2024年10月06日「復活の驚き 부활의 놀라움」

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復活の驚き 부활의 놀라움

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 16章1節~8節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 16章1節~8節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様の復活は福音のハイライトです。悲しみと絶望に圧倒された安息日が終わり、週の初めの日の朝、女性たちがイエス様の葬られた墓に行ってみると、遺体はなく空であったということが本日の箇所で記述されています。この「週の初めの日」という言葉は、キリスト教会にとって特別の意味を持つ言葉となりました。この日、まさにイエス様が復活されたからであります。ところが、マルコによる福音書は、なんとも中途半端な形で復活の記事に幕が下ろされています。と言うのも、ほとんど全ての学者たちが認めるところですが、9節以降は括弧で括られていて、後代の付け足しであることが判明されているからです。ですから、他の福音書とは違って、マルコによる福音書には、復活後のイエス様の顕現の記事がすっぽり抜け落ちているのです。それでは9節以降は、本来存在していたのに紛失されてしまったのでしょうか、或いは最初から著者マルコは、あえて8節で終わりとしたのでしょうか。この点については、様々な議論があるものの、今のところ統一見解はありません。私たちは、著者マルコが8節でこの福音書を書き終えたものと理解し、読み進めていきたいと思います。従いまして、マルコによる福音書の講解説教も本日で最後ということになります。

【1】. 復活の証人として用いられる女たち

1節にマグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメという三人の女性たちが出てきますが、この三人は15章40節にも名前が出てきました。その内の二人は15章の最後の節である47節にも出てきます。15:47をご覧ください。

“マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。”

このように女たちは、イエス様が墓に埋葬される一部始終を見ていましたので、その場所をはっきりと認識していました。安息日が終わると、女性たちは香料を買い求め、イエス様のご遺体にそれを塗りに行くため、朝早く出て行きました。遺体に香料を塗るというのは、すべての人に行われた訳ではなかったようです。王様や特別な人たちにのみ香料が使用されました。蒸し暑い地中海の気候の中で、高価な香料は、遺体が急激に腐敗し悪臭を放つのを防ぐための効果があったようです。女性たちはイエス様の墓に急ぎました。そのご遺体に高価な香料を塗りながら、イエス様の死を心ゆくまで、嘆き悲しみたいと願ったのでありましょう。3節を見ますと、彼女たちは、一体誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうかと心配しています。恐らく墓の石は円盤状であり、大の男ニ、三人によって、ようやく動かすことができる程の重さであっただろうと考えられます。ですから客観的に見れば、彼女たちの行動は全く分別がなく、意味のないことをしているということになります。この朝早くに、あの大きな石を動かしてくれる大の男を三人も、どうやって見つけるのでしょうか。もし、見つけることができなければ、ひたすら墓の前で待つということなのでしょうか。しかし、そんなことはお構いなしで、彼女たちとしては、少しでも早くイエス様のご遺体に走っていきたいという一心でありました。そこに、彼女たちの深い愛と献身的な姿を見て取ることが出来ます。そして、そのような愛と献身的な姿を、神様は復活の証人としてお用いになられたのです。

【2】. 震え上がり、正気を失う

女性たちがいざ墓に到着すると、想定外のことが起こりました。4~5節をご覧ください。

“ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。”

あの大きな石が既にわきに転がしてありました。ここの箇所のギリシア語を見ますと受動態になっていますから、神によって転がされたということが暗示されています。そしてさらに驚かされるのは、墓の中に「白い長い衣を着た若者が右手に座っていた」という事です。若者が誰なのかはっきりとは書かれていませんが、「白い長い衣を着ていた」という言葉に注目してください。一見すると祭司のような姿ですが、この言葉は、天使を暗示していると思われます。実際、マタイ福音書の平行記事では、はっきりと天使であると記述されています。女性たちは、この状況の中でひどく驚き戸惑いました。果たして自分たちの香料を塗るという目的を無事に達成することができるか、不安がよぎったのだと思います。ところで、イエス様は十字架にかかられる前に、ご自身の復活について、何度もご自身のお言葉によって語って来られました。三度の受難予告の中では、必ず最後に復活が言及されています(8:31、9:31、10:34)。それにも拘わらず、男の弟子たちであれ、女の弟子たちであれ、イエス様の復活を期待した人は誰一人いませんでした。天使は、ひどく戸惑っている女性たちに「驚くことはない」と言われ、女性たちが何のためにここに来たのか、全てお見通しであるかのように語り出しました。16:6~7節をご覧ください。

“驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。”

天使は「あの方は復活なされた」と説明しています。この「復活なされた」という言葉もやはり受動態になっていまして「神によって蘇らされた」ということが暗示されています。また、7節の二重カッコの箇所は、かつて、イエス様がおっしゃった言葉でもありました。弟子たちが全員、エルサレムにおいて信仰の挫折をした後、イエス様は復活し、弟子たちより先にガリラヤに行くと、具体的におっしゃっておられました。14:28のイエス様のお言葉を確認してみましょう。

“しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。”

天使はこのメッセージを弟子たちと、そして特にペトロに告げなさいと言うのです。ガリラヤという場所は、弟子たちの故郷でありました。十二弟子はこのガリラヤで選ばれました。また、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメたちを中心とする女性たちも、やはりガリラヤからイエス様にお従いし、エルサレムまで旅を続けてきました。今、弟子たちは信仰に挫折して、自分たちの故郷に帰ろうとしています。羊飼いを失い、途方に暮れるかのように、すごすごとガリラヤに帰ろうとしています。イエス様は、そのことを見越して、先にガリラヤに行くと言われたのです。そのガリラヤで弟子たちと新たに出会ってくださり、特に三度イエス様のことを否認したペトロに赦しを与え、もう一度弟子たちを信仰者として立てようとしておられるのです。天使の語ってくれた言葉は、何と有難いお言葉だったのでしょうか。

ところが、この言葉を聞いて、女性たちは果たして喜んだのかと言うと決してそうではありませんでした。女性たちは「墓から逃げ出した」と書かれています。「震え上がり、正気を失った」と書かれています。え?これは一体どういうことなのでしょうか。恐らく女性たちは、神の聖なる出来事を前にして、畏れの念を持ったのではないでしょうか。この出来事は女性たちが直ちに把握するにはあまりにも素晴らしい出来事でありました。この出来事は女性たちが直ちに把握するにはあまりにも偉大な出来事でありました。それで何が何だか分からずに取った行動が、「墓から逃げ出し、震え上がり、正気を失った」ということなのだと思います。「正気を失う」という言葉は、マルコ5:42にも同じ言葉が出てきました。死んでしまった会堂長ヤイロの娘が、イエス様によって蘇らされる場面です。マルコ5:42をご覧ください。

“少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。”

「我を忘れるほどの驚き」とあります。日本語の翻訳が異なるので少し分かりづらいですが、ギリシア語では、エクスタシスἔκστασιςという言葉が使用されていて、「正気を失う」と、同じ言葉であります。復活という出来事を前にして、女性たちはどのようにこの出来事を受け止めればいいのか分からなかったということなのでしょう。ただ、そこに神の聖なる光が、まぶしいほどに射しこんでいる、そのことだけは理解できたのだと思います。8節の最後に、女性たちは「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったから」とありますが、この言葉も大変含蓄のある言葉です。と言いますのは、マルコによる福音書はこれまで、復活という出来事が公になる前、人々は広めてはならないと言われたニュースをあちこちに広めてきました。例えば、マルコ1:44~45節です。

“言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。”

また、同じような記事が7:36にも書かれています。ご覧ください。

“イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。”

