2025年03月09日「律法を理解する時 율법을 깨달은 백성」

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律法を理解する時 율법을 깨달은 백성

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 7章72節b~8章12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:72b第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、
8:1民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。
8:2祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。
8:3彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
8:4書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。
8:5エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。
8:6エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
8:7次いで、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤというレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。
8:8彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
8:9総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
8:10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
8:11レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
8:12民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 7章72節b~8章12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

第六の月、エルルの月に城壁が完成し、翌月の第七の月、ティシュリの月には、水の門の前の広場で律法の朗読会が持たれました。物心の付いた人々は誰でも、子どもから大人まで、この律法の朗読会に集まってきました。そして律法を聞いた民は、御言葉の恵みに与り、感動の渦に巻き込まれ、泣く者も出てきました。それは美しい光景でありました。その光景は、まさに主が御自身の民を最終的にこのようなところへ導きたい、御自身の共同体をこのように作りたいと願われる、そんな光景だったと思います。本日もネヘミヤ記を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 御言葉に飢え渇く民

7:72b~8:1をご覧ください。

“第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。”

第七の月は、イスラエルの民にとって、大変重要な季節です。なぜなら、律法によると、第七の月の第一日にラッパの祭りが定められており、そしてその十日目には贖罪日、さらに第15日からの七日間は、過ぎ越しの祭が定められているからです。

8:1節ではエズラが登場します。エズラ記で登場した書記官であり祭司である、あのエズラです。エズラは第二次の帰還で、ネヘミヤより13年早くエルサレムに戻って来たのですが、ここで注目したいのは、エズラがイスラエルの民に、無理やりに律法を読み聞かせるために召集をかけたのではなく、民の方から一人の人のようになって、律法の朗読を要請している点であります。「一人の人のように」ヘブライ語で(כְּאִ֥ישׁ אֶחָ֖ד ケイーシュ エクァド)という言葉は、聖書の中で、しばしば出てきます。例えば、1サムエル11:7をご覧ください。「一丸となって出陣した」と訳されている箇所に、「ケイーシュ エクァド (一人の人のように)」が出てきます。

“一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。”

この箇所では、アンモン人に攻め込まれた時に、サウル王は一軛になった二頭の牛を切り裂いて、イスラエル全土に送って次のように言いました。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる!」この時、イスラエルの民は、主ヤハウェの恐れにかられ、一人の人のように出陣しました。その結果、アンモン人の侵略から自分たちを守り、皆で敵を撃退することが出来たのであります。1サムエル記では、主への恐れによって「一人の人ように」なりましたが、本日のネヘミヤ記では、御言葉へ飢え渇き、そして御言葉への敬意によって、「一人の人ように」なっています。いずれにせよ教会が主を恐れ、御言葉に渇いて、一人のように一致すること、このことは大変重要な事です。私たち教会も、日々、祈り会や聖研の集いを大切しながら、霊の一致が保たれるよう互いにとりなし合っていきたいと思います。

人々は水の門の前の広場に集まってきました。抜粋のプリントの地図を参照してください。水の門とは、エルサレムの城壁の東側にあり、ギホンの泉の上にありました。その広場が城壁の内側なら、オフェルの傾斜地の下あたりだったと思われます。そこは神殿の丘に立つ、境内の中ではないため、誰でも集まることが出来る場所でありました。そこに男も、女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆、集まってきました。つまり、子どもたちもそこにいたということです。エズラは用意された木の壇の上に立ち上がりました。壇の上には巻き物の律法の書が備えられていたはずです。エズラがその巻き物をおもむろに巻き物を開くと、民は皆、立ち上がりました。エズラが主なる神に頌栄を捧げると、民は皆、両手を上げて「アーメン、アーメン」と唱和し、跪いて、顔を地に伏せて、礼拝をしました。律法の朗読会は、夜明けから正午まで、約6時間近くに渡ってなされたようです。今日の礼拝では、牧師が30分以上の説教をすると、長い長いと言われて文句を言われることもありますが、城壁を再建した民は、6時間、御言葉を聞き続けたのです。しかもその間、起立して御言葉に耳を傾けました。民がどれほど神の言葉に飢え渇いていたのかが分かります。

