2025年02月09日「主が家を建てるのでなければ 여호와께서 집을 세우지 아니하시면」

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主が家を建てるのでなければ 여호와께서 집을 세우지 아니하시면

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 3章33節~4章17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:33サンバラトは、わたしたちが城壁を建てていると聞いて怒り、激しく憤慨した。ユダの人々を嘲笑い、
3:34彼は仲間とサマリアの兵士を前にして言った。「この哀れなユダの者どもに、何ができるか。修復していけにえをささげるつもりなのか。一日で仕上げようとでもいうのか。灰の山から焼け石を拾い出して、生かして使おうとでもいうのか。」
3:35アンモン人のトビヤはそばから言った。「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」
3:36わたしたちの神よ、お聞きください。このように辱めを受けているのです。彼らの投げつける侮辱が彼ら自身の頭上に降りかかり、捕らわれの身となって異国で辱めを受けるようにしてください。
3:37その悪を赦さず、その罪を御前から消し去らないでください。彼らは再建に励む者を嘲っています。
3:38わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。
4:1サンバラトとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドドの市民は、エルサレムの城壁の再建が進み、破損の修復が始まったと聞いて、大いに怒った。
4:2彼らは皆で共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした。
4:3わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。
4:4しかし、ユダもこう言うのだった。「もっこを担ぐ力は弱り/土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など/わたしたちにはできません。」
4:5わたしたちの敵はこう言っていた。「気づかれず、見つからないように侵入し、彼らを打ち殺して、工事をやめさせよう。」
4:6彼らの近くに住むユダの人々がやって来て、十度もわたしたちに、「あなたたちが戻ると、あらゆるところからわたしたちは攻められます」と言った。
4:7そこでわたしは城壁外の低い所、むき出しになった所に、各家族の戦闘員を、剣と槍と弓を持たせて配置した。
4:8わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」
4:9わたしたちが気づき、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、わたしたちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた。
4:10その日からわたしの部下たちは、半分が作業に従事し、他の半分が槍と盾、弓と鎧を身に着け、将校たちがユダの家全体の背後に控えた。
4:11城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。
4:12建築作業をする者は、各自腰に剣を帯びて作業した。わたしはそばに角笛を吹く者をつけた。
4:13わたしは貴族と役人と他の戦闘員に言った。「仕事が多く、範囲は広い。わたしたちは互いに遠く離れて城壁の上に散らばっている。
4:14角笛の音を聞いたら、わたしたちのもとに集まれ。わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。」
4:15夜が明けてから星が現れるころまでわたしたちは作業に就き、部下の半分は槍を手にしていた。
4:16このころわたしは戦闘員に言った。「各自、自分の部下と共にエルサレムの城壁内で夜を過ごしなさい。夜は警備に当たり、昼に仕事をしよう。」
4:17わたしも、兄弟も、部下の者も、わたしに従う警備の者も、わたしたちはだれも、服を脱がずにいて、各自投げ槍を右の手にしていた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 3章33節~4章17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

事を成すことにおいて、困難な問題なのか容易な問題なのか、そのことが重要なのではありません。神の御心なのか、そうでないのかが重要であります。どんなに容易で、魅力的に見えることでもあっても神の御心でなければするべきではなく、反対にどんなに難しく困難であっても神の御心であれば、しなければならないのです。イスラエルの民は「立ち上がって、城壁を再建しよう!」という上からの召しに応答し、活動し始めました。しかし恵みによって神の御心を果たそうとする時、そうはさせまいとする力が必ず働きます。この時も城壁の修復工事に対する激しい妨害と反対工作という仕方で、イスラエルの民に襲い掛かりました。本日もネヘミヤ記の御言葉を通して共に恵みに与りたいと願います。

【1】. 敵の心理的作戦

3:33~35節をご覧ください。(韓国語の聖書の場合は4:1~2です。)

