2024年11月17日「執拗な妨害 집요한 방해」

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執拗な妨害 집요한 방해

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
エズラ記 4章5節~24節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:5ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで、参議官を買収して建築計画を挫折させようとした。
4:6クセルクセスの治世にはその治世の初めに、ユダとエルサレムの住民に対する告訴状が書き送られた。
4:7また、アルタクセルクセスの時代には、ビシュラム、ミトレダト、タベエル、およびその仲間がペルシア王アルタクセルクセスに書簡を送った。その文書はアラム文字で記され、アラム語に訳されていた。
4:8行政官レフムと書記官シムシャイはアルタクセルクセス王にあて、エルサレムについてこのような書簡を書き送った。
4:9「行政官レフムと書記官シムシャイは、他の仲間たち、裁判官と巡察官、それにタルペル人、ペルシア人、ウルク人、バビロニア人、スサ人すなわちエラム人、
4:10更に、貴く偉大なオスナパルがサマリアの町々とユーフラテス西方の他の地域に移住させたほかの諸国民と共に、……。」
4:11これが、彼らの書き送った書簡の写しである。「アルタクセルクセス王に、ユーフラテス西方の臣下一同より御報告します。
4:12王のもとからこちらに上って来たユダの者らがエルサレムに着き、反逆と悪意の都を再建していることをご存じでしょうか。彼らは既に城壁の工事を始め、基礎を修復しました。
4:13ご存じでしょうが、もしその都が再建され、城壁が完成しますと、彼らは年貢、関税、交通税を納めず、王に次々と損害を与えることになるに相違ありません。
4:14王室から俸給をいただく臣下として、王に対する非礼は見過ごすわけにはいかないので、事情をお知らせいたします。
4:15あなたの先祖の残された記録をお調べになれば、そこに出ているはずで、お分かりになることですが、この都は反逆の都で、歴代の王と諸州に損害を与えてきました。昔から反乱を繰り返し、そのためにこの都は破壊されたのです。
4:16この都が再建され、城壁が完成すれば、ユーフラテスの西方には、王の領土がなくなるということを、あらかじめお知らせします。」
4:17王は、次のような返事を送った。「行政官レフム、書記官シムシャイをはじめ、サマリアおよび他のユーフラテス西方の地方にいるその友人たちに、平和を祈る。
4:18さて、あなたたちの送ってくれた公文書は、わたしの前で翻訳され、読み上げられた。
4:19命じて調べさせたところ、その都は昔から歴代の王に対して反抗し、反逆と反乱を起こしたということが確認された。
4:20また強い王がエルサレムにいて、ユーフラテス西方全土を統治し、年貢、関税、交通税を徴収したことがあった。
4:21従って今、その人々に工事を中止するように命令せよ。改めてわたしが命令を出すまで、その都は再建されてはならない。
4:22この事をなおざりにしないように留意し、損失が大きくなって、王になおいっそうの迷惑が及ばぬようにせよ。」
4:23このアルタクセルクセス王の公文書の写しは、レフム、書記官シムシャイおよびその仲間の前で朗読された。彼らはエルサレムにいるユダの人々のもとに急いで行き、強引に武力で工事を中止させた。
4:24そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エズラ記 4章5節~24節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

