2024年12月29日「聖別された民として 거룩한 자손이」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

聖別された民として 거룩한 자손이

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
エズラ記 9章1節~15節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、
9:2彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」
9:3わたしはこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。
9:4また、この捕囚の民の悪事に対するイスラエルの神の裁きの言葉を恐れる者は皆、わたしのもとに集まって来たが、夕べの献げ物のときまで、わたしはぼう然として座り続けた。
9:5夕べの献げ物のときになって、かがめていた身を起こし、裂けた衣とマントをつけたままひざまずき、わが神、主に向かって手を広げ、
9:6祈り始めた。「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。
9:7先祖の時代から今日まで、わたしたちは大きな罪科の中にあります。その罪悪のために、わたしたちは王も祭司もこの地の王の支配下に置かれ、剣にかけられ、捕らわれ人となり、略奪され、辱められてきました。今日、御覧のとおりです。
9:8ところが今、ほんの少し前から、わたしたちの神、主の憐れみにより、わたしたちの幾人かが捕囚を免れて生き残り、あなたの聖なる所によりどころを得るようにされました。こうして、わたしたちの神はわたしたちの目に光を与え、奴隷の身にありながらも、わずかに生きる力を授けてくださいました。
9:9まことに、わたしたちは奴隷にされています。しかし、わたしたちの神はわたしたちを奴隷のまま捨て去ることなく、ペルシアの諸王がわたしたちに対して好意を抱くようにし、生きる力を与えてくださいました。こうして、ユダとエルサレムでわたしたちの神の神殿を再建し、廃虚を復興し、城壁を得るようにしてくださいました。
9:10わたしたちの神よ、こうした御恩をいただきながら、今何を申し上げればよいのでしょうか。わたしたちは御命令に背いてしまったのです。
9:11御命令は、あなたの僕、預言者たちによってこう伝えられました。『これから入って所有する地は、その地の住民の汚れによって汚された地である。そこは、その端から端まで彼らの忌まわしい行いによって汚れに満たされている。
9:12それゆえ、あなたたちの娘を彼らの息子に嫁がせたり、彼らの娘をあなたたちの息子の嫁にしたりしてはならない。あなたたちが強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とすることを望むならば、彼らと同盟を結ぼうとしてはならない。また、それによる繁栄を決して求めてはならない』と。
9:13わたしたちは、数々の大きな悪事と罪科のゆえに受くべき艱難をすべて受けましたが、わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をもそう重く見ず、わたしたちをこのように生き残らせてくださいました。この後で、
9:14またしても御命令を破り、その忌まわしい民と縁組みをすることができましょうか。お怒りになって、わたしたちを一人残らず滅ぼし尽くされても当然です。
9:15イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エズラ記 9章1節~15節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

エズラは、神様の律法を誰よりも愛していました。エルサレムに到着してから、自分の使命に従って律法を研究し、自ら実行し、民に教えている中で大変な事実が発覚します。エズラ記9章は、エズラが到着してから約四か月後(10:9)に発覚した、その大変な事実について明かされています。エズラたちより前に帰還した民がその地の異教の民と結婚し、忌まわしい行いに従っていたというのです。80年前にキュロスの勅令によって帰還した民がいました。58年前には、ゼルバベルとイエシュアらと共に帰還しました。本日もエズラ記の御言葉を通して恵みに与りたいと願います。1~2節をご覧ください。

【1】. 混宗婚

“このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」”

「カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人」という言葉に注目してください。エジプト人を除き、エズラの時代にはほぼ存在していない種族名が挙げられています。と言いますのは、カナン人、ヘト人、ペリジ人の大部分はイスラエルがカナンの地に入植した時に追放されたからです。またエブス人、アンモン人、モアブ人、アモリ人の大部分はダビデとソロモンの王国の時に吸収されました。ですから、これらの種族のリストは、大変古風な響きが感じられるのです。結論から言いますと、この箇所は、異邦人との結婚それ自体を禁止しているのではないということです。事実、イスラエルの歴史の中で異邦人と結婚した人々は多くいました。ヨセフはエジプト人のアセナトと結婚しましたし、モーセはミディアン人のツィポラと結婚しました。イエス様の家系の中にも異邦人が何人か出てきます。異邦人との結婚それ自体を禁じているのではなく、異教の民の、その固有の宗教に従って行くことを禁止していると考えられるのです。所謂「混宗婚」の禁止です。例えばイスラエルの民と結婚しながら、依然として律法に背き、安息日を守らず、「ラー」の神や「ケモシュ」の神に礼拝を捧げたり、或いは赤ちゃんを犠牲として捧げる人身御供の「モレク」の神に心を寄せるなら、彼らはまさに混宗婚をしている張本人であるという事になります。イスラエルの人々は異教の習慣や、風習に魅了され、イスラエルの長たる者、官職にある者たちが率先してこの悪事に手を染めていきました。「長たる者」とは、恐らく総督や行政官であったと考えられます。「官職にある者」とは、恐らくその下の役人たちを指しているのだと考えられます。リーダーたちが揃いも揃って御言葉をないがしろにし、異教の習慣、風習に従って行ったのです。恐らく、エズラが帰還した当初は表面的には分からなかったのが、四か月が経過するうちに、少しずつそのことが明るみに出てきたという事なのでしょう。それが判明した時、エズラは衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然と座り込みました。夕べの献げ物の時まで、即ち午後三時頃まで(使徒3:1)時間が止まったかのように、その場所に座り続けたのを見ると、エズラは大変な虚無感、心の中の喪失感を味わったのだろうと思われます。ぼう然と座っていると、民の中にあることが起こりました。それは4節にありますように、「神の裁きの言葉を恐れる者」たちが皆、エズラの周囲に集まって来たのです。この時、エズラは、自分の周囲に集まってきた者たちがいたということに励ましを受けたに違いありません。エズラは夕べの献げ物の時間になると、力を搾りながら祈りを捧げました。この時の、エズラの祈りは、決して自分を客観的立場に置いているのではなく、「わたしたち」という主語を使いながら、まさにイスラエルの罪を、自分の問題であるかのように告白しました。エズラの祈りを見てみましょう。6~7節をご覧ください。

【2】. 御前にぬかずく民

“祈り始めた。「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。先祖の時代から今日まで、わたしたちは大きな罪科の中にあります。その罪悪のために、わたしたちは王も祭司もこの地の王の支配下に置かれ、剣にかけられ、捕らわれ人となり、略奪され、辱められてきました。今日、御覧のとおりです。”

エズラは御前にぬかずき、イスラエルの民が捕囚によって連行されていった経緯について振り返っています。そもそも捕囚とは、イスラエルに罪悪が積み重なり、身の丈を超え、天にまで達したからだと言います。先祖たちが代々犯してきた罪の責任を、その罪とは直接関係ない子孫である自分たちの罪であると告白しています。つまり連帯責任を負っているのです。このような告白ができるのは、エズラがどれほどイスラエルの民を愛し、誇りに思っていたのか、その現れだと思います。例えば、家族の一人が罪を犯したといたします。有罪判決を受けて刑務所に投獄されている状況を想像してみてください。残された家族は、服役しているその家族の罪を、連帯責任として自分の罪でもあると言い切ることができるでしょうか。「その子どもの罪は、私の育て方が悪かったんです。」と言い切れる親は中々いないと思います。また、「お父さんの罪は、子どもである私のせいです。」と言い切れる子供も中々いないと思います。たとえ血のつながりがあっても、そのように言い切るのは難しいことではないでしょうか。

エズラの祈りは、イスラエルの先祖たちの営みを、単に血のつながりを超えて、主にある兄弟姉妹としての強い絆で結ばれていることを見て取ることができるのです。そのようなイスラエルに対し、主がほんの少し前から、顧みを与えてくださいました。ペルシアの王たちを通して実現されたエルサレムへの帰還についてです。8~9節をご覧ください。

