2024年12月15日「神の御手に助けられて 하나님의 손이 도우사」

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神の御手に助けられて 하나님의 손이 도우사

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
エズラ記 8章1節~36節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:1アルタクセルクセス王の治世に、私と共にバビロンから帰還した親族の頭と、登録された系図は次のとおりである。
8:2ピネハスの一族からはゲルショム、イタマルの一族からはダニエル、ダビデの一族からはハトシュ、
8:3シェカンヤの一族の者、パルオシュの一族からはゼカルヤ、および彼と一緒に登録された男百五十人。
8:4パハト・モアブの一族からはゼラフヤの子エルヨエナイと男二百人。
8:5ザトの一族からはヤハジエルの子シェカンヤと男三百人。
8:6アディンの一族からはヨナタンの子エベドと男五十人。
8:7エラムの一族からはアタルヤの子エシャヤと男七十人。
8:8シェファトヤの一族からはミカエルの子ゼバドヤと男八十人。
8:9ヨアブの一族からはエヒエルの子オバドヤと男二百十八人。
8:10バニの一族からはヨシフヤの子シェロミトと男百六十人。
8:11ベバイの一族からはベバイの子ゼカルヤと男二十八人。
8:12アズガドの一族からはハカタンの子ヨハナンと男百十人。
8:13最後の者であるアドニカムの一族からは名をエリフェレト、エイエル、シェマヤと言う者たちと男六十人。
8:14ビグワイの一族からはウタイ、ザクルと男七十人。
8:15私は彼らをアハワに注ぐ川のほとりに集め、そこで私たちは三日間野営した。民と祭司がそこにいるのは分かったが、レビの一族は見当たらなかった。
8:16そこで私は頭であるエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカルヤ、メシュラム、および見識のあるヨヤリブとエルナタンを遣わし、
8:17カシフヤ地方の頭であるイドのもとに送り出した。そして、カシフヤ地方の神殿に仕えるイドとその兄弟たちに、私たちの神殿に仕える者をよこしてほしいと伝えた。
8:18神の恵み深い手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子レビの子であるマフリの一族のシェレブヤという聡明な人物を、息子たち、兄弟たち十八人と共に連れて来た。
8:19さらに、ハシャブヤと共に、メラリの一族のエシャヤとその兄弟たち、彼らの息子たち二十人、
8:20また、神殿に仕える者、すなわち、レビ人に奉仕するようにとダビデと高官たちが定めた者として二百二十人を連れて来た。彼らは皆、指名された者であった。
8:21私はアハワ川のほとりで断食を呼びかけた。それは神の前にへりくだり、私たちのため、幼い子らのため、その他の財産のために、道中の無事を求めてのことであった。
8:22私は道中、敵から我々を守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に頼むことを恥としたからであり、また、私たちは王に次のように言っていたからである。「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」
8:23それゆえ、私たちは断食して神に願い求め、神はその祈りを聞き入れられた。
8:24私は祭司長の中から十二人、すなわち、シェレブヤ、ハシャブヤ、および彼らの兄弟十人を選び出し、
8:25銀と金、および祭具類を量って彼らに渡した。それは王、参議、高官、またそこにいたイスラエルのすべての人々が私たちの神の宮へ献げた献納物であった。
8:26私が量って彼らの手に渡したのは、銀六百五十キカル、銀の祭具百キカル、金百キカル、
8:27一千ダリク相当の金の杯二十個、金のように高価で光り輝く青銅の祭具二個であった。
8:28私は彼らに言った。「あなたがたは主の聖なる者であり、祭具も聖別されたものです。銀と金も、あなたがたの先祖の神、主への自発の献げ物です。
8:29あなたがたはこれらを、エルサレムにいる祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの親族の長たちのいる前で量って渡すまで、主の神殿の部屋に注意して保管してください。」
8:30こうして祭司とレビ人は、私たちの神の宮のあるエルサレムへ運び込むために、量られた銀と金、および祭具類を受け取った。
8:31第一の月の十二日に、私たちはエルサレムに向かってアハワ川を出発した。神の手が私たちの上にあって、道中、敵や賊の手から救い出してくださった。
8:32私たちはエルサレムに到着し、そこに三日間とどまった。
8:33四日目に、私たちの神の宮で銀と金、および祭具類が量られ、祭司であるウリヤの子メレモトの手に渡された。彼のそばにはピネハスの子エルアザルがおり、レビ人であるイエシュアの子ヨザバドとビヌイの子ノアドヤが居合わせた。
8:34すべてのものの数と重さが量られ、その重さはその時にすべて書き留められた。
8:35捕囚の地から帰って来た人々は、イスラエルの神への焼き尽くすいけにえを献げた。イスラエルのすべての人々のために、雄牛十二頭、雄羊九十六匹、小羊七十七匹を、清めのいけにえとして雄山羊十二匹を献げた。これらはすべて主への焼き尽くすいけにえであった。
8:36彼らは王の命令書を、王の総督、およびエベル・ナハル地方の長官たちに渡したので、この人たちは民と神殿を支援した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エズラ記 8章1節~36節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

