2025年01月26日「天にいます神の嗣業 하늘의 하나님의 기업」

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天にいます神の嗣業 하늘의 하나님의 기업

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 2章10節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:10ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のためになることをしようとする人が遣わされて来たと聞いて、非常に機嫌を損ねた。
2:11わたしはエルサレムに着き、三日間過ごしてから、
2:12夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。だが、エルサレムで何をすべきかについて、神がわたしの心に示されたことは、だれにも知らせなかった。わたしの乗ったもののほか、一頭の動物も引いて行かなかった。
2:13夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。
2:14更に泉の門から王の池へと行ったが、わたしの乗っている動物が通る所もないほどであった。
2:15夜のうちに谷に沿って上りながら城壁を調べ、再び谷の門を通って帰った。
2:16役人たちは、わたしがどこに行き、何をしたか知らなかった。それまでわたしは、ユダの人々にも、祭司にも、貴族にも、役人にも、工事に携わる他の人々にも、何も知らせてはいなかった。
2:17やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」
2:18神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。
2:19ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」
2:20そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 2章10節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ネヘミヤ記2:8において、ネヘミヤはまず、神の良い御手が彼の上に置かれていたと語り、次に王は私の願いをかなえてくれたと語っています。ネヘミヤにおいて事物の事柄の原因は、常に神様でありました。そのようなネヘミヤの見方は、私たちに大きな示唆を与えてくださいます。本日もネヘミヤ記を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 主にあって一つ

ネヘミヤはエルサレムに到着しました。その道のりは千キロを優に超えるものであったと思われます。エズラは約四か月かけてエルサレムに到着しましたが、ネヘミヤはどれくらいの日数がかかったのか、具体的には書かれていません。少なくとも三か月はかかったことでしょう。ネヘミヤのエルサレム到着に関して、敏感にそして否定的に反応したのが、ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤでありました。ホロニ人サンバラトという人物は、後にサマリア州の総督となる「サンバラト」を指しているようです。アンモン人の僕トビヤという人物は、第一次帰還民の時に、家系と血筋をはっきりと示せなかった「トビヤの一族」という文言がありますが、その第一次帰還民のトビヤ一族と関係があったのか、それとも全く関係なく、単にサンバラトの下でサマリアの役人という立場だったのか、はっきりとしたことは分かりません。ただ、トビヤ家はアンモン人の中で権力を持つようになり、強い影響力を持っていたことは確かです。その彼らがなぜ、ネヘミヤの到着について、そのように敏感に反応したのでしょうか。その理由は、後で明らかになることですが、サンバラトとトビヤは、イスラエルのリーダーたちと密接な関係を持っており、彼らの目にネヘミヤの帰還は、これまで築いてきた彼らの既得権益を脅かすものとして映ったからであります。13:28をご覧ください。

“大祭司エルヤシブの孫でヨヤダの子の一人が、ホロニ人サンバラトの娘婿となっていた。わたしは、彼を遠く追放した。”

ここには、大祭司の子孫が、サンバラトの娘婿になっていたとあります。イスラエルの宗教指導者がサマリア州の有力者と政略結婚をして、互いに自分たちの権力地盤を固めようとしていることが透けて見えてきます。また、6:17~18をご覧ください。

“そのころ、ユダの貴族は頻繁にトビヤに手紙を送り、トビヤの手紙も彼らに届いていた。ユダの多くの人は彼と互いに誓約を交わす関係にあったからで、トビヤはアラの子シェカンヤの娘婿であり、トビヤの子ヨハナンはベレクヤの子メシュラムの娘をめとっていた。”

ここには、トビヤがイスラエルの中枢の人々と緊密な関係を持っていたとあります。これらの事から分かることは、第一に、サンバラトとトビヤを通して、イスラエルの中に世俗化がもたらされているということであり、第二に、敵と通じる内通者がイスラエルのリーダーたちの中にいたという事実であります。エズラ記の最後で、私たちはエズラが民を悔い改めに導き、混宗婚を解消させて、イスラエルの世俗化を阻止したことを学びましたが、あれから13年が経過し、依然としてイスラエルのリーダーたちを通して腐敗が内側から浸透していたということです。ネヘミヤはそのようなエルサレムの状況を薄々気づいていたのか、エルサレムに到着してから、三日を過ごした後、わずか数名の者だけを伴って夜、密かに行動を起こしました。この時、ネヘミヤは、「エルサレムで何をすべきかについて、誰にも知らせなかった」と供述しています。それほど用心していたという事でしょう。13~15節をご覧ください。

“夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。更に泉の門から王の池へと行ったが、わたしの乗っている動物が通る所もないほどであった。夜のうちに谷に沿って上りながら城壁を調べ、再び谷の門を通って帰った。”

ネヘミヤはお忍びで視察をしました。その時にたどったルートの詳細ははっきりされていませんが、参考となる資料を印刷させていただきました。そちらをご覧ください。右側がイエス様の時代のヘロデによって改修工事がなされたエルサレムです。左側がネヘミヤ当時のエルサレムです。神学者たちの間で一致していることは、当時の都の城壁は、ヘロデが改修した都の城壁よりも狭いものであり、ヘロデの宮殿が建てられている西側の丘(即ち、上の町、第二区)は、城壁の中に含まれていなかったという事であります。もう一つは、「糞の門」とは、都の南端にある門であるということ。恐らくその門から都のゴミ捨て場であるヒノムの谷に続いていたのだろうということです。従いまして、スタート地点の「谷の門」の場所や、中継地点の「泉の門」の場所などはあくまで推測の域を出ません。

さて、ネヘミヤは今、実際にエルサレムが荒れ果て、その門が焼かれたままになっている状況を目にしました。大変大きな衝撃を受けたことでしょう。しかし何にも増してネヘミヤの目に重大なこととして映っていたのは、神の栄光が恥を受けているという事でありました。偵察を終えたネヘミヤは同僚のユダヤ人にそのことについて分かち合いました。17節をご覧ください。

“やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」”

ユダヤ人にとって「恥」という言葉は、重い言葉でありました。「恥」は捕囚と関連する言葉であり、「恥の中にある」とは、神の刑罰が下されている状態、即ち暗闇に束縛されている状態を意味しました。しかしそのような中にあって、ネヘミヤは民に次のように説得します。18節を新しく出ました聖書協会共同訳でお読みします。抜粋のプリントをご覧ください。

“私が彼らに、神の恵み深い手が私の上にあるということ、そしてまた王が私に語った言葉を告げると、彼らは、「立ち上がって、再建しよう」と言って、この良い企てに奮い立った。”

ネヘミヤの説得とは、まず第一に、神の恵み深い手がネヘミヤ自身の上にあるということです。「恵み深い手」という言葉は、前回も触れましたが、ヘブライ語を見ますとトーブという言葉が使用されていて、直訳すると「神の良き手」が私の上に置かれているとなります。第二に、王が語った言葉を告げるということです。王が語った言葉とは、ネヘミヤに許された都の再建許可のことです。ここで、ネヘミヤは2:8の自分自身の理解を、民にそのまま伝えているということがわかります。つまり、まず、神の良い御手がネヘミヤの上に置かれていたということを語り、次にアルタクセルクセス王は自分の願いをかなえてくれたということです。良い神様のお働きが、王を通して現れた!我々は贖い出されたのであり、もう、暗闇に束縛されてはいない!と語っているのです。それは聞いたイスラエルの民は、都の再建は神様の御心に違いないことを確信し、奮い立ちました。イスラエルの民の中には老若男女、様々な人がいたことでしょう。しかも、後で知ることになりますが、リーダーたちが貧しい人々に利子をつけてお金を貸したりしていて、共同体の中に貧富の格差が広がっていました。共同体の中で、様々な点において不一致や反目が生じていたと思います。しかし、どのような立場に置かれていても、どのような思想を持っていたとしても、神の民は主にあって一つになることができるのです。それは、イスラエルが神の御言葉に支配されているからです。今日の社会においても、行き過ぎた格差社会は思想の分断を生み出しています。それにも拘わらず教会は主にあって一つになることが出来るのです。それは、教会の頭がイエス様である、教会はイエス様にあって、一つの共同体であり、一つの有機体であるからです。

【2】. 天の嗣業

このように民が一つになると、敵は黙ってはいません。19~20節をご覧ください。

“ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」”