“ところが今、ほんの少し前から、わたしたちの神、主の憐れみにより、わたしたちの幾人かが捕囚を免れて生き残り、あなたの聖なる所によりどころを得るようにされました。こうして、わたしたちの神はわたしたちの目に光を与え、奴隷の身にありながらも、わずかに生きる力を授けてくださいました。まことに、わたしたちは奴隷にされています。しかし、わたしたちの神はわたしたちを奴隷のまま捨て去ることなく、ペルシアの諸王がわたしたちに対して好意を抱くようにし、生きる力を与えてくださいました。こうして、ユダとエルサレムでわたしたちの神の神殿を再建し、廃虚を復興し、城壁を得るようにしてくださいました。”

奴隷として、捕囚の身にあるイスラエルに神様が顧みを与えてくださり、ペルシアの王たちを通して生きる力を与えてくださったこと、また、エルサレムに神殿を再建するにまで至ったことが語られています。これは、まさに一方的な神の恵みでありました。ところがこのような大きな恵みを与えられながら、その恵みに応答することができない自分たちの惨めさ、頂いた恩をすぐに忘れ、罪に偏りやすい自分たちの弱さについて10節以降に告白されています。

“わたしたちの神よ、こうした御恩をいただきながら、今何を申し上げればよいのでしょうか。わたしたちは御命令に背いてしまったのです。”

過去に、イスラエルが捕囚として連行されたのは、御言葉に背いた罪のためでありました。今、奴隷から解放されて自由の身になった途端、再び同じように御言葉に背いてしまったのです。続いて13~15節をご覧ください。

“わたしたちは、数々の大きな悪事と罪科のゆえに受くべき艱難をすべて受けましたが、わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をもそう重く見ず、わたしたちをこのように生き残らせてくださいました。この後で、またしても御命令を破り、その忌まわしい民と縁組みをすることができましょうか。お怒りになって、わたしたちを一人残らず滅ぼし尽くされても当然です。イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」”

エズラの祈りの中には、主に対し「罪を赦してください」という言葉は、もはや出て来ないことに注目してください。エズラの祈りには神に対する要求は一切なく、ひたすらイスラエルの悪事と背信の事実認定に留まっています。15節に、「あなたは恵み深いお方です」とありますが、この箇所は、新改訳2017では、「あなたは正しい方です」となっており、新しく出た聖書協会共同訳聖書でも、「あなたは正しい方です」と改訂されています。正しいお方である主と、主の民とされた自分たちの現状を見比べた時に、主の民として、全く相応しくない不義と汚れが浮き彫りにされ、エズラはただ、ただ、恐れているのです。聖なる民とされながら、自分たちは律法を捨てて、恥ずかしい行いをし、主の御顔に泥を塗ってしまった。こうなった以上、主の怒りが下って、自分たちは一人に残らず滅ぼし尽くされても当然であるということを認めているのです。

【3】. 聖別された民として

9:2に聖なる種族という言葉が出てきますが、イスラエルは神の憐れみにより、聖なる民とされました。「聖なる」という言葉は、ヘブライ語でカドシュという言葉が使われていて、この言葉は、本来、神の属性でありますが、神様以外にも使われる場合があります。例えば、「聖なる土地(出3:5)」、「聖なる安息日(出16:23)」、「聖なる家(レビ27:14)」、「聖なる衣(レビ16:4)」、「聖なる十分の一の献げ物(レビ27:30)」、「聖なる陣営(申23:15)」、「聖なる種族(エズ9:2)」、「聖なる民(申7:6)」「聖なる契約(ダニ11:28)」等々です。カドシュの元々の意味は、「一般の領域から区別された」という意味ですが、実際、聖書でこの言葉が用いられる時には、単純に「区別すること」以上の広い意味を含んでいます。それは例えば「道徳的に純潔である」という言葉と近い意味で使われていますが、決してその「道徳的純潔さ」に置き換えられる言葉でもありません。もちろん道徳的純潔さが排除されるのではありませんが、それ以上の広い意味を持っているという事です。ある神学者は、「聖なる」とは神の救いの原理としての言葉であると言いました。罪が除去されて、神様によって救われた状態が、即ち「聖別された」状態であると説明しています。私もこれに同意します。平たく言えば、「聖なる」とは、神によって救われて、神の所有にされたという事です。従いまして、イスラエルが「聖なる種族」である理由は、神によって選ばれ、区別され、契約を結び、今や神のすべての掟、戒めに従って生きていくためなのであります。そこには、明らかに民の側の応答も含まれています。確かに「聖なる」という言葉は、神様の選びに根拠がありますが、ただ選ばれたから、ただ区別されたから、聖別されるのではありません。選びに対する民の応答があって、初めて「聖別される」ということが起きるのです。聖なるお方として神様は、創造者であり、救済者であり、イスラエルの王でもあられます。それゆえ救済されたご自身の聖なる民によって、賛美と礼拝を受けられるのです。レビ記11:44~45をご覧ください。

“わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。”

「自分自身を聖別して、聖なる者となれ」と書かれています。聖別されるとは、神の選びで完結するわけではなく、民の側の応答によって完結されるという事です。私たちが日々唱えている「主の祈り」の第一声で、「御名が崇められますように」と祈っていますが、この一節の本来の意味は、「御名が聖とされますように」であります。私たちを通して、神を聖くすることができるようにと祈っているのです。それではどのようにして、私たちが神を聖とすることができるのでしょうか。当然ですが、私たちは律法を完全に守り行うことは出来ません。私たちが出来る応答とは、御言葉を日々黙想し、御言葉を恐れるという事ではないでしょうか。そして御言葉に違反した時には、神の御前にぬかずき告白するということではないでしょうか。私たちの応答とは、まさにエズラと、そしてエズラに周囲に集まってきた者たちのように、ただ信仰によって御言葉を愛し、御言葉を恐れ、罪が示された時には御前にぬかずき告白すること、それ以外にはないのだと思います。日々の営みの中で御言葉と共に歩み、御言葉を恐れ、もし示された罪があるなら御前に罪を告白すること、このことこそ私たちの信仰の応答であり、私たちをして、御名を聖とする営みであるのです。御言葉とはイエス・キリストそのものだからです。1ヨハネ1:9~10をご覧ください。

“自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。”

「神の言葉」はイエス・キリストを意味しています。主は私たちの罪の告白を受け入れてくださり、イエス・キリストによって私たちの罪を聖めてくださるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。イスラエルが聖なる種族である理由とは、神によって選択されて、区別され、契約を結び、今や神のすべての掟、戒めに従って生きていくためであります。同じように私たち教会が神の民、神の家族とされている理由は、神の御言葉をないがしろにせず、御言葉を愛し、御言葉を恐れ、罪が示された時には御前にぬかずき告白するからであります。私たち教会は、弱さがあり、欠けがあり、依然として罪を犯しやすい者たちであります。しかし、御言葉を握りしめ、イエス・キリストと共に歩む教会を、神様は再び、聖としてくださり、義としてくださり、御自身の所有としてくださるのです。私たちの日々の営みが、聖なる御言葉によって照らされながら、導かれることをお祈りいたします。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

거룩한 자손이

2024년 12월29일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

에스라 9장 1~15절

서론

에스라는 누구보다 하나님의 율볍을 사랑했습니다. 예루살렘에 도착한 후 자신의 사명에 따라 율법을 연구하고 직접 실천하며 백성들에게 가르치던 중, 중대한 사실을 발견하게 됩니다. 에스라 9장은 에스라가 도착한 지 약 4개월 후(10장 9절)에 밝혀진 이 엄청난 사실에 대해 알려주고 있습니다. 에스라 일행보다 먼저 귀환한 백성들이 그 땅의 이교도들과 결혼하여 가증한 행실을 따르고 있었다는 것, 80년전 고래스의 칙령으로 귀환한 백성이 있었고, 58년 전에는 스룹바벨과 예슈아 등과 함께 귀환한 백성이 있었습니다. 오늘도 에스라서의 말씀을 통해 은혜를 받기를 원합니다. 1~2절을 보시겠습니다.