エズラ記4章には、ペルシアの王クセルクセスとアルタクセルクセスが出てきます。聖書の中でクセルクセスと言えば、抜粋のプリントを見ていただくとよくわかりますが、エステル記に出て来る王様であり、アルタクセルクセスと言えば、改革者エズラをイスラエルに帰還させた王であります。そして城壁再建のためにネヘミヤを帰還させた王でもあります。ですからダレイオス王の治世から一気に時代が経過してしまったという印象を受けます。ところが、本日の箇所の最後の4章24節を見ると、再びダレイオス王の治世に戻っています。これは一体どういうことでしょうか、ある人は「クセルクセス」と「アルタクセルクセス」という王の名が、エステル記や、ネヘミヤ記に出て来る王たちを指しているのではなく、ダレイオス以前の別の王のことを指しているのではないか(キュロスとダレイオスの間)?或いは著者が単に名前を間違えてしまっただけではないか?と推測しています。この問題を解決するための、最も蓋然性のある解釈は、4章6節から23節まで、著者が後代の歴史的状況を「挿入させた」というふうに考える解釈です。つまり4章6節から23節までを挿入句として考える仕方です。この「挿入句」として解釈の決定的なキーワードは「城壁」という言葉になります。ご覧のように「城壁」という言葉が、12節、13節、16節に、ちらほら出てきますが、城壁工事は、神殿が完成された後に着手されました。城壁工事のことが語られているということは、明らかにダレイオスの治世以降の事柄が語られているということが分かります。それでは著者は、一体何の目的で、ここに未来の事柄を挿入させたのでしょうか。考えられるのは、ダレイオスの治世において神殿の建築が始まった時に、「我々も工事を手伝わせてください」と申し出てきた者たちがいました。後にサマリア人と呼ばれるエルサレム周辺の居住民です。彼らの協力の申し出は、一見すると有難いこと、素晴らしいことのように見えますが、帰還してきたユダヤ人は彼らのことを、4:1で「敵」とみなし、ぶっきらぼうに断りました。なぜ敵とみなしたのか、そのことを証明するために、ここで挿入句が入れられたと考えられるのです。実は彼らの心には別の動機があり、その動機とは、神殿の再建を執拗に妨害するという事でありました。彼らは神殿が再建された後にも継続的に、ユダヤ人に対し弾圧の手を緩めることはなかったのであります。

【1】. ユーフラテス川の西側の人々の訴え

6節にはクセルクセスの治世における妨害、そして7節からはアルタクセルクセスの治世における妨害が書かれています。特にアルタクセルクセスの治世に起こった妨害が詳しく書かれていて、4:8~6:18迄は、書体がヘブライ語から、アラム語へ変更されています。書体を変更させることにより、告訴状と、その告訴状に対する王の返事が、著者の主観的な記述ではなく、公の記述であることを示すためだと思われます。そもそも、アラム語というのはアッシリア帝国が公用語として定めていた言語で、バビロンもペルシアもそれを踏襲していました。現代における英語のような言語です。因みにヘブライ語とアラム語はよく似ていまして、新約時代のイエス様も普段、アラム語で会話をしていたと考えられています。それは置いておいて、告訴状の中身の方を見て行きましょう。8~11節をご覧ください。

行政官レフムと書記官シムシャイはアルタクセルクセス王にあて、エルサレムについてこのような書簡を書き送った。「行政官レフムと書記官シムシャイは、他の仲間たち、裁判官と巡察官、それにタルペル人、ペルシア人、ウルク人、バビロニア人、スサ人すなわちエラム人、更に、貴く偉大なオスナパルがサマリアの町々とユーフラテス西方の他の地域に移住させたほかの諸国民と共に、……。」これが、彼らの書き送った書簡の写しである。「アルタクセルクセス王に、ユーフラテス西方の臣下一同より御報告します。

最初に10節を見ますと「偉大なオスナパル」とあります。かつてアッシリア帝国の王であったオスナパルが賛辞されているのですが、このオスナパルとは、誰かと申しますと、アッシュルバニパルと同一視されています。新しく出た聖書協会共同訳聖書や、新改訳2017では、10節の「オスナパル」が「アッシュルバニパル」に改訂されています。アッシリア帝国は、センナケリブ―エサル・ハドン―アッシュルバニパルの時に最盛期を迎えました。この歴史的に偉大な王である「アッシュルバニパル」の名前を、告訴状に入れることによって、この書簡がさらに権威付けられることを狙っているのでしょう。さらに、この書簡はユーフラテス川の西側の様々な民族の総意であることを印象づけています。カナンも当然、ペルシア帝国から見れば、ユーフラテスの西側州に含まれていました。タルペル人、ペルシア人、ウルク人、バビロニア人、スサ人すなわちエラム人、その他の人々全員が口を揃えて訴えているということです。聖書には直接、アッシュルバニパルが移住政策をさせたという記事は出てきませんが、サルゴン二世と考えられるアッシリアの王が、移住させたという記事は列王記下に出てきます。列王記下17:24と32-33をご覧ください。

列王記下17:24

アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に住むことになった。

列王記下17:29-33

しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのように行った。バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、アワ人はニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々アドラメレクとアナメレクにささげた。彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。