エズラに率いられた第二次帰還の民は、アルタクセルクセス王の第七年の第一月にバビロンを出発しました。第二次帰還は、第一次帰還と比較して大変小規模なものでありました。2節~14節まで、家長の名前と男性の人数が記載されていますが、その数は1,500人ちょっと。それに女性、子どもを合わせると恐らく五千人程度の人数だったと思われます。仮に五千人とすると、この数字は、第一次帰還の42,360人(2:64)と比較して、約1/8に過ぎませんでした。しかし、規模の大きさとは関係なく、エズラ記の後半部分では御言葉を土台とする共同体が、神の御手に助けられながら建て上げられていく姿が描かれています。本日も、エズラ記8章の御言葉を通して、恵みに与りたいと願います。8章2~3節の途中までご覧ください。

【1】. 御言葉を土台とする共同体の再建

“ピネハスの一族からゲルショム、イタマルの一族からダニエル、ダビデの一族からハトシュ、シェカンヤの一族の者、”

初めに第二次帰還者の名簿が出てきます。「ピネハス」と「イタマル」という名前に注目してください。祭司アロンには、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルの4人の子供がいました。レビ記10章を見ると詳しく出ていますが、ナダブとアビフは、御言葉に従わなかったために不慮の死を遂げました。ですからアロンの子孫とは、エルアザル系列とイタマル系列の二つになる訳ですが、ピネハスとは、エルアザルの息子です。従いまして、2節の名簿の書き出しは、エルアザル系列とイタマル系列の祭司の子孫から書き出しているという事です。次に「ダビデの一族からハトシュ、シェカンヤの一族の者、」と続いて行きます。今度は王の系図です。ここの2節~3節の翻訳は、御言葉の抜粋のプリントにも印刷しましたが、新改訳2017の翻訳では、「ダビデ族からはハトシュ。ハトシュはシェカンヤの孫」となっていて、2節と3節の前半を結び付けています。つまり3節前半と、3節後半に意味の分け目を入れているという事です。これは、歴代誌上の王の系図に次のような記事があるためだと思われます。歴代誌上3:22をご覧ください。

“シェカンヤの子は、シェマヤと、シェマヤの子ハトシュ、イグアル、バリア、ネアルヤ、シャファトの六人。”

ここを見ますと、シェマヤの子ハトシュとはっきり書かれていますね。実は、聖書の章や節というのは、後代の人々が聖書を読みやすくするために振り付けたものでありましてオリジナルの写本には章や節などありません。また、多くの英語の聖書の翻訳(KJV, RSV, NAS, NIV)では、新改訳2017と同じように2節と3節の前半を結び付けて訳されているため、私たちも2節~3節を「ダビデの一族から、シェカンヤの孫であるハトシュ。」として読み進めていきたいと思います。従いまして、この名簿には、最初に、祭司の一族が記載されていて、続いて王の一族が記載されているということが浮き彫りにされるのです。第一次帰還の名簿では、最初にゼルバベル、次にイエシュアが書かれていました。最初に王の子孫、次に祭司の子孫が書かれていたのとは対照的です。今回は、なぜ祭司の名前が最初に挙げられたのか、その理由は、第二次帰還のエズラの働きの目的が、民に律法を教えること、そして祭儀を回復させ、礼拝を回復させることであったからと思われます。今回の帰還は、祭司の働きに重点が置かれているということなのです。