サンバラトとトビヤの二人にアラブ人のゲシェムまで加わって、イスラエルの民を嘲笑い、さげすんで言いました。「お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。」このように、神様の働きに対しそれに対抗する勢力が必ず出てくるということを私たちは覚えたいと思います。恵みを受けた神の子らが、神の御心を行おうとする時に、そのことに我慢ならない勢力がいるという事です。かわいそうな人たちでもあります。なぜそのようなことが起こるのかと言うと、キリストは全ての人の頭ではなく、全ての人の預言者、祭司、王ではないからです。キリストは教会の頭であり、この世の王ではなく、シオンの王として油注がれたからです。この嘲りの言葉に対し、ネヘミヤは何と答えたでしょうか。

“天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。”

ここで、ネヘミヤは天の神様の御名を語っていることに注目してください。ここは、常識的に考えれば不思議に感じる箇所でもあります。なぜかと言いますと、「お前ら、何だ、何をするつもりか。王様に反逆しようとしているのか?」このように挑発して言っている訳ですね。普通に考えたら、そのような挑発に対し「何を言っとるか。」と言って、アルタクセルクセス王から頂いた通行許可証や、木材使用許可に関する書状を見せれば済む訳です。「我々は王に反逆などしていない。王から直々に許可を頂いているのだ」と言えば早く収拾しそうですが、しかしネヘミヤはあえて、そのようにはしませんでした。王の権威を前面に出すことをせず、その代わりに「天にいます神御自ら、この工事を成功してくださる。」と言って、王の権威より、さらに強い主なる神の権威を前面に出しているのです。それは万物を創造され、全ての統治と栄光と裁きの権威を持っておられる主なる神の権威であります。我々の働きは、主が導いているのであって、主にその責任の所在があるということを明らかにしているのです。ネヘミヤはさらに続けます。

“あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。”

旧約時代において「エルサレム」とは、即ち神がその名を置かれる場所であり、神ご自身が住まわれる場所でありました。それは神の国が完成された時の天の都を予表しています。「領分」という言葉は、嗣業という意味です。聖書の他の箇所では「取り分」と訳されています。ネヘミヤがここで言っている、「取り分」、「権利」、「記録」というのはアルタクセルクセス王から与えられる目に見えるものではなく、恐らく神様から与えられる目に見えない霊的な「取り分」であったり、霊的な「権利」であったり、霊的な「記録」を指していると考えられます。ですからエルサレムの嗣業の地を得るイスラエルの民というのは、霊的に解釈するなら、天の嗣業を持つ神の民、教会を意味しているのです。我々はこの天の嗣業が約束されているので、天に市民権を持ち、命の書にその名前が記録されているので、たとえまだそれが目に見えなくても、私たちはそのことを信じ信仰によって歩んでいる!しかしあなた方には天の嗣業も、天の市民権も、命の書の記録もない!とネヘミヤは断言しているのです。コロサイ書に、ネヘミヤがこの時に語ったのと同じような御言葉がありますので調べてみましょう。コロサイ1:12~13です。

“光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。”

神様は私たち教会を恥と捕囚から贖い出し、天の相続分に与れるようにしてくださり、御子の支配下に移してくださいました。ネヘミヤの主張と同じことが、コロサイ人の手紙においても主張されていることが分かります。このネヘミヤの霊的な見方を、今日、私たちの信仰生活の営みにおいても適用できるのではないでしょうか。私たちは、たとえまだそれが目に見えなくても、既に天の嗣業に与っており、天の市民権を持ち、命の書にその名が記録されているのです。そのことを信じ、この世においても主にお仕えし、主の御旨のために歩むべきなのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。第一にネヘミヤの行動の核心は、自分の望みがこのようなものだから、自分の将来ビジョンがこうだからといったものではありませんでした。神がエルサレムの都を再建しようとしていること、神が赦しと解放を与え、恥の中にいる人々を贖い出そうとされていること、このことであります。責任の所在を神様に置きながら、自分たちの働きは、神様が導いておられることを確信していました。このようなネヘミヤの確信は、ネヘミヤの物の見方は、私たちにおいても大変重要だと思います。私たちの伝道の働き、いつくしみの会の奉仕の働き、会堂維持管理委員会による礼拝堂のリフォームなど、それらは私たち自らの考えではなく、神様の働きであります。そのことを意識しながら、一つ一つの奉仕に取り組んでいきたいと思います。第二に、ネヘミヤは目に見えない天の嗣業を意識していました。私たちの信仰生活は目には見えませんが、御言葉の約束を信じて歩んでいく営みであります。天の嗣業、天の市民権、命の書にある記録、これらの約束を一時も忘れずに、日々の信仰生活を歩む私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하늘의 하나님의 기업

2025년 1월 22일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 2장 10~20절

서론

느헤미야2:8에서 느헤미야는 먼저 하나님의 선한 손이 자기 위에 임하셨다고 말하고, 그 다음으로 왕이 나의 소원을 들어주었다고 말하고 있습니다. 느헤미야에서 모든 일의 원인은 항상 하나님이었습니다. 그러한 느헤미야의 관점은 우리에게 큰 시사점을 줍니다. 오늘도 느헤미야서를 통해말씀의 은혜를 함께 누리는 시간이 되기를 소망합니다.

