはならないと規定されていました(出20:8~11)。ここではさらに突っ込んで、売買の禁止、取引の禁止まで規定されています。イスラエルの民と異邦人の密接な関係は、様々な問題を引き起こしていたのでしょう。安息日に異邦人から物品を購入する人がいたために、異邦人の商人が安息日に神殿に、ずかずかと入ってくるという事態が起こっていたと思われます。安息日に物品を購入することは確かに便利なことですが、自分たちの便利さを優先するのではなく、神への礼拝を何より優先にするために、イスラエルの民はこのように安息日の取引の禁止を自分たちに適用したのでありました。七日目の安息日をきちんと守ることは、七年目の安息年の順守にも目を向かわせました。安息年とは、七年目に土地を休ませるという規定です。この規定は、貧しい者たちへの配慮の意味がありました。それは七年目の休閑地から、貧しい者たちがそこから自然に自生する産物を享受することができたからです。また、七年目の安息年は、奴隷の解放の概念とも結びついていました。六年間奴隷として働いた者たちは、七年目に解放されたのです。申命記15:12~14をお読みします。

“同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たずに去らせてはならない。あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい。”

このように安息日を順守することは、同時にイスラエルの兄弟姉妹の貧しさに目を向け、貧しい者たちに寄り添い、施しや、分かち合いを促すことになった訳です。今日、私たちも神様を優先し、主日礼拝を捧げることを優先するときに、普段、思いもしなかった、愛する兄弟姉妹の祈祷課題が見えてきたりすることもあります。教会は、試練に遭っている兄弟姉妹を覚えつつ、互いに執り成し合うことによって、共に困難や、抱えている重荷を一緒に担っていく愛の共同体ですから、ぜひ祈祷会などでも、それぞれの祈りの課題を分かち合っていただき、共に心を一つにして祈り合う共同体を形成していきましょう。第三に、神殿での礼拝がきちんと運営されるようにするための適用です。33~35節をご覧ください。

“わたしたちは、神殿での奉仕のために年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。それは供え物のパンのため、日ごとの穀物の献げ物のため、日ごとの焼き尽くす献げ物のため、安息日、新月祭、祝祭日のため、奉納物のため、イスラエルの罪を贖う贖罪の献げ物のため、すなわち神殿におけるすべての務めのためである。わたしたち祭司、レビ人および民は、薪の奉納についてくじを引いた。律法に書き記されているように、毎年定められた時に、神なる主の祭壇の上で燃やし、各家族が順番に薪をわたしたちの神殿に納めるためである。”

神殿税としての1/3シェケルというのは、出エジプト記(30:11)に定められている半シェケル(1/2シェケル)よりも確かに少ない額でありましたが、出エジプト記においては、人口調査が行われた時に、神殿税が徴収されるように規定されている一方で、本日のネヘミヤ記10章では、毎年必ず徴収されるよう規定されています。従いまして神殿運営のための民の負担は、むしろ出エジプト記の時代より増えたと考えられます。エズラがエルサレムに帰還した当初は、ペルシア帝国アルタクセルクセス王からの神殿の運営のための援助がありましたが、しかし、それも無期限ではなく、一時的なものでした。今や、外国の支援に依存することなく、自分たちの信仰によって神殿を運営していかなければならないということは、むしろイスラエルの民にとって健全な姿であったと言えるでしょう。それから、薪を集める仕事というのは、祭壇で生贄を燃やすために、なくてはならない仕事でありました。初期の頃、ダビデ王の時代は、神殿に仕える者としてのギブオン人が専門的にその奉仕を担っていました。しかし、これは見方によれば、半ば強制的にギブオン人に奉仕させていたと見ることができます。イスラエルの民は、礼拝を捧げる上で、なくてはならない薪の奉仕を、各家庭が順番に担当するように決めました。私たちの教会の奉仕の中でも、自分のやりたい奉仕、やりたくない奉仕があると思いますが、誰もができる奉仕であって、その奉仕が、たとえやりたくない奉仕であったとしても、皆が順番に奉仕することを喜んで受け入れる者たちとならせていただきましょう。そんな見えない陰の奉仕によって、共同体全員が喜んで礼拝を献げられるようになり、共同体の徳が高められるのです。

【3】. 初物を捧げる

最後になりますが、第四に、初物・初穂についての規定です。初物の規定は、神様の贖い御業の中で、大変重要な神学を私たちに指し示しています。初物は、神様にささげられなければなりません。初物を神様に捧げることは、収穫の実りがすべて神の恵みであることの告白でもありました。36~37節をご覧ください。