ユーフラテス川の東側からサマリア地方に移住してきた人々の信仰の特徴は、「混合宗教」でありました。彼らはアッシリアに連行されなかったイスラエル地方に残された人々と混血し、主を畏れ敬い、主に礼拝を捧げましたが、同時に聖なる高台の上に祭壇を築いて、自分たちの神々に仕え、そして、何と人身御供として、子どもたちを火に投じることさえ行ったのであります。そのような信仰でしたので、たとえ彼らの口から「私たちは主ヤハウェを信じています」という言葉が出て来ても、それを額面通り受け入れることは出来ないのであります。この点について私たちに適用するなら、近年の私たちキリスト教会を取り巻く動きとして、「エキュメニカル運動」というものがあります。エキュメニカル運動とは、分派して別れたキリスト教の各教派を一致させようとする運動でありました。最近ではさらに進んで、キリスト教を超えて、諸宗教間の対話と協力を目指す運動という意味合いも含まれるようになりました。私たちは、東日本大震災を経験し、様々な宗教間で、対話と協力をしていきながら、人道的働きや被災地支援にあたることの大切さを学びました。しかし、私たちが信じている教理において、安易に妥協したり、信仰を互いに相対化させることは、大変危険の伴う事であります。なぜならイスラエルの民は、主ヤハウェを信じると言いながら、バアルとアシェラに同時に仕え、律法の教えから次第に逸脱して行き、そして、その行きついた先が、まさにバビロン捕囚であったからです。70年間、捕囚の辛酸を舐めて帰って来た民のDNAには「もう、決して異邦人とは交わらない」という性質が、刻み込まれていたのでありました。

【2】. 告訴状の中身

次に、告訴状の中身を見てみましょう。4:12~16節をご覧ください。

王のもとからこちらに上って来たユダの者らがエルサレムに着き、反逆と悪意の都を再建していることをご存じでしょうか。彼らは既に城壁の工事を始め、基礎を修復しました。ご存じでしょうが、もしその都が再建され、城壁が完成しますと、彼らは年貢、関税、交通税を納めず、王に次々と損害を与えることになるに相違ありません。王室から俸給をいただく臣下として、王に対する非礼は見過ごすわけにはいかないので、事情をお知らせいたします。あなたの先祖の残された記録をお調べになれば、そこに出ているはずで、お分かりになることですが、この都は反逆の都で、歴代の王と諸州に損害を与えてきました。昔から反乱を繰り返し、そのためにこの都は破壊されたのです。この都が再建され、城壁が完成すれば、ユーフラテスの西方には、王の領土がなくなるということを、あらかじめお知らせします。」

12節の「王のもとからこちらに上って来たユダの者」とは、恐らく第二次帰還をしたエズラたちか、或いはその後に帰還した人々のことを指していると推測されます。その頃は、既に神殿は再建されていました。その次の段階であるエルサレムの町の城壁と、都の礎の工事に着手していたということです。また、14節で「王室から俸給をいただく臣下」という言葉がありますが、直訳すると「王室から塩をいただく臣下」となっています。突然「塩」という言葉が出て来るのですが、古代、王室からの給料は塩で支払われていました。そのため、英語のサラリーsalary(給料)という言葉の語源は、塩を意味するサラリウムというラテン語に由来するそうです。話が逸れましたけれども、とにかく、サマリア人の書簡は王に忠誠を尽くすふりをしながら、ユダヤ人に対し「反逆」「損害」など否定的な言葉が繰り返すことで印象操作をし、神殿の建築に込められた意味を歪曲しているような感じを受けます。この書簡を受け取ったアルタクセルクセス王は、どうしたでしょうか。早速、言われた通りに、先祖の残された記録を調べさせ、工事の中止を命じました。サマリア人による書簡が効果てきめんだった訳です。ところでアルタクセルクセス王の書面には、「私が再び命令を下すまで」という言葉が加えられていて、単に工事の中断が命じられただけでありました。工事そのものの破壊や、既に完成した建物を焼き討ちすることまでは許可されていませんでした。しかし、実際には、彼らは破壊と焼き討ちを行い、社会秩序の混乱を引き起こしたのです。ネヘミヤ記1:2~3には次のように報告されています。ご覧ください。