“サンバラトは、わたしたちが城壁を建てていると聞いて怒り、激しく憤慨した。ユダの人々を嘲笑い、彼は仲間とサマリアの兵士を前にして言った。「この哀れなユダの者どもに、何ができるか。修復していけにえをささげるつもりなのか。一日で仕上げようとでもいうのか。灰の山から焼け石を拾い出して、生かして使おうとでもいうのか。」アンモン人のトビヤはそばから言った。「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」”

ここではサンバラトとトビヤが出てきます。サンバラトは、後にサマリアの総督になる人物です。トビヤは、アンモン人に強い政治的影響力を持っていました。彼らはユダの人々が城壁を再建し始めたということを知りどのような反応をしたでしょうか。「憤慨した」とあります。なぜ憤慨したのか、その理由については書かれていませんが、とにかくユダの人々に工事を断念するよう、心理的作戦に出ました。次のような嘲りの言葉を拡散させています。

「この哀れなユダの者どもに、何ができるか。」とは、弱いユダヤ人に一体どんな仕事が出来るのか?という意味です。「修復していけにえをささげるつもりなのか。」とは、お前たちの献げる祭事に一体何の意味があるのか?という意味です。この言葉には、イスラエルの神に対する嘲笑も含まれています。「一日で仕上げようとでもいうのか。灰の山から焼け石を拾い出して、生かして使おうとでもいうのか。」これは、普通、焼けた石は石灰質になっているために、粉々になりやすく使い物になりません。その焼けた石によって、やっつけ仕事をしたところで何の意味もなさないだろうという意味です。後で分かりますが、石は実際には焼けておらず、まだ十分に使用できるものでありました。サンバラトの言葉にアンモン人のトビヤが便乗してさらに次のように言いました。「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」トビヤのエッジの効いた冗談によって人々は大喜びし、ユダの人々の愚かな姿をせせら笑ったに違いありません。このようにしてユダの人々の士気をひどく低下させているのです。城壁の再建は確かに神の御心でありました。しかし、神の御心が前進しようとする時、神の経綸が美しく成就していこうとする、その最中において、自分たちの残り時間がもういくらもないことを知っている悪魔の勢力が、敏感に反応し、様々な攻撃を仕掛けてくるのであります。ネヘミヤは、このような侮辱に対し、言葉でやり返すことはせず、その代わり神様に持っていき、祈りによって立ち向かいました。これこそ、リーダーに相応しい姿であります。3:36~37(4:4~5)節をご覧ください。

“わたしたちの神よ、お聞きください。このように辱めを受けているのです。彼らの投げつける侮辱が彼ら自身の頭上に降りかかり、捕らわれの身となって異国で辱めを受けるようにしてください。その悪を赦さず、その罪を御前から消し去らないでください。彼らは再建に励む者を嘲っています。”

ネヘミヤの祈りを通して、はっきり分かることは、戦いに勝利するために自分たちに求められているものは、武器の強さや、兵士や作業員の数の優位性ではなく、神様のご臨在と、神様が悪に打ち勝ってくださるという揺るぎない信頼であるということです。主ご自身がこの問題に対し、判断と決着をつけてくださいと祈っているのです。私たちも問題に直面した時、まず神様に祈り、神様の導きとご支配を仰いで、ネヘミヤの姿勢から私たちも習いたいと思わされます。

【2】. 恐れに関する戦い

ネヘミヤのリーダーシップによって、城壁は半分の高さまで再建されました。すると、サンバラトとトビヤと、それにアラブ人、アンモン人、アシュドドの市民は、そのことを聞いて、大いに怒って共謀し、威嚇をさらに強めました。ここでは、それぞれの民族の地理的状況に注目していただければと思いますが、サンバラトの所属するサマリア地方は、エルサレムの北側であると言えるでしょう。トビヤとアンモン人は、エルサレムの東側、アラブ人はエルサレムの南側、アシュドドはエルサレムの西側の地中海沿岸です。つまりエルサレムを囲むようにして周辺の居住民が共謀し、イスラエルに対して嫌がらせをしようとしているのです。まさに四面楚歌の状況に陥ってしまいました。加えて、ユダの人々の中からも弱音を吐く人々が出てきました。「城壁の再建などわたしたちにはできません」「敵は、『気づかれず、みつからないように侵入し、彼らを打ち殺して、工事を止めさせよう』と言っているのを聞きました」などです。人々の信仰が揺さぶられている状況を見て取れます。ところがネヘミヤは、信仰に堅く立ち続けるよう、人々に呼びかけました。4:7~8(13~14)をご覧ください。