“わたしたちは、地の産物の初物とすべての果実の初物を、毎年主の神殿にささげ、わたしたちの息子の長男も、わたしたちの家畜の初子も、律法に書き記されているところに従ってささげる。わたしたちの牛と羊の初子は神殿に携え、神殿の中で仕える祭司のためにささげる。”

今お読みしました、37節の「長男と、家畜の初子を献げる」というのは、贖罪をして神のものとしていただくという意味です。贖うためには、必ず清い動物の血によって、普通は牛か羊によって、清められなければなりませんでした。例えば、ろばは重い荷物を運ぶときには大変役に立つ動物ですが、まず、羊によって贖われ、清められなければ、使用することができなかったわけです。長男と初子が贖われ、神様に捧げられることによって、次に生まれてくる子供や、汚れた家畜は、すべて神のものとされました。このことから神に捧げられるべき長子権を持つ者は、後の者たちのためにも大変重要な責任を負っていたということがわかります。イエス・キリストも私たちキリスト者の長子であると言えるでしょう。その長子であるイエス・キリストが十字架と復活によって、死に打ち勝ち、天に受け入れられたということは、どういうことでしょうか。イエス・キリストに続く私たちキリスト者も、肉体の死後、神に受け入れられ、天に受け入れられるということを意味しているのです。そのことを告白するために、初物を神のものとして捧げるのであります。続いて、38節をご覧ください。

“最初の小麦粉、礼物、あらゆる種類の果実、新しいぶどう酒および油を祭司のために神殿の祭司室に納める。地の産物の十分の一はレビ人のために納める。このレビ人は、わたしたちが働くすべての町でその十分の一を受け取る。”

38節の「最初の」という言葉は、選りすぐりの、最上のという意味も含んでいます。選りすぐりのものを区別して、祭司に捧げたという意味です。また、地の産物の十分の一はレビ人のために捧げられました。さらにレビ人の収入の十分の一は、祭司に捧げられました。祭司とレビ人は自分たちの所有地を持っておらず、イスラエルの民の礼拝のために奉仕する人々ですから、祭司やレビ人に対して捧げたものとは、その祭司やレビ人を通して、神様に捧げられたということを意味しています。ですから、この「最上のもの」、「十分の一」の概念も、先ほどの初物の概念と同じだということです。それを神様に捧げることによって、残りの小麦粉やあらゆる種類の果実は、すべて神様のものであり、神の祝福と恵みが自分たちに臨んだ!感謝します!という信仰の告白となるのです。決して「自分たちの力で地の産物を得た」ですとか、「自分たちの力でぶどう酒や油を得た」と理解してはなりません。すべてが神からの贈り物であり、私たちは、その恵みに与ったに過ぎないということを1/10を通して告白すべきです。これは、まさに私たちの信仰の告白なのです。最後の部分の40節では、「わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません」という言葉で締め括られています。民は律法に生きることを通して、神の宮である神殿を何より大切にし、自分の人生の営みの中心が、神を礼拝することにあることを告白しています。私たちも私たちの家族も、今日、神の御言葉に生きることを告白し、人生の営みの中心が、神を礼拝することにあることを告白していく者たちとならせていただきましょう。

【結論】

本日の内容をまとめます。律法に生きることを誓った人々が、どのように律法を自分たちに適用したのかを見てきました。第一に混宗婚の禁止です。主に仕えるのか、この世に仕えるのかという問題です。第二に安息日、安息年の順守を通して、貧しいもの、弱い者を覚えることを見てまいりました。第三に神殿の運営のための神殿税と薪の奉仕について、私たち自身の在り方を顧みることができました。第四に初物を捧げることでありました。律法に生きるということは、神の御言葉に生きることであり、それは、神を愛し、隣人を愛する生き方です。私たちもみ言葉に生きる者として、神様を愛し、愛する兄弟姉妹の重荷を共に担っていくことを決意し、日々の信仰生活を重ねて行く者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

율법에 따라 살기로 맹세한 사람들

2025년 4월13일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 9장 38~10장 39절

서론

오늘 본문은 율법에 따라 살기로 맹세한 사람들의 모습이 그려져 있습니다. 구절의 배열이 일본어 성경의 새공동번역과 영어, 한글 성경과 한 구절씩 어긋나 있으니 주의하시기 바랍니다. 느헤미야를 비롯해 인봉을 한 사람들의 일족과 개인 이름이 기록되어 있습니다. 이 맹세에 참여한 사람들은 일부 지도자와 제사장들만 참여한 것이 아니라, 10:28~29를 보면 율법을 이해할 수 있는 나이에 도달한 모든 사람이 맹세에 참여했다고 기록되어 있습니다. 즉, 지식과 총명이 있는 공동체 구성원 모두가 이 맹세에 동참했다는 뜻입니다. 먼저 10:28~29를 살펴볼까 합니다.