【2】. 律法を理解する民 

続いて8:7~9節をご覧ください。

“次いで、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤというレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。”

今お読みした箇所で、繰り返し出て来るキーワードがあります。それは、「理解する」、ヘブライ語では בּין ビーンという言葉で、本日の説教のタイトルにもいたしました。7節の「レビ人がその律法を民に説明した」とありますね。ここにビーンが使役形で用いられていて「(理解させる)」即ち、「説明する」と訳されています。8節の終わりにも「人々はその朗読を理解した」とありますが、ここでもビーンが用いられています。9節では「律法の説明に当たったレビ人」とありますが、ここでもやはりビーンが使役形で用いられていて「説明に当たった」と訳されています。ですから神の言葉である律法が理解されること、さらに言えば、祭司やレビ人だけでなく一般の民にも理解されること、そのことが、重要なポイントとされているのが分かります。イスラエルの民が、捕囚に連れていかれたのは、BC.586年頃でした。それから約50年後(BC.538年)には、第一次の帰還が許されますが、今、城壁が完成したBC.445年は、バビロン捕囚から141年もの歳月が流れていました。ペルシアの地で生まれ育った民は、ヘブライ語よりアラム語の方が流暢になっていたはずです。ですから、ヘブライ語で書かれた律法をエズラが朗読し、レビ人がそれをアラム語に通訳して理解させる必要があったのです。律法を理解した民は、その場で泣き崩れました。神の言葉が聴衆の一人ひとりの心に刺さり、悔い改めと、癒しが起こされたのです。

旧約時代に神の言葉である律法が朗読されることは、新約時代において十字架の福音が語られることと全く同じことだと思います。教会が福音を語る時、聖書の御言葉が心に刺さって、心がえぐられ、その場で泣き崩れるというケースが時々起こります。神の言葉にはそれ自体に力があり、耳のある者が御言葉を聞くとき、真の悔い改めと、心の傷の癒しと、神の深い慰めを受け取ることになるからです。今から約二千年前に起こったイエス・キリストの十字架の出来事は、表面的には紋切り型の言葉であり、いつも聞かされている内容ですが、よく知っていたはずの聖書の御言葉が、ある時、新しい新鮮さを持って迫って来ることがあります。それはまるで聖霊によって信仰の火が灯されたような新鮮さです。御言葉を通して、聖霊が、私たちに新しい悟りと新しい力を与えてくださり、主への献身の思いへと導いてくださるのです。これと全く同じようなことが、エズラの律法の朗読を通して、イスラエルの民にも起こっていたのでしょう。以前までは、律法の朗読を聞かされても、「なぜ、いつものようにエジプトから解放された昔の先祖の話しばかりするのだろうか?なぜ、あの出来事が神の贖いの業などと信じることができるのか?なぜあの出来事が、神がイスラエルを愛していることの証拠だと信じられるのか?そして、なぜモーセを通して与えられた律法が、唯一の幸いの道だと信じられるのか?信じたくても信じることができない。全く愚かなことだ!」と思っていたかもしれません。ところが、バビロン捕囚から解放され、城壁を再建した時点で、今再び、モーセの律法に耳を傾けてみると、イスラエルの贖いの歴史が、自分のこれまでの人生とピッタリと重なり、バビロン捕囚の困難の中にあった自分たちを贖い出してくださった神様の憐れみを理解し、神様の愛を信じられるようになったのです。律法の御言葉が心に刺さり、心えぐられ、その場で泣き崩れる人が出てきたのです。ヘブライ人の手紙4:12節には次のような有名な御言葉がございます。ご覧ください。

“というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。”

神の御言葉が私たちに語られる時、それまでの私たちの罪が示され、大変痛い思いを経験いたしますが、私たちを罪から分別させ、私たちの思いを主に向けさせてくださるのです。エズラは泣きじゃくっている民に言いました。少し余談になりますが、新共同訳では10節の冒頭で「彼らは更に言った」と訳されていますが、「言った」という言葉が複数形ではなく、単数形になっていますので、正確には彼らは言ったではなく、「彼は言った」となります。つまりエズラが言ったということです。10節をご覧ください。

“彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」”

エズラは言いました。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」新しく出た聖書協会共同訳聖書や英語の聖書では、「主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」the joy of the LORD is your strength. (NIV)となっていますが、私は新共同訳の方も大変分かりやすい訳だと思いました。主を喜ぶことこそ、私たちの力の源であります。主を喜ぶ生き方が、私たちの力に満ちた人生の秘訣であるということです。逆のことを言いますと、「主を喜ぶこと以外の他の方法では、真の力に満たされない」、「主を喜ぶこと以外の他の方法では、心が決して満たされることはない」ということになります。神の種が心に撒かれている私たちキリスト者は、この世のものでは、決して満足することは出来ないようになっているのです。主を喜ぶことを抜きに何をしてみても、究極的には虚しさを刈り取るだけなのです。ダビデは詩編18:2で次のように告白します。

“主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。”

また、コヘレトの言葉の筆者は1:2~3次のように告白します。

“コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。”

エズラの律法の朗読を聞いて御言葉を深く理解し、主を喜ぶことを知った彼らが、どのような行動に導かれたのかと申しますと、兄弟姉妹が食事を分かち合うという行動に導かれました。エズラは勧めています。「良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。」するとレビ人も泣いている民に「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」と励ましました。

この光景は、私たちが毎年お祝いしているクリスマスやイースターの祝会を通してよく見る光景です。普段、中々食べられないようなご馳走をお腹いっぱいに食べられますね。或いは、いつくしみの会主催の愛餐会では、救いの証しなどを聞くこともでき、偉大なる神様を共に褒めたたえます。エズラたちが導かれた食事の分かち合いも、そんな分かち合いであり、それはまさに天国の祝宴のような分かち合いだったに違いありません。御言葉を理解し、主を喜ぶ人生は、兄弟姉妹に仕えていく愛の人生へと導かれるのです。そして教会において兄弟姉妹に仕える姿は、本当に美しい輝きを放つのであります。その姿は神様が御自身の民を最終的にこのようなところへ導きたい、御自身の共同体をこのように作りたいと願ったそんな姿ではないでしょうか。ネヘミヤ記に戻りまして12節をご覧ください。

“民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。”

民はここで一旦解散しますが、12節の結論の箇所は、「教えられたことを理解したからである(ビーン)」という言葉で締め括られています。神の種が心に撒かれている者たちは、御言葉を聞いてすぐに悟ることはできなくても、人生の紆余曲折を通して必ず御言葉を理解できるように導かれるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。神の種が心に撒かれている者たちは、世が与えてくれるものでは決して心が満たされません。どんなに財産を築く能力を得ても、どんなに健康と美しい容姿が与えられても、どんなに人々からの名声と社会的地位を確立しても、決して心が満たされることはありません。しかし、神の御言葉を理解する時、神を喜ぶ人生へと変えられ、新しい力が与えられ、主への献身の思いへと導かれるのです。私たちに御言葉への飢え渇きが与えられるようにお祈りしていきたいと思います。そしてどのような状況にあっても主を仰ぎ、神の御言葉を慕う者として歩ませていただきましょう。同時に御言葉を皆に説明するレビ人のような証し人としての奉仕を、教会の中で担っていけるように、そのためにも祈っていく私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

율법을 깨달은 백성

2025년 3월9일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 8장 1~12절

서론

여섯 번째 달인, 엘룰 월에 성벽이 완성되고 다음 달인 티슈리 월에는 수문 앞 광장에서 율법 낭독회가 열렸습니다. 말을 듣고 이해할 수 있는 사람은 누구라도, 어린아이부터 어른까지, 이 율법 낭독회에 모였습니다. 그리고 율법을 들은 백성들은, 말씀의 은혜에 감격하고 감동의 소용돌이에 휩싸여 눈물을 흘리는 사람들도 있었습니다. 그것은 아름다운 광경이었습니다. 그 광경은 바로 주님께서 자기 백성을 최종적으로 이런 모습으로 인도하고 싶으시고, 자신의 공동체를 이렇게 만들고 싶으신, 그런 광경이었다고 생각합니다. 오늘도 느헤미야서를 통해 말씀의 은혜를 함께 누리기를 소망합니다.