兄弟の一人ハナニが幾人かの人と連れ立ってユダから来たので、わたしは捕囚を免れて残っているユダの人々について、またエルサレムについて彼らに尋ねた。彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」

このような行き過ぎた暴動は、当初サマリア人たちの訴えを無意味にし、結果的にアルタクセルクセス王は、むしろ告訴状を送って来た彼らに不信を抱くようになったと言えるでしょう。この後、王はネヘミヤを派遣することになるのです。

【3】. 敵対する勢力

さて、エズラ4:24節に戻りますと、「そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断された」とあります。一見すると、直前の内容を受けているように見えますが、時は、再びダレイオスの時代に戻り、その時代とは4章5節と同じであることが分かります。ですから、4章6節から23節までは、著者が未来を眺めた挿入句であるということが分かるのです。そして、挿入句が意味することとは、何だったのかと言えば、それは、時代を超えてなされたサマリア人による執拗な妨害であるという事です。そもそもユダとベニヤミンの民がエルサレムに神殿を再建することは、神様の御心でありました。それは預言の成就であり、主が自ら始められた御業でもありました。ですから帰還の際、民に出エジプトを想起させるような仕方であったため、彼らは勇気と確信を与えられたのです。決してユダの民が自分たちで、神殿の再建を決心し、自分たちで実行に移したということではなく、神様の導きの中で、主が御心を成就されていったと考えるべきです。そうであるなら、なぜ、その御業を妨害するようにサマリア人が現れ、ユダヤ人の前に立ちはだかったのでしょうか。しかも、その妨害というのは、一時の感情によるものだとか、一時の損得によるものではありません。歴史を通じて、長い年月をかけながら、絶えず神の御業に妨害するような形で現れてきているのです。このことが私たちに教えてくれることは、たとえ神様の御心であっても、いくら神様の御業であっても、霊的にそこに立ちはだかる反対勢力は常にあり、神の御心が成就されていくことに対し、抵抗し、立ちはだかるという事ではないでしょうか。このことは、神様の力が悪の勢力と拮抗しているということではありません。光と闇の勢力が、五分五分という事ではありません。神様の忍耐の中で、悪しき勢力に対しても福音が語られるようにする、神様のご配慮であるというふうに考えてください。どんなに悪しき勢力が結託して、神の御業を妨害しようとしても、最終的には必ず主の御心のみが成就されていくのです。ですから、私たちの日々の営みの中で、「神様どうしてですか!」、「これはあなたが始めてくださった御業ではないですか!」「あなたの導きに従っただけなのに、なぜこのような苦難に遭わなければならないのでしょうか!」と叫びたくなることがあるかもしれませんが、そのような状況に陥っても、私たちはただ私たちと共にいてくださる神様の導きに信頼し、必ず神様が御自身の御業を成し遂げてくださることを信じて、歩ませていただきましょう。

【結論】

本日の内容をまとめます。捕囚から帰って来た民が、神殿を建て上げるというのは、大変尊い働きであり、神の国を第一に求めることでありました。また、安易にサマリア人と協働することなく、サマリア人の信仰の実態をきちんと見極めたことも正しいことでありました。それにも拘わらず、スムーズに事が運ぶことはありませんでした。同じようなことが、私たちの日々の営みにおいても起こることでしょう。神の民に対する弾圧、神の御業の進展に対する妨害は、歴史を通して常になされてきた訳ですから、私たちにも神の働きを妨害する勢力が立ちはだかって来ることは想像できるのです。しかし、そのことに決して恐れたり落胆することのないようにしましょう。どんなに絶望的に感じても、神様の御業は、必ず神様ご自身が成し遂げてくださるからです。私たちは主の全能の御手に信頼しながら、粘り強く祈りを捧げ、御言葉に聞き従う者として日々の営みを歩ませていただきましょう。

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집요한 방해

2024년 11월17일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

에스라 4장 5~24절

서론

에스라 4장에는, 페르시아의 왕 아하수에로, 아닥사스다 왕이 나옵니다. 성경에서 아하수에로하면 발췌 프린트를 보시면 잘 아시겠지만 에스더서에 나오는 왕이고, 아닥사스다 하면 개혁자 에스라를 이스라엘로 귀환시킨 왕입니다. 그리고 성곽 재건을 위해 느헤미야를 귀환시킨 왕이기도 합니다. 그래서 다리오 왕의 치세에서 단숨에 시대가 지나갔다는 인상을 받습니다. 그런데 오늘 본문 마지막 4장 24절을 보면, 다시 다리오 왕의 치세 시대로 돌아가고 있습니다. 이것은 도대체 무슨 뜻일까요?

