2025年03月23日「御言葉が蒔かれると」

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4:1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
4:10イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。
4:11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
4:13また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 4章1節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日は、伝道説教としてお招きくださり感謝いたします。私は、せんげん台伝道所の川栄智章と申します。私が神学生だった頃、神学校の理事会のために、高内義宣先生が神学校に来られ、そこでお会いしたことを覚えております。当時、先生は学生に親しく声をかけてくださいました。また、先生のご子息の高内信嗣先生とは、同期ではありませんけれども、神学校で一緒に学んだ仲であります。ですから長年牧会を経験されてこられ、心から尊敬している高内義宣先生が牧会されている、この津島教会に、本日は招いてくださり、大変うれしく思います。本日は「御言葉が蒔かれると」と題しまして、共に聖書の恵みに与りたいと願います。

病を癒し、悪霊を追い出し、神の国の到来を告げ知らせるイエス様の働きは、ガリラヤ地方に大きなセンセーションを巻き起こしました。おびただしい群衆は熱い思いを持ってイエス様の行かれる所なら、どこへでもついて行こうとしました。そんな群衆の姿を見て、イエス様はとても喜ばれたと思います。この日もイエス様は湖のほとりで、舟に乗って神の国について語られました。恐らくガリラヤのカファルナウムのこの場所は、湖を背景にした切り立った断崖が格好の音響装置のような役割をし、イエス様の御声が良く響いたのだと思われます。イエス様は舟を、講壇と椅子に見立てて、そこから力強く語り始められました。

【1】. 神の国の到来は、たとえで語られる

イエス様は、種についての譬えを話されました。後で弟子たちに譬えについての解説をされますが、本日の箇所は、 蒔かれた種の冒険を通して、「神の国」が語られています。神の国の到来、それこそ、まさに「福音・よき知らせ」の内容であります。マルコ1:14において、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られました。「神の国は近づいた」、イエス様の大胆な宣言がなされています。ここで、「神の国は近づいた」という表現に注意していただきたいのですが。神の国は確かに到来しました。しかし、私たちの目に見える形で神の国が完成された訳ではありません。メシアである御自身の来臨によって、神の国は、霊的には既に到来しました。しかし、未だ目に見える形で現れている訳ではないのです。目に見えない神の国は、悔い改めて、信仰によって受け入れるものであります。私たちは信仰によって、この神の国に入れられるのです。誰の目にも、隠されている、この「神の国」を説明するにあたり、イエス様は専らたとえを通してでなければ、説明することは出来ませんでした。「たとえ」という言葉ですけれども、ギリシャ語で「パラボレπαραβολῇ」、ヘブライ語では「マーシャルמשׁל」という言葉です。旧約聖書を見ますと、ヘブライ語マーシャルという言葉は、日本語で「たとえ話し」と訳されている箇所もありますし、「謎」と訳されている箇所もあります(エゼ17:2、詩49:5、78:2、箴1:6、)。つまり、マーシャルという言葉は、ある人にとっては分かりやすいたとえ話であり、ある人にとっては意味の分からない「謎」であったということです。1~9節のイエス様の語られたたとえ話しも、読者である私たちに、分かりやすい「たとえ話」として、或いは「謎」として、迫ってくるのであります。

さて、当時の種まきというのは、種をばら撒いてから、耕すという仕方でありました。ですから種を蒔く人は、景気よく種をばら撒く訳です。そのような仕方でしたので、蒔かれた種が道端に落ちてしまい、鳥が食べて行くこともしばしばありました。石だらけで土の少ない所に落ちることも、茨の中に落ちることもありました。そのような場所に落ちた種は芽を出すことはないし、芽を出しても、やがて枯れてしまい、実を結ぶまでに至らないケースが普通にありました。イエス様の語られた「たとえ」は、イスラエルの人々が、身近に体験している現実でしたので、聞く者たちにとって、大変分かり易い内容だったと思います。イエス様は、たとえ話しを語りながら、4:3で「よく聞きなさい」と語り、そして9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。御自身が語られた内容は、神の国に関するものなので、この福音が、信仰に結び付くように、聞き方に注意せよということです。こう言われますと、普段、自分たちに馴染のある種まきの話しの、一体どこが福音なのかと訝る人も出て来たのではと思います。悪いけど、種蒔きに関しては、俺たちの方が良く知っていると、思った人もいたでしょう。このたとえ話しと、神の国に一体、どんな関係があると言うのでしょうか。