“そこで私は城壁の後ろ、低い所の空き地に、民を氏族ごとに、剣と槍と弓を持たせて配置した。わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」”

8節に「戦闘員」という言葉が出てきますが、この時イスラエルに常備軍があった訳ではありません。従いまして新しく出た聖書協会共同訳や、英語の聖書、韓国語の聖書では「人々」、或いは「民」と訳しています。ここでネヘミヤは、本当に恐れなければならない対象は、妨害してくる敵たちではなく、神である!神を恐れよと民に語りかけているのです。これは真理を言い得ているのではないでしょうか。そもそも私たちの信仰の戦いとは、「恐れ」に関する戦いであると要約することができるのかもしれません。私たちは日常生活で、私たちは何を恐れているでしょうか。この世を恐れているのか、或いは主なる神を恐れているのか、その選択を日々迫られているのだと思います。武装のレベルや、兵士や作業員の数の優位性が重要なのではありません。神の臨在、神への信頼こそ重要なのであります。私たちは神を恐れ、神に仕え、神の御言葉に従って、堅く立ち続けるように呼びかけられているのです。そして、ネヘミヤは、「兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え」と叱咤激励しました。幸いにも城壁再建工事の割り振りが、種族ごとに、家庭ごとに、割り振られていたために、この言葉はよく響いたことでしょう。信仰の戦いを、イスラエル共同体のために戦えと言っているのではなく、もっと身近な家庭的な問題として捉えているのです。家庭において祈りの破れ口を作ってはならない。それぞれ祈りの持ち場を守りなさいということです。教会の最も原始的で、究極的な核は家庭です。家庭こそ最も重要な教会の核であるということが示されているのだと思います。するとその時、神様の決定的な介入が行われました。4:9(15)ですが、新共同訳では意味があいまいですので、聖書協会共同訳でお読みします。

“敵は自分たちの企てが見破られ、神によって挫かれたことを理解した。こうして、私たちは皆、城壁へと、それぞれ自分の作業へと戻った。”

神の決定的な介入とは、闇に包まれたその悪しきはかりごとに対し、真理の光が当てられ、その悪しき企てが見破られたということをはっきり悟らせるということです。神がどのようにして彼ら自身の敗北を理解させたのか、具体的には書かれていませんが、とにかくこの時を境にし、立ちはだかっていた敵の妨げが徐々にフェードアウトしていくことが分かります。神の介入によってユダの民は、手に剣や槍を持ちながらでありますが、自分の作業へと戻ることが出来ました。ここには大変重要な意味が含まれていると思います。この世には不信者による悪しきはかりごとや、策略に満ちています。昨今のニュース番組や、インターネットの飛び交う情報を見るならば、そのことは一目瞭然です。しかし、万物を支配しておられる神の摂理の中で、神の経綸は日々前進いたします。たとえ新たなはかりごとや新たな策略が生まれたとしても、十字架の贖いによって、全能なる神はそれらを打ち砕き、死と罪の力に敗北を悟らせるのです。神は完全なお方として威厳を持たれ、最も高いところにおられ、まどろむことも、休むこともなく、御自身の贖われた民を通して、御自身の働きを成就して行かれるのです。その経綸は、もちろん私たちには隠されていますが、歴史の中で、時間と共に一つひとつ明らかにされていきます。この神の経綸に誰も逆らう事はできず、言ってみれば悪人たちの策略、はかりごととは、それが暴かれるために、それが崩されるために存在するのです。詩編33:10をご覧ください。

“主は国々の計らいを砕き/諸国の民の企てを挫かれる。”

続いて箴言21:30をご覧ください。

“どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。”