(1) 주 안에서 하나

느헤미야는 예루살렘에 도착했습니다. 그 길은 1,000km를 훌쩍 넘었을 것으로 추정됩니다. 에스라는 약 4개월에 걸쳐 예루살렘에 도착했지만, 느헤미야는 얼마나 걸렸는지는 구체적으로 기록되어 있지 않습니다. 적어도 3개월은 걸렸을 겁니다. 느헤미야의 예루살렘 도착에 관해 예민하게 그리고 부정적으로 반응한 사람은 호론 사람 산발랏과 암몬 사람 종 도비야였습니다. 호론 사람 산발랏이라는 인물은 나중에 사마리아 지방의 총독이 되는 「산발랏」을 가리키는 것 같습니다. 암몬 사람 도비야라는 인물은 제1차 귀환민 당시 가문과 혈통을 명확하게 드러내지 못한「도비야의 일족」이라는 문구가 있습니다만, 그 제1차 귀환민 도비야 일족과 관계가 있었는지, 아니면 전혀 관계없이 단순히 산발랏 밑에서 사마리아의 관원이라는 직책에 있었는지 분명한 것은 알 수 없습니다. 다만 도비야 가문은 암몬 사람들 안에서 권력을 갖게 되었고, 강력한 영향력을 가지고 있었던 것은 확실합니다. 그들이 왜 느헤미야의 도착에 대해 그렇게 민감하게 반응했을까요? 그 이유는 나중에 밝혀지겠지만 산발랏과 도비야는 이스라엘 지도자들과 밀접한 관계를 맺고 있었고, 그들의 눈에 느헤미야의 귀환은 그동안 쌓아온 자신들의 기득권을 위협하는 것으로 보였기 때문입니다. 13:28을 보시기 바랍니다.

28 대제사장 엘리아십의 손자 요야다의 아들 하나가 호론 사람 산발랏의 사위가 되었으므로 내가 쫓아내어 나를 떠나게 하였느니라

여기에는 대제사장의 후손이 산발랏의 사위가 되었다고 합니다. 이스라엘의 종교 지도자들이 사마리아 지방의 유력 인사들과 정략결혼을 해서 서로 자신들의 권력기반을 다지려는 모습을 엿볼 수 있습니다. 또, 6:17~18을 보시기 바랍니다.

17 또한 그 때에 유다의 귀족들이 여러 번 도비야에게 편지하였고 도비야의 편지도 그들에게 이르렀으니

18 도비야는 아라의 아들 스가냐의 사위가 되었고 도비야의 아들 여호하난도 베레갸의 아들 므슬람의 딸을 아내로 맞이하였으므로 유다에서 그와 동맹한 자가 많음이라

여기에는 도비야가 이스라엘 중추 사람들과 긴밀한 관계를 가지고 있었다고 합니다. 이를 통해 알 수 있는 것은 첫째, 산발랏과 도비야를 통해 이스라엘 안에 세속화가 이루어지고 있다는 것이고, 둘째, 적과 통하는 내통자가 이스라엘의 지도자들 가운데 있었다는 사실입니다. 에스라기 마지막에서 우리는 에스라가 백성을 회개로 이끌고 혼종혼을 해소시켜 이스라엘의 세속화를 막았음을 배웠는데, 그로부터 13년이 지났지만 여전히 이스라엘 지도자들을 통해 부패가 안에서부터 침투하고 있다는 것입니다. 느헤미야는 그런 예루살렘의 상황을 어렴풋이 눈치채고 있었는지 예루살렘에 도착한 후 사흘을 보낸 뒤 겨우 몇 사람만 데리고 밤에 몰래 행동을 취했습니다. 이때 느헤미야는 「예루살렘을 위해 무엇을 할 것인지 내 마음에 주신 것을 내가 아무에게도 말하지 아니하고」라고 진술했습니다. 그만큼 조심하고 있었다는 것입니다. 2:13~15절을 보시기 바랍니다.