(1) 말씀에 주리고 목마른 백성들

8:1을 보시기 바랍니다.

이스라엘 자손이 자기들의 성읍에 거주하였더니 일곱째 달에 이르러 모든 백성이 일제히 수문 앞 광장에 모여 학사 에스라에게 여호와께서 이스라엘에게 명령하신 모세의 율법책을 가져오기를 청하매

일곱째 달은, 이스라엘 백성들에게 있어, 매우 중요한 계절입니다. 왜냐하면 율법에 따르면 일곱째 달 첫째 날에 나팔절이 정해져 있고, 그 열흘째 되는 날은 속죄일, 그리고 15일부터의 7일간은 유월절이 정해져 있기 때문입니다.

8:1에스라가 등장합니다. 에스라서에 등장하는 학사이자 제사장인 에스라, 바로 그 에스라입니다. 에스라는 2차 귀환으로 느헤미야보다 13년 먼저 예루살렘으로 돌아왔는데, 여기서 주목해야 할 점은 에스라가 이스라엘 백성들에게 억지로 율법을 읽으라고 소집한 것이 아니라, 모든 백성이 일제히 모세의 율법책을 가져오기를 청하였다는 점입니다.「모든 백성이 일제히」히브리어로 (כְּאִ֥ישׁ אֶחָ֖ד 케이쉬 에하드) 라는 단어는, 성경 가운데, 자주 나옵니다. 예를 들면, 사무엘상 11:7을 보시기 바랍니다.「한 사람 같이 나온지라」라고 번역된 구절에 「케이쉬 에하드(모든 백성이 일제히, 한 사람 같이)」가 나옵니다.

한 겨리의 소를 잡아 각을 뜨고 전령들의 손으로 그것을 이스라엘 모든 지역에 두루 보내어 이르되 누구든지 나와서 사울과 사무엘을 따르지 아니하면 그의 소들도 이와 같이 하리라 하였더니 여호와의 두려움이 백성에게 임하매 그들이 한 사람 같이 나온지라

본문에서 암몬의 공격을 받았을 때 사울 왕은, 한 겨리의 소를 각을 뜨고 이스라엘 모든 지역에 두루 보내며 다음과 같이 말했습니다.「누구든지 나와서 사울과 사무엘을 따르지 아니하면 그의 소들도 이와 같이 하리라」이 때, 이스라엘 백성들은 여호와를 두려워하여 한 사람 같이 나왔습니다. 그 결과, 암몬 사람의 공격으로부터 자신들을 지키고 모두가 적을 격퇴할 수 있었던 것입니다. 사무엘상에서는 여호와의 두려움이 임하여 백성이「한 사람 같이」되었지만, 오늘 느헤미야서에서는 말씀에 주리고 목마름과 말씀에 대한 경외심으로 「모든 백성이 일제히」모였다고 합니다. 어쨌든 교회가 하나님을 경외하고 말씀에 목말라하면 한 사람 같이 하나가 되는 것, 이것은 매우 중요한 일입니다. 우리 교회도 날마다 기도회나 성경연구 모임을 소중히 여기며, 영의 일치를 이루기 위해 서로 같이 돌보아 주기를 바랍니다.