邪悪な時代の悪の激しい働きの中で、神に贖われた教会こそ神の経綸を明らかにし、福音を美しく輝かせ、神の栄光を現していくことができるのです。教会はそのことを覚え、それぞれの持ち場において、神を恐れ、神に信頼し、祈りをもって神様に仕えていくべきであります。続いて、10~14(16~20)節をご覧ください。

“その日からわたしの部下たちは、半分が作業に従事し、他の半分が槍と盾、弓と鎧を身に着け、将校たちがユダの家全体の背後に控えた。城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。建築作業をする者は、各自腰に剣を帯びて作業した。わたしはそばに角笛を吹く者をつけた。わたしは貴族と役人と他の戦闘員に言った。「仕事が多く、範囲は広い。わたしたちは互いに遠く離れて城壁の上に散らばっている。角笛の音を聞いたら、わたしたちのもとに集まれ。わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。」”

10節に「将校たち」という言葉が出てきますが、ここも先ほどと同じように、決して職業的な軍隊を指しているのではなく「民の中の長」というような意味です。城壁を築く者たちは、片方の手でコテをもち、もう片方の手で武器を持ちながら作業に当たったということなのでしょう。かなり制限された活動であります。また、角笛の音を聞いたら、すぐに集まることができるように戦闘の合図を決めておきました。緊張感を一時も切らすことが出来ない困難極まりない作業でありました。しかし彼らには希望がありました。なぜなら、「神は、わたしたちのために戦ってくださる」からです。この戦いが、主ヤハウェの聖なる戦いであることを知っていたからです。ネヘミヤは、詩編の次の御言葉を黙想していたのかもしれません。127編1節をご覧ください。

“【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。”

ソロモンが詩編の中で語っているように、どんなに容易で、魅力的に見えることでも、神の御心でなければそれはむなしいことであり、どんなに難しく困難であっても神の御心であれば、それは必ず成就されます。敵ではなく、この世でもなく、主を恐れ、正しく信仰を持つならば、「主ご自身が戦ってくださる」聖なる戦いに、自分たちが参与させくださるだけであるこということをネヘミヤは知っていました。そのネヘミヤの信仰が民全体に浸透していったのです。このようにして彼らは集中力を切らすことなく、わずか52日間を通して城壁の修復という、誰もが想像できなかった困難な事業を、神の恵みの中で成し遂げることが出来たのでありました。

【結論】

本日の内容をまとめます。第一にユダの民にとって城壁の再建とは、礼拝の回復であり、神の体である教会の回復でありました。城壁の破れ口において、種族ごとに、家族ごとに、信仰によって修復する姿とは、私たちの家庭における祈りの生活と礼拝の回復を意味しているかのようです。教会の核とは、夫婦の交わりであり、各家庭での交わりであるということを今日は覚えたいと思います。第二に、本日の箇所を通して、「あなたは何を恐れるのか」というネヘミヤの語りかけが、今日の私たちにも同じように語りかけられているということです。私たちはこの世の妨害、この世の嘲りの言葉、この世の権勢を恐れるのではなく、主なる神を恐れるべきです。全能なる神は国々の計らいを砕き、死と罪の力に敗北を悟らせ、必ずやご自身の経綸を成し遂げてくださいます。教会は、主に贖われた民として、主の聖なる戦いに信仰によって参与するよう召されているのです。それぞれの持ち場での祈りを通して、それぞれの持ち場での奉仕を通して、主の聖なる戦いに参与する私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

여호와께서 집을 세우지 아니하시면

2025년 2월9일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 4장 1~23절

서론

일을 이루는데 있어서 어려운 문제인지 쉬운 문제인지가 중요한 것이 아닙니다. 하나님의 뜻인지 아닌지가 중요합니다. 아무리 쉽고 매력적으로 보이는 일이라도 하나님의 뜻이 아니면 하지 말아야 하고, 반대로 아무리 어렵고 힘들어도 하나님의 뜻이라면 해야 하는 것입니다. 이스라엘 백성들은「일어나 성벽을 건축하자!」라는 위로부터의 부르심에 응답해서 활동하기 시작했습니다. 그러나 은혜 가운데 하나님의 뜻을 이루려고 할 때, 그렇게 하지 못하게 하는 힘이 반드시 작용합니다. 이번에도 성벽 재건 공사에 대한 극심한 방해와 반대 공작이라는 방식으로 이스라엘 백성들을 괴롭혔습니다. 오늘도 느헤미야서의 말씀을 통해 함께 은혜 받기를 소망합니다.