13 그 밤에 골짜기 문으로 나가서 용정으로 분문에 이르는 동안에 보니 예루살렘 성벽이 다 무너졌고 성문은 불탔더라

14 앞으로 나아가 샘문과 왕의 못에 이르러서는 탄 짐승이 지나갈 곳이 없는지라

15 그 밤에 시내를 따라 올라가서 성벽을 살펴본 후에 돌아서 골짜기 문으로 들어와 돌아왔으나

느헤미야는 몰래 시찰을 했습니다. 그 때에 따라갔던 경로에 대한 자세한 내용은 명확하지 않지만, 참고가 되는 자료를 인쇄했습니다. 프린트를 보시겠습니다. 오른쪽의 그림이 예수님 당시 헤롯에 의해 개보수 공사가 이루어진 예루살렘입니다. 왼쪽이 느헤미야 당시의 예루살렘입니다. 신학자들 사이에 일치하는 것은 당시 도성의 성벽은 헤롯이 개축한 성벽보다 더 좁은 성벽이었고, 헤롯의 궁전이 세워진 서쪽 언덕(즉 위쪽마을, 제2구역)은 성벽 안에 포함되어 있지 않았다는 것입니다. 또 하나는 「분문」은 도성의 남쪽 끝에 있는 문이라는 것, 아마도 그 문에서 도성의 쓰레기 처리장인 힌놈 계곡으로 이어져 있었을 것입니다. 따라서, 출발점의 「골짜기 문」의 위치나, 중계 지점의 「샘문」의 위치 등은 어디까지 추측의 영역을 벗어나지 않습니다.

그런데 이제 느헤미야는 실제로 예루살렘이 황폐화되고 그 성문이 불탄 채로 남아 있는 상황을 목격했습니다. 매우 큰 충격을 받았을 것입니다. 그러나 무엇보다도 느헤미야의 눈에 심각한 일로 비쳐진 것은 하나님의 영광이 수치를 당하고 있다는 것이었습니다. 정찰을 마친 느헤미야는 동료 유대인들에게 그 일에 대해 나누었습니다. 17절을 보시겠습니다.

17 후에 그들에게 이르기를 우리가 당한 곤경은 너희도 보고 있는 바라 예루살렘이 황폐하고 성문이 불탔으니 자, 예루살렘 성을 건축하여 다시 수치를 당하지 말자 하고

유대인들에게 「수치」라는 말은 무거운 단어였습니다. 「수치」는 포로와 관련된 말이고, 수치 속에 있다는 것은 하나님의 형벌이 내려져 있는 상태, 즉 어둠에 속박되어 있는 상태를 뜻했습니다. 그러나 그런 가운데서도 느헤미야는 백성들을 다음과 같이 설득합니다. 18절을 보시기 바랍니다.

또 그들에게 하나님의 선한 손이 나를 도우신 일과 왕이 내게 이른 말씀을 전하였더니 그들의 말이 일어나 건축하자 하고 모두 힘을 내어 이 선한 일을 하려 하매

느헤미야의 설득이란 첫째, 하나님의 선한 손이 느헤미야 자신을 도왔다는 것입니다. 「선한 손」이라는 말은 지난 번에도 언급했지만 히브리어를 보면 토브라는 말이 사용되었는데, 직역하면 「하나님의 좋은 손」이 자신의 위에 놓여있다는 뜻입니다. 둘째, 왕이 이른 말을 전하였다는 것입니다. 왕이 한 말은 느헤미야에게 허락된 도읍의 재건 허가를 말하는 것입니다. 여기서 느헤미야는 2:8절의 자기 자신의 이해를 백성들에게 그대로 전하고 있음을 알 수 있습니다. 즉, 먼저 하나님의 선한 손이 느헤미야 위에 임하고 있다는 것을 말하고, 그 다음에 아닥사스다 왕이 자신의 소원을 들어주었다는 것입니다. 「선한 하나님의 역사가 왕을 통해 나타났다! 우리는 속죄받은 것이며, 이제 어둠에 속박되어 있지 않다!」라고 말하고 있는 것입니다. 그 말을 들은 이스라엘 백성들은 성읍 재건이 하나님의 뜻이 틀림없다는 확신을 가지고 힘을 내었습니다. 이스라엘 백성들 중에는 남녀노소 다양한 사람들이 있었을 것입니다. 게다가 나중에 알게 되겠지만 지도자들이 가난한 사람들에게 이자를 붙여 돈을 빌려주고 해서 공동체 안에 빈부격차가 벌어지고 있었습니다. 공동체 안에서 여러 가지 면에서 불일치나 반목도 있었을 것 같습니다. 그러나 어떤 처지에 놓여 있든, 어떤 사상을 갖고 있든, 하나님의 백성은 주안에서 하나가 될 수 있습니다. 그것은 이스라엘이 하나님의 말씀으로 다스려졌기 때문입니다. 오늘날 사회에서도 지나친 격차 사회는 사상의 분열을 낳고 있습니다. 그럼에도 불구하고 교회는 주안에서 하나가 될 수 있는 것입니다. 그것은 교회의 머리가 예수님이고, 교회는 예수님 안에 있는 하나의 공동체, 하나의 유기체이기 때문입니다.