(1) 혼종혼

1 이 일 후에 방백들이 내게 나아와 이르되 이스라엘 백성과 제사장들과 레위 사람들이 이 땅 백성들에게서 떠나지 아니하고 가나안 사람들과 헷 사람들과 브리스 사람들과 여부스 사람들과 암몬 사람들과 모압 사람들과 애굽 사람들과 아모리 사람들의 가증한 일을 행하여

2 그들의 딸을 맞이하여 아내와 며느리로 삼아 거룩한 자손이 그 지방 사람들과 서로 섞이제 하는데 방백들과 고관들이 이 죄에 더욱 으뜸이 되었다 하는지라

「가나안 사람들, 헷 사람들, 브리스 사람들, 여부스 사람들, 암몬 사람들, 모압 사람들, 애굽 사람들, 아모리 사람들」이라고 하는 단어에 주목해 주시기를 바랍니다. 애굽 사람들을 제외하고는 에스라 시대에는 거의 존재하지 않는 종족 이름들이 열거되어 있습니다. 왜냐하면 가나안 사람, 헷 사람, 브리스 사람의 대부분은 이스라엘이 가나안 땅에 정착할 때 추방되었기 때문입니다. 또한 여부스 사람과 암몬 사람, 모압 사람들, 아모리 사람들의 대부분은 다윗과 솔로몬 왕국 시대에 흡수되었습니다. 그래서 이 종족들의 목록은 매우 고풍스럽게 들리는 것입니다. 결론부터 말하자면, 이 구절은 이방인과의 결혼 자체를 금지하고 있는 것이 아닙니다. 사실 이스라엘 역사에서 이방인과 결혼한 사람들은 많았습니다. 요셉은 애굽 사람인 아스낫과 결혼했고, 모세는 미디안 사람인 십보라와 결혼했습니다. 예수님의 가문에도 이방인이 몇 명 나옵니다. 이방인과의 결혼 자체를 금지한 것이 아니라 이교도들의 고유한 종교를 따르는 것을 금지한 것으로 볼 수 있습니다. 이른바 「혼종혼」의 금지입니다. 예를 들어 이스라엘 백성과 결혼을 했으면서도 율법을 어기고 안식일을 지키지 않고「라」신이나 「그모스」신에게 예배를 드리거나 아기를 제물로 바치는 「몰렉」신에게 마음을 기울인다면, 그들은 바로 혼종혼을 한 장본인이라고 할 수 있습니다. 이스라엘 백성들은 이교도의 관습과 풍습에 매료되었고, 이스라엘의 방백, 관직에 있는 자들이 앞장서서 이 악행에 손을 댔습니다. 「방백」은 아마도 총독이나 행전관들이었을 것으로 추정됩니다. 「고관들」은 아마도 그 밑의 관리들을 가리키는 것으로 생각됩니다. 지도자들이 한마음 한뜻으로 말씀을 무시하고 이교도들의 관습과 풍습을 따랐던 것입니다. 아마도 에스라가 돌아왔을 때는 표면적으로는 잘 드러나지 않았지만, 4개월이 지나면서 조금씩 그 사실이 드러났을 것입니다. 그 사실을 알게 된 에스라는 속옷과 겉옷을 찢고 머리털과 수염을 뜯으며 기가 막혀 앉아 있었습니다. 저녁 제사 때까지, 즉 오후 세 시경까지(사도행전 3장 1절) 시간이 멈춘 듯이 그 자리에 계속 앉아 있었던 것을 보면 에스라는 엄청난 허무감, 마음의 상실감을 느꼈을 것으로 보입니다. 멍하니 앉아 있는 동안 백성들 사이에서 어떤 일이 일어났습니다. 그것은 4절에 있는 것처럼 「하나님의 말씀으로 말미암아 떠는 자」들이 모두 에스라의 주위에 모여든 것입니다. 이때 에스라는 자기 주변에 모여든 사람들이 있다는 사실에 큰 용기를 얻었을 것입니다. 에스라는 저녁 제사 시간이 되자 힘을 내어 기도를 드렸습니다. 이때 에스라의 기도는 결코 자신을 객관적인 위치에 두지 않고 「우리」라는 주어를 사용하면서 이스라엘의 죄를 마치 자신의 문제인 것처럼 고백했습니다. 에스라의 기도를 6~7절에서 살펴보겠습니다.