イエス様の奇跡によってそのことが口止めされたのにも拘わらず、人々はかえってますます言い広めました。しかし、いよいよ、復活という出来事が公になり「弟子たちとペトロにこのことを告げなさい」と命じると、今度は誰にも、何も言わなかったと沈黙を守るのです。それは、この「復活」という出来事が、これまでの奇跡とは全く比べ物にならないということを示しているのだと思います。それだからと言って、女性たちが、この先ずーと、「誰にも、何も言わなかった」ということではありません。状況を少しずつ理解し、恐れと戸惑いが、確信と喜びに変えられて行き、しばらくして女性たちは使徒たちのところに走っていき、空になった墓について語ったに違いないのです。イエス様の復活について証言したに違いないのです。そのことは、ローマのキリスト者たちが一番よく知っていました。最初の復活の証人となったのは、弟子たちの中で、使徒ではなく、力も、名もない、彼女たちであったということを知っていたのです。イエス様の葬られた墓が正確にどこであり、その墓がどのようにして空になったのか、詳細に証しした人は、まさに彼女たちでありました。そのことは初代教会の誰もが認めるところでありました。

【3】. マルコ福音書の終わり方

最後に一つ考えたいことは、なぜマルコは、復活後のイエス様の顕現をあえて書こうとしなかったのかということです。これは完全に推測に過ぎませんが、この福音書はネロ皇帝の激しい迫害の中、AD.64年以降に、ローマのキリスト者に対して書かれたものであると考えられています。彼らを励まし、慰めるためにこの福音書は書かれました。当時、既にイエス様は天に昇られましたから、ローマのキリスト者は、顔と顔を合わせて、イエス様に直接お会いすることは出来ませんでした。現代の私たちも同様ですね。私たちは誰もイエス様をこの目で見て、信じたのではありません。そんな彼らから、イエス・キリストというお方に対して、次のような疑いが出て来る訳です。「一体、あなたは誰ですか?」そして、本当に、神という方がおられるなら、私たちを何故このように惨めで、悲惨な迫害の中に放置されるのですか?「神は本当に生きておられるのですか?」という疑いです。著者マルコは、そのような声に誠実に答えるべくマルコ1:1から、「神の子イエス・キリストの福音」について16章に渡って書き記してきました。迫害を受けているローマのキリスト者の状況は一向に変わらず、彼らは依然としてイエス・キリストの苦難に与っていますが、彼らが究極的な勝利を果たして得ることができるのか、その「疑い」が全く愚かなものであることを想起させる必要がありました。今、正気を失うほどの女性たちの驚きによって、この福音書を衝撃的に閉じることにより、著者マルコは逆に彼らに問いかけているのです。「あなた方は、この方とどのように向き合うのか」と。そして、「このお方こそ、復活された救い主メシアであり、死に勝利された神の子であることを、受け入れるのか」と、逆に問いかけているのです。その問いかけに、読者たちは、私たちも含め信仰をもって応答するべきであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。マルコ福音書の最後は、神の聖なる光がまぶしいほどに射しこみ、思わず、正気を失うほどの神の素晴らしい奇跡について書かれていました。その奇跡とは、「復活」です。イエス様の復活を通して、この方が神の子であることが証しされました。イエス様の復活を通して、この方が死に勝利されたことが証しされました。イエス様の復活を通して、キリストに結ばれている者たちが義とされ、罪に対する身代金が完全に支払われたことが証しされました。たとえ、今は苦難の中に置かれていても、究極的な勝利が与えられることが確定されました。そのことに感謝しつつ、私たちもイエス・キリストを神の子であることを信じ、この方のご復活を喜び祝うため共に礼拝を献げ、共に讃美し、共に祈り合う私たちとして、日々の営みを歩ませていただきたいと願います。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