사람들은 수문 앞 광장에 모여들었습니다. 발췌된 인쇄된 지도를 참고하세요. 수문은 예루살렘 성벽의 동쪽, 기혼 샘 위에 있었습니다. 그 광장이 성벽 안쪽이라면 오펠의 경사면 아래쪽에 있었을 것입니다. 그 광장은 성전 언덕 아래에 있고, 성전 경내가 아니기 때문에 누구나 모일 수 있은 곳이었습니다. 남자든 여자든 말을 듣고 이해할 수 있는 나이에 도달한 사람은 모두 모여들었습니다. 즉, 아이들도 그곳에 있었다는 뜻입니다. 에스라는 준비된 나무 단 위에 올라섰습니다. 단 위에는 두루마리 형태의 율법책이 놓여 있었을 것입니다. 에스라가 천천히 두루마리를 펼치자 백성들은 모두 자리에서 일어섰습니다. 에스라가 여호와 하나님께 송영을 돌리자 백성들은 모두 두 손을 들고「아멘, 아멘」을 외치며 무릎을 꿇고 얼굴을 땅에 대고 예배를 드렸습니다. 율법 낭독회는 새벽부터 정오까지 약 6시간 가까이 진행된 것으로 보입니다. 요즘은 예배에서, 목사가 30분 이상 설교를 하면 길다고 불평하는 경우가 많은데, 성벽을 재건한 백성들은 6시간 동안 말씀을 계속 들었던 것입니다. 게다가 그 시간 동안 기립하여 말씀에 귀를 기울였습니다. 백성들이 얼마나 하나님 말씀에 목말라 했는지 알 수 있습니다.

(2) 율법을 깨달은 백성

이어서 8:7~9를 보시겠습니다.

7 예수아와 바니와 세레뱌와 야민과 악굽과 사브대와 호디야와 마아세야와 그리다와 아사랴와 요사밧과 하난과 블라야와 레위 사람들은 백성이 제자리에 서 있는 동안 그들에게 율법을 깨닫게 하였는데

8 하나님의 율법책을 낭독하고 그 뜻을 해석하여 백성에게 그 낭독하는 것을 다 깨닫게 하니

9 백성이 율법의 말씀을 듣고 다 우는지라 총독 느헤미야와 제사장 겸 학사 에스라와 백성을 가르치는 레위 사람들이 모든 백성에게 이르기를 너희는 가서 살진 것을 먹고 단 것을 마시되 준비하지 못한 자에게는 나누어 주라 이 날은 우리 주의 성일이니 근심하지 말라 여호와로 인하여 기뻐하는 것이 너희의 힘이니라 하고

이 구절에서 반복적으로 등장하는 키워드가 있습니다. 그것은「깨닫다」, 히브리어로「 בּין 빈」이라는 단어인데, 7절의「레위 사람들은 .. 그들에게 율법을 깨닫게 하였는데」라고 되어 있습니다. 여기서 「빈」은 사역형으로 사용되어 「깨닫게 하였는데」로 번역되어 있고 8절 마지막에도 「백성에게 그 낭독하는 것을 다 깨닫게 하니」라고 되어 있는데, 여기서도 「빈」이 사용되었고, 9절에는 「백성을 가르치는 레위 사람들」이라고 되어 있는데, 여기서도 역시 「빈」이 사역형으로 사용되어 「가르치는」이라고 되어 있습니다. 그래서 하나님의 말씀인 율법을 깨단는 것, 더 나아가 제사장이나 레위인뿐만 아니라 일반 백성들도 깨닫는 것, 그것이 중요한 포인트로 여겨지고 있음을 알 수 있습니다. 이스라엘 백성이 포로로 끌려간 것은 BC.586년경이었습니다. 그로부터 약 50년 후(BC.538년)에는 1차 귀환이 허용되었지만, 이번에 성벽이 완성된 BC445년은, 바벨론 포로 생활로부터 무려 141년의 세월이 흐른 뒤였습니다. 페르시아 땅에서 태어나고 자란 백성들은 히브리어보다 아람어를 더 유창하게 구사할 수 있었을 것입니다. 그래서 에스라가 히브리어로 쓰여진 율법을 낭독하고 레위인이 이를 아람어로 통역하여 백성들이 깨닫도록 해야 했습니다. 율법을 깨달은 백성들은 그 자리에서 울음을 터뜨렸씁니다. 하나님의 말씀이 청중 한 사람 한 사람의 마음에 꽂혀 회개와 치유가 일어났던 것입니다.