혹자는 「아하수에로」「아닥사스다」라는 왕의 이름이 에스더서나 느헤미야서에 나오는 왕들을 가리키는 것이 아니라, 다리오 이전의 다른 왕(고레스와 다리오 왕 사이)을 가리키는 것이 아닐까? 아니면 저자가 단순히 이름을 잘못 표기한 것은 아닐까? 라고 추측하고 있습니다.

이 문제를 해결하기 위한, 가장 유력한 해석은 4장 6절부터 23절까지 저자가 후대의 역사적 상황을 「삽입시켰다」는 식으로 생각하는 해석입니다. 즉 4장 6절부터 23절까지를 삽입구절로 생각하는 방식입니다. 이 「삽입구」로서 해석의 결정적인 키워드는 「성곽」이라는 단어가 됩니다. 보시다시피 「성곽」이라는 단어가 12절13절16절, 여기저기서 나오는데, 성곽 공사는 성전이 완성된 후에 시작되었습니다. 성곽 공사가 언급되고 있다는 것은 분명히 다리오의 치세 이후의 일을 말하고 있다는 것을 알 수 있습니다. 그렇다면 저자는 도대체 어떤 목적으로 여기에 미래의 일을 삽입시켰을까요? 생각할 수 있는 것은, 다리오 치세에 성전 건축이 시작되었을 때 「우리도 너희와 함께 건축하게 하라」라고 제안한 사람들이 있었습니다. 훗날 사마리아인으로 불리게 된 예루살렘 주변 거주민들입니다. 그들의 협력 제의는, 언뜻 보면 고맙고 좋은 일처럼 보이지만, 귀환한 유대인들은 그들의 제의에 대해, 4장 1절을 보면 「대적」이라 간주하고 단호하게 거절했습니다. 왜 그들을 대적으로 여겼는지, 그것을 증명하기 위해, 여기에 삽입구를 넣은 것으로 생각됩니다. 사실 그들의 마음에는 다른 동기가 있었는데, 그 동기는 성전 재건을 집효하게 방해하는 것이었습니다. 그들은 성전이 재건된 이후에도 지속적으로 유대인들에 대한 탄압의 고삐를 늦추지 않았습니다.

(1) 유브라데 강 건너편 사람들의 고발

6절에는 아하수에로 치세에서 일어난 방해, 그리고 7절부터는 아닥사스다 치세에서 일어난 방해가 기록되어 있습니다. 특히 아닥사스다의 치세에서 일어난 방해가 자세히 기록되어 있는데, 4장 8~6장 18절까지는 서체가 히브리어에서 아람어로 변경되어 있습니다. 서체를 바꾼 것으로 보아, 고소장과 그 고소장에 대한 왕의 답변이 저자의 주관적인 서술이 아닌 공적인 서술임을 나타내기 위한 것으로 보입니다. 애초에 아람어라는 것은 앗수르 제국이 공용어로 정한 언어였고, 바벨론도 페르시아도 이를 따랐습니다. 현대의 영어와 같은 언어입니다. 참고로 히브리어와 아람어는 비슷해서 신약시대의 예수님도 평소에는 아람어로 대화를 나눈 것으로 알려져 있습니다. 그 부분은 접어두고, 고발장의 내용을 살펴보겠습니다. 8~11절을 보시겠습니다.