次に3節の途中のパルオシュの一族から、14節のビグワイの一族までイスラエルの一般の人々の家族と、家長の名前が記されています。特に、家族の数が12家族になっていることに、私たちは注目したいと思います。8章全体において「12」という数が度々強調されていますが、「12」という数は旧約聖書の中で全イスラエルを指す数字であります。新約聖書では12使徒という形で、「12」という数が再び登場します。聖書全体において「12」という数字は、全イスラエル、神の共同体、神の家族を象徴していると言えるでしょう。しかし、それは単に血統によるイスラエルを象徴しているというよりも、むしろ霊的イスラエル、真のイスラエルを象徴していると言えます。なぜならバビロンからの帰還した民というのは、ユダとベニヤミン族の二部族に過ぎませんでした。しかも、ユダとベニヤミン族が全員、捕囚としてバビロンに連れて行かれた訳でもなく、そのままユダの地に残った者、或いはエジプトに逃避した者たちもいました。しかし、そのままユダの地に残った者、或いはエジプトに逃避した者たちに対して、聖書はイスラエルという言葉を使用せず、バビロンからの帰還の民に対してのみ「イスラエル」という言葉を使用しています。このことが持つ意味は大変大きいと思います。イスラエルという言葉は、血統には縛られていないということです。試練を通過し、御言葉によって立て上げられる共同体にこそ、神の目が注がれているのです。エズラ記の後半は、まさに御言葉を土台とした共同体の再建について、真のイスラエル、霊的なイスラエルの再建について描かれているのです。

【2】. アハワ川のほとりで

エズラの一行がアハワ川のほとりで三日間宿営している時に、レビ人が見当たらないことに気づきました。レビ人とは、祭儀を献げる際に、祭司を助ける人々です。エズラはカシフヤのイドのもとへ遣いを送り、「わたしたちの神の神殿に仕える者、つまり、レビ人をよこしてほしいと」と伝えさせました。すると、38人のレビ人と220人の神殿の使用人を送ってくれました。「神殿の使用人」とは、エズラ2:43で出て来た「ネティニム」の事です。8:18~21節をご覧ください。

“慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり、彼らはイスラエルの子レビの子であるマフリの一族のシェレブヤという有能な人物を、その子らと兄弟十八人と共に連れて来た。更に、メラリの一族からハシャブヤとその兄弟エシャヤ、および彼らの子ら二十人、また、レビ人に奉仕するようにダビデと高官たちが定めた神殿の使用人の中からも、二百二十人の使用人を連れて来た。皆一人一人その名が記録されている。わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。”

38のレビ人と220人の神殿の使用人が、エズラに呼びかけに応じました。もしかしたら、これは一見、少ないと感じる人もいるかもしれませんが、少なくともエズラの目には神の恵みのしるしとして映っていました。彼らが直ちにエズラの呼びかけに応じてくれたからでしょう。エズラはアハワ川のほとりで断食を呼びかけます。断食とは、祈りのもう一つの表現です。神様の御前に身を低くし、これから始まる旅が無事に神様によって守られるように切に祈りました。乾燥した暑さの中で一日に約16キロの行程が、四か月にも及ぶ旅になります。そして家族総出での移動になりますので、子どもたちや、弱さを抱えている人々もいたに違いありません。エズラは群れ全体が、神様の御手の中で守られるように懇願しました。また、今回の移動の際には、金、銀、祭具類の運搬もある訳ですから、強盗に襲われる危険もありました。しかしエズラは、22節にありますように、アルタクセルクセス王に対して「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と言っていた手前、王に護衛を求めることを恥じました。もし、エズラが護衛を求めるなら、すんなりと与えられたことでしょう。7:6には、エズラが求めるものは何でも王から与えられたと書かれているからです。さらに言えば、第三次帰還において、ネヘミヤは護衛をつけてくれるよう王に要請したと思われるからです。ネヘミヤ記2:7-9を調べてみましょう。

“更に、わたしは王に言った。「もしもお心に適いますなら、わたしがユダに行き着くまで、わたしを通過させるようにと、ユーフラテス西方の長官たちにあてた書状をいただきとうございます。また、神殿のある都の城門に梁を置くために、町を取り巻く城壁のためとわたしが入る家のために木材をわたしに与えるように、と王の森林管理者アサフにあてた書状もいただきとうございます。」神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。こうして、わたしはユーフラテス西方の長官のもとに到着する度に、王の書状を差し出すことができた。王はまた将校と騎兵をわたしと共に派遣してくれた。”

ご覧いただいたように、一方的な見方をすればエズラは、ネヘミヤよりも信仰深かったと見ることができますが、違う角度から見るなら、不器用なエズラは自分のプライドのために、大変なリスクを背負って出発してしまったと見ることもできます。実際、31節には、「道中待ち伏せる敵の攻撃」があったと書かれているからです。エズラは、自分のプライドのため、幼い子らを危険にさらしてしまったのです。ですから、ここの箇所は、より信仰のある方はエズラか、ネヘミヤか、ということより、単にエズラとネヘミヤの性格の違いについて描写されているのだと思います。二人とも信仰によって事を行いましたが、その信仰の具体的現れは、人によってそれぞれ異なるという事です。主を信じるという動機は全く同じでも、その具体的な現れは人によって異なるという事です。