28 그 남은 백성과 제사장들과 레위 사람들과 문지기들과 노래하는 자들과 느디님 사람들과 및 이방 사람과 절교하고 하나님의 율법을 준행하는 모든 자와 그들의 아내와 그들의 자녀들 곧 지식과 총명이 있는 자들은

29 다 그들의 형제 귀족들을 따라 저주로 맹세하기를 우리가 하나님의 종 모세를 통하여 주신 하나님의 율법을 따라 우리 주 여호와의 모든 계명과 규례와 율례를 지켜 행하여

우리는 그들의 이 맹세를 통해 공동체 전체의 강한 결의를 읽을 수 있습니다. 하나님에 대한 은혜에 대한 응답으로 그들은 율법을 가볍게 여기지 않고, 율법에 따라 행하며 그 규례와 법도를 지켜 행할 것을 하나님 앞에서 맹세하고 있는 것입니다.

(1) 언약을 세우고 인봉을 하다

도장을 찍는 행위는 원래 이스라엘의 문화가 아니라 페르시아의 문화였다고 합니다. 이는 자신이 맹세한 내용에 대해 좌로나 우로나 치우치지 않고 끝까지 지키겠다는 의지의 표현으로 여겨지는데, 이스라엘 사람들은 보통 이런 시츄에이션을 하면서 계약을 맺었습니다. 아브라함이, 자손의 번영과 가나안 땅을 얻을 것이라는 약속을 받고 하나님과 언약을 맺은 것처럼, 혹은 출애굽한 이스라엘 백성들이 시내 산에서 율법을 받고 언약을 맺은 것처럼, 이스라엘 백성들은 언약을 맺었습니다. 히브리어로「언약을 맺다」는 「카라트 베리트」라고 표현합니다. 「카라트」는 자르다는 뜻이고, 「베리트」는 언약이라는 뜻이기 때문에 직역하면 「언약을 자르다」가 됩니다. 언약을 자른다는 말이 왜 언약을 맺는다는 말이 되었을까 하면, 그것은 옛 풍습에, 언약할 때 가축을 좌우로 갈라놓고 언약 당사자가 그 사이를 통과하는 것이 있었는데, 그런 절차를 거쳐 언약이 체결되었기 때문입니다. 만일 어느 한쪽이 그 약속을 어기면 그 사람은 이 가축처럼 찢겨도 좋다는 저주를 의미했습니다. 따라서 원래 이스라엘 백성에게 언약을 맺는다는 행위는 저주 조항이 달린 종교적 의식이자 목숨을 담보로 하는 행위였다는 것을 알 수 있습니다. 오늘 9:38에서 백성이 언약을 세워 기록하고 인봉을 한 것이 언약을 맺는 것과 거의 같은 의미로 여겨지는 것은 9:38의 「언약을 세워」로 번역된 히브리어를 보면 「카라트 아마나」로 되어 있고, 「베리트」대신 「아마나」가 대체되어 있기 때문입니다. 아마나는 아멘의 동의어로 진실, 견고함이라는 뜻입니다. 언약이라는 단어가 진실, 견고함(아마나)로 대체되었을 뿐이라는 것입니다. 29절 후반부에 저주 조항이 나옵니다. 「저주로 맹세하기를」이라고 되어 있습니다. 그들은 하나님 앞에 맹세를 하고, 저주가 따르는 목숨을 건 언약을 한 것입니다. 그런 큰 결심을 가지고 하나님의 끝없는 은혜에 대한 응답으로 율법을 대면했다는 것입니다.

(2) 율법의 적용

그렇다면 구체적으로 율법을 어떻게 해석하고 자신들에게 적용했을까요. 네 가지를 적용하고 있습니다. 첫째, 이방인과의 혼인 금지입니다. 30절을 보시겠습니다.