(2) 하나님 앞에 엎드리는 백성들

6 말하기를 나의 하나님이여 내가 부끄럽고 낯이 뜨거워서 감히 나의 하나님을 향하여 얼굴을 들지 못하오니 이는 우리 죄악이 많아 정수리에 넘치고 우리 허물이 커서 하늘에 미침이니이다

7 우리 조상들의 때로부터 오늘까지 우리의 죄가 심하매 우리의 죄악으로 말미암아 우리와 우리 왕들과 우리 제사장들을 여러나라 왕드르이 손에 넘기사 칼에 죽으며 사로잡히여 노략을 당하며 얼굴을 부끄럽게 하심이 오늘날과 같으니이다

에스라는 하나님 앞에 엎드려 이스라엘 백성이 포로로 끌려가게 된 경위를 회고합니다. 애초에 포로로 잡혀간 것은 이스라엘의 죄악이 쌓이고 분수를 넘어서서, 하늘에 닿을 만큼 쌓였기 때문이라고 말합니다. 조상들이 대대로 저지른 죄의 책임을 그 죄와 직접적인 관련이 없는 후손인 자신들이 지은 죄라고 고백하고 있습니다. 즉 연대 책임을 지고 있는 것입니다. 이런 고백을 할 수 있는 것은 에스라가 얼마나 이스라엘 백성을 사랑하고 자랑스럽게 여겼느냐의 표현이라고 생각합니다. 예를 들어 가족 중 한 사람이 죄를 지었다고 가정해 봅시다. 유죄 판결을 받고 감옥에 수감되어 있는 상황을 상상해 보세요. 남은 가족은 수감 중인 가족의 죄를 연대 책임으로 자신의 죄라고 말할 수 있을까요? “그 아이의 죄는 제가 잘못 키운 탓입니다.”라고 말할 수 있는 부모는 많지 않습니다. 또 “아버지의 죄는 자식인 재 잘못입니다.”라고 말할 수 있는 자식도 많지 않을 것입니다. 아무리 혈연관계라 할지라도 그렇게 말하기란 쉽지 않은 일이 아닐까요?

에스라의 기도는, 이스라엘 선조들의 행위애 대해, 단순히 혈연관계를 넘어 주님 안에서 형제자매로서 강한 유대감으로 묶여 있음을 알 수 있습니다. 그런 이스라엘에 대해, 주님은 오래전부터 돌봐 주셨습니다. 페르시아 왕들을 통해 실현된 예루살렘 귀환에 대해서 입니다. 8~9절을 보시겠습니다.

8 이제 우리 하나님 여호와께서 우리에게 잠시 동안 은혜를 베푸사 얼마를 남겨 두어 피하게 하신 우리를 그 거룩한 처소에 박힌 못과 같게 하시고 우리 하나님이 우리 눈을 밝히사 우리가 종노릇 하는 중에서 조금 소생하게 하셨나이다

9 우리가 비록 노예가 되었사오나 우리 하나님이 우리를 그 종살이하는 중에 버려 두지 아니하시고 바사 왕들 앞에서 우리가 불쌍히 여김을 입고 소생하여 우리 하나님의 성전을 세우게 하시며 그 무너진 것을 수리하게 하시며 유다와 예루살렘에서 우리에게 울타리를 주셨나이다

노예로, 포로로 잡혀간 이스라엘을 하나님께서 돌봐 주시고, 바사 왕들을 통해 살아갈 힘을 주셨으며, 예루살렘에 성전을 재건하는 일까지 이루게 하셨다는 내용입니다. 이것은 그야말로 일방적인 하나님의 은혜였습니다. 그런데 이런 큰 은혜를 받으면서도 그 은혜에 응답하지 못하는 자신들의 비참함, 받은 은혜를 금방 잊어버리고 죄에 빠지기 쉬운 자신들의 연약함을 10절 이후부터 고백하고 있습니다.

10 우리 하나님이여 이렇게 하신 후에도 우리가 주의 계명을 저버렸사오니 이제 무슨 말씀을 하오리이까

과거에 이스라엘이 포로로 끌려간 것은 말씀을 거역한 죄 때문이었습니다. 이제 노예에서 해방되어 자유의 몸이 되자마자 또다시 똑같이 말씀을 거역한 것입니다. 이어서 13~15절을 보시겠습니다.