【3】. エズラの信仰の実直さ

さて、エズラの一行は、結果的には神様の御手に守られ、敵の攻撃を免れて、無事エルサレムに到着することが出来ました。エルサレムに到着し、運搬してきた金、銀、祭具類を手渡し、焼き尽くす献げ物を捧げました。35節には、雄牛十二頭、或いは雄山羊十二匹をささげたと書かれています。「12」という数字がやはり強調されています。エズラの帰還は、全イスラエルを回復させるため、信仰の共同体を回復させるためであったということが暗示されています。神様は、エズラの働きと、帰還の民の上に御自身の御手を置いて守り導いてくださいました。その理由は、エズラの信仰の実直さにあったのではと私は思います。確かにエズラは、幼い子らを危険にさらしました。しかし、それはエズラの御言葉に対するこだわり、エズラの信仰の実直さの裏返しと言う事も言えるのではないかと思います。エズラは御言葉を研究し、細かいところまで、一つ一つ自分たちに適用しようとしています。例えば1月に帰還の民が、まさに出エジプトをするかのように、バビロンを出発したこともそうですが、祭司長の中から12人をえり分けて、神殿に捧げられる金、銀、祭具類の量を正確に量り、彼らに託したこともそうであります。8:24~25節をご覧ください。

“わたしは祭司長の中から十二人、すなわちシェレブヤ、ハシャブヤ、および彼らの兄弟十人をえり分けた。そして王とその顧問官たち、高官たち、および居合わせたすべてのイスラエル人が神殿への礼物としてささげた金銀、祭具を量って彼らに託した。”

エズラはえり分けた12人の祭司たちに次のように語っています。引き続き28~29節をご覧ください。

“わたしは彼らに言った。「あなたたちは、主にささげられた聖なる人々です。この祭具も聖なる物で、この金銀も、あなたたちの先祖の神、主にささげられる随意の献げ物です。これをエルサレムの神殿の祭司室で、祭司とレビ人の長たちとイスラエルの家長のいる前で、量って手渡すまで、よく注意して預かってください。」”

エズラは今回、運搬する金、銀、祭具類の量をきちんと量り、細心の注意を払って扱っていることが分かります。さらにそれを運搬する祭司たちにその働きの重要性を教えています。それはあたかも、「契約の箱」が、聖別された祭司しか触れることのできず、移動の際にはレビ人のケハテ族が、直接担がなければならなかった(民4:15、申31:25、ヨシュ3:6)という旧約聖書の記事を思い起こさせます。四か月の旅を終え、無事エルサレムに到着し、三日の休息を取った後、エズラは運んできた金、銀、祭具類を再び量り、領収書を発行するかのように記録し、神殿に納めました。8:33~34節をご覧ください。

“四日目に、わたしたちの神の神殿で金銀、祭具が量られ、ウリヤの子、祭司メレモトの手に渡された。ピネハスの子エルアザルがそれに立ち合い、レビ人のイエシュアの子ヨザバドとビヌイの子ノアドヤもそばにいた。数にも量にも間違いはなかった。数量はすべてそのとき記録された。”

神の神殿に納められる聖別された金、銀、祭具類が、聖別された12人の祭司とそれを助けるレビ人たちによって、しかるべき方法で正確に納められたのであります。これから御言葉によって共同体を建て上げて行こうとしている中で、御言葉のささいなところも、決してないがしろにせず、細かいところまでこだわりを見せたエズラの実直さ、エズラの几帳面さから、エズラがどれほど神の御言葉を愛していたのかが良く伝わってくる箇所であります。このエズラの姿勢は、ダビデ王が異教の地、カナンのキルヤト・エアリムにあった契約の箱を、細心の注意を払いながら、エルサレムに運び入れた姿に重ね合わせることが出来るのではないでしょうか。この箇所を私たちに適用するなら、神様に捧げる献金の仕方について適用できると思います。私たちは収入の1/10を献身のしるしとして神様に献げていますが、神のものは神のものとして、細心の注意を払い、聖別して献げるというエズラのような実直さ、几帳面さが私たちにも求められているのだと思います。また、集められた献金を集計し、教会の会計に入れる、伝道所委員会の働きがどれほど重要であるのかを教えてくれていると思います。ですから、私たちは引き続き伝道所委員が追加で与えられるように祈っていきたいと思います。