우리의 딸들을 이 땅 백성에게 주지 아니하고 우리의 아들들을 위하여 그들의 딸들을 데려오지 아니하며

이방인과의 혼인 금지는 에스라 9장에서 배웠습니다. 이방인과의 결혼 자체를 금지하는 것이 아니라, 이방 민족의 고유한 종교를 따르는 것을 금지하는 것이었습니다. 아마도 이스라엘에서 혼인 문제는 매우 심각했고, 여전히 문제가 심각하게 남아있었던 것으로 보입니다. 왜냐하면 이후 13장에서도 사건이 발생하는데, 제사장이 암몬 족속의 지도자 도비야와 친밀한 관계로 성전의 일부가 이 도비야를 위해 쓰여졌다는 사실이 밝혀지기 때문입니다. 우리는 하나님과 세상의 두 주인을 동시에 섬길 수 없습니다. 매일의 믿음생활 가운데 하나님을 섬길 것인지, 세상을 섬길 것인지 궁극적인 선택을 해야 하는 것입니다. 이방인과의 혼인 금지는 세상의 가치관에 대해 경계선을 긋는 것입니다. 둘째, 안식일 규정의 준수입니다. 31절을 보시겠습니다.

혹시 이 땅 백성이 안식엘에 물품이나 온갖 곡물을 가져다가 팔려고 할지라도 우리가 안식일이나 성일에는 그들에게서 사지 않겠고 일곱째 해마다 땅을 쉬게 하고 모든 빛을 탕감하리라 하였고

출애굽기에 기록된 율법에는 기본적으로 안식일에는 일하지 말라고 규정되어 있었습니다(출20:8~11). 여기에서는 더 나아가 매매 금지, 거래 금지까지 규정되어 있습니다. 이스라엘 백성과 이방인의 밀접한 관계는 여러 가지 문제를 야기했을 것입니다. 안식일에 이방인에게서 물건을 사는 사람이 있었기 때문에 이방인 상인들이 안식일에 성전에 서슴없이 들어오는 사태가 벌어졌을 것으로 보입니다. 안식일에도 물건을 구입할 수 있다는 것은 분명 편리한 일이지만, 이스라엘 백성들은 자신들의 편리함을 우선시하는 것이 아니라 하나님께 드리는 예배를 무엇보다도 우선시하기 위해 이렇게 안식일 거래 금지를 자신들에게 적용했던 것입니다. 일곱째 날 안식일을 잘 지키는 것은 일곱째 해의 안식년 준수에도 눈을 돌리게 했습니다. 안식년은 7년째 되는 해에 땅을 쉬게 하는 규정입니다. 이 규정은 가나한 사람들에 대한 배려의 의미가 있었습니다. 그것은 7년째 쉬는 땅에서 가난한 자들이 그곳에서 자연적으로 자생하는 산물을 누릴 수 있었기 때문입니다. 또한 7년째 안식년은 노예 해방의 개념과도 연관되어 있었습니다. 6년 동안 노예로 일한 사람들은 7년째 되는 해에 해방되었습니다. 신명기 15:12~14를 보시겠습니다.

12 네 동족 히브리 남자나 히브리 여자가 네게 팔렸다 하자 만일 여섯 해 동안 너를 섬겼거든 일곱째 해에 너는 그를 놓아 자유롭게 할 것이요

13 그를 놓아 자유하게 할 때에는 빈 손으로 가게 하지 말고

14 네 양 무리 중에서와 타작 마당에서와 포도주 틀에서 그에게 후히 줄지니 곧 네 하나님 여호와께서 네게 복을 주신 대로 그에게 줄지니라

이처럼 안식일을 지키는 것은 동시에 이스라엘 형제자매들의 가난에 눈을 돌리고, 가난한 이들과 함께하며 자선과 나눔을 실천하도록 촉구하는 것이었씁니다. 오늘날 우리도 하나님을 우선순위에 두고 주일예배를 드리는 것을 우선순위에 둘 때, 평소에는 생각지도 못했던 사랑하는 형제자매들의 기도제목이 보이기도 합니다. 교회는 시련을 겪고 있는 형제자매를 기억하고, 서로 중보하며 어려움과 짐을 함께 짊어지고 가는 사랑의 공동체이기 때문에, 기도회 등을 통해 각자의 기도제목을 나무며 함께 마음을 모아 기도하는 공동체를 형성해 나갑시다.