부활의 놀라움

2024년 10월6일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 16장 1~8절

서론

예수님의 부활은 복음의 하이라이트입니다. 슬픔과 절망에 압도된 안식일이 끝나고, 안식 후 첫날 아침에, 여성들이 예수님이 묻힌 무덤에 가 보니, 시체는 없고 비어있었다는 것이 오늘 본문에 기술되어 있습니다. 이 「안식 후 첫날」이라는 말은, 그리스도교회에 특별한 의미를 지닌 말이 되었습니다. 바로 이날 예수님이 부활하셨기 때문입니다. 그런데 마가복음서는 참으로 어중간한 형태의 부활의 기사로 막이 내려져 있습니다. 이렇게 말하는 것도 거의 모든 학자들이 인정하는 바입니다만, 9절 이후에는 괄호로 묶여 있어 후대의 덧붙임으로 판명되고 있기 때문입니다. 그래서 다른 복음서와 달리 마가복음서에는 부활 후 예수님의 현현 기사가 쏙 빠져 있는 것입니다. 그럼 9절 이후에는 원래 존재하고 있었는데 분실되어 버린 것일까요, 아니면 처음부터 저자 마가는 굳이 8절로 끝을 낸 것일까요. 이 점에 대해서는 다양한 논의가 있지만, 현재로서는 통일된 견해는 없습니다. 우리는 저자 마가가 8절에서 이 복음서를 다 쓴 것으로 알고 읽어 나가도록 하겠습니다. 따라서 마가복음 강해설교도 오늘로 마지막이 됩니다.

(1) 부활의 증인으로 쓰임 받는 여자들

1절에 막달라 마리아와 야고보의 어머니 마리아와 살로메라는 세 여인들이 나오는데, 이 세 여인은 15장 40절에도 이름이 나왔습니다. 그 중 두 사람은 15장의 마지막 절인 47절에도 나옵니다. 15장 47절을 보시겠습니다.

막달라 마리아와 요세의 어머니 마리아가 예수 둔 곳을 보더라

이렇게 여자들은, 예수님이 무덤에 묻히는 자초지종을 보았기 때문에 그 장소를 분명히 인식하고 있었습니다. 안식일이 끝나자, 여인들은 향료를 사들고, 예수님의 시체에 그것을 바르기 위해 아침 일찍 나갔습니다. 시체에 향료를 바른다는 것은 모든 사람에게 행해진 것은 아니었던 것 같습니다. 임금이나 특별한 사람들에게만 향료가 사용되었습니다. 무더운 지중해 기후 속에서, 값비싼 향료는, 시체가 급격히 부패하고 악취를 풍기는 것을 막기 위한 효과가 있었던 것 같습니다. 여성들은 예수님의 무덤으로 서둘러 갔습니다. 그 주검에 값비싼 향료를 바르면서 예수님의 죽음을 마음껏 슬퍼하고 싶었을 것입니다. 3절을 보면 그녀들은 「누가 우리를 위하여 무덤 문에서 돌을 굴려 주리요」라고 걱정하고 있습니다. 아마도 무덤의 돌은 원반 모양이고, 덩치가 큰 남자 2,3명에 의해서 겨우 움직일 수 있을 정도의 무게였을 것이라고 생각됩니다. 그래서 객관적으로 보면, 그녀들의 행동은 전혀 분별이 없고 의미 없는 일을 하고 있다는 것이 됩니다. 이 아침 일찍, 그 큰 돌을 움직여 줄 남자를 세 명이나 어떻게 찾을 수 있을까요? 만약 찾을 수 없다면 그저 무덤 앞에서 기다리겠다는 것일까요? 그러나 그런 것은 아랑곳하지 않고 그녀들로서는 조금이라도 빨리 예수님의 시신으로 달려가고 싶다는 한 마음뿐이었습니다. 거기에, 그녀들의 깊은 사랑과 헌신적인 모습을 살펴볼 수 있습니다. 그리고 그런 사랑과 헌신적인 모습을, 하나님께서는 부활의 증인으로 쓰셨습니다.

(2) 몹시 놀라 떨며 무서워하다

여성들이 막상 무덤에 도착하자, 예상치 못한 일이 벌어져 있었습니다. 4,5절을 보시겠습니다.