8 방백 르훔과 서기관 심새가 아닥사스다 왕에게 올려 예루살렘 백성을 고발한 그 글에

9 방백 르훔과 서기관 심새와 그의 동료 디나 사람과 아바삿 사람과 다블레 사람과 아바새 사람과 아렉 사람과 바벨론 사람과 수산 사람과 대해 사람과 엘람 사람과

10 그 밖에 백성 곧 존귀한 오스납발이 사마리아 성과 유브라데 강 건너편 다른 땅에 옮겨 둔 자들과 함께 고발한다 하였더라

11 아닥사스다 왕에게 올린 그 글의 초본은 이러하니 강 건너편에 있는 신하들은

먼저 10절을 보면 「존귀한 오스납발」이라고 적혀 있습니다. 과거 앗수르 제국의 왕이었던 오스납발을 칭송하고 있는데, 이 오스납발이 누구인가 하면 아슈르바니팔과 동일시 되고 있습니다. 새로 나온 성서공회 공동번역 성경(일본성경)과 새번역 2017년(일본성경)에서는 10절의 「오스납발」이 「아슈르바니팔」로 개정되어 있습니다. 앗수르 제국은 산헤립 - 에살・핫돈 - 아슈르바니팔 시대에 전성기를 맞이했습니다. 이 역사적으로 위대한 왕인 「아슈르바니팔」의 이름을, 고발장에 넣음으로써 이 서한에 더욱 권위를 부여하려는 의도가 있었을 것입니다. 또한 이 서한은 유브라데 강 건너편의 다양한 민족들의 총의(総意)라는 인상을 심어주고 있습니다. 가나안도 당연히, 페르시아 제국의 입장에서 보면, 유브라데 강 건너편의 주에 포함되어 있었습니다. 디나 사람과 아바삿 사람과 다블레 사람과 아바새 사람과 아렉 사람과 바벨론 사람과 수산 사람과 대해 사람과 엘람 사람과 그 밖에 백성들이 모두 한목소리를 내고 있다는 것입니다. 성경에는 직접적으로 아슈르바니팔이 이주 정책을 했다는 기사는 나오지 않지만, 앗수르 제국의 초기의 단계의 사르곤 2세로 추정되는 앗수르 왕이 이주시켰다는 기사는 열왕기하에서 나옵니다. 열왕기하 17장 24절과 32~33절을 보시기 바랍니다.

24 앗수르 왕이 바벨론과 구다와 아와와 하맛과 스발와임에서 사람을 옮겨다가 이스라엘 자손을 대신하여 사마리아 여러 성읍에 두매 그들이 사마리아를 차지하고 그 여러 성읍에 거주하니라

32 그들이 또 여호와를 경외하여 자기 중에서 사람을 산당의 제사장으로 택하여 그 산당들에서 자기를 위하여 제사를 드리게 하니라

33 이와 같이 그들이 여호와도 경외하고 또한 어디서부터 옮겨왔든지 그 민족의 풍속대로 자기의 신들도 섬겼더라

유브라데 강 건너편에서 사마리아 지방으로 이주해 온 사람들의 신앙의 특징은 「혼합종교」였습니다. 그들은 앗수르에 끌려가지 않고 이스라엘 지방에 남겨진 사람들과 혼혈하여 여호와를 경외하고 주님께 예배를 드렸지만, 동시에 거룩한 산 위에 제단을 쌓고 자신들의 신들을 섬겼으며, 심지어는 인신공양으로 아이들을 불에 던지는 일까지 행했습니다. 그런 신앙이었기 때문에 그들의 입에서 「우리는 여호와를 믿습니다」라는 말이 나오더라도 그것을 액면 그대로 받아들일 수 없는 것입니다. 이 점을 우리에게 적용한다면, 최근 우리 기독교 교회를 둘러싼 움직임으로 「에큐메니칼 운동」이라는 것이 있습니다. 에큐메니칼 운동은 분파되어 갈라진 기독교의 각 교파를 일치시키려는 운동이었습니다. 최근에는 한 걸음 더 나아가 기독교를 넘어 여러 종교 간의 대화와 협력을 지향하는 운동이라는 의미도 포함하게 되었습니다. 우리는 동일본 대지진을 경험하면서 다양한 종교 간에 대화와 협력을 통해 인도주의적 사역과 피해지역 지원의 중요성을 배웠습니다. 그러나 우리가 믿는 교리에서 쉽게 타협하거나 신앙을 서로 상대화하는 것은 매우 위험한 일입니다. 왜냐하면 이스라엘 백성들은 여호와를 믿는다고 하면서 바알과 아세라를 동시에 섬기며 율법의 가르침에서 점점 벗어나게 되었고, 그 끝은 바로 바벨론 포로 생활이었기 때문입니다. 70년간 포로생활의 아픔을 딛고 돌아온 백성들의 DNA에는 「더 이상 이방인과 교제하지 않는다」는 성질이 각인되어 있었던 것입니다.