셋째, 성전애서의 예배가 제대로 운영될 수 있도록 하기 위한 적용입니다. 32~34절을 보시겠습니다.

32 우리가 또 스스로 규례를 정하기를 해마다 각기 세겔의 삼분의 일을 수납하여 하나님의 전을 위하여 쓰게 하되

33 곧 진설병과 항상 드리는 소제와 항상 드리는 번제와 안식일과 초하루와 정한 절기에 쓸 것과 성물과 이스라엘을 위하는 속죄제와 우리 하나님의 전의 모든 일을 위하여 쓰게 하였고

34 또 우리 제사장들과 레위 사람들과 백성들이 제비 뽑아 각기 종족대로 해마다 정한 시기에 나무를 우리 하나님의 전에 바쳐 율법에 기록한 대로 우리 하나님 여호와의 제단에 사르게 하였고

성전세 삼분의 일 세겔은 출애굽기(30:13)에 규정된 반 세겔(이분의 일 세겔)보다 확실히 적은 금액이지만, 출애굽기에서는 인구 조사가 실시될 때 성전세를 징수하도록 규정된 반면, 오늘 느헤미야 10장에서는 매년 반드시 징수하도록 규정되어 있습니다. 따라서 성전 운영을 위한 백성들의 부담은 출애굽기 시대보다 오히려 늘어났다고 볼 수 있습니다. 에스라가 예루살렘으로 귀환한 초기에는 페르시아 제국의 아닥사스다 왕으로부터 성전 운영을 위한 지원이 있었지만, 그것도 무기한이 아닌 일시적인 것이었습니다. 이제 외국의 도움에 의존하지 않고 자신들의 신앙으로 성전을 운영해야 한다는 것은 오히려 이스라엘 백성들에게 건강한 모습이었다고 할 수 있습니다. 그리고 나무를 바치는 일은 제단에서 제물을 태우기 위해 꼭 필요한 일이었씁니다. 초창기 다윗 왕 시대에는 성전을 섬기는 자로서 기브온 사람들이 전문적으로 그 봉사를 담당했습니다. 그러나 이것은 어떻게 보면 반강제적으로 기브온 사람들에게 봉사를 시켰다고 볼 수 있습니다. 이스라엘 백성들은 예배를 드리는데 없어서는 안 될 나무 봉사를 각 가정이 차례로 담당하도록 했습니다. 우리 교회의 봉사 가운데도 자신이 하고 싶은 봉사와 하기 싫은 봉사가 있겠지만, 누구나 할 수 있는 봉사, 그리고 그 봉사가 비록 하기 싫은 봉사라 할지라도 모두가 기꺼이 순서를 맡아 섬기는 자들이 되도록 합시다. 그런 보이지 않는 음지의 봉사를 통해 공동체 모두가 기꺼이 예배를 드릴 수 있게 되고 공동체의 덕이 높아지는 것입니다.

(3) 맏물을 바치다

마지막으로, 넷째는 맏물, 첫 열매에 대한 규정입니다. 맏물 규정은 하나님의 구속사역에서 매우 중요한 신학을 우리에게 가리키고 있습니다. 맏물은 하나님께 드려야 합니다. 맏물을 하나님께 드리는 것은 수확의 열매가 모두 하나님의 은혜임을 고백하는 것이기도 합니다. 35~36절을 보시기 바랍니다.

35 해마다 우리 토지 소산의 맏물과 각종 과목의 첫 열매를 여호와의 전에 드리기로 하였고

36 또 우리의 맏아들들과 가축의 처음 난 것과 소와 양의 처음 난 것을 율법에 기록된 대로 우리 하나님의 전으로 가져다가 우리 하나님의 전에서 섬기는 제사장들에게 주고