【結論】

本日の内容をまとめます。神様の御手に助けられ、御言葉を土台とする共同体が建て上げられて行きますが、そこで神様が用いられたのは、不器用ながらも実直な信仰を持ったエズラでありました。エズラにも極端な考え方、大人げなさという弱さがありました。しかし、神様の律法を誰より愛するエズラを、神様はお用いになられたのです。私たちもエズラのように、神様の御言葉を何より愛し、礼拝を中心とした共同体を建て上げる者として、神様に仕えていきたいと願います。御言葉に堅く立つ時、必ず神様の御手が私たちと共にあり、神の助けによってその営みが導かれることでしょう。

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하나님의 손이 도우사

2024년 12월15일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

에스라 8장 1~36절

서론

에스라가 이끄는 2차 귀환 백성은, 아닥사스다 왕 제7년 첫달에 바벨론은 떠났습니다. 제 2차 귀환은, 1차 귀환에 비해 매우 소규모로 이루어졌는데, 2~14절까지 족장들의 이름과 남자들의 숫자가 기록되어 있는데, 그 숫자는 1,500명 남짓입니다. 여기에 여성과 아이들을 합치면 아마 5,000명 정도의 인원이었을 것으로 추정됩니다. 만약 5,000명이라고 가정하면 이 숫자는 1차 귀환의 42,360명(2장 64절)에 비해, 약 1/8에 불과합니다. 그러나 규모와 상관없이 에스라 후반부에는 말씀에 기초한 공동체가 하나님의 도우심으로 세워져 가는 모습이 그려져 있습니다. 오늘도 에스라 8장의 말씀을 통해, 은혜 받기를 소망하며, 8장 2~3절 중간까지 읽어보시겠습니다.

(1) 말씀에 기초한 공동체의 재건

2 비느하스 자손 중에서는 게르솜이요 이다말 자손 중에서는 다니엘이요 다윗 자손 중에서는 핫두스요

3 스가냐 자손 ..

처음에 2차 귀환자 명단이 나옵니다.「비느하스」와 「이다말」이라는 이름을 주목해 보고자 합니다. 제사장 아론에게는 나답과 아비후, 엘르아살, 이다말, 이렇게 네 자녀가 있었습니다. 레위기 10장을 보면 자세히 나와 있지만, 나답과 아비후는 말씀에 순종하지 않아 불의의 죽음을 맞이했습니다. 그래서 아론의 자손은 엘르아살 계통과 이다말 계통 두 계통이 되는데 비느하스는 엘르아살의 아들입니다. 따라서 2절의 명단 작성은, 엘르아살 계통과 이다말 계통의 제사장의 후손을 기록한 것입니다. 다음으로 「다윗 자손 중에서는 핫두스요 스가냐 자손」으로 이어집니다. 이번에는 왕의 계보입니다. 여기 2~3절의 번역은 말씀 발췌본 프린트에도 인쇄되어 있지만, 새번역 2017의 번역(일본성경)에서는 「다윗 자손 중에서는 핫두스요 스가냐 자손」이라고 되어 있어 2절과 3절 전반부를 연결하고 있습니다. 즉 3절 전반부와 3절 후반부에 의미의 구분을 두고 있는 것입니다. 이는 역대기 왕의 계보에 다음과 같은 기사가 있기 때문인 것 같습니다. 역대기상 3장 22절을 참고하시기 바랍니다.

스가냐의 아들은 스마야요 스마야의 아들들은 핫두스와 이갈과 바리야와 느아랴와 사밧 여섯 사람이요

여기 보면 스마냐의 아들은 핫두스라고 분명히 적혀 있네요. 사실 성경의, 장이나 절이라는 것은 후대 사람들이 성경을 읽기 쉽게 하기 위해 안문한 것으로, 원래 사본에는 장이나 절 같은 것이 없습니다. 또한 많은 영어 성경 번역본 (KJV, RSV, NAS, NIV)에서는 새번역 2017과 마찬가지로 2절과 3절 전반부를 연결하여 번역하고 있기 때문에 우리도 2,3절을 「다윗 자손 중에서는 스가냐의 손자인 핫두스」로 읽어나가고자 합니다. 따라서 이 명단에는 먼저 제사장 일족이 기재되어 있고, 이어서 왕의 일족이 기재되어 있다는 것을 알 수 있습니다. 제 1차 귀환 명단에는 먼저 스룹바벨, 그 다음에 예수아가 기재되어 있다는 것을 알 수 있습니다. 제 1차 귀환 명단에서는 먼저 왕의 자손, 그 다음에 제사장의 자손이 기록된 것과는 대조적입니다. 이번에는 왜 제사장의 이름이 먼저 언급되었는지는, 제 2차 귀환의 에스라의 사역의 목적이, 백성들에게 율법을 가르치고 제사를 회복하고 예배를 회복하는 것이었기 때문인 것 같습니다. 이번 귀환은, 제사장의 사역에 중점을 두고 있다는 것입니다.