(2) 하늘의 기업

이렇게 백성들이 하나가 되면 적들은 가만히 있지 않습니다. 19~20절을 보시겠습니다.

19 호론 사람 산발랏과 종이었던 암몬 사람 도비야와 아라비아 사람 게셈이 이 말을 듣고 우리를 업신여기고 우리를 비웃어 이르되 너희가 하는 일이 무엇이냐 너희가 왕을 배반하고자 하느냐 하기로

20 내가 그들에게 대답하여 이르되 하늘의 하나님이 우리를 형통하게 하시리니 그의 종들인 우리가 일어나 건축하려니와 오직 너희에게는 예루살렘에서 아무 기업도 없고 권리도 없고 기억되는 바도 없다 하였느니라

산발랏과 도비야 두 사람에, 아라비아 사람 게셈까지 합세해 이스라엘 백성을 비웃으며「너희가 하는 일이 무엇이냐 너희가 왕을 배반하고자 하느냐」라고 업신여기고 비웃었습니다. 이처럼 하나님의 역사에는 반드시 대항하는 세력이 반드시 나온다는 것을 우리는 기억해야 합니다. 은혜를 받은 하나님의 자녀들이 하나님의 뜻을 행하려고 할 때, 그 것을 참지 못하는 세력이 있다는 것입니다. 불쌍한 사람들이기도 합니다. 왜 그런 일이 일어나는가 하면, 그리스도는 모든 사람의 머리가 아니며, 모든 사람의 선지자, 제사장, 왕이 아니기 때문입니다. 그리스도는 교회의 머리이시며, 이 세상의 왕이 아니라 시온의 왕으로 기름 부음을 받으셨기 때문입니다. 이 조롱의 말에 대해 느헤미야는 뭐라고 대답했나요?

하나님이 우리를 형통하게 하시리니 그의 종들인 우리가 일어나 건축하려니와 오직 너희에게는 예루살렘에서 아무 기업도 없고 권리도 없고 기억되는 바도 없다 하였느니라

여기서 느헤미야가 하늘의 하나님의 이름을 말하고 있다는 것에 주목하시기 바랍니다. 여기는 상식적으로 생각하면 의아하게 느껴지는 대목이기도 합니다. 왜 그러냐면「너희가 하는 일이 무엇이냐 너희가 왕을 배반하고자 하느냐」라는 도발에 대해 일반적으로 생각하면 그런 도발에 대해 「무슨 말을 하느냐?」라고 말하고 아닥사스다 왕으로부터 받은 통행 허가증이나 목재 사용허가에 관한 서류를 보여주면 됩니다. 「우리는 왕을 배반하지 않았다. 왕으로부터 직접 허락을 받은 것이다」라고 말하면 금방 수습될 것 같지만, 그러나 느헤미야는 굳이 그렇게 하지 않았습니다. 왕의 권위를 전면에 내세우지 않고, 대신 「하늘에 계신 하나님이 우리를 형통하게 하시리니」라고 말하며 왕의 권위보다 더 강한 주 하나님의 권위를 내세우고 있는 것입니다. 그것은 만물을 창조하시고 모든 통치와 영광과 심판의 권세를 가지고 계신 주 하나님의 권위입니다. 느헤미야는, 자신들의 사역은 주님이 인도하고 계신 것이며, 하나님께 그 책임의 소재가 있음을 분명히 하고 있는 것입니다. 느헤미야는 계속해서 말합니다.