구약 시대에 하나님의 말씀인 율법이 낭독되는 것은 신약 시대에 복음이 선포되는 것과 똑같은 일이라고 생각합니다. 교회가 복음을 전할 때, 성경 말씀이 마음에 꽃혀서 그 자리에서 울음을 터뜨리는 경우가 가끔 일어납니다. 하나님의 말씀은 그 자체로 힘이 있고, 귀 있는 자가 말씀을 들을 때 진정한 회개와 마음의 상처의 치유와 하나님의 깊은 위로를 받게 되기 때문입니다. 지금으로부터 약 이천 년 전에 일어난 예수 그리스도의 십자가 사건은 표면적으로는 틀에 박힌 말이고, 늘 들어왔던 내용이었고, 잘 알고 있던 성경 말씀이 어느 순간 새로운 신선함으로 다가올 때가 있습니다. 그것은 마치 성령께서 믿음의 불을 붙이신 것 같은 신선함입니다. 말씀을 통해 성령께서 우리에게 새로운 깨달음과 새로운 힘을 주시고, 주님을 향한 헌신의 마음으로 인도해 주시는 것입니다. 이와 똑같은 일이 에스라의 율법 낭독을 통해 이스라엘 백성들에게도 일어났을 것입니다. 이전에는 율법 낭독을 들어도 “왜 늘 하는 얘기, 애굽에서 해방된 옛 조상들의 이야기를 하는 걸까? 왜 그 사건이 하나님의 구속의 역사라고 믿을 수 있는 것일까? 왜 그 사건이 하나님이 이스라엘을 사랑하신다는 증거라고 믿을 수 있는가? 그리고 왜 모세를 통해 주신 율법이 유일한 복된 길이라고 믿을 수 있는가? 믿고 싶어도 믿을 수 없다. 정말 어리석은 짓이다!”라고 생각했을지도 모릅니다. 그러나 바벨론 포로에서 해방되어 성벽을 재건한 시점에서 다시 한 번 모세의 율법에 귀를 기울여 보면, 이스라엘의 구속의 역사가 자신의 지금까지의 삶과 딱 맞아떨어지면서 바벨론 포로생활의 어려움 가운데 있던 자신들을 구원하신 하나님의 긍휼하심을 이해하게 되고, 하나님의 사랑을 믿게 되었습니다. 율법 말씀이 마음에 꽃혀 가슴이 찢어지고, 그 자리에서 우는 사람이 나온 것입니다. 히브리서 4:12에 다음과 같은 말씀이 있습니다. 보시기 바랍니다.

하나님의 말씀은 살아 있고 활력이 있어 좌우에 날선 어떤 검보다도 예리하여 혼과 영과 및 관절과 골수를 찔러 쪼개기까지 하며 또 마음의 생각과 뜻을 판단하나니

하나님의 말씀이 우리에게 선포되어질 때, 그동안의 우리의 죄가 드러나고 매우 고통스러운 경험을 하게 되지만, 우리 죄를 분별하게 하시고 우리의 생각을 주님께로 향하게 하십니다. 조금 여담이지만, 한국어 성경에서는 10절 첫머리에 「느헤미야가 또 그들에게 이르되」라고 번역되어 있는데, 히브리어에는 「그가 말했다」라고 되어 있어, 문맥적으로 에스라가 말했다는 뜻으로 여겨집니다. 10절을 보시겠습니다.

느헤미야(에스라)가 또 그들에게 이르기를 너희는 가서 살진 것을 먹고 단 것을 마시되 준비하지 못한 자에게는 나누어 주라 이 날은 우리 주의 성일이니 근심하지 말라 여호와로 인하여 기뻐하는 것이 너희의 힘이니라 하고

에스라는「여호와로 인하여 기뻐하는 것이 너희의 힘이니라」이라고 말했습니다. 새로나온 성서공회 공동번역성경(일본어)은「여호와를 즐거워하는 것이 너희의 힘이니라」고 번역했습니다. 영어성경에서는 the joy of the LORD is your strength. (NIV)라고 되어 있는데, 저는 일본어의 새 공동번역도 매우 알기 쉬운 번역이라고 생각합니다. 여호와로 인하여 기뻐하는 것이 우리의 힘입니다. 우리의 하나님으로 인하여 기뻐하는 삶이, 힘있고 충만한 삶의 비결이라는 것입니다. 거꾸로 말하면「주를 기뻐하는 것 외에는 다른 방법으로 참된 힘을 얻지 못한다」,「주를 기뻐하는 것 외에는 다른 방법으로 마음이 결코 채워지지 않는다」는 것입니다. 하나님의 씨앗이 마음에 뿌려진 우리 그리스도인은, 세상의 것으로는 결코 만족할 수 없도록 되어 있는 것입니다. 주님으로 인하여 기뻐하는 것 없이는, 무엇을 해도 궁극적으로는 공허함을 거둘 뿐입니다. 다윗은 시편 18:1에서 다음과 같이 고백합니다.