다음으로 3절 중반의 바로스 자손부터 14절의 비그왜 자손까지 이스라엘의 일반 백성들의 가족과 족장들의 이름이 기록되어 있습니다. 특히 가족 수가 12가족으로 되어 있는 것에 주목하고 싶습니다. 8장 전체에서 「12」라는 숫자가 여러 번 강조되고 있는데, 「12」라는 숫자는 구약성경에서 이스라엘 전체를 지칭하는 숫자입니다. 신약에서는 12사도라는 형태로 「12」라는 숫자가 다시 등장합니다. 성경 전체에서 「12」라는 숫자는 온 이스라엘, 하나님의 공동체, 하나님의 가족을 상징한다고 할 수 있습니다. 그러나 그것은 단순히 혈통적 이스라엘을 상징한다기보다는 영적 이스라엘, 참 이스라엘을 상징한다고 할 수 있습니다. 왜냐하면 바벨론에서 귀환한 백성은 유다와 베냐민 두 지파에 불과했기 때문입니다. 게다가 유다와 베냐민 족속이 모두 포로로 바벨론에 끌려간 것도 아니고, 그대로 유다 땅에 남거나 애굽으로 도망간 사람들도 있었습니다. 그러나 성경은 유다 땅에 그대로 남아 있거나 애굽으로 도망친 자들에 대해서는 이스라엘이라는 단어를 사용하지 않고, 바벨론에서 귀환한 백성들에게만「이스라엘」이라는 단어를 사용하고 있습니다. 이것이 갖는 의미는 매우 크다고 생각합니다. 이스라엘이라는 단어는, 혈통에 얽매이지 않는다는 것입니다. 시련을 통과하고 말씀오로 세워지는 공동체야말로 하나님의 시선이 집중되어 있는 것입니다. 에스라 후반부는 바로 말씀에 기초한 공동체의 재건에 대해, 진정한 이스라엘, 영적 이스라엘의 재건에 대해 그려져 있습니다.

(2) 아화와 강 가에서

에스라 일행이 아화와 강가에서 사흘 동안 진을 치고 있을 때, 레위인이 보이지 않는 것을 깨닫습니다. 레위인이란, 제사를 드릴 때 제사장을 돕는 사람들입니다. 에스라는 가시뱌 지방의 족장인 잇도에게 사자를 보내 「우리 하나님의 성전을 위하여 섬길 자를 데리고 오라」라고 전하게 했습니다. 그러자 38명의 레위인과 220명의 성전 일꾼을 보내주었습니다. 「성전 일꾼」은 에스라 2장 43절에 나오는 「느디님」을 가리키는데, 8장 18~21절을 보시겠습니다.

18 우리 하나님의 선한 손의 도우심을 입고 그들이 이스라엘의 손자 레위의 아들 말리의 자손 중에서 한 명철한 사람을 데려오고 또 세레바와 그의 아들들과 형제 십팔 명과

19 하사뱌와 므라리 자손 중 여사야와 그의 형제와 그의 아들들 이십 명을 데려오고

20 다윗과 방백들이 레위 사람들을 섬기라고 준 느디님 사람 중 성전 일꾼은 이백이십 명이었는데 그들은 모두 지명 받은 이들이었더라

21 그 때에 내가 아화와 강 가에서 금식을 선포하고 우리 하나님 앞에서 스스로 겸비하여 우리와 우리 어린 아이와 모든 소유를 위하여 평탄한 길을 그에게 간구하였으니