방금 읽은 36절의「맏아들들과 가축의 처음 난 것을.. 드리기로 하였고」라는 말씀은 속죄를 하고 하나님께 바친다는 뜻입니다. 속죄를 하기 위해서는 반드시 정결한 동물의 피, 보통 소나 양의 피를 통해 정결하게 해야 했습니다. 예를 들어, 당나귀는 무거운 짐을 옮길 때 매우 유용한 동물이지만, 먼저 양으로 속량하여 정결케 하지 않으면 사용할 수 없었던 것입니다. 맏아들과 가축의 처음 난 것이 속죄되어 하나님께 바쳐짐으로써 다음에 태어나는 아이와 부정한 가축은 모두 하나님의 것이 되었습니다. 이를 통해 하나님께 바쳐야 할 장자권을 가진 자는 후손들을 위해서도 매우 중요한 책임을 지고 있었다는 것을 알 수 있습니다. 예수 그리스도도 우리 그리스도인의 맏아들이라고 할 수 있습니다. 그 맏아들이신 예수 그리스도께서 십자가와 부활을 통해 죽음을 이기시고 하늘로 올라가셨다는 것은 무엇을 의미할까요? 예수 그리스도를 따르는 우리 그리스도인들도 육신의 죽음 이후 하나님께 받아들여져 하늘에 받아들여진다는 것을 의미합니다. 그 사실을 고백하기 위해 맏물을 하나님의 것으로 드리는 것입니다. 이어서 37절을 보시기 바랍니다.

37 또 처음 익은 밀의 가루와 거제물과 각종 과목의 열매와 새 포도주와 기름을 제사장들에게로 가져다가 우리 하나님의 전의 여러 방에 두고 또 우리 산물의 십일조를 레위 사람들에게 주리라 하였나니 이 레위 사람들은 우리의 모든 성읍에서 산물의 십일조를 받는 자임이며

37절의 「처음」이라는 단어는 엄선한, 최상이라고 하는 의미도 포함하고 있습니다. 가장 좋은 것을 구별하여 제사장에게 바쳤다는 뜻입니다. 또한 땅의 소산의 십분의 일은 레위 사람을 위해 바쳐졌습니다. 또한 레위 사람의 수입의 십분의 일은 제사장에게 바쳐졌습니다(38절의 하나님의 전 곳간의 여러 방에 둔 것은 제사장의 몫이었습니다). 제사장과 레위 사람은 자기 소유의 땅이 없고 이스라엘 백성의 예배를 위해 봉사하는 사람들이기 때문에 제사장과 레위 사람에게 바친 것은 그 제사장과 레위 사람을 통해 하나님께 드려졌다는 것을 의미합니다. 그래서 이 「최상의 것」, 「십분의 일」의 개념도 좀 전에 말씀드린 「맏물」의 개념과 같다는 것입니다. 그것을 하나님께 바침으로써 나머지 밀의 가루와 각종 과목의 열매는 모두 하나님의 것이 되었고, “하나님의 축복과 은혜가 우리들에게 임했다! 감사합니다!”라는 신앙고백이 되는 것입니다. 결코 “우리들의 힘으로 땅의 산물을 얻었다”라든가“우리 힘으로 포도주나 기름을 얻었다”고 이해해서는 안죕니다. 모든 것이 하나님의 선물이며, 우리는 그 은혜를 받은 것에 불과하다는 것을 십분의 일을 통해 고백해야 합니다. 이것이 바로 우리의 신앙고백인 것입니다. 마지막 39절은 「우리가 우리 하나님의 전을 버려 두지 아니하리라」는 말로 마무리됩니다. 백성들은 율법에 따라 사는 것을 통해 하나님의 집인 성전을 무엇보다 소중히 여기며, 자신의 삶의 중심이 하나님을 예배하는 데 있음을 고백하고 있습니다. 우리도 우리 가족도 오늘 하나님의 말씀대로 살겠다고 고백하고, 삶의 중심이 하나님을 예배하는 것에 있음을 고백하는 자들이 되도록 합시다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 율법에 따라 살기로 맹세한 사람들이 어떻게 율법을 자신에게 적용했는지 살펴봤습니다. 첫째는 이방인과의 혼인 금지입니다. 주님을 섬길 것인가, 세상을 섬길 것인가의 문제입니다. 둘째로 안식일, 안식년 준수를 통해 가난한 자, 약한 자를 기억하는 것을 보아왔습니다. 셋째로 성전 운영을 위한 성전세와 나무 봉사에 대해서 살펴 보고 우리 자신의 모습을 돌아볼 수 있었습니다. 넷째는 맏물을 드리는 것이었습니다. 율법을 따라 산다는 것은 하나님의 말씀대로 사는 것이고, 그것은 하나님을 사랑하고 이웃을 사랑하는 삶의 방식입니다. 우리도 말씀대로 사는 자로서 하나님을 사랑하고, 사랑하는 형제자맹의 짐을 함께 짊어지기로 결단하고, 날마다 믿음생활을 쌓아가는 자들이 되도록 합시다.

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