(1) 적의 심리전

4장 1~2절을 보시겠습니다.

1산발랏이 우리가 성을 건축한다 함을 듣고 크게 분노하여 유다 사람들을 비웃으며

2 자기 형제들과 사마리아 군대 앞에서 일러 말하되 이 미약한 유다 사람들이 하는 일이 무엇인가, 스스로 견고하게 하려는가, 제사를 드리려는가, 하루에 일을 마치려는가 불탄 돌을 흙 무더기에서 다시 일으키려는가 하고

여기서 산발랏과 도비야가 등장합니다. 산발랏은 훗날 사마리아 총독이 되는 인물입니다. 도비야는 암몬 족속에게 강력한 정치적 영향력을 가지고 있었습니다. 그들은 유다 사람들이 성벽을 재건하기 시작했다는 사실을 알고 어떤 반응을 보였을까요?「분노하여」라고 기록되어 있습니다. 왜 분노했는지, 그 이유에 대해서는 기록되어 있지 않지만, 어쨌든 유다 백성들이 공사를 포기하도록 심리전을 펼쳤습니다. 다음과 같은 조롱의 말을 퍼뜨리고 있습니다.

「이 미약한 유다 사람들이 하는 일이 무엇인가」라는 것은 「이 약하디 약한 유다인들이 도대체 무슨 일을 할 수 있겠느냐?」라는 뜻입니다. 「재건헤서 제사를 드리려는가?」라는 의미입니다. 「너희들이 드리는 제사가 도대체 무슨 의미가 있느냐」는 뜻입니다. 이 말에는 이스라엘의 하나님에 대한 비웃음도 포함되어 있습니다. 「하루에 일을 마치려는가? 불탄 돌을 흙 무더기에서 다시 일으키려는가?」, 이 말은, 보통, 불에 탄 돌은 석회질로 되어 있어 부서지기 쉬워 쓸모가 없습니다. 그 불에 탄 돌로 인해 일을 해도 아무 소용이 없을 것이라는 뜻입니다. 나중에 알게 되지만, 돌은 실제로는 불에 타지 않아 아직 충분히 쓸 수 있는 상태였습니다. 산발랏의 말에 암몬인 도비야가 가세하여 「그들이 건축하는 돌 성벽은 여우가 올라가도 곧 무너지리라」라고 말했습니다.

도비야의 재치 있어 보이는 농담에 사람들은 크게 웃으며, 유다 백성들의 어리석은 모습에 코웃음을 쳤을 것입니다. 이렇게 유다 백성들의 사기를 크게 떨어뜨리고 있는 것입니다. 성벽 재건은 분명 하나님의 뜻이었습니다. 그러나 하나님의 뜻이 전진하려고 할 때, 하나님의 경륜이 아름답게 이루어지려고 할 때, 그 와중에 자신들에게 남은 시간이 얼마 남지 않았음을 알고 있는 마귀의 세력이 민감하게 반응하여 여러 가지 공격을 가하는 것입니다. 느헤미야는 이런 모욕에 대해 말로 응수하지 않고, 그대신 하나님께 가져가 기도로 맞섰습니다. 이것이 바로 리더의 모습입니다. 4:4~5절을 보시기 바랍니다.