4 눈을 들어본즉 벌써 돌이 굴려져 있는데 그 돌이 심히 크더라

5 무덤에 들어가서 흰 옷을 입은 한 청년이 우편에 앉은 것을 보고 놀라매

그 큰 돌이 이미 굴려져 있었습니다. 이 부분의 헬라어를 보면 수동태로 되어 있기 때문에, 하나님에 의해 굴려졌다는 것이 암시되어 있습니다. 그리고 더욱 놀라운 것은, 무덤 속에 「흰 옷을 입은 한 청년이 우편에 앉아 있었다」는 것입니다. 청년이 누구인지 명확하게 적혀 있지는 않지만 「흰 옷을 입은」이라는 말에 주목하세요. 언뜻 보면 제사장 같은 모습이지만 이 말은 「천사」를 암시하는 것으로 보입니다. 실제로 마태복음의 평행 기사에는, 분명히 「천사」라고 기술 되어 있습니다. 여성들은 이 상황 속에서 몹시 놀라고 당황했습니다. 과연 자신들의, 향료를 바른다는 목적을 무사히 달성할 수 있을지, 불안감이 스쳤던 것 같습니다. 그런데 예수님은 십자가에 못 박히시기 전에 자신의 부활에 대해 여러 번 자신의 말씀 가운데, 직접 말씀하셨습니다. 세 번의 수난 예고 중에는, 반드시 마지막에는 부활이 언급되고 있습니다(8장 31절, 9장 31절, 10장 34절). 그럼에도 불구하고 남자 제자들이든 여자 제자들이든 예수님의 부활을 기대한 사람은 아무도 없었습니다. 천사는, 몹시 당황하는 여성들에게 「놀라지 말라」는 말을 하고 여성들이 무엇 때문에 이곳에 왔는지 모두 꿰뚫어 보기라도 한 것처럼 말을 꺼냈습니다. 16장 6,7절을 참고하시기 바랍니다.

6청년이 이르되 놀라지 말라 너희가 십자가에 못 박히신 나사렛 예수를 찾는구나 그가 살아나셨고 여기 계시지 아니하니라 보라 그를 두었던 곳이니라

7 가서 그의 제자들과 베드로에게 이르기를 예수께서 너희보다 먼저 갈릴리로 가시나니 전에 너희에게 말씀하신 대로 너희가 거기서 뵈오리라 하라 하는지라

천사는 「그가 살아나셨고」라고 설명하고 있습니다. 이 「살아나셨고」라는 말 역시 수동태가 되어 있어서 「하나님에 의해서 살아나셨다」는 것이 암시되어 있습니다. 또 7절의 「너희보다 먼저 갈릴리로 가시나니」라는 부분은 예전에 예수님께서 하신 말씀이기도 했습니다. 제자들이 모두, 예루살렘에서 믿음의 좌절을 한 후, 예수님은 부활하시고 제자들보다 먼저 갈릴리에 가신다고 구체적으로 말씀하셨습니다. 14장 28절의 예수님의 말씀을 확인해 보겠습니다.

그러나 내가 살아난 후에 너희보다 먼저 갈릴리로 가리라

천사는 이 메시지를 제자들과, 그리고 특히 베드로에게 이르라고 합니다. 갈릴리라는 곳은 제자들의 고향이었습니다. 열두 제자는 이 갈릴리에서 선택되었습니다. 또한 막달라 마리아, 야고보의 어머니 마리아, 살로메들을 중심으로 하는 여성들 역시 갈릴리에서 예수님을 따라 예루살렘까지 여행을 계속해 왔습니다. 이제 제자들은 믿음이 좌절되어 자신들의 고향으로 돌아가려 하고 있습니다. 목자를 잃고 어찌할 바를 모르는 것처럼, 풀이 죽어 갈릴리로 돌아가려고 하고 있습니다. 예수님은 그 일을 예상하시고 먼저 갈릴리에 가신다고 말씀하셨습니다. 그 갈릴리에서 제자들과 새롭게 만나주시고, 특히 세 번 예수님을 부인한 베드로에게 용서를 주시고 다시 한 번 제자들을 믿음 위에 세우려고 하시는 것입니다. 천사가 해준 말은 얼마나 감사한 말이었을까요?