38명의 레위인과 220명의 성전 일꾼들이 에스라의 부름에 응했습니다. 언뜻 보기에 적다고 느낄 수도 있지만, 적어도 에스라의 눈에는 하나님의 은혜의 징표로 보였을 것입니다. 그들이 즉시 에스라의 부름에 응답해 주었기 때문일 것입니다. 에스라는 아화와 강가에서 금식을 선포합니다. 금식은, 기도의 또 다른 표현입니다. 하나님 앞에 낮아져 앞으로의 여정을 하나님께서 지켜주시기를 간절히 기도한 것입니다. 건조하고 더운 날씨에 하루에 약 16km를 이동하는 것은, 4개월에 걸친 긴 여정이 될 것입니다. 그리고 온 가족이 함게 이동하는 것이기에 어린아이들이나 몸이 약한 사람들도 있었을 것입니다. 에스라는 무리 전체가 하나님의 손 안에서 보호받아 여정이 평탄한 길이 되도록 간구했습니다. 또한 이번 이동에는 금, 은, 그릇들을 운반하는 것도 있었기 때문에 강도의 습격을 받을 위험도 있었을 것입니다. 그러나 에스라는 22절에서 아닥사스다 왕에게「우리 하나님의 손은 자기를 찾는 모든 자에게 선을 베푸시고 자기를 배반하는 모든 자에게는 권능과 진노를 내리신다 하였으므로」라며, 길에서 적군을 막고 자신들을 도울 보병과 마병을 왕에게 구하기를 부끄러워 하였습니다. 만약 에스라가 호위를 요청했다면, 쉽게 얻었을 것으로 추정됩니다. 7장 6절에 에스라가 구하는 것은 다 받을 수 있다고 기록되어 있기 때문입니다. 느헤미야 2장 7~9절을 살펴보겠습니다.

느헤미야 2장

7 내가 또 왕에게 아뢰되 왕이 만일 좋게 여기시거든 강 서쪽 총독들에게 내리시는 조서를 내게 주사 그들이 나를 용납하여 유다에 들어가기까지 통과하게 하시고

8 또 왕의 삼림 감독 아삽에게 조서를 내리사 그가 성전에 속한 영문의 문과 성곽과 내가 들어갈 집을 위하여 들보로 쓸 재목을 내게 주게 하옵소서 하매 내 하나님의 선한 손이 나를 도우시므로 왕이 허락하고

9 군대 장관과 마병을 보내어 나와 함께 하게 하시기로 내가 강 서쪽에 있는 총독들에게 이르러 왕의 조서를 전하였더니

보시는 것처럼 언뜻 보면 에스라가 느헤미야보다 믿음이 더 깊었다고 볼 수 있지만, 다른 각도에서 보면 서투른 에스라가 자신의 자존심 때문에 큰 위험을 무릅쓰고 출발한 것으로 볼 수도 있습니다. 실제로 31절에는 「대적과 길에 매복한 자의 손에서 건지신지라」라고 기록되어 있기 때문입니다. 에스라는 자신의 자존심 때문에 어린 자녀들을 위험에 빠뜨린 것입니다. 그래서 이 구절은 에스라가 더 믿음이 좋은 사람인가, 느헤미야가 더 믿음이 좋은 사람인가 보다는 단순히 에스라와 느헤미야의 성경의 차이에 대해 묘사하고 있는 것 같습니다. 두 사람 모두 믿음으로 일을 행했지만, 그 믿음의 구체적 표현은 사람에 따라 각각 다르다는 것입니다. 주님을 믿는 동기는 똑같지만 그 구체적인 표현은 사람마다 다르다는 것입니다.

(3) 에스라의 믿음의 정직함

에스라 일행은 결과적으로 하나님의 보호하심을 받아 적의 공격을 피해 무사히 예루살렘에 도착할 수 있었습니다. 예루살렘에 도착하여 운반해 온 금, 은, 그릇들을 건네고 번제를 드릴 수 있었습니다. 35절에 보면 수송아지 열두 마리, 숫염소 열두 마리를 드렸다고 기록되어 있습니다. 역시「12」라는 숫자가 강조되고 있습니다. 에스라의 귀환은, 온 이스라엘을 회복하기 위해, 믿음의 공동체를 회복하기 위한 것임을 암시하고 있습니다. 하나님께서는 에스라의 사역과 귀환하는 백성 위에 당신의 손을 얹어 보호하시고 인도하셨습니다. 그 이유는 에스라의 믿음의 정직함에 있지 않았을까 생각합니다. 확실히 에스라는, 어린 자녀들을 위험에 빠뜨린 것은 사실입니다. 그러나 그것은 에스라의 말씀에 대한 집착, 에스라의 신앙의 정직함의 반증이라고도 할 수 있을 것 같습니다. 에스라는 말씀을 연구하고 세세한 부분까지 하나하나 자신에게 적용하려고 노력합니다. 예를 들어 첫달에 귀환하는 백성이, 마치 출애굽을 하듯 바벨론을 떠난 것도 그렇고, 제사장들 중 12명을 뽑아 성전에 바칠 금, 은, 그릇들의 양을 정확히 계량하여 그들에게 맡긴 것도 그렇습니다. 8장 24~25절을 보시기 바랍니다.