【2】. 良い土地と三つの土地

イエス様は、この種まきの種を「神の言葉」として理解する時に、それが福音として迫ってくると言われました。種を蒔く方は神様です。地の果てにまで御言葉を景気よく蒔いてくださいます。このようにして、蒔かれた種の冒険が始まるのです。10節からのくだりの部分は一旦飛ばしまして、4:14~19節をご覧ください。種の冒険について書かれています。

“種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。”

まず最初に、道端に蒔かれた種についてです。種は神の御言葉ですから、種が蒔かれる土地とは、私たち人間のことを指していると思われます。道端に落ちた種とは、御言葉を聞いたとしても、サタンによって、折角いただいた御言葉を奪われてしまうケースです。これは私たちが信仰に導かれる前に、たくさん経験していたことなのかもしれません。今は御言葉を信じて、教会に来ている訳ですから、中々ピント来ないかもしれませんが、かつてまだ信じる前に、自分に確かに神の言葉が語られていて、しかし、その時はまだ時ではなかったため、語られた御言葉が自分の心に留まることなく、忘れ去られてしまったという事があるのではないでしょうか。御言葉は、聖書を通して直接語られることもありますけれども、日曜学校や、或いは映画や、小説や、寸劇や、紙芝居などを通して、間接的に語られることもあります。様々な方法で神様は御言葉を人々に語ってくださいますが、種が芽を出す前に奪い去られてしまうのです。

第二に、石だらけの所に蒔かれた種についてです。御言葉を聞いて感動し、すぐ喜んで受け入れますが、根が地中に張っていないため、やがて、御言葉による艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうケースです。この世において、私たちがイエス様に従って生きていこうとする時、必ず、キリスト者に艱難や迫害が襲ってまいります。自分がクリスチャンだということを学校や職場において、或いは、自分が所属するサークルや、地域の交流において、公にしただけで、理不尽な扱いや、不当な嫌がらせを受けることもあるでしょう。皆様も、きっとご経験があるのではないでしょうか。もし、信仰の根が深く根付いていないなら、このような艱難や迫害によって、すぐにつまずいてしまい、教会から離れてしまうということも簡単に起こり得るのです。私自身、洗礼を受けたばかりの頃、初めは救いの感動で心が満たされていましたが、仕事があまりにも忙しくなり、休みのはずの日曜日でさえ、出勤しなければならないということが重なって、次第に教会の礼拝から遠のいてしまったことを覚えています。キリスト者には、信じた後、荒れ野の旅路が備えられていて、艱難や試練が絶えず襲ってくるのであります。

第三に、茨の中に蒔かれる種についてです。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいでしまうケースです。実際、私たちの思い煩いの力や、貪欲の力、そして、世の誘惑の力というのは、ものすごいパワーを持っています。恐らく我々自身の力では、その力に対抗することなど無理でありましょう。私たちは、御言葉を覆い塞いでくる茨に対し、全く無力であり、勝利する秘訣など考えても全く無駄だということです。私たちに出来ることは祈ることしかありません。人生の中で、様々なつまずき、様々な悲しい出来事、様々な茨が襲ってまいります。私たちは、祈ることしかできないのだと思います。それに反し、もし、御言葉が良い地に蒔かれるなら、どのような事が起こるでしょうか。4:20節をご覧ください。

“良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。”

肥沃な地、ヨルダンの谷間であるならまだしも、不毛のガリラヤの地で、30倍、60倍、100倍というのは、とてつもない豊作を意味しました。これを聞いた時、弟子たちは目を丸くしたと思います。それにしても、前の三つの土地である道端と、石だらけの土地と、茨の土地に比べて最後の良い地との、この大きなギャップは何なのでしょうか。ゼロとサムのような関係です。あたかもギャンブルで親が総どりするような感じがいたします。ですから、私たちは「どのようにしたら、自分自身がこの良い土地になれるでしょうか、どのようにしたら、自分が勝者になれるでしょうか。」と質問することでしょう。しかし、その質問は、実は「どのようにしたら信仰が得られるのでしょうか」と聞いているのと同じであります。答えは、私たちの努力や、私たちの力によって、良い土地になったり、或いは、奇跡をもたらす信仰が得られる訳ではないという事です。それは、神からの一方的な贈り物であって、専ら神の恵みなのであります。ですから、マルコ4章の種まきのたとえを読む時に、果たして自分は、どの土地だろうか?良い土地だろうか、それとも道端だろうか、石畳だろうか、茨だろうか?などと心配する必要はないですし、或いは人を見て「奴は道端の地だ」、「奴は茨の地だ」、などと他人に適用する必要もないのです。

【3】. 良い土地とは?