너희에게는 예루살렘에서 아무 기업도 없고 권리도 없고 기억되는 바도 없다 하였느니라

구약시대에 「예루살렘」이란 곧 하나님이 그 이름을 두신 곳이자 하나님이 친히 거하시는 곳이었습니다. 그것은 하나님의 나라가 완성되었을 때의 하늘의 도성을 예표하고 있습니다. 「기업」이라는 말은 사업이라는 뜻입니다. 성경의 다른 부분에서는 「몫」이라고 번역되어 있습니다. 느헤미야가 여기서 말하는「기업」,「권리」,「기억」이라고 하는 것은 아닥사스다 왕으로부터 받은 눈에 보이는 것이 아니고, 아마도 하나님이 주시는 눈에는 보이지 않는 영적인 「기업」이며, 영적인 「권리」이며, 영적인 「기록」을 가리키고 있다고 생각됩니다. 그렇기 때문에 예루살렘에 기업의 땅을 얻는 이스라엘 백성이라는 것은 영적으로 해석하자면 하늘의 기업을 가진 하나님의 백성, 교회를 의미한다고 볼 수 있습니다. 「우리는 이 하늘의 기업이 약속되어 있기 때문에 하늘에 시민권을 가지고 있고, 생명책에 그 이름이 기록되어 있기 때문에, 비록 아직 그것이 눈에 보이지 않더라도 우리는 그것을 믿고 믿음으로 행하고 있다. 그러나 너희들에게는 하늘의 기업도, 하늘의 시민권도, 생명책에 기록되어 있지도 않다」라고 느헤미야는 단언했습니다. 골로새서에 느헤미야가 이때 말한 것과 같은 말씀이 있으므로 알아 보겠습니다. 골로새서 1:12~13절을 보시기 바랍니다.

12 우리로 하여금 빛 가운데서 성도의 기업의 부분을 얻기에 합당하게 하신 아버지께 감사하게 하시기를 원하노라

13 그가 우리를 흑암의 권세에서 건져내사 그의 사랑의 아들의 나라로 옮기셨으니

하나님께서 우리 교회를 수치와 포로로부터 건져내어 하늘의 상속분을 얻게 하시고, 아들의 나라로 옮겨 주셨습니다. 느헤이먀의 주장과 같은 내용이 골로새서에서도 동일하게 주장되고 있음을 알 수 있습니다. 이 느헤미야의 영적인 관점을 오늘, 우리의 신앙생활에도 적용할 수 있지 않을까요? 우리는 비록 아직 그것이 눈에 보이지 않더라도 이미 하늘의 기업을 얻었고, 하늘의 시민권을 가지고 있고 생명책에 그 이름이 기록되어 있습니다. 그 사실을 믿고 이 세상에서도 하나님을 섬기며 하나님의 뜻을 위해 걸어가야 합니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 첫째, 느헤미야의 행동의 핵심은 자신의 소망이 이런 것이기 때문에, 자신의 장래 비전이 이래서 그런 것은 아니었습니다. 하나님이 예루살렘의 성읍을 재건하려 하신다는 것, 하나님께서 용서와 해방을 주시고, 수치 가운데 있는 사람들을 구속하려 하신다는 것입니다. 책임의 소재를 하나님께 두면서, 자신들의 사역은 하나님께서 인도하고 계신다는 것을 확신하고 있었습니다. 이러한 느헤미야의 확신은 느헤미야의 사물을 보는 시각은 우리에게도 매우 중요하다고 생각합니다. 우리 전도사역, 이츠구시미노 카이(센겐다이교회의 남녀 회원모임 이름)의 봉사 사역, 회당유지관리위원회에 의한 예배당 리모델림 등 그것들은 우리 자신의 생각이 아니라 하나님의 사역입니다. 그것을 의식하면서, 하나하나의 섬김을 감당해 나가고자 합니다. 둘째, 느헤미야는 눈에 보이지 않는 하늘의 기업을 의식하고 있었습니다. 우리의 신앙생활은 눈에 보이지는 않지만, 말씀의 약속을 믿고 걸어가는 것입니다. 하늘의 기업, 하늘의 시민권, 생명책에 있는 기록들, 이러한 약속을 한시도 잊지말고 매일의 믿음의 길을 걸어가는 우리들이 되도록 합시다.

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