13 우리의 악한 행실과 큰 죄로 말미암아 이 모든 일을 당하였사오나 우리 하나님이 우리 죄악보다 형벌을 가볍게 하시고 이만큼 백성을 남겨 주셨사오니

14 우리가 어찌 다시 주의 계명을 거역하고 이 가증한 백성들과 통혼하오리이까 그리하면 주께서 어찌 우리를 멸하시고 남아 피할 자가 없도록 진노하시지 아니하시리이까

15 이스라엘의 하나님 여호와여 주는 의로우시니 우리가 남아 피한 것이 오늘날과 같사옵거늘 도리어 주께 범죄하였사오니 이로 말미암아 주 앞에 한 사람도 감히 서지 못하겠나이다 하니라

에스라의 기도에는 주님께 「죄를 용서해 달라」는 말이 더 이상 나오지 않는 것을 주목해야 합니다. 에스라의 기도에는 하나님에 대한 요구는 전혀 없고, 오로지 이스라엘의 악행과 배신에 대한 사실 인정에 머물러 있습니다. 15절에 「주는 의로우시니」라고 되어 있는데, 의로우신 주님과 주님의 백성으로 지목된 자신들의 현상을 비교했을 때, 주의 백성으로서 전혀 어울리지 않는 불의와 더러움이 부각되어 에스라는 그저 두려워하고 있는 것입니다. 거룩한 백성으로 여겨지면서, 율법을 버리고 부끄러운 행위를 하여 주님의 얼굴에 진흙을 묻혔으니, 이렇게 된 이상 주님의 진노가 내려와 자신들은 한 사람도 남김없이 멸망당해도 마땅하다는 것을 인정하는 것입니다.

(3) 거룩한 자손이

9장 2절에 「거룩한 자손」이라는 단어가 나오는데, 이스라엘은 하나님의 긍휼하심으로 인해 거룩한 백성이 되었습니다.「거룩하다」라는 단어는 히브리어로 「코데쉬」라는 단어가 사용되는데, 이 단어는 본래 하나님의 속성이지만 하나님 외에 다른 단어로 쓰이는 경우도 있습니다. 예를 들어 「거룩한 땅(출애굽기 3장 5절)」,「거룩한 안식일(출애굽기 16장 23절)」, 「거룩한 집 (레위기 27장 14절)」, 「거룩한 의복(레위기 16장 4절)」, 「거룩한 십일조(레위기 27장 30절) 」, 「거룩한 진영(신명기 23장 14절)」,「거룩한 자손(에스라 9장 2절)」,「하나님의 성민(신명기 7장 6절)」,「거룩한 언약(다니엘11장 28절)」등입니다. 코데쉬의 원래 의미는 「일반 영역과 구별된」이라는 뜻이지만, 실제로 성경에서 이 단어가 쓰일 때는 단순히 「구별하는 것」이상의 넓은 의미를 가지고 있습니다. 그것은 예를 들어 「도덕적으로 순결하다」라는 말과 가까운 의미로 사용되고 있지만, 걸코 그 「도덕적 순결성」으로 대체될 수 있는 단어는 아닙니다. 물론 도덕적 순결이 배제되는 것은 아니지만, 그보다 더 넓은 의미를 가지고 있다는 것입니다. 어떤 신학자는 「거룩」은 하나님의 구원 원리로서의 단어라고 했습니다. 죄가 제거되어 하나님에 의해 구원받은 상태, 즉 「거룩한 상태」라고 설명합니다. 저도 이에 동의합니다. 쉽게 말해서 「거룩하다」는 것은 하나님에 의해 구원받아, 하나님의 소유가 되었다는 뜻입니다. 따라서 이스라엘이 「거룩한 자손」인 이유는 하나님에 의해 선택되고 구별되어 언약을 맺었고, 이제 하나님의 모든 율례와 계명을 따라 살게 되었기 때무입니다. 여기에는 분명히 백성들의 응답도 포함되어 있습니다. 물론 「거룩하다」는 말은 하나님의 선택에 근거를 두고 있지만, 단지 선택받았기 때문에, 단지 구별되었기 때문에 거룩한 것이 아닙니다. 선택에 대한 백성의 응답이 있어야 비로서 「거룩하게 됨」이 일어나는 것입니다. 하나님은 거룩하신 분으로서 창조주이시며, 구원자이시며, 이스라엘의 왕이십니다. 그러므로 구원받은, 자신의 거룩한 백성을 통해 찬양과 경배를 받으실 수 있는 것입니다. 레위기 11장 44~45절을 참고하시기 바랍니다.