4 우리 하나님이여 들으시옵소서 우리가 업신여김을 당하나이다 원하건대 그들이 욕하는 것을 자기들의 머리에 돌리사 노닥거리가 되어 이방에 사로잡히게 하시고

5 주 앞에서 그들의 악을 덮어 두지 마시며 그들의 죄를 도말하지 마옵소서 그들이 건축하는 자 앞에서 주를 노하시게 하였음이니이다 하고

느헤미야의 기도를 통해, 분명하게 알 수 있는 것은, 전쟁에서 승리하기 위해 우리에게 요구되는 것은 무기의 강력함이나 병사나 일꾼의 수적 우위가 아니라 하나님의 임재와 하나님이 악을 이기실 것이라는 확고한 믿음입니다. 주님께서 친히 이 문제에 대해 판단과 결판을 내시기를 기도하고 있는 것입니다. 우리도 문제에 직면했을 때 먼저 하나님께 기도하며 하나님의 인도하심과 다스림을 구하는 느헤미야의 자세를 배우고 싶다고 생각합니다.

(2) 두려움에 대한 싸움

느헤미야의 지도력에 의해, 성벽은 절반 높이까지 재건되었습니다. 그러자 산발랏과 도비야 그리고 아라비아 사람, 암몬 사람, 아스돗 사람들은 이 소식을 듣고 크게 분노하여 다 함께 공모하여 위협을 더욱 강화했습니다. 여기서 각 민족의 지리적 상황에 주목해 보고 싶다고 생각합니다만, 산발랏이 속한 사마리아 지방은 예루살렘의 북쪽이라고 할 수 있겠습니다. 도비야와 암몬 사람은 예루살렘의 동쪽, 아라비아 사람은 예루살렘의 남쪽, 아스돗은 예루살렘의 서쪽 지중해 연안입니다. 즉 예루살렘을 둘러싸고 있는 주변 거주민들이 공모하여 이스라엘을 괴롭히려고 하고 있는 것입니다. 그야말로 사면초가의 상황에 처하게 된 것입니다. 게다가 유다 백성들 사이에서도 나약한 소리를 토로하는 사람들이 나왔습니다. 「우리가 성을 건축하지 못하리라」, 「우리의 원수들은 이르기를 그들이 알지 못하고 보지 못하는 사이에 우리가 그들 가운데 달려 들어가서 살륙하여 역사를 그치게 하리라」하는 말을 들었다.. 등의 말을 했습니다. 사람들의 믿음이 흔들리고 있는 상황을 알 수 있습니다. 그러나 느헤미야는 사람들에게 믿음에 굳게 서라고 외칩니다. 4:13~14절을 보시기 바랍니다.

13 내가 성벽 뒤의 낮고 넓은 곳에 백성이 그들의 종족을 따라 칼과 창과 활을 가지고 서 있게 하고

14 내가 돌아본 후에 일어나서 귀족들과 민장들과 남은 백성에게 말하기를 너희는 그들을 두려워하지 말고 지극히 크시고 두려우신 주를 기억하고 너희 형제와 자녀와 아내와 집을 위하여 싸우라 하였느니라

8절에「백성」이라는 단어가 나옵니다만, 이 때 이스라엘에 상비군이 있었던 것은 아닙니다. 그래서 새로 나온 성서공회 공동번역이나 영어 성경, 한글 성경에서는 「백성」으로 번역하고 있습니다. 여기서 느헤미야가 “진정 두려워해야 할 대상은 방해해 오는 적들이 아니라 하나님이시다! 하나님을 두려워하라!”라고 백성들에게 말하고 있는 것입니다. 이것은 진리를 말하고 있는 것이 아닐까요? 애초에 우리의 믿음의 싸움은 「두려움」에 관한 싸움이라고 요약할 수 있을지도 모릅니다. 우리는 일상에서 무엇을 두려워하고 있을까요? 세상을 두려워할 것인가, 아니면 주 하나님을 두려워할 것인가, 그 선택을 매일매일 강요당하고 있는 것 같습니다. 무장 수준이나 병사나 작업자 수의 우위가 중요한 것이 아닙니다. 하나님의 임재, 하나님에 대한 신뢰가 중요한 것입니다. 우리는 하나님을 두려워하고, 하나님을 섬기며, 하나님의 말씀을 따라 굳건히 서 있으라는 부름을 받고 있는 것입니다. 그리고 느헤미야는 「너희 형제와 자녀와 아내와 집을 위하여 싸우라」라고 질타 격려를 했습니다. 다행히도 성벽 재건 공사의 배분이 종족별로, 가정별로 배분되어 있었기에 이 말이 잘 받아 들여졌을 것입니다. 믿음의 싸움을 이스라엘 공동제를 위해 싸우라는 것이 아니라, 좀 더 친숙한 가정적인 문제로 바라보고 있는 것입니다. 가정에서 기도의 빈틈을 만들어서는 안 된다, 각자 기도의 자리를 지키라는 것입니다. 교회의 가장 원초적이고 궁극적인 핵심은 가정입니다. 가정이야말로 가장 중요한 교회의 핵심이라는 것을 보여주는 것이라고 생각합니다. 그러자 그때 하나님의 결정적인 개입이 이루어졌습니다. 4:15을 읽겠습니다.