24 그 때에 내가 제사장의 우두머리들 중 열두 명 곧 세레뱌와 하사뱌와 그의 형제 열 명을 따로 세우고

25 그들에게 왕과 모사들과 방백들과 또 그 곳에 있는 이스라엘 무리가 우리 하나님의 성전을 위하여 드린 은과 금과 그릇들을 달아서 주었으니

에스라는 12명의 제사장들에게 다음과 같이 말합니다. 계속해서 28~29절을 보시기 바랍니다.

28 내가 그들에게 이르되 너희는 여호와께 거룩한 자요 이 그릇들도 거룩하고 그 은과 금은 너희 조상들의 하나님 여호와께 즐거이 드린 예물이니

29 너희는 예루살렘 여호와의 성전 골방에 이르러 제사장들과 레위 사람의 우두머리들과 이스라엘 족장들 앞에서 이 그릇을 달기까지 삼가 지키라

에스라는 이번에 운반할 금, 은, 그릇들의 양을 정확히 계량하고 세심하게 다루고 있음을 알 수 있습니다. 또한 그것을 운반하는 제사장들에게 그 일의 중요성을 가르치고 있습니다. 그것은 마치 「언약궤」는 성별된 제사장만 만질 수 있고, 이동 시에는 레위인 고핫 자손이 직접 운반해야 했던(민수기 4장 15절, 신명기 31장 25절, 여호수아 3장 6절) 구약성경의 기사를 떠올리게 합니다. 4개월의 여정을 마치고 무사히 예루살렘에 도착해 3일간의 휴식을 취한 후, 에스라는 가져온 금, 은, 그릇들을 다시 계량하고 영수증을 발급하듯 기록하여 성전에 바쳤습니다. 8장 33~34절을 보시기 바랍니다.

33 제사일에 우리 하나님의 성전에서 은과 금과 그릇을 달아서 제사장 우리아의 아들 므레못의 손에 넘기니 비느하스의 아들 엘르아살과 레위 사람 예수아의 아들 요사밧과 빈누이의 아들 노아댜가 함께 있어

34 모든 것을 다 세고 달아 보고 그 무게의 총량을 그 때에 기록하였느니라

하나님의 성전에 바쳐질 성결한 금, 은, 그릇들이 성별된 12제사장과 이를 돕는 레위인들에 의해 마땅한 방법으로 정확하게 바쳐진 것입니다. 앞으로 말씀으로 공동체를 세워가려고 하는 가운데, 말씀의 작은 부분도 결코 소홀히 하지 않고 세세한 부분까지 꼼꼼하게 챙기는 에스라의 정직함, 에스라의 꼼꼼함에서 에스라가 얼마나 하나님의 말씀을 사랑했는지 잘 알 수 있는 대목입니다. 이러한 에스라의 자세는, 다윗 왕이 이교도 땅 가나안 땅 기럇 여아림에 있던 언약궤를 세심한 주의를 기울여 예루살렘으로 옮기는 모습과 겹쳐볼 수 있지 않을까요? 이 구절을 우리에게 적용한다면, 하나님께 드리는 헌금에 대해서도 적용할 수 있을 것 같습니다. 우리는 수입의 1/10을 헌신의 표시로 하나님께 드리고 있지만, 하나님의 것은 하나님의 것이기에 세심한 주의를 기울여 성별하여 드리는 에스라와 같은 정직함과 꼼꼼함이 우리에게도 요구되는 것 같습니다. 또한, 모아진 헌금을 집계하여 교회 회계에 넣는 전도소위원회의 사역이 얼마나 중요한지 알려주고 있는 것 같습니다. 그래서 우리는 계속해서 전도소의원이 추가로 세워지도록 기도하고 싶다고 생각합니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 하나님의 도우심으로 말씀에 기초한 공동체가 세워져 가는데, 거기서 하나님이 사용하신 것은, 서툴지만 에스라의 정직한 믿음이었습니다. 에스라에게도 극단적인 사고방식, 어른스럽지 못하다는 약점이 있었습니다. 하지만 하나님의 율법을 누구보다 사랑하는 에스라를 하나님은 사용하셨습니다. 우리도 에스라처럼 하나님의 말씀을 무엇보다 사랑하고, 예배를 중심으로 공동체를 세우는 자로 하나님을 섬기기를 소망합니다. 말씀에 굳게 설 때, 반드시 하나님의 손길이 우리와 함께 하시고, 하나님의 도우심으로 우리의 믿음의 걸음이 인도받을 것입니다.

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