44 나는 여호와 너희의 하나님이라 내가 거룩하니 너희도 몸을 구별하여 거룩하게 하고 땅에 기는 길짐승으로 말미암아 스스로 더럽히지 말라

45 나는 너희의 하나님이 되려고 너희를 애굽 땅에서 인도하여 낸 여호와라 내가 거룩하니 너희도 거룩할지어다

「너희도 몸을 구별하여 거룩하게 하고」라고 기록되어 있습니다. 거룩하게 된다는 것은, 하나님의 선택으로 완성되는 것이 아니라 백성들의 응답으로 완성된다는 뜻입니다. 우리가 매일 드리는 「주기도문」의 첫 번째 기도에서 「이름이 거룩히 여기심을 받으시고」라고 기도하고 있지만, 이 구절의 본래 의미는 우리를 통해 하나님을 거룩하게 해달라고 기도하고 있는 것입니다. 그렇다면 우리가 어떻게 하나님을 거룩하게 할 수 있을까요? 당연히 우리는 율법을 완벽하게 지킬 수 없습니다. 우리가 할 수 있는 응답은 말씀을 날마다 묵상하고 말씀을 두려워하는 것이 아닐까요? 그리고 말씀을 어겼을 때 하나님 앞에 엎드려 자복하는 것이 아닐까요? 우리의 응답은, 바로 에스라와 그리고 에스라와 함께 모여든 사람들처럼 오직 믿음으로 말씀을 사랑하고, 말씀을 두려워하며, 죄가 드러났을 때는, 주님 앞에 엎드려 자백하는 것, 그것 외에 다른 것이 없다고 생각합니다. 일상의 삶 속에서 말씀과 함께 동행하고, 말씀을 두려워하며, 만약 죄가 드러나면 주님 앞에 죄를 고백하는 것, 이것이 바로 우리의 믿음의 응답이며, 우리로하여금, 주님의 이름이 거룩하게 하는 행위입니다. 말씀은 예수・그리스도 그 자체이기 때문입니다. 요한일서 1장 9~10절을 보시기 바랍니다.

9 만일 우리가 우리 죄를 자백하면 그는 미쁘시고 의로우사 우리 죄를 사하시며 우리를 모든 불의에서 깨끗하게 하실 것이요

10 만일 우리가 범죄하지 아니하였다 하면 하나님을 거짓말하는 이로 만드는 것이니 또한 그의 말씀이 우리 속에 있지 아니하니라

「그의 말씀」은 예수・그리스도를 의미합니다. 하나님은 우리의 죄의 고백을 받아주시고, 예수・그리스도로 말미암아 우리의 죄를 거룩하게 하십니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 이스라엘이 거룩한 자손인 이유는 하나님에 의해 선택받고 구별되어 언약을 맺고, 이제 하나님의 모든 율례, 계명을 따라 살기 위함입니다. 마찬가지로 우리 교회가 하나님의 백성, 하나님의 가족으로 여겨지는 이유는, 하나님의 말씀을 소홀히 하지 않고, 말씀을 사랑하고, 말씀을 두려워하며, 죄가 드러날 때 하나님 앞에 엎드려 자복하기 때문입니다. 우리 교회는 연약하고, 부족하고, 여전히 죄를 짓기 쉬운 자들입니다. 그러나 말씀을 붙잡고 예수・그리스도와 동행하는 교회를, 하나님은 다시 거룩하게 하시고, 의롭게 하시고, 자기 소유로 삼으십니다. 우리의 일상의 영위를 거룩한 말씀에 비추어 보면서, 인도함을 받기를 기도합니다.

関連する説教を探す関連する説教を探す