(2) 고발장의 내용

다음으로 고발장의 내용을 살펴보겠습니다. 4장 12~16절을 보시겠습니다.

12 왕에게 아뢰나이다 당신에게서 우리에게로 올라온 유다 사람들이 예루살렘에 이르러 이 패역하고 악한 성읍을 건축하는데 이미 그 기초를 수축하고 성곽을 건축하오니

13 이제 왕은 아시옵소서 만일 이 성읍을 건축하고 그 성곽을 완공하면 저 무리가 다시는 조공과 관세와 통행세를 바치지 아니라히니 결국 왕들에게 손해가 되리이다

14 우리가 이제 왕궁의 소금을 먹으므로 왕이 수치 당함을 차마 보지 못하여 사람을 보내어 왕에게 아뢰오니

15 왕은 조상들의 사기를 살펴보시면 그 사기에서 이 성읍은 패역한 성읍이라 예로부터 그 중에서 항상 반역하는 일을 행하여 왕들과 각 도에 손해가 된 것을 보시고 아실지라 이 성읍이 무너짐도 이 때문이니이다

16 이제 감히 왕에게 아뢰오니 이 성읍이 중건되어 성곽이 준공되면 이로 말미암아 왕의 강 건너편 영지가 없어지리이다 하였더라

12절의 「당신에게서 우리에게로 올라온 유다 사람들」은 아마도 2차 귀환을 한 에스라 일행이거나, 혹은 그 이후에 귀환한 사람들을 가리키는 것으로 추측됩니다. 그 당시, 이미 성전은 재건된 상태였습니다. 그 다음 단계인 예루살렘 성곽과 성읍의 초석 공사에 착수했다는 것입니다. 또한 14절에 「왕궁의 소금을 먹으므로」라는 말이 나오는데, 직역하면 「왕궁에서 봉급을 받는 신하」가 됩니다. 갑자기 「소금」이라는 단어가 나오는데, 고대에는 왕실의 봉급을 소금으로 지급했습니다. 그래서 영어의 월급 salary(급여)라는 단어의 어원은 소금을 뜻하는 살라리움이라는 라틴어에서 유래했다고 합니다. 이야기는 좀 벗어났지만, 어쨌든 사마리아인의 편지는 왕에게 충성하는 척하면서 유대인들에게 「패역」「악한」「반역」등 부정적인 단어를 반복적으로 사용해 부정적인 인상으로 조작을 하고, 성전 건축에 담긴 의미를 왜곡하고 있는 듯한 느낌을 받습니다. 이 편지를 받은 아닥사스다 왕은 어떤 반응을 보였을까요? 즉시 들은 대로 조상들이 남긴 기록을 조사하게 하고 공사를 중단하라고 명령했습니다. 사마리아인의 편지가 효과를 톡톡히 본 셈입니다. 그런데 아닥사스다 왕의 서신에는 「내가 다시 조서 내리기를 기다리라」라는 말이 덧붙여져 있어 단순히 공사 중단을 명령한 것뿐이었습니다. 공사 자체를 파괴하거나 이미 완성된 건물을 불태우는 것까지는 허용되지 않았습니다. 그러나 실제로 그들은 파괴와 불태우기를 자행하여 사회 질서를 혼란에 빠뜨렸습니다. 느헤미야 1장 2~3절에는 다음과 같이 기록되어 있습니다. 보시기 바랍니다.

2 내 형제들 가운데 하나인 하나니가 두어 사람과 함께 유다에서 내게 이르렀기로 내가 그 사로잡힘을 면하고 남아 있는 유다와 예루살렘 사람들의 형편을 물은즉

3 그들이 내게 이르되 사로잡힘을 면하고 남아 있는 자들이 그 지방 거기에서 큰 환난을 당하고 능욕을 받으며 예루살렘 성은 허물어지고 성문들은 불탔다 하는지라

이러한 지나친 폭동은, 사마리아인들의 고발을 무의미하게 만들었고, 결과적으로 아닥사스다 왕은 오히려 고발장을 보내온 그들을 불신하게 되었다고 할 수 있습니다. 이후 왕은 느헤미야를 파견하게 됩니다.