15 우리의 대적이 우리가 그들의 의도를 눈치챘다 함을 들으니라 하나님이 그들의 꾀를 페하셨으므로 우리가 다 성에 돌아와서 각각 일하였는데

하나님의 결정적인 개입이란, 어둠에 싸여 있던 그 악한 계략에 진리의 빛이 비추어져 그 악한 계략이 발각되었음을 분명히 깨닫게 하는 것을 말합니다. 하나님께서 어떻게 그들 스스로의 패배를 깨닫게 하셨는지는 구체적으로 기록되어 있지 않지만, 어쨌든 이 시점을 기점으로 가로막고 있던 적의 방해가 서서히 사라지는 것을 알 수 있습니다. 하나님의 개입으로 유다 백성들은 칼과 창을 손에 쥐고 있지만, 자신의 일로 돌아갈 수 있게 되었습니다. 여기에는 매우 중요한 의미가 담겨 있다고 생각합니다. 이 세상은 불신자들의 악한 계략으로 가득 차 있습니다. 요즘 뉴스 프로그램이나 인터넷에 떠도는 정보를 보면 그 사실을 쉽게 알 수 있습니다. 그러나 만물을 주관하시는 하나님의 섭리 가운데 하나님의 경륜은 날마다 전진합니다. 설령 새로운 계략이 생겨난다 할지라도, 전능하신 하나님은 십자가의 구속으로 그것들을 폐하시고 죽음과 죄의 세력을 멸하십니다. 하나님은 완전한 분으로서의 위엄을 가지시고, 가장 높은 곳에 계시며, 졸지도 쉬지도 않으시고, 자신이 구속한 백성을 통해 자신의 역사를 성취해 가시는 것입니다. 그 경륜은 물론 우리에게는 숨겨져 있지만, 역사 속에서 시간이 지나면서 하나하나 드러나게 될 것입니다. 이 하나님의 경륜은 아무도 거역할 수 없으며, 말하자면 악인들의 책략, 계략은 그것이 폭로되기 위해, 그것이 무너지게 위해 존재하는 것입니다. 시편 33:10절을 보시기 바랍니다.

여호와께서 나라들의 계획을 폐하시며 민족들의 사상을 무효하게 하시도다

계속해서 잠언 21:30절을 보시겠습니다.

지혜로도 못하고, 명철로도 못하고 모략으로도 여호와를 당하지 못하느니라

악한 시대의 악의 극심한 역사 속에서 하나님의 구속을 받은 교회만이 하나님의 경륜을 드러내고, 복음을 아름답게 빛내며 하나님의 영광을 드러낼 수 있습니다. 교회는 이를 기억하고 각자의 자리에서 하나님을 경외하고, 하나님을 신뢰하며, 기도로 하나님을 섬겨야 합니다. 이어서 느헤미야 4:16~20절을 보시겠습니다.