그런데 이 말을 듣고 여자들이 과연 기뻐했냐면 결코 그렇지 않았습니다. 여성들은 「무덤에서 도망하고 무서워하여」라고 기록되어 있습니다. 「몹시 놀라 떨며」라고 기록되어 있습니다. 네? 이게 대체 무슨 일일까요? 아마도 여성들은 하나님의 거룩한 사건을 앞에 두고 경외심을 가진 것이 아닐까요? 이 일은 여인들이 당장 파악하기에는 너무나 놀라운 일이었습니다. 이 일은 여인들이 당장 파악하기에는 너무나 위대한 일이었습니다. 그래서 뭐가 뭔지 모르고 취한 행동이 「몹시 놀라 떨며 무덤에서 도망하고 무서워」한 것이라고 생각합니다. 「몹시 놀라 떨며」라는 말은 마가복음 5장 42절에도 같은 말이 나왔습니다. 죽어버린 회당장 야이로의 딸이, 예수님에 의해 되살림은 받는 장면입니다. 마가복음 5장 42절을 보시기 바랍니다.

소녀가 곧 일어나서 걸으니 나이가 열두 살이라 사람들이 곧 크게 놀라고 놀라거늘

「크게 놀라고 놀라거늘」이라고 합니다. 일본어의 번역(일본어 성경에는 자기를 잊어버릴 정도로 놀람으로 번역되어 있음)이 다르기 때문에 조금 알기 어렵습니다만, 헬라어로는 엑스타시스ἔκστασις 라는 말이 사용되고 있어, 「정신을 잃다」와 같은 말입니다. 「부활」이라는 사건을 앞두고 여성들은 어떻게 이 사건을 받아들여야 할지 몰랐다는 것입니다. 다만 거기에 하나님의 거룩한 빛이, 눈부실 정도로 비치고 있다, 그것만은 이해할 수 있었던 것이라고 생각합니다. 8절 마지막에, 여성들은 「무서워하여 아무에게 아무 말도 하지 못하더라」라고 합니다.「무서워하여」라고 하는데, 이 말도 매우 함축성 있는 말입니다. 그렇게 말하는 것은, 마가복음은 그동안 「부활」이라는 사건이 공개되기 전에, 사람들이 퍼뜨려서는 안 된다는 뉴스를 여기 저기에 전파하여 널리 퍼지게 하였습니다. 예를 들면, 마가복음 1장 44,45절입니다.

44 이르시되 삼가 아무에게 아무 말도 하지 말고 가서 네 몸을 제사장에게 보이고 네가 깨끗하게 되었으니 모세가 명한 것을 드려 그들에게 입증하라 하셨더라

45 그러나 그 사람이 나가서 이 일을 많이 전파하여 널리 퍼지게 하니 그러므로 예수께서 다시는 드러나게 동네에 들어가지 못하시고 오직 바깥 한적한 곳에 계셨으나 사방에서 사람들이 그에게로 나아오더라

또 비슷한 기사가 7장 36절에도 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

예수께서 그들에게 경고하사 아무에게도 이르지 말라 하시되 경고하실수록 그들이 더욱 널리 전파하니

예수님의 기적에 대해, 그 일이 입막음에도 불구하고 사람들은 오히려 점점 더 퍼뜨렸습니다. 그러나 드디어 「부활」이라는 사건이 공개되고 「제자들과 베드로에게 이르기를」명하자 이번에는 「아무에게 아무 말도 하지 못하더라」라며 침묵을 지키는 것입니다. 그것은 이 「부활」이라는 사건이 지금까지의 기적과는 전혀 비교할 수 없다는 것을 보여주는 것이라고 생각합니다. 그렇다고 여성들이, 앞으로도 「아무에게도 아무 말도 하지 않았다」는 것은 아닙니다. 상황을 조금씩 이해하고, 두려움과 당혹감이, 확신과 기쁨으로 바뀌어 갔고, 잠시 후 여성들은 사도들에게 달려가, 빈 무덤에 대해 말했을 것입니다. 예수님의 부활에 대해 증언한 것이 틀림없습니다. 그 사실은 로마의 그리스도인들이 가장 잘 알고 있었습니다. 최초의 부활의 증인이 된 것은, 제자들 중 사도가 아니라, 힘도 이름도 없는 여성들이었다는 것을 알고 있었습니다. 예수님이 묻힌 무덤이 정확히 어디이며 그 무덤이 어떻게 비워졌는지를 상세히 증명한 사람은 바로 그녀들이었습니다. 그 일은 초대 교회의 누구나 인정하는 바였습니다