나의 힘이신 여호와여 내가 주를 사랑하나이다

또한 전도서의 저자는 전도서 1:2~3에서 다음과 같이 고백합니다.

2 전도자가 이르되 헛되고 헛되고 헛되니 모든 것이 헛되도다

3 해 아래에서 수고하는 모든 수고가 사람에게 무엇이 유익한가

에스라의 율법 낭독을 듣고 말씀을 깊이 깨닫고 여호와로 인하여 기뻐하는 것을 알게된 그들이, 어떤 행동으로 이끌렸냐 하면, 형제자매가 함께 음식을 나누는 행동으로 이끌렸다고 합니다. 에스라는 권면합니다.「살진 것을 먹고 단 것을 마시되 준비하지 못한 자에게는 나누어 주라」고 권면합니다. 그러자 레위 사람들이 우는 백성에게 「오늘은 너희 하나님 여호와의 성일이니 슬퍼하지 말며 울지 말라」고 격려했습니다.

이 광경은 우리가 해마다 맞이하는 성탄절과 부활절 축제를 떠올리게 합니다. 평소에는 먹기 힘든 맛있는 음식을 함께 나눠 먹지 않습니까? 혹은 부인회 주최의 점심식사 교제 가운데서는 구원의 간증을 들으며 위대한 하나님을 함께 찬양합니다. 에스라 일행이 이끈 식사 교제도 그런 나눔이었고, 그것은 바로 천국의 잔치 같은 나눔이었을 것입니다. 말씀을 깨닫고 하나님을 기뻐하는 삶은 형제자매를 섬기는 사랑의 삶으로 이어집니다. 그리고 교회에서 형제자매를 섬기는 모습은 정말 아름다운 빛을 발합니다. 그런 모습은 하나님께서 자기 백성을 최종적으로 인도하고 싶으신 모습이었고 우리 공동체를 이런 모습으로 만들고 싶으셨던 것이 아니었을까요? 느헤미야로 다시 돌아와서 12절을 보시기 바랍니다.

모든 백성이 곧 가서 먹고 마시며 나누어 주고 크게 즐거워하니 이는 그들이 그 읽어 들려 준 말을 밝히 앎이라

백성들은 여기서 일단 해산하지만, 12절의 결론 구절은「그 읽어 들려 준 말을 밝히 앎이라(빈)」는 말로 결론을 맺습니다. 하나님의 씨앗이 마음에 뿌려진 자들은 말씀을 듣고 바로 깨닫지 못하더라도, 삶의 우여곡절을 통해 반드시 말씀을 깨달을 수 있도록 인도받습니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 하나님의 씨앗이 마음에 뿌려진 자들은 세상이 주는 것으로는 결코 마음이 채워지지 않습니다. 아무리 재산을 쌓을 수 있는 능력을 얻어도, 아무리 건강과 아름다운 외모가 주어져도, 아무리 사람들로부터 명성과 사회적 지위을 얻어도 결코 마음이 채워지지 않습니다. 그러나 하나님의 말씀을 깨달을 때 하나님으로 인하여 기뻐하는 삶으로 변화되고, 새로운 힘을 얻고, 주님을 향한 헌신의 마음으로 인도받게 됩니다. 우리에게 말씀에 대한 굶주림과 목마름을 주시도록 기도합시다. 그리고 어떤 상황 속에서도 주님을 앙망하며, 하나님의 말씀을 사모하는 자로 살아가게 해 달라고 기도합시다. 또한 동시에 레위인과 같이 말씀을 모든 사람에게 설명하는 증인으로서의 섬김을 교회 안에서 감당할 수 있도록 기도하는 우리 모두가 되도록 합시다.

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