16 그 때로부터 내 수하 사람들의 절반은 일하고 절반은 갑옷을 입고 창과 방패와 활을 가졌고 민장은 유다 온 족속의 뒤이 있었으며

17 성을 건축하는 자와 짐을 나르는 자는 다 각각 한 손으로 일을 하며 한 손에는 병기를 잡았는데

18 건축하는 자는 각각 허리에 칼을 차고 건축하며 나팔 부는 자는 내 곁에 섰었느니라

19 내가 귀족들과 민장들과 남은 백성에게 이르기를 이 공사는 크고 넓으므로 우리가 성에서 떨어져 거리가 먼즉

20 너희는 어디서든지 나팔 소리를 듣거든 그리로 모여서 우리에게로 나아오라 우리 하나님이 우리를 위하여 싸우시리라 하였느니라

16절에「민장」이라는 단어가 나오는데, 여기에서도 아까처럼 결코 직업적 군대를 지칭하는 것이 아니라 「백성 가운데 장정들」이라는 의미입니다. 성벽을 쌓는 자들은 한 손에는 미장칼을, 다른 한 손에는 병기를 들고 작업에 임했다는 뜻일 것입니다. 상당히 제한적인 활동이었을 것입니다. 또한 나팔 소리가 들리면 즉시 모일 수 있도록 전투 신호를 정해 놓았습니다. 한시도 긴장의 끈을 놓을 수 없는 참으로 힘든 작업이었습니다. 하지만 그들에게 희망이 있었습니다. 왜냐하면 「하나님이 우리를 위하여 싸워주실 것」이기 때문입니다. 이 싸움이 여호와 하나님의 거룩한 싸움임을 알았기 때문입니다. 느헤미야는 시편의 다음 말씀을 묵상하고 있었는지도 모릅니다. 시편 127:1절을 보시기 바랍니다.

여호와께서 집을 세우지 아니하시면 세우는 자의 수고가 헛되며 여호와께서 성을 지키지 아니하시면 파수꾼의 깨어 있음이 헛되도다

솔로몬이 시편에서 말했듯이 아무리 쉽고 매력적으로 보이는 일이라도 하나님의 뜻이 아니면 헛된 일이고, 아무리 어렵고 힘들어도 하나님의 뜻이라면 반드시 이루어집니다. 원수도, 세상도 아닌 여호와를 경외하고 올바른 믿음을 가지면 「하나님이 우리를 위하여 싸우시는 거룩한 전쟁」에 자신들이 참여하는 것 뿐이라는 것을 느헤미야는 알고 있었습니다. 그 느헤미야의 믿음이 백성 전체에 퍼져나갔습니다. 이렇게 그들은 집중력을 잃지 않고 단 52일 동안 성벽 재건이라는 누구도 예상치 못했던 어려운 사업을 하나님의 은혜 가운데 이룰 수 있었던 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리해 보겠습니다. 첫째, 유다 백성에게 성벽 재건은 예배의 회복이며, 하나님의 몸인 교회의 회복이었습니다. 성벽의 틈새에서 종족별로, 가족별로, 믿음오로 회복하는 모습은 마치 우리 가정의 기도 생활과 예배의 회복을 의미하는 것 같습니다. 교회의 핵심은 부부의 교제이며, 각 가정에서의 교제라는 것을 오늘 기억하고 싶습니다. 둘째, 오늘 본문을 통해 「두려워하지 말고」라는 느헤미야의 말씀이 오늘 우리에게도 동일하게 말을 걸고 있다는 것입니다. 우리는 세상의 방해, 세상의 조롱의 말, 세상의 권세를 두려워할 것이 아니라 주 하나님을 두려워해야 합니다. 전능하신 하나님께서는 열방의 악한 계략을 폐하시고 죽음과 죄의 세력을 멸하시고 반드시 자신의 경륜을 이루실 것입니다. 교회는 주님께 구속받은 백성으로서 주님의 거룩한 싸움에 믿음으로 참여하도록 부름 받은 것입니다. 각자의 자리에서 기도를 통해, 각자의 자리에서 섬김을 통해 주님의 거룩한 싸움에 동참하는 우리가 되도록 합시다.

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