(3) 적대 세력

그런데 에스라 4장 24절로 돌아가서, 「성전 공사가 바사 왕 다리오 제이년까지 중단되니라」라고 기록되어 있습니다. 언뜻 보면, 바로 직전의 내용을 이어받은 것처럼 보이지만, 시간은 다시 다리오 시대로 돌아가고, 그 시대는 4장 5절과 동일하다는 것을 알 수 있습니다. 따라서 4장 6절부터 23절까지는, 저자가 미래를 바라본 삽입구라는 것을 알 수 있습니다. 그리고 삽입구절이 의미하는 바가 무엇이었느냐 하면, 그것은 시대를 초월한 사마리아인의 집요한 방해였다는 것입니다. 애초에 유다와 베냐민 백성이 예루살렘에 성전을 재건하는 것은 하나님의 뜻이었습니다. 그것은 예언의 성취이며, 주님께서 친히 시작하신 일이었습니다. 그래서 귀환할 때 백성들에게 출애굽을 떠올리게 하는 방식으로 용기와 확신을 주셨던 것입니다. 결코 유다 백성들이 스스로 성전 재건을 결심하고 스스로 실행에 옮겼다는 것이 아니라, 하나님의 인도하심 가운데 주님의 뜻이 이루어졌다고 생각해야 합니다. 그렇다면 왜 사마리아인이 나타나서 그 일을 방해하기 위해 유대인들 앞에 섰을까요? 게다가 그 방해라는 것은 일시적인 감정이나 일시적인 손익에 의한 것이 아닙니다. 역사를 통해 오랜 세월에 걸쳐 끊임없이 하나님의 일을 방해하는 형태로 나타나고 있는 것입니다. 이것이 우리에게 가르쳐 주는 것은, 아무리 하나님의 뜻이라 할지라도, 아무리 하나님의 일이라 할지라도 영적으로 거기에 대항하는 반대 세력은 항상 존재하며, 하나님의 뜻이 이루어지는 것에 대해 저항하고 방해한다는 것이 아닐까요? 이것은 하나님의 힘이 악의 세력과 대적하고 있다는 뜻이 아닙니다. 빛과 어둠의 세력이 반반이라는 뜻이 아닙니다. 하나님의 인내 가운데 악한 세력에게도 복음이 전해지도록 하는 하나님의 배려라고 생각하시면 됩니다. 아무리 악한 세력이 결탁하여 하나님의 일을 방해하려 해도 결국에는 반드시 주님의 뜻만이 이루어질 것입니다. 그러므로 우리의 일상의 삶 속에서 “하나님 왜 이러세요!” “이것은 하나님이 시작하신 일이잖아요!” “저는 하나님의 인도하심에 순종했을 뿐인데 왜 이런 고난을 당해야 하나요!”라고 외치고 싶을 때가 있을지도 모르겠습니다. 그러한 상황에 처했을 때도 우리는 그저 우리와 함께 하시는 하나님의 인도하심을 신뢰하고, 반드시 하나님께서 당신의 일을 이루실 것을 믿고 걸어가도록 합시다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 포로에서 돌아온 백성이 성전을 세우는 것은 매우 고귀한 사역이며, 하나님 나라를 먼저 구하는 일이었습니다. 또한 쉽게 사마리아인과 협력하지 않고 사마리아인의 신앙의 실체를 제대로 파악한 것도 옳은 일이었습니다. 그럼에도 불구하고 일이 순조롭게 진행되지 않았습니다. 이와 비슷한 일이, 우리의 일상의 삶 속에서도 일어날 수 있습니다. 하나님의 백성에 대한 탄압, 하나님의 역사의 진전에 대한 방해는, 역사를 통해 늘 있어왔기 때문에, 우리에게도 하나님의 역사를 방해하는 세력들이 다가온다는 것은 상상할 수 있습니다. 그러나 그 일로 인해 결코 두려워하거나 낙담하지 맙시다. 아무리 절망적으로 느껴져도, 하나님의 역사는 반드시 하나님께서 친히 이루실 것이기 때문입니다. 우리는 주님의 전능하신 손길을 신뢰하며, 끈기있게 기도하고, 말씀에 귀 기울이고 순종하는 자로 매일매일의 삶을 걸어가도록 합시다.

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