続いて先ほどは飛ばしました10~12節に戻ってみたいと思います。ご覧ください。

“イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」”

二重カッコの引用は、イザヤ書6:9-10からの引用です。少し意味深な御言葉です。一見しますと、イエス様はここで、外部の人々と内部の人々の間に線引きしているように見えます。つまり、秘密が打ち明けられている十二弟子と、イエス様の周りにいた人たちが内部の人々で、それ以外の群衆が外部の人々という線引きです。線の外側である外部の人にはすべて、たとえで示される。その理由は、外部の人々に、神の国の秘密を理解させないためであり、外部の人々が悔い改めて赦されることがないため、と、解釈してしまいそうです。ところが、このように解釈すると矛盾が生じてしまいます。13節において、イエス様は内部の人々であるはずの弟子たちを叱責されているからです。「このたとえがわからないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」イエス様が弟子たちを叱責されるのは、ここだけではなく、この後も、マルコ福音書は、引き続き弟子たちの無知と無理解について暴いていきます。つまり、イエス様と特別な関係を結ぶという特権を与えられていながら、イエス様から特別な教訓と訓練を提供され、イエス様の宣教の働きに共に参与する、その特権に与っている線の内側にいるはずの弟子たちが、イエス様のたとえ話しを全く理解していなかったのです。彼らは秘密を打ち明けられても、イエス様のたとえ話をまったく理解していないのです。彼らは秘密を打ち明けられても依然として、たとえは「謎」として迫ってくるだけでありました。彼らは依然として、良い土地ではなく、「道端」か、「石だらけの土地」か、「茨の中」に置かれているのです。ですから、イザヤ書6:9-10の御言葉を引用した著者マルコは、内側の人々と外側の人々の線引きについて語っているのではないということが分かります。同時に、このことは、無知と無理解の塊である、私たちにとっても、どれほど大きな慰めでしょうか。それでは、著者マルコはイザヤ書6:9-10をどのような意図で引用したのでしょうか。ここの解釈として、参考になる御言葉がエレミヤ5:20~21に書かれています。調べてみましょう。

“これをヤコブの家に告げ、ユダに知らせよ。「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民。”

預言者エレミヤは、愚かで心ないユダの人々に、目があっても見えず、耳があっても聞こえないユダの人々に対し、一つの事を訴えています。その一つの事とは、「御言葉を聞きなさい」という事です。御言葉をよく聞くこと、いつもイエス様のそばを離れずに御言葉を聞くこと、このことを著者マルコは強調しているのだと思います。良く理解できても、出来なくとも、忍耐を持って御言葉を聞き続けること、そのことが何より重要なのであります。御言葉の学びには、卒業はありません。私たちは一生涯をかけて御言葉を聞き続け、学び続けるのです。最初から良い土地である人が果たしてどこにいるでしょうか。良い土地とは、種を蒔かれるイエス様が、御自身の汗と血によって開墾し、イエス様ご自身が私たちの心の中に造り出してくださるのです。御言葉を重ねて聞くことは、牛が草を咀嚼するのに似ていると思います。以前、聞いたことがあると思う御言葉でも、以前聞いた聖書箇所からでも、何度も何度も御言葉をかみしめる中で、以前とは異なる恵みに与り、私たちの心は次第に耕されていき、ついに良い地に変えられるのです。弟子たちが常にイエス様に同行し、イエス様の働きに共に参与し、イエス様の教えに座って耳を傾ける中で、神様の恵みによって、ある日、目からうろこが落ちるような体験をし、御言葉に対する悟りが与えられるのです。道端だった土地が、石だらけだった土地が、茨のような土地が、神の恵みによって、天からの贈り物として「良い土地」にされるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。種を蒔く人であられるイエス様が、御言葉を頑なに拒む私たちの心を耕してくださいます。道端や石だらけ、おまけに茨が生えていて、鋤もたたないような私たちの頑なな心を、イエス様ご自身が耕してくださるのです。私たちは、イエス様のそばから決して離れないで、御言葉を愛し、御言葉を聞き続ける者とならせていただきましょう。私たちに蒔かれた御言葉の種は、神様が信仰を成長させてくださり、やがて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ者としてくださるでしょう。

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