(3) 마가복음의 끝맺음 방식

마지막으로 한 가지 생각하고 싶은 것은 왜 마가는 부활 후 예수님의 현현을 굳이 쓰려고 하지 않았는가 하는 것입니다. 이것은 완전히 추측에 불과하지만, 이 복음서는 네로 황제의 극심한 박해 속에서 AD.64년 이후에 로마의 그리스도인들에 대해 쓰여진 것으로 생각됩니다. 그들을 격려하고 위로하기 위해 이 복음서는 쓰였습니다. 당시 이미 예수님은 하늘로 승천하셨기 때문에 로마의 그리스도인들은 얼굴과 얼굴을 맞대고 예수님을 직접 뵙지는 못했습니다. 현대의 우리도 마찬가지입니다. 우리는 누구도 예수님을 이 눈으로 보고 믿은 것이 아닙니다. 그런 그들에게서 예수・그리스도라는 분에 대해 다음과 같은 의심이 나오는 것입니다. “도대체 당신은 누구십니까?” 그리고 “하나님이라는 분이 계신다면 우리를 왜 이렇게 비참하고 비참한 박해 속에 방치하시는 겁니까?” “하나님은 정말 살아계십니까?”는 「의심」입니다. 저자 마가는 그런 목소리에 성실히 답하기 위해 마가복음 1장 1절부터 「하나님의 아들 예수・그리스도의 복음」에 대해 16장에 걸쳐 기록했습니다. 박해받는 로마 그리스도인들의 상황은 전혀 변하지 않았고, 그들은 여전히 예수・그리스도의 고난에 참여 하고 있지만, 그들이 궁극적인 승리를 이뤄낼 수 있을지 그 「의심」이 전혀 불필요한 것임을 상기시킬 필요가 있었습니다. 지금 정신을 잃을 정도의 여성들의 놀람을 끝으로, 이 복음서를 충격적으로 닫음으로써, 저자 마가는 거꾸로 그들에게 묻고 있는 것입니다. “너희는 이 분과 어떻게 마주 할 것이냐”고, 그리고 “이 분이야말로 부활하신 구원자 메시아요, 죽음에 승리하신 하나님의 자녀임을 받아들이냐”고 거꾸로 묻고 있는 것입니다. 독자들은, 우리도 포함해서 그 물음에 대해서 믿음으로 응답해야 합니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 마가복음의 마지막은, 하나님의 거룩한 빛이 눈부실 정도로 비쳐 들어, 무심코 제 정신을 잃을 정도의 하나님의 놀라운 기적에 대해 쓰여 있었습니다. 그 기적은 「부활」입니다. 예수님의 부활을 통해, 이 분이 하나님의 아들임이 증명되었습니다. 예수님의 부활을 통해 이분이 죽고 승리하셨음이 증명되었습니다. 예수님의 부활을 통해, 그리스도에게 연합되어 있는 자들이 의롭게 여겨지고, 죄에 대한 몸값이 온전히 지불되었음을 증명받았습니다. 비록, 지금은 고난 속에 놓여 있지만, 궁극적인 승리가 주어질 것이 확정되었습니다. 그 일에 감사하면서, 우리도 예수・그리스도가 하나님의 아들임을 믿고, 이 분의 부활을 기뻐하고 축하하기 위해 함께 예배 드리고, 함께 찬양하며, 함께 기도하는 자로서 하루하루의 삶을 살아가도록 합시다.

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